ひとり
初めて父さんの職場に行った日から、唐傘と卯咲は父さんに付いて行くようになった。
最初の日、二人は帰ってくるなり玄関でへたり込んだ。
ガチャリとドアが開いて卯咲が先に入ってくる。
彼女の手に握られたボロボロの傘が、ポン、と唐傘おばけになった。
大きな一つ目が僕を見て、すぐに伏せられた。
「……怖かったっす」
唐傘は震える声で言った。卯咲も黙っていた。瞳の中の雪がだいぶ積もっている。
「あんなの、見たことないっす。動きが速すぎて。目で追えないんすよ」
「私も、何が起きたのかわかりませんでした。お父様が斬るまでは」
二人はそのまま廊下に座り込んだ。
僕は隣にしゃがんだ。何か言おうとして、言葉が出なかった。
唐傘がまだ小刻みに揺れていた。
卯咲の指先が、膝の上で固く握られていた。
「…ごめんね。僕のせいで、二人を危ない目に合わせちゃって」
やっとそれだけ言うと、二人はそろって首を横に振った。
「何言ってるんすか。自分で決めたことっすよ」
「そうです。コウタが謝ることではありません。私たちは、戦うと決めたのですから」
「うん……でも」
「それに、まだまだ修行が足りないっす。もっと強くならなくちゃ」
「私も、早く戦力になりたいです」
そう言った二人の声は、まだ少し震えていた。
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それが、何度か重ねるうちに変わっていった。
最初のうちは、二人は帰ってくるなり廊下に座り込んでいた。
でも、いつのまにかその時間が短くなっていった。
ある日、唐傘がぽつりと言った。
「父さん、すごいっすね」
卯咲がうなずいた。
「お父様は、本当に強いのですね」
それから二人の話は日に日に詳しくなっていった。
最初は「不安」や「恐怖」だけだったのが、今では「魏骸の攻撃パターンを少しだけ掴んだっす」「父さんは右からの攻撃を刀で受け流してそこから…」なんて話になっている。
僕にはその光景が思い浮かばない。だって僕は見ていないから。
二人の話を聞きながら僕は自分の手を見た。
この手は、刀を持ったことがない。
この体は、魏骸と戦ったことがない。
この目は、魏骸を見たことが……。
いや。
見たことはある。
六年前。あの日。僕ははっきりと魏骸を見た。
血の匂いも表情も、耳に残る声も全部覚えている。
しばらく夢に出てきて眠れなくなったほどだ。
でも、あれから一度も見ていない。
どうしてだろう。あの時はあんなにはっきり見えたのに。今は何も見えない。
僕には、何もできない。
「……それで聞いたんすけど、魏骸って共食いするらしいんすよ」
「知れば知るほど、不思議な生き物ですね。コウタはどう思いますか?」
「……え?」
二人が僕を見ていた。しまった。話を聞いていなかった。
きょとんとした顔が、こちらを向いていた。
「どうしました、コウタ。何か……」
卯咲が心配そうに顔を覗き込む。
「あ…ええと、ありがとう。大丈夫」
そう言ったけれど、声が少し掠れた。
二人の視線が痛い。この場にいるだけで、息が詰まる。
思わず、僕は立ち上がった。
「……そうだ。僕、宿題やらなくちゃ」
「コウタ」
唐傘が呼び止めるような声を出したけど、振り返らなかった。
僕はリビングを出て、ドアを閉めた。
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その夜、僕はベッドの中で天井を見ていた。
わかっている。あの二人は妖怪で、僕は人間だ。
人間の僕は魏骸と戦えない。
父さんが僕を連れて行かないのは、危ない目に合わせないためだ。意地悪じゃない。
僕が人間だから。守るべき存在だから。
わかってる。
わかってる。けど。
胸の奥が、ざわざわする。
冷たい水が、ゆっくりと広がっていくような感覚。
熱くもない。痛くもない。ただ、冷たい。
誰にも気づかれないくらい静かに、僕の内側で何かが動いている。
二人は今日も父さんと一緒に現場へ行った。
僕はここで、天井を見ている。
それが嫌なんじゃない。二人がずるいわけでもない。父さんが悪いわけでもない。
ただ、僕だけが、違う場所にいる。
その感じが、どうにも落ち着かない。言葉にしようとすると、うまく掴めない。
嫉妬とは少し違う気がする。もっと冷たくて、どうしようもない感覚。
二人が輝いているのを見て、嬉しいはずなのに目を逸らしたくなる。
そんな自分が、一番嫌だった。
次の日、学校からの帰り道。
僕はなんとなく、化生対策室があるビルの前に来ていた。
上を見上げると、窓が規則正しく並んでいる。五階の窓も、他と変わらない。
ここから見ると、どこに何があるのか全然わからない。
僕はビルの前で立ち尽くしていた。
ここに来たのは、自分でもよくわからない。
入り口はすぐそこにあるのに、僕には入れない。
カードキーも何も、持っていないから。
「コウタ君?」
背後から声がした。
振り返ると、スーツ姿の安城さんが立っていた。手にはコンビニの袋を提げている。
「どうしたの、こんなところで。中に入らないの?」
「あ、えっと……別に、なんでもないです」
「ふうん」
安城さんは、僕の顔をじっと見た。それから、少しだけ眉を下げて静かに言った。
「なんでもない顔には見えないけどね」
僕は何も言えなかった。
「よかったら、中で話さない?」
「……いいんですか」
「もちろん。どうせ一人で食べるつもりだったんだ。付き合ってよ」
安城さんはそう言ってビルの正面玄関へと歩き出した。
僕は少し迷ってから、後を追った。
案内されたのは、五階の端にある小さな会議室だった。
テーブルと椅子がいくつかあるだけで、壁にはホワイトボードが一枚。
窓からは町が見える。さっき僕が立っていた場所も、ここからなら見えるはずだ。
「子供の飲み物、置いてなくてね」
そう言いながら安城さんは、給湯室からコーヒーの入ったカップを二つ持ってきた。
「あ、飲めます。大丈夫です。ありがとうございます」
「そう。よかった」
安城さんは向かいに座って、コーヒーを飲んだ。
僕も真似をして、一口飲んだ。
苦い。でも嫌いじゃない。
「それで、今日はどうしたの」
安城さんは向かいに座り、カップを両手で包むように持った。
「……話が、したくて」
「ふうん」
含みのある相槌を打って、僕の顔をじっと見た。
「何かあった?」
僕はうつむいた。
何か言わなくちゃ、と思えば思うほど言葉が遠のいていく。
「何もない顔、できてないよ」
安城さんは笑った。でも、その目は笑っていなかった。
僕はしばらく黙っていた。
コーヒーの湯気が消えていく。カップの縁が、少しずつ冷たくなっていく。
「……僕、何も知らないんだなって」
声が出た。自分でも驚くくらい、自然に。
「唐傘と卯咲が、父さんと現場に行ってるじゃないですか」
「うん」
「二人とも、どんどん前向きになって。強くなって、いつか父さんの役に立つんだろうなって」
「うん」
「……僕は、何もできないんです」
安城さんは、何も言わなかった。
「僕は人間だから、魏骸とは戦えないし今はもう見えない。それはわかってるんです。父さんが僕を連れて行かないのは、僕を守るためだってわかってる。二人が頑張ってるのも、すごいなって思う。それは本当だし」
「でも」
言葉が、うまく続かなかった。
「でも、なんか……ざわざわするんです。二人が楽しそうにしてるのを見てると、嬉しいはずなのに胸の奥が冷たくなる。僕だけ、違うところにいるみたいで。僕だけ、置いていかれたみたいで」
安城さんは、ゆっくりとコーヒーを置いた。
「それは、寂しいんだよ」
静かな声だった。
「寂しい?」
「うん。君は、二人と一緒にいたいんだよ。でも、いられない。それが寂しいんだ」
「……でも、僕、二人のこと応援してるんです。ずるいとか、そういうのじゃ」
「わかってる。君は優しいから、二人にそんなこと言えないんだよね。言ったら、嫌われるんじゃないかって思ってる。だから、その分自分の中に溜め込んでしまう。それが、ざわざわの正体だよ」
安城さんの言葉が、すとんと胸に落ちた。
そうか。寂しい、のか。僕は寂しかったんだ。
「コウタ君。君に、見せたいものがあるんだ」
安城さんは立ち上がると、壁際の棚の引き出しを開けた。
鍵がかかっていた。小さなキーケースから鍵を取り出し、静かに回す。
中から出てきたのは、古いUSBメモリだった。ラベルには日付だけが書かれている。
「これは、六年前の記録だ。コンが昔の仲間と戦っていた頃の」
そう言うと安城さんは自分のノートパソコンを開き、USBを差し込んだ。
動画ファイルが一つだけあった。再生ボタンに、白いカーソルが乗る。
「…見る?」
僕はすぐには頷けなかった。
父さんの、昔の姿。僕の知らない父さん。
見たい。でも、見るのが怖い。
そんな自分が情けなくて、僕は唇を噛んだ。




