06
ライドゥルとの戦争が終わろうとする頃、ジークヴァルトは学術院を卒業し、成人した。
戦地が離れた国境沿いだったため、王都にまで戦火が届くことはなく、戦時中も滞りなく講義が行われていた。
異なったことは言えば、常より幾らか愛国的な講義と、武術の稽古に重きが置かれたが、やむを得ないことと生徒達は受け入れた。
卒業式の頃には既に、講和の準備が進んでおり、数年ぶりに賑やかな式典が催された。学生達の最後の集まりである卒業パーティは華やかなもので、ジークヴァルトも他の卒業生とともに心から楽しんだ。
その翌日から、非常に微妙な立場に立たされることを知っていたからかもしれない。
成人した王子のうち世嗣ぎ候補でない者達は、通常、卒業後程なくして軍属する。そして、時期をみて臣下に降り、貴族の一員として名と領地を賜るのだが、候補の一翼とされた彼は軍属することも許されず、王子の身分のまま王宮に残された。
さりとて、世嗣ぎとして指名されたわけではない彼は、戦争が集結し、一息つく間も無く世嗣ぎ争いに巻き込まれることになる。
生まれた順番もあるが、それよりもなお母の身分が重視されるこの国では、側妃、しかも平民出身の妃から生まれたアーデルベルトが王位に就くことは、戦時という特殊な状況になければ起こりえないことだった。
戦争によりそれは起こり、戦争終結によりそれは正されるはずだった。
が、勝者となったアーデルベルトの民衆からの支持は絶対的で、流石の貴族達も彼を王位から引き摺り下ろすことは困難だと諦めた。
されど、その次こそはと、王太后カテリーナの実家であるリッカ公爵家を中心として、早々にジークヴァルトを立太子すべきとの動きが起こった。対して、リッカ公爵家と貴族の両翼をなすユーリエ公爵家を中心に、アーデルベルトの第1王子のエルンストを後継にすべきとの声が上がった。
王妃マルグリッドの出身であるビッドナー子爵家がユーリエ公爵の側近であったため、自身らに派閥に都合のいい王子を後継にしたいがための動きだったが、アーデルベルトを支持する民衆が、エルンストの立太子を後押しした。
平民出身の妃の子が王となり英雄となり、更にその子が次の賢き王になる、そんな物語に民衆は熱狂したのである。
貴族社会、そして民衆を巻き込んでの世継ぎ争いは、単に身分による優先順位だけで判断できない危険をはらむ問題となっていった。
さりとて戦争が終わって半年ほどが経ち、いつまでも王太子の座を空位としていることもできなくなってきた頃、ジークヴァルトは母にも祖父のリッカ公爵にも相談することなく、ある決意を固めていた。
「ジークヴァルト殿下が?」
「はい、本日お越しになられるとのことです」
自室で本を読んでいたシェイラは、メイドのマリーからの伝言に、驚いた表情で顔を上げた。
マリーが告げたのは、ジークヴァルトがマティアス侯爵邸を訪れるというものである。
5歳の時に婚約してからはずっと定期的に王宮を訪れ、ジークヴァルトと会う機会を持ってきたシェイラだったが、逆にジークヴァルトの方が侯爵邸を訪れることもままあった。特に、彼が学術院の4年生となり、寮生活を送るようになってからは、数少ない対面の場を侯爵邸で持つことの方が多くなった。戦時下で、シェイラが王宮に上がる回数も減っていたからである。
やがて、学術院を卒業したジークヴァルトは王宮に戻った。戦争も終わったことだし、これでまた会う機会も持てるだろうかと密かに期待していたのだが、シェイラの父マティアス侯爵が、彼女が王宮に行くのをなかなか許そうとはしなかった。
ちょうどその頃、ジークヴァルトは世嗣ぎ争いの矢面に立たされていたのだが、その時まだ12歳のシェイラにはすべてを理解できるものではなかった。
が、それでも、ジークヴァルトの複雑な立場、そして表立っては隠されている自身の婚約者という立場を、おぼろげながらも感じ取り、会えない日々の寂しさを紛らわせるように手紙を書いた。
数は多くない。それでもシェイラが手紙を書けばジークヴァルトは返事を送り、また逆もそうだった。表立ってやり取りすることは憚られるため、変わらずジークヴァルトに仕えつつ学園生活を送っていたヴィリーが配達役を請け負ってくれた。
手紙の内容は最近読んだ本のことや庭に咲く花のことなど、本当に何気ないやり取りだった。自身が手紙を書く時間も、戻ってきた手紙を読む時間も大切で、受け取った手紙に添えてあった花は、押し花にして栞にした。
会えない日々は続いたが、相変わらず仲はよく、互いに自身の婚約者を大切に思っていた。
この日、シェイラがジークヴァルトに会うのは3ヶ月ほどぶりのことだった。
マリーから知らされ、いつ来るのだろうかとずっとそわそわしていたシェイラは、庭の、来訪がよく分かる場所で待っていた。
やがて、馬の嘶きが聞こえ、ジークヴァルトが騎馬でやってきたことを知る。
珍しいことに、護衛の兵はいない。
1人でやってきたジークヴァルトは、はしたないと思いつつも表まで迎えに出てしまったシェイラに、いつもと変わらぬ柔らかな笑みを向けた。
「シェイラ、久しぶりだね」
「ジーク殿下!」
久しぶりに会えた嬉しさに、礼を取るのも忘れ駆け寄ったシェイラだったが、少し手前で足を止める。後を追って出てきた侯爵家の使用人に手綱を預けたあと、改めて婚約者の顔を見たジークヴァルトは、彼女の驚きの表情に苦笑する。
「殿下、これは」
「君に触れても構わない?」
シェイラに核心を告げさせぬまま言葉をさえぎる。
彼女が言葉を失ったのは、彼の外見からだった。
透き通った銀の髪は後ろでゆるくまとめられ、黒の、軍服を纏う。
彼女の髪に指を絡め、変わらぬふわりとした感触を楽しんだあと、ジークヴァルトは告げる。
「入隊をした。1ヶ月後にはシレジアに向かう予定だ」
シェイラはぴくりと肩を揺らす。
前回会った時には、そんなことは一言も言っていなかったが、あの時にはもう、決めていたのだろうか。
シェイラはまだ学術院にも行かない子供だ。が、父は宰相で一番目の兄も宰相府で働いている。まだ学生の二番目の兄はジークヴァルトの近習で、知っていることもある。
ジークヴァルトとエルンストの間の世継ぎ争いのことも、この時期の入隊がそれに関連しているだろうことも。
ジークヴァルトは軍属した。
しかもシレジアと言えば、ライドゥルとの戦争で勝ち取った地だ。
おそらく、統治を確かにするために高位の者の派遣が検討されたのだろうが、そのような危険なことは世嗣ぎのやることではない。
言葉を失ったシェイラは、会えずにいた3ヶ月の間にジークヴァルトに起こったことを必死に想像しようとする中、そっと息を吐き出したジークヴァルトは腰を屈める。シェイラと視線が合う位置にまで腰を落とし、絡ませる。
「シェイラ」
右手から白の手袋を外し、そっとシェイラの頬へと触れる。
触れた場所から伝わるぬくもりに弾かれたようにシェイラは顔を上げる。
「殿下…!」
「しばらく君に会えなくなる」
そして、戻ってきた頃には世嗣ぎも決まっているだろうとつぶやくのを聞いた時、ジークヴァルトは争いの一方から降りようとしているのだと気付いた。
確かに、勢いはエルンストの方にある。
英雄となった王の息子の側に民衆がつき、貴族はそれを利用する。
ジークヴァルトは。
「殿下は、立太子されたくはないのですか?」
震える声で問うと、ジークヴァルトの方も問いを返す。
「シェイラは、王妃になりたい?」
口調こそ軽いが、真剣な表情が決して冗談で言っているのではないだろうことを告げている。
ジークヴァルトが世嗣ぎとなり、王位に就けば、シェイラは王妃となることになる。
君はそうなりたい?
そうならなければ君は婚約者ではいたくない?
そう、祈るような問いかけに、シェイラはどう答えればいいのだろうかと必死に考える。
「私は」
すぅと息を吸う。
ジークヴァルトが何かを恐るように、言葉を遮ろうとするのを構わず、シェイラは告げる。
告げなくてはならないと思った。
「私、ジークヴァルト殿下のお側にいたいです」
そう言って、ふわりと笑う。
口に出し、シェイラ自身、それが本心であることを改めて知る。
5歳で会った日から、ジークヴァルトはシェイラにとって大切な人だ。
恋とか愛とか、言葉にするのはまだ難しいけれど、この人と一緒にいたいと思う。
「私は殿下のお側にいたいのです」
繰り返し告げるのに、言葉を詰まらせ、ジークヴァルトはただ、必死に抱きしめる。
この少女がとても大切で、愛おしく思っている。
ジークヴァルトは軍服の胸元からそれを取り出した。
「今日は、君に渡したいものがあって来たんだ」
取り出したもの。
青い石をシェイラの前に差し出し、もらってくれないかと言った。
澄んだサファイアを革紐に通しただけのペンダントは、ジークヴァルトの瞳の色で、とても貴重なものだと一目で分かる。
「これは?」
「私の守り石だ」
「どうか、この石を婚約の証として」
持っていてくれないかと祈るように乞われ、守り石という大切なものだと分かっているのに、シェイラは拒めない。
拒んでしまえばこの人は泣いてしまうのかもしれないと思った。
だから、シェイラはそれを受取った。
もらったサファイヤのペンダントはワンピースの内へと隠し、両の手で胸元にある石の部分を押さえる。
この日、何故ジークヴァルトがこんなことをしたのか、この時のシェイラにはよく分かっていなかった。
ジークヴァルトが「証」を望んだその。
世間には秘された2人の婚約が、世嗣ぎ争いを前に荒波にさらされようとしていることを、シェイラがまだ知る由もなかったのである。




