【番外編】雪女、台所に立つ
今は「卯咲」と呼ばれている雪女が、初めてこの家に来た日の夜。
まだ彼女に名前はなかった。
――
あの日、僕は父さんに言われて雪女をこの家に連れてきた。
「仲間を集めてください」と父さんは言った。
でもその声は、どこか投げやりだった。
集めてくれと言っておいて、父さんは彼女を戦力にするかどうか、判断を保留にした。
それがなんだか、悔しかった。
自分の無力さを実感するようで。
そんな気持ちを抱えながら、僕は台所に立っていた。
父さんは夕方から仕事に行った。今日も帰りが遅いらしい。
フライパンをコンロに置いた。冷蔵庫を開けると、卵があった。
僕はそれを手に取ったまま、しばらく動けなかった。
「何をしているんですか?」
声のした方を見ると、雪女がドアの陰から不思議そうな顔でこちらを見ていた。頭の上で、赤いリボンがぴょこっと揺れていた。
そうだった。いまこの家には彼女もいる。父さんは彼女をここに住まわせたんだ。
「夕飯を作ってるんだ。雪女さんも食べるよね?」
「夕飯……」
雪女がきょとんとした顔をした。あれ。もしかして「夕飯」が通じていない?
「妖怪って、ご飯食べるんじゃないの?父さんは食べてるけど……」
僕が聞くと、雪女は「お父様が、食事を?」と目を丸くした。
「例外もありますが、基本的に妖怪は食事をとらなくても生きていけます」
「…そうなんだ」
そういえば唐傘は「傘なんでいらないっす」って言って食べなかったな。傘だからね、って理由で納得してたけど。あれ、もしかして関係なかったのかな。
微妙な間が流れた。僕は気まずさを紛らわすように言った。
「料理、してみる?」
雪女は少しだけ首を傾けた。
「いいんですか?私、やったことないですけど」
「僕が教えるから大丈夫だよ。一緒に作ろう」
今日は僕だけだから、チャーハンにしようと思ってたんだ。チャーハンなら失敗しない。多分、きっと、たぶん。
「じゃあ、このボールに卵を割ってみて」
僕はそう言ってネギを手に取った。
直後、ドゴォンというすさまじい音がした。
驚いて振り返ると、ボールの中には三つ分の卵が殻ごとぐちゃぐちゃになって沈んでいた。
勢いよく投げ入れたらしい。
「あ……えっと……割ってみてって……そういうことじゃ……」
「え……あの……すみません……」
これは想像以上だった。
できあがったチャーハンを前に、雪女がしょんぼりしていた。長い髪がいつもより静かに垂れている。
「大丈夫だよ。僕も最初はそんな感じだったし」
僕はチャーハンを口に運んだ。卵の殻がボールから取り切れなくて、じゃりじゃりする。でも味はいつものチャーハンだ。
雪女もおそるおそる、チャーハンを食べた。スプーンを持つ手もまだぎこちない。それでも彼女は一口、また一口と口に運んだ。
「あの」
「はい?」
「これは、どんな味なのでしょうか」
どんな味。
僕は少しだけ言葉に詰まった。
そうか。この人は今まで食事をとらなかったのだ。「味」というものを、知らないんだ。
「しょっぱい……味かな?」
「しょっぱい……刺激としては感じるのですが、よくわかりません……」
「すみません、せっかく作ってもらったのに」
雪女が、謝る。本当に申し訳なさそうに。
「全然大丈夫だよ。気にしないで」
食べ終わった後、僕は雪女に聞いてみた。
「そういえば、妖怪が食べたものってどうなるの?」
雪女はしばらく黙っていた。自分の内側を確かめるように。
そして、そっとお腹に手を当てた。
「……消えました」
「えっ」
「飲み込んだものが、体の中に入った途端に。……今、こうして触っても何もないんです」
「……じゃあ、食べる意味は?」
「……わかりません」
雪女は、真顔だった。
しばらくして、彼女がゆっくりと口を開いた。
「お父様は……どうして食事をとるのでしょうか」
「栄養にはならないのにね」
僕がぽつりと言うと、雪女は静かに頷いた。
「お父様は、何のために食べているのでしょうか」
その言葉に、僕はしばらく答えられなかった。
父さんは、僕と一緒にご飯を食べていた。僕が料理を作った時は、いつも残さず食べていた。「おいしいですよ」と笑いながら。
あれは、嘘だったのかな。
いや。
違う、と僕は思う。あれは嘘じゃない。
「人間の気持ちを、知りたかったのかもね」
僕は、父さんのことを思い出していた。火を使った料理も、教えてくれた。このチャーハンだってそうだ。
父さんはずっとそういう人だった。僕に生きるためのことを教えてくれた。いや、教えるだけじゃない。一緒にやってくれた。
「……私も」
雪女が、言った。
「私も、人間の気持ちを知ってみたいです」
それはとても小さな声だった。雪が解ける時の、雫が落ちるような声。
赤いリボンが、小さく揺れた。
「じゃあ、今度から一緒に料理の勉強をしようよ」
「……はい!」
その返事だけは少しだけ大きかった。僕は思わず笑ってしまった。雪女はそんな僕を見て、また首を傾げていた。
――
その日から、彼女がいる時は僕が料理を教えている。
まだ砂糖と塩の違いもわからない。
この前は、味を覚えるためにコップで醤油を飲んでいた。
僕は正直、心配になる。
大丈夫なのだろうか。
まあ、妖怪だから大丈夫なのだろう。
彼女は今も、奮闘中だ。
僕が教えたことを、ちゃんと覚えていてくれる。
それはたぶん、父さんが僕にしてくれたことと同じなんだと思う




