第七章・願い
1
呉越王、帰還。
――しかし、無事の帰還ではなかった。
血を吐き倒れた弘佐を何とか、自軍や南唐軍に知られないようにしての帰還だった。
★ ☆ ★
「兄上はバカだ! どうしてこんなになるまで!」
「隆道……すまない……」
弘佐は苦笑をうかべて、取りすがる、弟の頭をやさしく撫でる。
その力のない細い手が痛々しい。
(兄上は本当にこの手で兵を率き、勝利を収め福州を得たのだろうか?)
弘宗はぎゅっと兄の手を強く握った。
いつから血を吐くほどの病におかされていたのだ…!
教えてくれなかった兄が憎い。
けれど、兄の病を察しながら強く出兵を止められなかった自分が一番憎い。
悔し涙を流す弘宗に弘佐は申し訳なくおもいながら問いかける。
「隆道、お前は香霄が視えると言ったな、いまも視えるか?」
「……はい」
弘宗はチラ…と、かたわらで、無表情に弘佐をみつめる娘に視線を移す。
白い袷と裙、その上に鴇色の袍をはおり、床に波打つ金色の髪――彼女自身が大輪の華のような美しさだが、今は、感情か欠けているようにみえる。
弘佐が病におかされ寝たきりの状態だというのに、感情をあらわにせず、ただ無表情にみつめ――香霄の碧眼が氷のように冷たく思えた。
「彼女は国の社禝だ。名を香霄という。そして王の願いを叶えてくれるもの……」
「社禝? 王の願いを?」
怪訝に眉を顰める弘宗に香霄は抑揚なく名乗る。
「私は呉越の社禝――香霄。民を安んじ養う神。民を統治してくれるもののそばにある。 銭鏐は私に『長寿』を願い、銭元潅は『欲望の浄化』を願った。私はいずれもその願いを叶えた」
「欲望の浄化?」
「六年前の大火のことだ」
「じゃあ、あの大火はお前がおこしたものなのか! あの大火のせいでどれだけの民が苦しい思いをしたか! ――なにが社禝だ!」
弘宗は烈火の如く怒り、香霄を激しく罵るのを、弘佐の鋭い声が止めさせる。
「隆道やめろ、それは先王の願いで私たちはそのことがあって〈楽園〉をつくるという目標を得たのだから」
「しかし!」
「いずれにせよ、この香霄が見えると言うことは私の次に王になるのはお前だ」
「そんな……私は王の器ではない。
兄上のように寛大ではないし、それに私の望みは兄上の補佐をすること。兄上が死んでしまったら意味がない!」
「隆道、私もそう簡単には死ぬつもりはない、だから安心しなさい」
うろたえ激しく頭をふる弟に弘佐は安心させるように微笑み、愛しげに彼をみやった。
「隆道は、昔から私の事で泣く」
「それは、兄上が心配ばかりさせるからです」
そうだろうか……いや、そうだな。いつも苦労をかけてすまないな」
(隆道はつねに私のそばにいたがる)
いや、私のほうが、つい隆道に甘えてしまうのかもしれない。
信頼できる臣、そして大切な弟だからこそ。
私に大事あると涙するのは嬉しいが――私が死んだら、この弟は私の影を背負うことになってしまうのだろうか。
弘宗には悪を憎む心が強すぎ、些細な失敗を許す度量がいささか欠けている。
そのことがきっかけにならずに、臣民を穏やかにまとめてくれるならいいのだが。
不安をため息に溶かして弘佐は弘宗に後のことを頼む。
「私はこのような状態で政務もままならない、……政務のすべてを委任する」
その強く命じる語調に弘宗はためらいながら膝をつく。
「……謹んで、拝命します」
(兄上に、これ以上無理をさせられない)
その思いが強く占め、拝命したが弘宗はハッ、とあることに気づき、つよく香霄の肩をつかんだ。
「香霄、私の願いは兄上が生きながらえることだ。王になったら私の願いをきいてくれるのだろう?」
「それは…本当の王にしかできない願いしかきけない……私は弘佐の願いを叶えていないし、正式な宣下ではないから、無理よ。それに宣下すれば、その時点で弘佐は死んでしまうもの……」
「ではどうすればいい? 香霄、そなたを殺せばいいのか!」
弘宗は腰に帯びた剣を抜刀し、殺気を含んだ目で香霄を睨む。
「そんなもので、私を殺せないわ」
「わからないぞ、私はそなたが視えるのだから……王の願いを叶える代償はその命とし、国の未来を挫くというなら、紅娘となんら変わりない……」
「隆道、やめろ!」
弘佐はふたりの間に入ろうとするが、弘宗が声を張り上げ制す。
「このものが王の、兄上の命を奪い取るなら私はこのものを斬るしかない――社禝などいなくとも国は立ちゆく!」
香霄は剣の切っ先をみつめ、傲慢な口調で言う。
「――なら殺しなさい。私は、あなたのいう紅娘かもしれない」
「!!」
弘宗は香霄に剣を振り上げた。
「――隆道、香霄!」
――間に合わない!
しかし、
「やめてください、隆道兄上!」
二人の間に身を呈して割り込む人物がいた。
「文徳?」
剣を振り上げたまま、呆然と弘宗は弟の字を呟く。
「どのような理由があろうと人を殺めるなど、なりません!」
どうやら弘俶は騒ぎをききとめ入ってきたらしい。
弘宗は剣をおろして唖然と問う。
「……お前、この娘がみえるのか?」
「? それがなにか?」
弘俶は不思議そうに首をかしげた。
2
弘佐は、香霄とふたりきりになりたいと弘宗と弘俶を下がらせ、ポツリと呟く。
「文徳も香霄の姿が視えるとはおもわなかった。もしかしたら、隆道の治世は短いのかもしれない……」
「かも、しれないわね」
「香霄?」
「弘佐、あなたは私になにか願った?」
泣きそうな声で訊ねられ、弘佐はハッとする。
碧い双眸から涙がぽろぽろとこぼれ落ち、頬を伝っていた。
「今まで、表情がうかがえなかったから、私は飽きられたのかとおもって、内心冷や冷やしたが、もう、我慢しなくていい」
涙を優しく拭う弘佐の手を香霄はとり、強く頬に押し当てる。
「私は弘佐の願いをきいたことはない!
すべてはあなたの強い意志によって国は豊かになり、福州を得たの。
そう私はなにもしていない、ただ弘佐の傍にいただけ、見守っていただけなのに、どうして弘佐が死ななくてはいけないの!」
声が涙につぶれ小さくなり嗚咽にとってかわる。弘佐は落ち着くまで香霄の髪を優しく撫でた。
「……私に強く願ったら死ぬ、それが王の個人的な願いなら。代償は王の命で購われる。 弘佐はそれをわかっていていままで私になにも望まなかった、それなのにどうして……、」
「香霄を望んだ、からかな?」
「私を望んでいた?」
「はじめて逢ったときから私は香霄の傍にいたい、と望んでいたんだ」
「そんな…!」
弘佐は香霄を胸に引き寄せ、クスクスと笑う。
「もしかしたら香霄は自身を望まれるとわからないのかもしれないな」
弘佐も……予と同じ運命をたどるのだろうか……
ふと、元潅の言葉をおもいだす。
(……同じ運命?)
弘佐も、私を望んで死ぬという、同じ運命だといいたかったの?
それが『きっかけ』となって王に願いを叶えさせると……?
でも違う、
弘佐はなにも私に願わなかった、
ただ、望んでいただけ。
私が傍にいることを。
弘佐と元潅は違う。
そう、懸命に否定するけれど、弘佐が呟く。
「私は父と同じおろかものだな」
「どうして?」
「……民のために願えば、生き長らえたいと思えばこそ…なのに、私は常に香霄を望んでいた、楽園を創ることよりも香霄が私の傍にいることが、私の真の願いだったのだから、――ッ!」
「弘佐!」
弘佐は苦しく咳き込み、口を押さえる。
手が赤く濡れていた。
「あまり……、長くはないな」
自嘲気味にいい、強く香霄をだきしめる。弘佐の震えが強く伝わった。
「香霄、怖いんだ」
「………死ぬことが?」
「違う、君とともにいられなくなることが、だ」
香霄はハッとして弘佐を見やる。
「香霄といられないと思うとつらい、王であり続けないと君の傍にいられないから……」
「なら……私に『長寿』を願いなさい。弘佐はまだなにも願っていないのだから」
「でもそうしたら香霄の姿を視ることができなくなるんじゃないか? お祖父様は君の姿をみることができたか?」
「――それは……」
感じることはあっても視ることはできなくなる。
また香霄はひとりになり、寂しくなるけれど弘佐が長らえてくれるならそれでいい。
私の願い。
弘佐のそばにいることも叶う。
「願いなさい弘佐。民はあなたを望んでいるのよ? 楽園を創るのでしょう?」
やさしく諭すけれど弘佐は首をふって頑とゆずらない。
「私は香霄が見えなくなるのがいやだ。こうして抱けないのもいやだ。わがままかもしれないけど――いやなんだ」
「弘佐、私は、」
「香霄は私のそばにいるのはいやか?」
「そんなことはない!」
「なら私は最期まで香霄の傍にいたい」
「弘佐……」
次の王は弘宗だろう、でも弘佐の宣下なしでは弘宗に仕えることはできない。
でももし、弘佐が宣下しなかったら私は社禝ではなくなり――土地に縛られることはない。
でもそれは滅びることを意味しているのだろうか、それとも次の為政者を見いだすまで眠りに落ちるのか。
けれど、いまの私は弘佐がいなければ、《存在の意義》はない。
弘佐は私と居続ける手段として王になった、なら私は――……。
「弘佐、弘宗に王の宣下をしないで」
「香霄?」
「私も社禝ではなく、ただ弘佐の傍にずっといたい。私の王は貴方…弘佐だけだもの」
そういい、弘佐の不安を溶かすあまく切ないキスをかわした。
★ ☆ ★
――黄希と呼ばれ振り返る。
黄希――その名は香霄がくれたもの。
その名を香霄に呼んでもらえることが嬉しかった。
私は微笑みを返事とする。
手を伸ばせば、彼女に触れられるのに、けれど触れられなかった。
――いや触れてはいけない存在。
きっと触れれば姿を見ることも叶わない女になってしまう。
なら彼女を見守る存在であり続けたい。
――それしか、許されない。
でも、そう望むことで、彼女への恋慕は強くなるばかり――。
3
「――兄上、晁衡どの、日本国はどのような国なのですか?」
見舞いにきたふたりに弘佐はそう尋ねた。
季節は四月節――立夏になっていた。
空気を入れ換えるために開けられた窓から、清々しく澄んだ青い空がみえる。
風の色も違う、穏やかで暖かい、その風のひと撫で眠りに誘われる。
ふたりは晁衡の術のお陰でいまでも誰にもとがめられず宮殿に出入りすることができ、弘佐のもとに訪れる。
弘宗のように体調をすごく気にするわけでもなく、晁衡はいつもの薬をつくって弘佐に飲ませ、弘純は旅したいろいろな国のことを語ってくれる。
それがふたりの弘佐への気遣いなのかもしれない。
弘純は目を瞬かせて弘佐をみやる。
「――聴きたいのか?」
「ええ、日本のことを兄上は語ってくれませんから……ああ、兄上はあまりよい思い出がありませんか?」
そうだ、弘純は日本国の海賊だった。
総領は討たれ、息子とともにさらし首にされたと晁衡から聞いた。
弘純はあごを撫でていう。
けれど瞳に深い哀愁が浮かんだ。
「――いや、思い出はたくさんあるが、悲しいこともあったから……。しかし時がだいぶ過ぎたし……聞いてくれるか?」
「はい、ぜひ」
「――そうだな、俺は都のことはあまりしらないが、日本自体はとてもきれいだ。静かだし山野が豊かな緑をたたえている。
呉越はほぼ一年中春のような気候だが、日本は四季折々で、春は桜が咲き誇り、夏は陽射しが眩しく濃い緑が萌え、秋は紅葉し、山野を赤く染め上げて落ち葉が舞い、冬は雪が駸々と降り積り、春日とともに雪は溶け再び桜の花が咲き乱れる」
兄の縷々とした語りに、日本を思い描く。
弘佐は美しい光景を臣民とともに見るのが一つの楽しみなのだ。
そんな弘佐の羨望の眼差しをちらりと見つけて弘純は苦笑する。
「あと面白いと思うのが婚姻様式だな。和歌をおくりあって結婚をする。
歌垣といって満月の日に若い男女が大勢集まって歌を送り合って結婚するんだ」
「親とか身分とか関係ないのですか?」
「まあ、だいたいはな」
「へぇ…」
「――この国からみたら遅れているようにおもうかもしれないが、――俺は好きだ」
「私は、逆だな」
晁衡がぽつりと、いう。
「都にいたからかもしれないが、都には魑魅魍魎が跋扈していて、落ち着かなかった」
「魑魅魍魎……?」
弘佐は首をかしげて反芻する。
「まあ、言うなれば心の闇とでもいうのか。
――貴族も民もそれにおびえて、自分の意思というものが薄く感じるのだ。
……占いを信じていて、そのとおりに行動する者が大多数。
まあ権力者だけは財産を得ようと必死だが」
「そういえば、晁衡どのの母上は人ではなかったと訊いたのですが本当ですか?」
「だれから訊きいた?」
「私よ」
弘佐のそばにいる香霄が主張した。
「あなたが私と初めてあったとき『私の母がそなたと同じような者で』といったのを今でもおぼえているわ」
香霄は晁衡の口まねをしていう。
それをきいて晁衡は拳を口元において苦笑する。
「そんなことも言ったな……まあいいか。――私の母は霊狐だ」
「霊狐?」
「ほう、だからつかみ所のない性格をしているのか」
晁衡は弘純の軽口を無視して続ける。
「こちらでもよくきくだろう、狐が人間と結ばれる話を。まさに私はその申し子。ただ母は普通の霊狐ではなかったようだ……」
(きっと晁衡の母は楠葉)
香霄はそう直感し、とても懐かしくおもう。
ここ数日、手のひらから零れていった、人だったときの記憶を戻りつつあったから。
楠葉は東の島に渡り、人間に恋をしてこの晁衡を成した。
だから彼は私を視ることができ、不思議な力を受けづいたのだろう。
香霄は懐かしくも切ない気持ちを懐きつつさらに訊ねる。
「どうやって、あなたの両親は出逢ったか聞いている?」
「これもよくある話だ。傷を負った母が父に命を助けられ、恩義を感じ、独り身だった父のもとに人間の女に化けて世話をしているうちにふたりは恋に落ちて夫婦となり、そして私が生まれた。
しかし幼かった私が母の正体を見破ってしまったせいでふたりは二度と会えなくなってしまった。なぜなのかは知らないが」
弘佐は手の中にある品茗杯を見つめて呟く。
「ではこの薬は晁衡どののお父上が病におかされたとしりお母上が煎じた薬なのですね?」
「そうだ、だから普通の薬よりとてもつよい。霊狐葉で作ったものだから」
「人と人ではないものが結ばれることはあるのね」
「なにをいう、神と人も結ばれ、子を成すこともある。しかし、神は人の儚さにたえられないため滅多に交わらない。神は不死なるものだからな」
香霄は複雑な表情をうかべて黙る。
香薔も小覇王の子を成した。
彼女は子を成してしまったから愛しい者とともに逝くことをあきらめ、母としての生涯を全うした、忘れ形見を愛おしむ道を。
(でも私は弘佐とともに逝くことを選ぶ)
もう、待つことはできないから。
晁衡は思い詰めた香霄の表情をみつめ、おもむろに席を立つ。
「香霄、すこし話がある」
「え? ここじゃいけないの?」
戸惑う香霄に、珍しく茶目っ気をだして片目をつぶり、人差し指を唇にそえる。
「たまには兄弟水入らずにさせようとおもって、邪魔者はこちらだ」
強引に晁衡は香霄の腕をつかんで、隣室につれていく。
「え、え……じゃあちょっといってくるね」
「ああ、気を遣わせてすまない」
それを見送り弘佐は弘純に訊く。
「兄上はいまでも、香霄の姿がみえますか?」
「いいや、見えない。だがここちよい風を感じるからいることはわかる」
ここちよい風――。
さすがは風に任せて海を行く兄の言葉だ。
弘佐は窓越しから、形の良い雲が浮かぶ空をみつめて静かに告げる。
「……兄上、私の次に王になるのは隆道です。どうか助けてやってください」
「弘佐、俺は気ままな海賊だ、約束事をするもんじゃない」
かるく弘佐の額をこついて、そっぽを向く。
「では私がこの国を守るしかないですね。この国にも反乱の種がないとは言い切れませんから……それしかないか」
「なにか、思い当たることがあるのか?」
「文徳も香霄の姿がみえるのです」
「弘俶も?」
「……なにごともなければよいのだけれど」
ため息をついて肩をすくめる弘佐をみ、訝しげに訊く。
「弘佐、お前そこまで国に尽くすか?」
弘佐はゆるり、と首を振った。
「いえ、心配なだけです。……そうですね、もし私が王でなくなったら、香霄と一緒に旅がしたい。
そうまずは日本国を見てまわりたいですね……」
「弘佐、お前は暢気だな……」
弘純の声は哀愁を帯びていた。
『自分の命の代償に民が安らげればそれで良いそうだ、弘佐どのは』
なぜ、弘佐の夭折の相をみ、発病をしていること、知っていながらを止めなかったのかと晁衡をといつめたら、弟はそう答えたそうだ。
『王として』弘佐が大切に思うのは〈民の社禝〉なのだろう。
それを挫いてしまったら弘佐はこの世にいる意味をなくしてしまう。
たしかにそうだが、『弘佐自身』の幸せはいったいどこにあるのだろう?
弘佐の私欲は、やはり弘佐の想い人である香霄にしかないのだろうか。
「………弘佐、お前はこの短い人生を楽しんで生きてきたか?」
その問は、いつのまにかひとときの眠りにおちた弘佐には届いていなかった。
4
日本刀を突きつけられて香霄は背筋に恐怖が這うのをしった。
普通の刀なら香霄を傷つけられない、けれどこの刀は違う。
――神刀だ。
異国の神の力が宿っているのがわかる。
この刀なら香霄を消滅させることができるだろう。
「……なんのつもり、晁衡?」
「香霄を殺せば、弘佐どのは長らえる、……とおもう弘宗どのの思いは解らぬでもない」
抑揚なく晁衡は告げる。
晁衡は私を殺すためにここに呼んだ。
この結界を巡らせた場所に。
透かし窓からさんさんと陽射しがさし込む部屋なのに、薄ら寒く感じ、空気も重苦しい。
不気味な重圧感があった。
神を捕らえる結界というのだろうか、これは。
香霄はキツと晁衡を睨みいう。
「私が消えたと知れば弘佐は私のあとを追って自害するでしょう」
「フッ……、そこまで愛されている自信があるか?」
「あるわ。私は弘佐のために死ねる。私が死ねば弘佐が長らえるなら喜んでこの命をささげるわ」
晁衡は大きなため息をついて刀を赤鞘におさめ卓におく。
「……冗談だ」
とても冗談には思えなかったが、彼から殺気が消えた。
「すこし私の話をきいてもらえまいか?」
「話?」
「これは弘佐どのにも話したことだが、私は生まれつき人の生き死にを知ることができたからそのうち、私が寿命をあやつるようにいわれはじめた。私は、私に対する畏怖の眼差しに耐えられず……日本に嫌気がさした」
「晁衡…、」
「だから大陸に渡った。今、大陸は血で血をあらう乱世。
まあ……日本も、骨のある者がいて理由はともかく朝廷を相手取って兵をあげたおろかものもいたが…比が違う。
なまぬるい。
私はもっと広い世界を見てみたかった。
しかし日本は事実鎖国している、『巨海』にでることは許されていなかったから、私は藤原純友の乱に乗じて杭州にきた。
しかしここは、この国の人々に死相はなかった。
乱世のただ中にあるのに、だ。
まあ、天命や病はともかく悲壮な運命は見受けられない……ただ一人を除いては」
「それが、王……弘佐だというの?」
「ああ、」
「……王の願いの代償がその命だから?」
「いや、弘佐どのはもとからこの国の贄だった」
「贄?」
「……時の贄とでもいうのか、時は覇者をのみこんで新たな渦を生む、この国はそうやって歴史を生みだしてきたのだろう?」
「でも私は弘佐の願いを叶えていない、弘佐は一度も私に願いはしなかった!」
「そうだろう。弘佐どのは強いし、それに私は釘をさした」
「釘?」
「真の願いは心の奥に、と」
香霄はハッと彼を見やる。
「だから弘佐は私になにも願わなかった?」
「いや、彼は願うより自ら行動に出た方が早い、という思考の持ち主だろう。
だが…弘佐どのの夢が現実になるのが急速すぎる。
香霄、弘佐どのの〈楽園を創りたい〉という想いを感じ取り叶えていたのではないのか?」
「……違うわ、弘佐は、」
晁衡は香霄の言葉を最後まで聞かず、彼女の髪に挿す簪をスッと抜く。
金色の艶やかな髪が床に波打つ。
「なにを……?」
「罅かはいってるな」
晁衡は怪訝に呟いて、ため息を吐き、簪の枝を指先でくるりと回す。
「これには香霄の力を封じる呪をかけておいたのだ」
「――っ!」
香霄は晁衡に憤り言葉が出なかった。
彼は私の力を封じて弘佐の願いを聞き取る能力を欠けさせていた。
もし気づいていれば、弘佐が病だと言うことも気づくことができたはずなのに!
キッ、と強い瞳で晁衡を睨む。
「すべて見透かしていた? 私が弘佐の命を縮める存在だと、社禝とは名ばかりで死神だと考えていた?」
「念のためだ。しかし、香霄自身が死神だと自覚していたとはな」
冷ややかに晁衡はいう。
やはり、晁衡はすべてを見通し、所々に布石を打っていた。
けれど結果的にすべて巧みにさけられ……。
「私のせいで弘佐は死ぬの?」
「……違う。
この罅は香霄の想いによって生じたものだ。弘佐どのの無事を祈る願掛けとして……。
それに弘佐どのも福州を得るまで死ねないと気力だけで動いていた。
それを支えていたのはお前の想いと弘佐どのの意志。
以前、私が弘佐どのをさらおうとしたのは、彼の行く末を垣間見て、哀れだと思ったからだ」
晁衡の瞳に悲しみがよぎる。
「大陸から離せば弘佐どのは夭逝にしなかった。――そう……私は彼の運命を変えたかった。死相などの運命の輪がすこしズレればきえるものだからな。しかし弘佐どのの強い意志の前に負けてしまった。
その意志は運命の輪を正常に動かす結果となってしまったが……。
しかし、それでも私は弘佐どのには死んで欲しくないと望んでいた。
でも私は……無力だった。
大陸に来ても私は予言するだけの力しかもっていなくて、弘佐どのの運命を変えることができなかった。
だが、――この世の楽園をつくるという強い意志をどうして挫くことができようか」




