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マティアス侯爵家はあまり権力欲のない家柄と言われる。
言葉通り、その系譜において王妃を輩出したことは、同様の地位の他家に比べ驚くほど少ない。が、それは、この家が政治の中枢から外れているという意味では決してない。
マティアス侯爵家は王家と縁続きとなることは少なかったものの、内官としても武官としても優秀な者を数多く出している。また、学術に突出した者も多い。
あまり権力欲はないながらも、優秀な人材には事欠かない、この国を立ち行かせるためには欠かすことができない職業一族だった。
現マティアス侯爵の名をフェルディナンドと言う。
先代のマティアス侯爵が武に突出し、ティトゥーリア軍を統括していたのとは正反対に、彼は政の能力を突出させていた。そして、10年前、まだ27歳という若さの彼を、周囲の反対を押し切り、宰相の地位につけたのが、国王ゲオルグ三世と前宰相であったリッカ公爵だった。
フェルディナンドもまた、権力に固執することはあまりないながらも、優秀さゆえに多くの仕事を抱え込むこと、実にマティアス侯爵らしい人物であった。
だから、彼らの自分の息子と娘を王子の元に近づけたのは驚くべきこととして、一時貴族社会の話題をさらった。
が、その話題は長くは続かなかった。
その王子が第4王子で、まず立太子することがないのが主な理由である。
おそらく、自身を宰相の地位にあげてくれたリッカ公爵に義理立てしたのだろうというのが話の落ち着きどころだった。
また、娘のシェイラを王子の婚約者としなかったことも大きかった。
ただ、シェイラは行儀見習いと称し、週に二度、に後宮のカテリーナの元を訪れるようになった。
そして、王宮に通うようになったシェイラは、ジークヴァルトやヴィリーとともに、教授達の講義を受けるようになった。
婚約者というよりは学友のようである。
シェイラはマティアス侯爵家の出身らしく好奇心旺盛で、7つも年が違うというのに時折ジークヴァルトも驚くような発言をし、教授達にもかわいがられるようになった。
確かに、この年齢では恋愛などまだ遠い話で、一緒に学び、何気ない会話をするというだけで十分だったのかもしれない。
分厚い本を抱えて少女は王宮に通った。
2人の婚約は、王妃カテリーナと彼女の実家であるリッカ公爵家、そしてマティアス侯爵家との間で密やかに取り決められたものの、隠された。
国王の反対が予想されたからである。
ゲオルグ三世には、4人の王子と、1人の王女がいる。
ジークヴァルト以外の4人は既に成人しており、うち2人は結婚もしている。
王女は隣国セドナの王妃として嫁いだため、国内に残っているのは王子のみだが、3人の王子のいずれにも女子はいない。
第1王子である王太子には王女が1人いたが、3年前に病気で亡くなってしまった。そして、軍属の第2王子は結婚しておらず、既に臣下に降りた第3王子の元には男の子しかいない。
つまり、この国には現在、未婚の王女が1人もいないのである。
もちろん王太子夫妻に再び王女が生まれれば解決するのだが、夫妻には新たな王女どころか、後継ぎが生まれる気配さえなかった。
後継ぎという意味では、第2王子を王太弟として立てることも検討されており、妃を迎えるようにとの働きかけが活発化していた。
そして、王女という意味では、年頃の上位貴族の令嬢達が代わりの駒とされる可能性のもと、不安定な立場に置かれていた。
マティアスは侯爵家であり、公爵家ほど締め付けがきついわけではなかったが、それでも今、しかも5歳という幼さで特定の相手を決めるのはあまりにも憚られることだった。
それは宰相であるフェルディナンドもまた、よく分かっていた。
が、彼は、知ってなお、この婚約に賛同し、受け入れた。
巷で言われている通り、リッカ公爵家へと義理立てがまったくないとは言えなかったが、おそらくそれは大きな理由ではないとテレーゼは考えていた。彼女は夫の行動の不自然さに首を傾げつつも、かわいい娘にとって一番よい選択だろうと積極的に受け入れた。カテリーナの苦労を近くで見ているテレーゼにとって、臣下に降りる予定のジークヴァルトは娘の嫁ぎ先としてとても魅力的に見えたのである。
フェルィナンドからすれば、この国の1つの懸念と可能性に対して1つの布石を打ったまでのことだったが、賢明であった彼がそれを口にすることはなかった。
剣の手合わせをしていたジークヴァルトとヴィリーは、この日の勝負とジークヴァルトの4勝1敗で終えた。
既に季節は春から初夏へと変わり、稽古後は汗だくだ。
汗でぐっしょりしたシャツを放り出し、井戸の水を頭から被って身体を冷ます。
ついでに置にくんだ水を気にせずごくごくと飲んだヴィリーは、人心地ついたと同時に奇声をあげた。
ぐるるるとうなりながら、ジークヴァルトをじとりと睨む。
この年齢での2歳差は大きい。
ジークヴァルトからすれば1本取られただけでも十分に反省しなければならないところなのだが、ヴィリーはお構いなしだ。
次は負けません!と気合いを入れる弟分に、思わず笑みをこぼす。
王子相手にもまったく物怖じしないし、手加減もしない。勝てば喜ぶし負ければ悔しがる。これは私よりも私の父に似たようですとフェルディナンドは呆れたように言っていたが、そういうところが好ましく、得難く思う。
しかしながら、そんなジークヴァルトの思いなど気づくことなく、唸り声とともに井戸に立てかけていた剣を取り上げ、素振りを始めようと庭を突っ切ろうとする。
が、素振りが出来る場所へと移動しかけたヴィリーの足が止まる。
「殿下、兄様!」
向こうの方からやってきたシェイラの声に歩調を緩めた兄は、かわいい妹の登場に表情を崩す。
「シェイラ!」
走っているような動きをしていたが、小さな少女の足で、しかも彼女は手に本を抱えている。なかなか追いつけず、その間にジークヴァルトとヴィリーが間を詰める。
「お前はほんっと本が好きだな」
「兄様、ぐしゃっとしないで!」
向かい合うなり、ヴィリーはわしゃわしゃとシェイラの頭を撫でる。
それに頬を膨らませた少女は、なんとか兄の手を逃げ出し、ジークヴァルトに頭を下げる。
「殿下、お疲れ様です」
「あぁ、シェイラ」
重たそうに本を持っているに気付き、取り上げてやると、少し作ったような笑みがくしゃりと崩れ、年相応の表情が現れる。
「君は本を読んでいたの?」
「はい、図書館にいました。そろそろ殿下達の稽古が終わると聞いたので」
「うん、今終わったところだよ」
だから、この後は休み時間と言うとシェイラは口元をほころばす。
今日の負けがよほど悔しいらしいヴィリーは素振りをすると言い、ジークヴァルトはシェイラを庭の東屋へと促す。すると、いつの間にかリューネが後ろを追ってくる。
気難しいはずの国王の愛犬はこの少女を気に入ったらしく、彼女が王宮にやって来る度、騎士のごとく守っているのだ。
女官達が東屋にお茶を用意しささやかなお茶会が催される。
「何の本を読んでいたの?」
「セドナの歴史の本です」
言われ、持ってやっていた本に視線を落とすと、確かに表紙にセドナ語でタイトルが綴られている。
5歳の少女の読むものにはとても見えなかったが、確かにシェイラは現在セドナ語を学んでいる最中だ。
中を開いて見ると、彼女が読んでいたのはちょうど200年ほど前の歴史のあたりのようだった。
春の花の押し花の栞が差し込まれていて、本のいかつさと比べるとつい、笑ってしまう。
ジークヴァルトはぱらぱらと何ページかめくる。
そんな、彼の様子を見ていたシェイラは、突然あっと声をあげる。
「殿下、殿下!」
「え?」
テーブルに乗ってしまうほど身体を乗り出し、ジークヴァルトの腕を引っ張る。
「シェイラ?」
「手を」
見せてくださいと言われ、何事だろうと首を傾げつつ預けると、指の1つに小さな手がふれる。
「ここ」
「あぁ」
シェイラがそっとふれたのは、先ほどヴィリーとの手合わせで打ってしまった指だった。
確かに赤く腫れていて多少痛みもあるが、剣を握っていればこのくらいの傷は日常茶飯事だ。
「大した傷ではないよ」
「でも」
赤くなっているし熱も持ってる。と今にも泣き出しそうになったシェイラに慌て、顔を覗き込む。
「大丈夫だからそんな顔をしないで」
「でも、殿下」
「シェイラ」
名を呼び、ふわふわとゆれる金の髪を撫でてやる。ヴィリーのようにかき混ぜるのではなく、慈しむように何度も撫でてやると、上を向いた大きな碧の瞳がジークヴァルトを捉える。
「本当に大丈夫だから」
もう一度言うと、納得したのかシェイラはこくりとうなずいた。
このあどけなく幼い少女は、兄のヴィリーとともに、ジークヴァルトにとって宝物のようなものだった。
婚約や、その思惑や、自身の立場や。それらの難しさをすべて理解しているわけではないものの、この婚約の複雑さを知っていたジークヴァルトは、それでも、かなうことならば。
彼女がずっと隣にいてくれればと願っていた。
が、この後5年後。
フェルディナンドが抱いていた懸念は、5年後、想像したものよりなお厳しいものと形を変え、現実を突きつけたのである。




