三つの心臓
その日の午後、僕は改めて雷牙のところへ行った。朝の父さんとのことを、うまく言葉にできる気がしなかったけれど、何か報告しないといけないような気がしていた。
三階の廊下を歩いて、雷牙の部屋の前でノックをする。返事はすぐに来た。
「おー、入れ」
扉を開けると雷牙は机に足を投げ出して座っていた。パソコンの画面を眺めていたようだが、僕が入ってくると顔だけこちらに向けた。
「お前ら、何かあったか?」
不意を突かれて僕は言葉に詰まった。
「あの狐、なんか今日……」
言いかけて、雷牙は口を噤んだ。その目は、もう何かを知っている目だった。
それ以上聞かなかった。足を机から下ろして、小さく息を吐く。
「まぁ、いい。なんかあったんだな」
「……うん」
「そっか。良い方にか」
僕は頷いた。雷牙はそれだけ聞くと、もう興味を失ったように背を向けた。
でも、その横顔がほんの少しだけ柔らかかったことに、僕は気づいた。
雷牙も父さんのことを気にかけていたんだと思う。
ふいにスマホが鳴った。画面を見た雷牙の顔が、一瞬で変わる。
「魏骸か」
呟いて立ち上がる。ほとんど同時に扉が開いた。父さんだった。
「出ましょう」
父さんの声は静かで、迷いがなかった。雷牙が頷く。
「ああ」
僕も立ち上がった。父さんは僕を止めなかった。それが、朝の言葉が嘘じゃなかったことの証明みたいで、僕は少しだけ背筋が伸びるのを感じた。
「卯咲と唐傘には伝えますか」
廊下に出ながら父さんが聞くと、雷牙は首を振った。
「修行中だ。水差すのも悪いから、俺たちでやろう」
「わかりました」
父さんと雷牙がイヤホンを耳に着ける。僕も同じようにすると、安城さんの声がすぐに入ってきた。
『場所は中央広場の近くです。……今日あそこでイベントが行われています』
「イベント?」
『はい。屋台が出て、人がたくさん集まっているはずです』
雷牙が舌打ちをした。
「人込みに逃げられたらまずいな」
「ええ」
父さんが言う。
「急ぎましょう」
現場に着いて、僕は息を呑んだ。
広場の入り口に人がいた。屋台が並び、子供が走り回り、買い物袋を提げた人たちが行き交っている。笑い声が聞こえる。誰も、何も気づいていない。
その向こう、広場の使われていない駐車場に、それがいた。
蜘蛛だった。プレハブ小屋ほどもある蜘蛛。黒く艶めく脚が八本、地面を這うように蠢いている。遠目には、ただの大きな蜘蛛にしか見えなかった。でも、目だけが妙だった。何かで塞がれている。
「蜘蛛か。めんどくせぇな」
雷牙が低く言った。
化生対策室の人がすでに動いていた。遠巻きに人を誘導し、封鎖の作業を進めている。でも、イベントは止まっていない。人々はいつも通りの日常を続けている。その裏で、僕たちは戦わなければならない。
「どうする。人払いが済むまで待つか」
雷牙が父さんに問いかける。
待てば、その間に魏骸が動くかもしれない。動けば、人がいる方へ行くかもしれない。
「僕が」
気づくと僕は言っていた。
「僕が、引き付けます」
父さんがこちらを見た。その目に、一瞬だけ迷いが走ったのがわかった。でも、父さんは何も言わなかった。
「雷牙が言ってたよね。僕の中に魏骸がいるのは、悪い話ばかりじゃないって。魏骸は、僕を見つけたら真っ先に襲う。だから僕が気配を強くすれば、魏骸は僕の方に来る。人込みから離れる」
雷牙は、僕をじっと見ていた。それから、口の端を上げた。
「やれるな」
「やります」
僕は目を閉じて息を吸った。胸の奥、あの冷たい渦を意識する。布が濁る時のあの感覚。力を内側から外へ。かけらの気配を強く、強く。
目を開けると蜘蛛がこちらを見ていた。いや、見てなどいない。目は固く綴じられ、そこからゆっくりと血が流れている。見えていないのに、確かに僕を捉えていた。
認識した。餌だ、と。僕の中の魏骸のかけらをこいつは食べようとしている。
「走れ」
雷牙の声。
僕は走った。人込みから離れる方へ、路地へ、建物の間へ。後ろを振り返ると蜘蛛が追ってくる。八本の脚が地面を掻き、石畳を削る。
「きゃっ」
「なんだ?」
時おり驚いた声が後ろで聞こえたが、蜘蛛はもう僕だけを見ていた。
人気のない駐車場の奥まで来た時、イヤホンが鳴った。
『周辺の封鎖、完了しました。一般人の立ち入りは確認されていません』
安城さんの声だった。僕は足を止めて、振り返った。蜘蛛が十メートルほど先で止まる。脚が、じりじりと地面を削っている。
「よくやった、コウタ」
雷牙の声が背後から聞こえた。振り返ると、父さんと雷牙が立っていた。
二人が人の姿を解いた。白い装束に狐耳と尻尾、腰の刀。隣では虎の耳と爪、牙を剥く雷牙。その目が、いつもと違っていた。獲物を前にした獣たちの目だった。
「……よし、いくぞ」
僕は呟いて、左右の掌を開いた。白い布が四本、するりと伸びる。さっきまで操れなかった四本が、今はすっと体に馴染んでいた。怖いとか、そんなんじゃない。この四本を動かせなければ、父さんと雷牙が危ない。そう思った瞬間、頭の中の雑音が消えていた。
父さんと雷牙が跳んだ。僕も続く。
雷牙の爪が蜘蛛の脚を削ぐ。父さんの刀が胴を薙ぐ。僕は布で脚を絡め取り、動きを止める。
――速い。
父さんと雷牙の連携は見ていて息を呑むほどだった。父さんの刀は無駄がなく、雷牙の爪は鋭い。二人が交互に硬い蜘蛛の体を削ぎ落としていく。
だが、蜘蛛もただではやられなかった。
口から白い糸が放たれる。布を盾にするが、糸は布ごと僕の腕に絡みついた。熱い。糸が皮膚に食い込む。
「コウタ!」
父さんの声。刀が糸を斬り、僕は解放される。
「ありがとう、父さん」
「下がって」
父さんが前に出る。だが蜘蛛の脚が父さんを狙った。鋭い先端が父さんの肩を掠める。白い装束が裂け、赤いものが滲んだ。
「父さん!」
「大丈夫」
父さんはすぐに体勢を立て直した。でも、その肩がわずかに揺れている。
蜘蛛だったものが、変わった。
胴が膨れ上がり、そこから別の形が現れる。蛇だった。黒い鱗に覆われたそれが、蜘蛛の胴体から後ろへ生えるように鎌首をもたげる。
「なんだ、ありゃ」
雷牙が呟いた。僕も思わず足を止めた。
「今までと、違う……」
父さんが言った。
蛇の首が唸る。人間の腕が、ぐっと持ち上がった。三つの生き物が、一つの体に混ざり合っている。
人間の口が開いた。喉の奥が赤く光る。次の瞬間、火が吹き出した。咄嗟に布を振るって払う。熱気が顔を這う。
蛇の首が、僕を狙って飛び出した。
速い。布を繰り出す間もない。そのまま僕の肩に食らいつこうとする。避けきれない。
「コウタ!」
雷牙が横から飛び込んできた。爪で蛇の胴を薙ぎ、僕の前に割って入る。
腕に、牙が食い込んだ。短く息が漏れる。牙の跡が、みるみる黒く変色していく。毒だ。
「雷牙!」
「平気だ。こんなもん」
雷牙は蛇の首を振り払い、そのまま蹴り上げた。牙が折れる音がした。
すごい。でも、その腕からは血が滴っている。雷牙の指先がわずかに震えていた。動きが少し鈍い。それでも気にした様子もなく、また前へ出た。
僕は、自分の不甲斐なさに歯を食いしばった。引き付けたのは僕だ。なのに、守られている。雷牙が、父さんが、僕を守っている。
「コウタ」
父さんの声がした。
「焦らないで。あなたの役割は、ちゃんとある」
父さんは刀を構え直していた。肩の傷など気にしていないように。その背中が、朝の丘の上で見た姿と重なった。
僕は息を吸って、布を四本伸ばした。集中する。頭が痛む。でも、今は、操れる。四本の布が、蜘蛛の脚と蛇の胴、人間の腕にそれぞれ絡みつく。ぎりぎりと締め上げると、魏骸の動きが止まった。
父さんと雷牙が跳んだ。
刀が蜘蛛の胴を浅く斬り裂き、爪が蛇の眼球をえぐった。蛇の首がのけぞり、人間の上半身がぐらりと傾ぐ。
「二つ……いや、三つか」
雷牙が、魏骸を見て呟いた。
「蜘蛛と、蛇と、人間。一つじゃ足りないのでしょうね。混ざった分だけ」
「やったなコウタ、一人一個ずつだ。取り合いにならなくていいな」
雷牙がニヤッと笑った。
「……何が?」
「こいつの心臓」
父さんが刀を構え直す。
「コウタは、人間部分を。僕と雷牙で蜘蛛と蛇を」
「わかりました」
蜘蛛と蛇の心臓がどこにあるか、僕にはわからない。でも人間の心臓ならわかる。胸の真ん中だ。
僕はありったけの力を布に込めた。四本の布が、白から黒へと染まっていく。墨を落としたみたいに、じわりと。黒くなった布はさっきまでよりずっと重くて、鋭い。
「いくぞ」
雷牙の声を合図に三人が跳んだ。父さんの刀が蜘蛛の心臓を、雷牙の爪が蛇の心臓を、そして僕の布が人間の心臓を一斉に貫く。
魏骸が、大きくのけぞった。三つの口が同時に開く。悲鳴のような風のような音が上がって、それから崩れ落ちた。蜘蛛の脚が力を失い、蛇の首が地面に落ち人間の上半身がぐたりと垂れる。横たわる魏骸の体が、少しずつ煙のように薄れやがて消えた。
僕は、膝に手をついて息を吐いた。体中が熱い。腕の糸が食い込んだ跡が、じくじくと痛む。でも気持ちは不思議なくらい軽かった。
「やったな」
雷牙が僕の頭をくしゃっと撫でた。父さんの撫で方とは全然違った。雑で力強くて、まるで小動物を扱うみたいだった。
でも、その手の重さが僕には嬉しかった。
「うん」
僕は笑った。人を守れた。自分が引き付けたから、誰も巻き込まれなかった。それが嬉しかった。
「お疲れ様でした」
父さんが、少し離れたところから言った。その声は、穏やかだった。でもその目は僕を見てちゃんと笑っていた。
ふと、雷牙が動きを止めた。僕の頭から手を離して、広場の向こう、街の外れの方を見ている。風が吹いた。強くはない、でも妙に冷たい風だった。
「……この気配」
雷牙はそこで言葉を切った。一瞬、父さんの方を見る。それから首を振った。
「……いや。なんでもない」
そう言って雷牙は歩き出した。僕はその後ろ姿を見送りながら、なぜか胸の奥に引っかかるものを感じていた。あんな顔をするのを、僕は初めて見た気がした。
父さんが僕の隣に来た。何も言わずに雷牙の背中を見ている。横顔は、どこか考え込んでいるように見えた。
僕は、さっきの目を思い出していた。何かはわからない。でもただの風じゃないような気がした。
広場の向こうではイベントがまだ続いていた。笑い声が聞こえる。屋台の明かりが揺れている。何事もなかったかのように、人々の日常は続いていた。
その裏で、僕たちは戦った。なのに雷牙は、もう次の何かを見ていた。
僕には見えない何かを。




