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忌々しそうに足を鳴らし、カラフェ男爵が背を向けるのを、シェイラはため息とともに見送った。
マティアスが引き受けるとは言ったものの、彼は何も言ってこないだろう。どう考えても孤児院の子供達が、シスターの注意を振り切り、雨の中を道の真ん中に飛び出したとは思えないし、集まってきていた人々もシェイラの貴族寄りではない裁定に納得しているようだった。人々のやり取りからも男爵側にあまり分があるとは思えないし、であれば貴族の中でも他のどの家よりも公正性を要求するマティアスの裁定など受けたくはないだろう。
馬車を放置し、どすどすという音が聞こえそうな足取りで去っていく男爵後ろ姿から背を向けると、集まって来た人々にもみくちゃになった。
将来王太子妃になる人だと、若干の遠慮はあるようだったが、それでもいつものシェイラからすれば驚くような親しみを向けられる。
普段のシェイラは遠慮なく話されることなどほとんどない。ましてや抱きつかれることなど家族とソフィア、カテリーナくらいにしかないのだが、向けられる好意が嫌なはずがない。
自分の対応は彼らを失望させるものではなかったと、安堵する。
いつまでもそうしているわけにもいかなかったが、しばらくの間王太子妃様と口々に呼ぶ人達に応えているとやがて、兵士の一団がやってきた。
ここから一番近い軍の詰所は歩いて10分ほどの場所にある。
この騒ぎに割り入り、男爵家の家人達を峰打ちにした後、ジークヴァルトは近くにいた若者に自身の徽章を握らせ、詰所へと走らせていたのだ。
やってきた兵士は15人ほどで、その中には詰所の隊長らしき男もいた。若者より徽章を受け取った隊長は、軍の中でも滅多に見たことのない将官のそれに驚き、とりあえず近くにいた者を連れ、駆けつけてきたのである。
「あなた様は…!」
そして、この場所に到着し、人々の中で一際目立つ軍服姿の人に、隊長は思わず声を上げる。
男は2年前までシレジアに派遣されていた。シレジア駐留軍に配された者達にとって、高貴でありながらも気さくで、地位の低い者を決しておろそかにすることのない指揮官は、羨望の的だった。ゆるく結わえられた銀の髪と、この国そのもののような深い青の双眸に思わず、膝をつきそうになる。
そんな男に苦笑しつつも、ここではジークと呼ぶようにと頼み、この場を託す。集まっていた人を解散させなければならないし、横転した男爵の馬車の片付けもしなければならない。馬車が突っ込んだせいで商品が散らばっている露天もあるし、孤児院に戻るだろうシスター達の馬車の手当てもしなければならない。それらを次々と差配した後、怪我をした子供を探していると、シスターの側に移動していたシェイラを見つける。
「シスター達の馬車を用意している、子供は?」
「お医者様がいらっしゃってきちんと手当てをしてくださったようです」
にこりと笑んだ少女の制服の裾のあたりにまとわりついている子供の膝に包帯が巻かれているのに気づき、リュイという名を教えられる。
リュイはジークヴァルトがやってくるなり、シェイラの側を離れ、興味津々の瞳で軍服やら帯剣を見る。軍の兵士は、平民の男子にとって人気のある職業の1つである。
自分も軍人になりたいと騒ぐ子供の頭をかき混ぜ、怪我が治ったら剣の稽古をしてやろうと、自然な口調で告げたジークヴァルトの唇がふわりと緩むのに、つい視線を向けてしまっていたシェイラは頬を赤らめる。胸を締め付けられるような気がして、制服の上から押さえていると、あちらの方はとシスター・キリエに問われる。
シスターも頬を赤くしている。
あんなやさしい顔を見せられたら仕方がないと肩をすくめつつ、王弟殿下でいらっしゃいますと説明する。もちろん口元に指を当て、内密にと頼むことを忘れない。
王弟殿下と口の動きだけでつぶやき、キリエは頬に手を当てる。ミーナがたしなめるが、若い女性ならば仕方がないだろう。
「シスター・ミーナ、今馬車を頼んでいますのでもう少しお待ちください。大丈夫だと思いますが、院の方には部下を配置します」
リュイだけでなく、他の子供も集まってきている。剣を触られたり抱きつかれたりと、もみくちゃにされながらも兵士に指示をしていく。シェイラの方はと言えば一度馬車に戻り、手持ちの便箋に書状をしたためている。名前を出したカテリーナに報告をするためだ。また、侯爵家にも連絡が必要でそちらは長兄のイザク宛とする。万が一カラフェ男爵から連絡があれば、協力してもらわなければならない。
そんなことでしばらく忙しくしているうちに、ジークヴァルトが指示した馬車が用意されたのだが、その馬使いとしてやってきたのが次兄のヴィリーで、やはり久しぶりの再会に驚き喜ぶことになる。
今日に限ってヴィリーはジークヴァルトと別行動だった。侯爵家に顔を出していたとのことで、話によると3日の休暇をもらっていたのだという。にもかかわらず、王宮経由の連絡を受け、ヴィリーは馬使いと孤児院の警備を請け負った。ひとまず1晩、院に泊まり込むということだった。変わらない優しい笑みで頭をくしゃりと撫でてくれたが、数言会話したの後は、てきぱきと部下に指示し、シスターと子供達を馬車に乗せた。
そろそろ私達も行こうかとジークヴァルトに告げられ、学術院に送ってもらっていう途中だったことをシェイラは思い出した。
もうすっかり雨は上がっていたが、既に陽は完全に落ちている。2月の下旬にしては気温は高めだったが、それでもまだ冬の夜だ、馬車の中も冷える。学術院の冬の制服はとても暖かいのだが、それでも制服だけでいられず膝掛け代わりにしていたコートを羽織ろうとする。
「あぁ、コートはそのままにしておきなさい」
「殿下?」
が、ジークヴァルトに手を添えられ、留められる。何事かとを顔を上げると、黒の外套を羽織らせてくれる。
「私はこのままで大丈夫だから」
シレジアに比べれば王都はずっと暖かいからねと言いながら、自身の外套がシェイラにはずっと大きくてつい笑ってしまう。そんなジークヴァルトの笑顔につられ、また、指先も見えないくらいの袖の長さを見て、シェイラも笑みがこぼれる。
小さい頃よりも身長の差が大きくなったようだった。肩幅もずっと大きくなった気がする。
でも、笑顔を浮かべる時に細められる目とか、側にいる時の安心感とかは変わらなくて、ほっとするのと同時に、悲しくもなる。
そういえば、昔もシェイラが寒そうにしていたら自身の上着を貸してくれて、あの時感じた温もりも変わらないと、肩をすくめつつ、外套の生地を抱きしめてしまう。
「まだ、寒いか」
「いいえ」
問われ、大きく首を振りながら、ここまでの道のりのやりとりを思い出す。
何があったと問われた。
何故、泣いていたと聞かれた。
「かつての日々に戻れたらと思うことがあります。逃げ出したいと思うこともあります」
「シェイラ?」
「殿下の守り石をもう少し預からせていただいてもよろしいですか」
「王家に嫁ぐ日には、お返しします」
エルンストでもアーデルベルトでも同じだった。
この人の側にいられないのであれば、他のすべてが同じだった。
結局、シェイラはジークヴァルトに対し何も告げず、学術院へと戻っていった。
ただ、ジークヴァルトはシェイラに貸していた外套を残していった。そして、自らが託した守り石を出すよう告げると、祈るように、乞い願うように、あなたに加護をと告げ、石に口づけを落とした。
その様子に顔を真っ赤にしたシェイラはしばらくたじろいでいたが、やがて、私もと小さな声で呟いた。
ジークヴァルトが左耳のエメラルドを外そうとすると、それを止め、耳元に唇を寄せる。
殿下がお健やかでいらっしゃいますように。
震える声で綴られる言葉は出兵する兵士がよく受け取る言葉だったが、シェイラに告げられたと思うと、まるで告白のようにも響いた。
シェイラを降ろしての帰り道、エメラルドからいつまでも指を放せなかったジークヴァルトに対し、ずっと無言でいたマノントン夫人が、硬い口調で告げた。
王太子殿下と王妃殿下は、カラフェ男爵の令嬢を王太子妃に据えようとしています。そして、お嬢様でなければ殿下の王太子としての地位を保てないことをよくお分かりの陛下は、色々と企んでおいでのようです、と。
そう告げて、問うように夫人の視線が上向くのを見た時、かつてシレジアへと逃れた自分が今、渦中にいるのだということを悟った。




