第三章
― 三 ―
おかしい。
「……」
何かがおかしい。タバコを吸いながら、そう思う。
喫煙所の外には何人かの社員。
うちの会社はタバコ休憩なるものがあって、一人十五分、休憩以外にもぷち休憩が設けられる。それは喫煙者の社長が定めたものらしく。当然吸わない人にも同じ休憩時間が与えられた。その取るタイミングは人それぞれだから、意図的に合わせない限り基本的に特定の人物と時間が合うことはない。最初のころの俺と幸も合わずにいた。それが、幸が俺のタバコを吸うタイミングを見計らってくれて、俺も来るタイミングあたりに狙いを定めて、合うようにして。この前までまた幸と話せる時間になっていたのだけれど。
秋が過ぎるころには、幸はなぜか喫煙所にほとんど顔を見せなくなっていた。
……おかしい。
何か俺に原因があっただろうか。
俺なんかした? いやでも別に踏み入ったことは言ってない。
もしかして送る送らないの話がまずかった? いやでもそれならとっくのとうに離れてるはずだろ。それにあの話は別に今に始まったものじゃない。仕事の時も、休みで逢う日も、送ろうかと話はしてきた。仕事の日は俺も疲れているからと断られるけれど、休みの日は途中から向こうも、良い感じに見えていたけど。まぁいわゆるノリ、というのもあるのかもしれないが、そう勘違いしてしまうのも無理はない。
当初は”いやいいよ”と断っていたのが、途中から”どうしようかな”に変わった。結局、互いの家が遠いからと毎回幸が断る形になったけど。
……まさか恋人とか好きなやつできた?
うわそれだとしんどい。え、でも割と良い雰囲気だったと思ったんだけど。向こうも少し気あったよな? 勘違い?? でもそうか、俺みたいにひとめぼれなんてことはある。例えば急にやってきた新人、とか。
待とう、へこむ。
「空下ー」
「あーい……」
それがマジだったら本当へこむ。できればどうか、本当にどうか、そうでなくただの偶然であってほしいと願った。
そうして、年を越すころ。
「幸の様子?」
「そう、なんか変なの」
姉と食事に行ったら、幸の様子が日に日に変になっていると聞かされた。
「あんたなんか聞いてる?」
「いや、そもそも今逢ってねぇし」
「え!? なんで!?」
「逢えてねぇんだよ俺も。秋ぐらいからかな」
「秋……」
姉は一度考えると、思い至ったようで、俺をまた見た。
「……うん、秋過ぎたころから、あんなに仕事出来てたのに、だんだん遅くなってるの」
「遅く……?」
「うん。なんか思い悩んでるみたいでね。でも聞いても、大丈夫の一点張りで」
「……」
それは完全に大丈夫じゃないものではないだろうか。思わず苦笑いをしてしまう。
「なんか環境の変化とかあった?」
「あんたがいなくなったってくらいでしょ」
「他にこう、些細なこととか」
「うーん……部署で席替えくらい? あとは変わんないよ」
「そ……」
そういや最近あいつの新作も上がってない気がする。一時期ペースが落ちたのは知っているけど、仕事の繁忙期と重なっていたし、深く気にしなかった。そういえばあれも秋ごろじゃなかっただろうか。
そしてあれから、ペースは落ちてもいないが完全に上がってもいない。
「俺も逢ったら聞いてみる」
「そうして」
姉に頷いて。ひとまずは、と互いに食事へと手を付けた。
それから逢えたのは少ししてから。
偶然に、出社するときのエレベーターのところだった。
「幸」
「叶」
久しぶりに逢った幸は、少し、というにはきれいすぎるくらい、げっそりとしていた。そして俺を見つけて、少し気まずそうにする。
「……おはよ」
「はよ。なに、走ってきたのか」
「ちょっとね」
その反応に、恋人とか好きな人とかの嫌な予感が的中しているのかと不安に思いながら、幸を横目で見た。隣に並んだ彼女は、前より細くなったように感じる。心配しつつ、エレベーターへと乗れば。
「願ノさん、なんで俺のこと押すかな??」
「走ってきたもので……」
少し狭いエレベーターの中。彼女は俺を遠ざけようと押してくる。ほんとに嫌とかじゃねぇよな。本気で心配になってくるんだけど。なんとか平静を保ちながら距離を詰め、少し守るように立って幸を見た。
会話している幸は、いつも通りに見える。柔軟剤の匂いとか気づいてくれてるし。いやこれ普通に店に行ったらいつものが売り切れていたから、幸が言っていたものを買っただけなのだけれど。少しだけ、勘違いしてほしくて。かっこつけた言葉を言いながら、幸と会話を続けつつ、様子を見た。
照れたような表情になるのも、変わらない。
これは仕事が単に忙しいだけなんだろうか。姉ちゃんも忙しいとは言っている。それでこう、少しストレス気味になっているとか、そういう感じ?
考えながら話していると、ふと幸の顔が曇った。
「? どうした」
「……ううん、なんも」
いやなんもない顔じゃなくね? こう、血の気引いてるような。
「幸」
「行くね」
「あ、おい」
ばたばたと自分の階で降りて行った彼女を追うことはできず、心なしか小さくなったように見える幸を見送るしかなかった。
それからというもの、どうにか幸に逢おうとタバコ休憩のときにタバコを吸わず彼女を探すようにした。けれど毎回タイミングが悪いのか、見かけることはできても話せることはなく。
日に日に、そう、日に日に衰弱しているように見える彼女に、心が落ち着かなかった。
ようやっと話せたのは、数週間してから。
たまたま屋上の方に向かっていったのが見えたのを追えば、彼女はいた。
話を聞いても、なんでもないと嘘をつく。
あれだけ、素直に俺にいろんなこと話していたのに?
悔しくて、「私のなんなの」という問いに、「俺の好きなやつだよ」と何度も喉から出そうになりながら、一番近い場所にいることは伝えて。
「幸」
「……」
助けてほしいと言うように泣きそうなのに、彼女は何も言わなくて。こちらも強硬手段に出ようと、試みる。
「帰り、待ってる」
「行かない」
「毎日待ってる」
実際、ここしばらく毎日帰り際少し待っていたけれど。今度は来るまで待つことを決めて。
待ってるから。
それだけ告げて。
「二か月ってすごくね」
「どんだけすれ違いしてんのよ」
それから早二か月。なぜかまた一切逢わなくなっている。
思わず実に告げれば、彼女も苦笑いだった。
「待ってんでしょ?」
「待ってるよ。けど、しばらくするといろんな人が俺に”幸は帰った”って」
「え?」
そう。
彼女が来るまで待つと告げた。そこは貫くつもりで、帰りに待っていた。
残業のマックス時間を超えても来ないときは、さすがに帰ったと判断せざるを得なくて帰ることにはなったけど。それ以外の日は、ずっと待っていた。
けれどとある時から、最初は寺山さんから。幸は帰ったと聞かされた。
なんでこの人が、とも思ったし、正直異動の件があったから半信半疑にはしていた。ただこの人に歯向かうとめんどくさい方向で報復が来そうなので、一応その場では従い、別の場所で待つようにしたけれど。
「俺が待ってると、経理の人が帰ったよって教えに来るようになったんだよ」
「……それほんと?」
「嘘ついてどうすんだよ」
こんなことで嘘ついたってしょうがないのに。そう、不服そうに姉を見たら。
彼女は、驚いたように俺を見ていた。それに首をかしげる。
「なに」
「願ノさん、最近はとくに、残業ラストまでいるはずだけど」
「……は?」
なんだそれ。
「いんの?」
「たぶん。ほら、寺山さんが。声かけてて……。最近残業最後までいるねって」
「……」
またあの上司か。そんなにあの人わかりづらく行動してんのか?
姉にも、誰にも。異動”させられた”ということ、そして寺山さんかもしれないということは告げていない。もともと仕事ができる人だし、部下からの信頼も厚かった。俺だってあの件がなけりゃ信頼してたよ。けど、人を異動させたりという汚い手を使うことを知ってしまったから。今回の件も、名前が出た瞬間に思い至ってしまう。
「……そ」
「どうする? 叶待ってるって言おうか」
「いや、今たぶん向こうからは来ないかもしれないから。姉ちゃん帰るときに、ほかの人もいない状態で呼んでほしい」
「おっけ」
快く引き受けてくれた姉に礼を言って、先に姉への謝礼ということで、その日の晩飯をおごることにした。
姉ちゃんが幸に聞いてみたところ、向こうも俺が帰ったらしいと聞かされていたらしく。今日は互いにいるということを、姉伝手に確認して。
また残業をしているらしく。上に昇っていけば、前よりも衰弱している幸がいて。
事情を聞けば、ぽつり、ぽつり。彼女は語りだす。
映画を観た、と言った。
まるで俺と一緒に映画に行ったあとのように感情移入して、悲しかったときのエピソードを話すときみたいに、声を震わせながら。
死願病と呼ばれる、一時期の流行から今ではほとんど聞かなくなった病の話。
けれど今でも確実に人を悩ませている、
ひとつの、精神病の話を。
いつもの、感想を言う時のように話しながらも、それは彼女自身のことだろうとすぐにわかった。だってこんなの、お決まりだろう。
恋愛然り、相談然り。
人は割と、自分のことの相談をあたかも”他人が言っていた”というように話すことが多い。今回彼女は、俺が好きな映画にたとえた。それを聞きながら思う。
どうして、素直に言ってくれないのだろう。自分のことだと、言っていいのに。
泣きそうな声で、語らなくていいだろ。
苦しいんだろ、辛いんだろ。
なんで。
なんでそんなになるまで黙ってたんだよ。
きっとそれは彼女が誰よりも優しいから。だから、その怒りに近いお咎めはなんとか飲み込んで、彼女が聞いてきた「もしも想いを寄せた人が死願病だったなら」という問いに、答えを出す。
もしも。
そう、もしも。思いを寄せた人が死願病だったなら。
「いわゆる死亡の”しね”だったのか聞くよ」
本当に、お前はそう思ってる?
「別にほんとに死んでほしくて願ったんじゃないだろ?」
でも“もしも”が本当にあったのだとして。お前がそれを本気で望んだとしても。
俺は、そう思われても好きでいたいと思うくらい、お前を想ってしまっているよというのは、今は隠して。
「よく流行ってんだろ、略語みたいなさ」
苦しんで、泣き叫びたいのを我慢している”好きな人”に、近づいていく。
こつり、こつり。ゆっくりと近づいて行って。
「”幸せになってね”の略だと思えばいいだろ」
彼女が意図せず願ってしまった「しね」という言葉の数だけ、きっと何度も心の中で謝罪をしてきたんだろう。その疲弊してしまった心が少しでも軽くなるよう願いながら告げて。そっと彼女の手に自分の手を添える。
「そうやって許してやれば大丈夫」
まじめで、優しくて。だからこそ許されてはいけないと思う君が、どうか。
これからどうか、たくさん幸せになりますように。
何度も何度も心の中で願って。
泣き出してしまった彼女が、恐怖でずっと押せずにいた一つの「完了」ボタンを共に押した。




