エピローグ
―エピローグ―
「死願病のこと、覚えてる」
「んー?」
幸が死願病と教えてくれてからしばらく。少しだけ彼女の表情がいい方に変わりだしたある日。出かける支度をしながら、家に来ている姉に問うた。
「昔流行ってたやつでしょ?」
「そう」
そして。
「母さんがなってたやつ」
「覚えてるよ~」
今では懐かしいというように目を細めて、姉は笑った。
死願病という病を、知っている。
人に「死」を願ってしまう病として話題になったもの。
今ではほとんど聞かない、忘れられつつある病。けれどどこかで悩んでいる人がいるその病気。
当時、人の頭の中で「死」の声が聞こえると恐れられ、哀れまれ。最終的に、その病になった人を糾弾して追い詰めるようになった社会現象でもあったもの。
悪魔のような声が聞こえるのだから、その話だけ聞くと恐ろしいものである。本人はなお恐ろしいだろう。流行りとまで言われたころ、うちの母も軽めの症状になっていた。子供のころは壊れそうになる母を見るのが怖くて、不安だったけれど。何にだって原因というものはあって。
その死願病にも、当然それを引き起こすものがあった。
簡単に言ってしまうのであれば、”ストレス”である。
過度なストレスをうまく吐き出せない人になりやすいもので、頭の中で死や不安、恐怖を生み出していくもの。本人が思ってもいないこと、思いたくないもの。それを頭の中で生み出して。
心が、脳にずっとSOSを出す状態に陥っているものだった。
ほかの病気と同じで、早めに対処すれば当然治りも早い。けれど厄介なのは、元からうまくストレスを吐き出せない人間がなるのだから、自分を追い込み悪化させてドツボにはまってしまうことだ。うちの母は当時流行りもあったということと、父が献身的に支えたことで早く治ったけれど。
今の、”死願病は悪”という風潮ではさらにその人を追い込んでしまう。最悪、本当に”死”に至ることも珍しくないそうだ。
「どしたの急に。死願病なんて」
「……幸が、それだったんだと」
「うそ」
なくもない想像にぞっとしつつ、姉にだけは真実をこぼした。あまり人に言っていいものでもないが、信頼できる人には、周りがそっと言っておくことも大事だと思って。
「職場の方で姉ちゃんもちょっと見てやってくんない」
「もちろん」
「俺も見に行くから」
「も~、早く経理戻ってきてよ~」
「行けるなら行きてぇわ……。寺山さん異動とかになったら戻る」
「へ? 寺山さん?」
ずっと黙っていたが、幸とのすれ違いも起こされたしいいだろうとあきれつつ、そろそろ時間なので、時計をつけて玄関へと向かいながら伝えた。
「幸のこと好きっぽくて。たぶん俺の異動を上に掛け合ったのもあの人。この前のすれ違いもやられたし」
「マジ?」
靴を履いて、顔を上げれば。ひきつった表情の姉と目が合う。そうして、彼女はこぼした。
「今、願ノさんの隣の席なんだけど」
その、信じたくない事実を。
「……は」
「ほら席替え、環境とか変化とかの話の時に言ってたでしょ? 寺山さんが原因って知らなくて普通に席替えしたとしか」
「……マジかよ……」
頭抱えたくなる。でも聞かねばなるまい。
「いつ頃……」
「えーっと、秋前かな。調子悪くなる少し前」
「もうそれじゃねぇか……」
人の好きな人独占しようとした挙句ストレスの原因とまでなったか。これはもう、いいだろ。ぱっと顔を上げ。
「姉ちゃん」
「ん?」
「俺ちょっと先に会社寄ってくわ」
「うん、いいと思うよ。あたしも行こうかなあとで」
さすが姉弟、考えることは一緒らしい。互いににっこりと笑い、俺はドアを開ける。時間には余裕がある。もとより待ち合わせは会社の近くだし、約束の時間より早く着く予定だし。これは緊急だからと、少し予定を変更して。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
姉に告げて、家を出た。見上げた空はすがすがしく青い。その下で、さてまずは、と。
彼女の隣に返り咲くことを叶えるため。
「行くか」
真実を知ったら彼女は心を痛めるかもしれない。けれどこのままではまた悪化してしまうから。
どうか、少し時間がかかっても、彼女の笑顔が戻りますように。そう、願って。
あの頃の幸の笑みを思い出しながら、歩を進めた。
『幸願病 SIDE:叶 ―君の幸せを願う―』/空下叶




