【番外編】名前
父さんの名前、「コン」って言うんだ。
化生対策室を見学した次の日。
僕はずっと、名前のことを考えていた。
安城さんは「安城さん」で、父さんは「コン」で、高木は「高木」で。
みんな名前がある。呼ばれる名前がある。
じゃあ、うちの二人は?
いつも「唐傘」「雪女」って呼んでるけど。二人にも、名前ってあるのかな。
家に着いて、僕はまず玄関にいる唐傘に聞いてみた。
「名前?」
唐傘は傘の柄をくるくる回しながら、あっけらかんと言った。
「唐傘おばけだから唐傘でいいんじゃないっすか?」
うん。唐傘は名前にこだわらない派だ。
「僕ももう慣れちゃったから、唐傘のままでいいか」
「それでいいっすよ。しっくりきてるし」
問題は雪女だ。
何か……「雪女」さんって呼ぶの、ちょっと嫌だなぁ。
だってそれ、種族の名前で。天気とか地形とか、そういうのと同じで。彼女のことを何も表してない気がする。
聞いてみよう。
雪女の部屋の前に立つ。襖を二回叩く。
「雪女さん」
「はい」
襖がすっと開く。部屋の中はいつもひんやりしている。夏は涼しくていいけど、冬はちょっと寒い。
「雪女さんは、名前ってあるの?」
「名前……ですか?」
雪女は首をかしげる。長い髪が、さらりと肩から滑り落ちた。僕は持ってきた妖怪図鑑を開いて、彼女に見せた。
「ほら、雪女っていうのは種族のことだから。別に名前があるのかなって思って」
「名前……私の……」
瞳の中に降っていた雪が、止まった。
フリーズしている。
「……山に一人で住んでいると、他に呼んでくれる人もいませんので」
彼女が、ぽつりと言った。
そうか。山に一人で。呼んでくれる人が、いなかったのか。そうかそうか。
「じゃあ……僕が名前……考えてもいい感じですか?」
恐る恐る見ると、雪女は目を輝かせて言った。
「もちろん、いいですよ!」
僕は、名前の候補を彼女に見せた。昨夜、ベッドの中で必死に考えたやつだ。
「冷凍子……れいとうこ」
「氷河期……ひょうがき」
「万年氷壁……まんねんひょうへき」
「アブソリュート・ゼロ」
「…………」
雪女の表情が、少しずつ曇っていく。
「……コウタ、これセンスなさすぎっすよ」
振り返ると、げんなりした表情で唐傘が立っていた。どうやら話し声がしたから来たらしい。
妖怪にドン引きされている。しかも二人に。
「……雪女に名前を?」
「はい。コウタがつけてくれるそうです」
三人で、部屋の中に座った。僕は正座した。なぜかわからないけど、正座した。
「……僕、六年も父さんと暮らしていたのに、父さんの名前も知らなかったんだ」
二人が、黙る。
「だから、二人にも名前があれば知りたいなと思って。今度こそ、ちゃんと」
自分が受け身だったことを、後悔している。父さんが何をしてきたのかも知らないで、ただ一緒にいた。名前すら聞かなかった。
「……コウタの一番好きな食べ物とかはどうっすか?」
唐傘が、話題を変えるみたいに聞いてきた。
「えー……あるけどぉ、でもぉ……これはちょっと……」
「いいから言うっす!」
僕は観念したように言った。
「……うざく」
一瞬の静寂。
「渋いっ……!」
唐傘が、しみじみと言った。
「なんすかうざくって! 十二歳が好むものじゃないっすよ! 居酒屋のおじさんじゃないんだから」
「だから嫌だって言ったじゃん」
ぎゃーぎゃー騒ぐ僕と唐傘を見て、雪女がぽつりとつぶやいた。
「うざく……素敵な響きですね」
その日の夜。
登録の書類を書くために、父さんが二人に言った。
「名前があれば教えてください。書類に書く欄があるので」
「僕は唐傘でいいっすよー」
「私は……」
雪女が、ちらりと僕を見た。僕はうなずいた。
「うざく、でお願いします」
父さんが、びっくりして一瞬固まった。
「…フリーズしてる」
唐傘が、僕にだけ聞こえる声で言う。僕もうなずく。父さんは、固まっている。
十秒くらいして、父さんはようやく動いた。
「……うざく?」
「はい」
「…そうか」
それから、書類の記入欄に丁寧に文字を書いた。
「卯咲」
かわいらしい漢字だった。
父さんは、無事に書類を提出した。




