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殿下と思わず叫んだのは、婚約破棄のせいではなく、その破棄に王妃マルグリッドが賛同していると、エルンストが告げたからだった。
この人は時期王となる者としてこれまで何を学んできたのだろうかとか、こんな結末のために自分は初恋を放り出さなければならなかったのだろうかとか、やるせなさが一気にこみ上げる。
何故、想像しなかったのだろうか。
男爵令嬢であることは問題ではない。
平民出身であろうと、正妻の子でなかろうと、それらは決定的な汚点とはならない。
何故カラフェ男爵家なのだ。
敵国ライドゥルにさえもを取引相手とすると言われる武器商人の娘に、この国の誉れとされるティトゥーリアの青を下賜し、それが王妃公認と知れば、貴族が。とりわけ前の戦争において大きな犠牲を払った軍が、どれほど落胆するか想像できなかったのか。
何故、軍の重鎮であるリッチェルとサリエの子が側についていてこんなことが起こる。
…いや。
彼らではない。
この愚行に対して最も責めを負わなければならないのはシェイラだ。
シェイラこそがエルンストの婚約者だ。
無意識に、左目を手で覆った。
奪われた左目が痛い。
叱責されているように思えた。
信じられない状況はそれでは終わらなかった。
「何をするのです!?」
シェイラより先に叫んだのは近くにいたソフィアだった。
シェイラは、自身の身に何が起こったのか、咄嗟に理解できなかった。
続いて、やめろと慌てたように発したのはエルンストの学友であるリッチェル伯爵子息カイルだった。
カイルとは別の学友、やはり後にエルンストの側近となるはずのリカルドが、突如シェイラの背後に回り腕をねじり上げると、地面へとはいつくばるよう背から押し倒した。
その時、ふわと広がったドレスの繊細なレースが、がさつな男の手にひきつれを起こした。
気づいた時には、シェイラは背後で腕を掴まれたまま、頭を床に押し付けられる形となっていた。
手を離しなさいと叫びながら、カイルと責めるようにリッチェル伯爵子息の名を呼ぶ。
しかしながら、貴族の頂点に在るリッカ本家の令嬢の言葉にもかかわらず、リカルドは手を離そうとしない。カイルはおろおろと見守るだけで、もう1人の側近候補、ノーウェンは、事の成り行きをただ、見ている。
「シェイラ、そなた、このアリアの父に恥をかかせたそうだな」
頭上から降りかかる低い声に、シェイラは固まる。
ソフィアの声に彼らが従わないのはこれがより上位の者、すなわち王太子エルンストの意思だからだ。
アリアの父に恥をかかせたこという言葉の指すところに、思い当たるものはある。
2週間前、ジークヴァルトと再会した日、王宮から学術院へと送ってもらう途中。
「望んでそうしたわけではありません。カラフェ男爵が、孤児院の子らに言いがかりをつけていたのです」
これが最後とばかりに、頭を押し付けられたまま、シェイラは顔を上げる。
エルンストを見上げ、告げる。
「私は望むならマティアスが裁定すると申し上げました。この2週間、男爵家から何の申し入れもございません」
「黙れ!」
怒りに任せ、エルンストはシェイラの頬を打つ。
「そなた、王妃になりたいがばかりに、好き放題やっていたそうだな」
男爵のことも、アリアのこともだ。
続いた言葉は信じられないものだった。
シェイラが、エルンストが選んだ妃となる少女に対し、その地位欲しさに嫌がらせしていたというものだった。
話しかけても返事をしなかった。
彼女が孤立するよう仕組んだ。
ある時は、階段から足を滑らせるよう邪魔をしさえした。
「この前など、私からこの首飾りを奪おうとなさいました!」
エルンストの言葉に続けるように、うるうると目を潤ませたアリアが切々とした声で訴える。
「シェイラ様、謝罪してください!」
かわいらしいした顔をした令嬢は、他にも誰にも見えない、シェイラにだけ見える角度で口角を上げる。いい気味と言葉にすることなく唇の動きだけで綴る。
思い当たることは、まったくないわけではない。
確かに、首飾りを外すように言った。
彼女がするものではないという考えに変わりはない。
が、それ以外の口を聞かない、孤立するよう仕組んだと言ったものはまったく身に覚えがない。大体、妃教育ばかりか、アーデルベルトやフェルディナンドからの仕事を請け負ったいたシェイラに、アリアを気にする余裕はほとんどなかった。
あぁ、そう、余裕などなかった。
アリアばかりかエルンストに対しても、ほとんど話す機会を持たなかった。
彼はシェイラを嫌っていたし、シェイラもどうでもよかった。
そこは責められても仕方がないかもしれない。
周囲が騒めいていた。
(本気で殿下はカレッタ男爵令嬢を?)
(まさか、シェイラ様がそのようなことをなされるなんてことは)
(殿下も、このようなむごいことをなさらなくても…)
アリア嬢に謝れと、変わらず背後から押さえつけているリカルドに言われる。
シェイラは目を閉じた。
それは一瞬のことだったが、随分長いもののように思えた。
これは諦めだろうか。
これは悲しみだろうか、
どれも合っているようで合っていないような気がする。
ただ。
「殿下が私のことをよく思われていないことは、存じ上げておりました。気持ち悪いとおっしゃられたこともよく、覚えております」
シェイラはゆっくりと口を開く。
「私は、王妃の地位など望んでおりませんでした。殿下が、心から望まれる方にこの地位をお譲りできればと思っておりました」
告げたのは本心だ。
男爵令嬢でも、平民でも構わない。
エルンストが、心から望みその令嬢が、王妃となる覚悟を持った人なら、シェイラは祝福し、協力しただろう。
残念でならない。
エルンストが他の妃を望んだ時、最も味方になれるはずだったのに、彼が選んだのがアリアだったことが、こんな偽りを叫ぶことでしか婚約破棄を正当化できないことが。
「殿下に相談いただければ、その方をマティアス侯爵家が養女として王宮に上げることも出来ましたのよ」
「お前、何を言っている」
「とても、残念ですわ」
1つ、息を吐く。
リカルドに腕を離すよう命じ、改めて、エルンストを見上げる。
「私、アリア様に対してそのような、嫌がらせめいたことはしておりません。カラフェ男爵の件も、…後ろめたいことは何もございません」
証拠がございます。
シェイラは淡々と告げる。
証拠ならば、ある。
この婚約の終焉をはっきりと理解し、その後のことを恐れながらも、もう何も、変えることはできないのだろうと観念し、裁定を待つ。
「エルンスト殿下、私は確かに殿下の婚約者として指名されておりましたが、同時に別の役目を負っておりました」
その時、別の方向、パーティー会場の入り口の方から、別の声が響いた。
「シェイラ、何をしておる」
「エルンスト殿下に、婚約破棄を命じられました。私が、こちらのアリア嬢をいじめていたようです」
「ほう」
くつりと笑い、その人はエルンストに向かって告げた。
「それはありえんな。我が鈴が、そのようなくだらないことをしておれば、余が気づかないはずがない」




