終章・旅立ち
1
部屋に戻ると弘佐は眠っていて、弘純と晁衡は邪魔にならないようにと帰っていった。
香霄は愛おしく弘佐の額から頬を撫でる。
まるで子供のよう。
なんども、愛おしく。
ここちよく眠って、安らぎに包まれている。
どんな夢をみているのだろう。
よい夢?
私は弘佐の成長をずっと見守っていた。
十にもならない弘佐に姿を見られたことには驚いたけれど、嬉しかったのは本当。
ある意味、孤独だったから……。
けれど、弘佐はまだ二十なのだ。
二十年しか生きていない。
まだこれから先、未来があるはずなのに。
もしかしたら弘佐は天下を治める器を有していたかもしれないのに。
限りない夢はあったはずなのに。
でも弘佐は死をすでに受け入れている。
「どうして?」
はらはらと涙がこぼれる。
儚い、人間の命はなんて儚いのだろう――。
神の時間からいうと瞬く間しか弘佐は生きていない。
「香霄、また泣いているのか?」
弘佐の指が香霄の涙をすくう。
「起きていたの?」
「いま起きたんだ。香霄に呼ばれて」
「私は呼んでないわ、ただ寝顔をみていただけよ」
「そうか?」
弘佐は香霄の表情が暗く沈んでいることに気がついた。
「香霄? どうした浮かない顔をして、微笑んでいて欲しい、ずっと……あの時のように」
「あの時のように?」
弘佐は優しく微笑んで香霄の頬を包むように手を伸ばす、そして。
「黄希と香霄に呼ばれていた」
どくん、と強く鼓動が高鳴る。
「あの時の夢を見ていたんだ。短い時間だったけれどとても幸せな時だった。香霄には触れられなかったけれど、ただそばにいられたから。でも本当は触れたくて、抱きしめたくて……仕方がなかったんだ。花月の邑で僕はあなたにずっと焦こがれていた」
「あなたは、黄希、なの?」
弘佐は微笑みを浮かべ頷いた。
「いまの私は弘佐でも黄希でもあるんだ」
「どういうこと?」
「福州で倒れてからずっと、夢の中で君を見つめている男になっていた。嬉々とした君をただ見つめているだけで幸せな黄希に。でも心の内では抱きしめたくて仕方がない私がいた。だから、どちらか夢か現か解らなくなってしまったことがあったけど」
「そんな……黄希は私の命を得て生涯を全うしたはずよ、どうして……」
「強い想いは時空を越えて残るんだとおもう」
それに。
「香霄は約束した……。ともに逝くと、いま、その願いを叶えることができる」
「――そんな……」
こんな事があっていいのだろうか。
私の手から滑り落ち、失われた記憶や思い出が、金の糸を織るようにつながり、形となって現れていまここにある。
弘佐の命が紡がれ私の約束を守るため、私の最期の願いを叶えるため。
その願いさえなければ、弘佐は。
(今思えば、それは儚く、そして残酷な願い)
香霄は強く弘佐を抱きしめた。
強く抱きしめることしかできない。
後悔や愛おしさ、切なさ、全部を抱きしめることしか……今度こそ手のひらから、こぼれ落ちないようにと。
弘佐も香霄を強く抱きしめ耳朶に囁く。
「香霄と旅がしたいな……そう、まずは日本国へ渡りたいと思うのだけど、どうかな?」
「ええ、そうね……」
二人、風となって碧い昊を巡り広い世の中を見守ろう、二人で……。
ただ穏やかな時が流れる……時を惜しむようにただゆっくりと。
弘佐が微笑み、香霄がそれを返す。
それが一つの永遠のように。
ただ願わくは穏やかに時が流れますように……。
六月、夏の風が巡めぐる。
2
弘俶は中庭の金木犀を見つめていた。
以前この金木犀に精霊が住んでいるので花が散ることはないと兄から聞いた。
一枝、手折り、兄におくろう。
きっととても喜ぶから。
突然、
強い風が吹いて、手が触れるまえに金木犀の花々が空に舞い散った。
風に舞い上がる金色の小花。
大空に吸い込まれるように……。
東の空へ旅立っていった。
☆★☆
弘純は青い空を見上げた。
波の音が強くこだまする船上だが、どこまでも澄んだ青い空を見上げるとすべてが遠くの出来事のように思えた。
弘純は同じように高い空を見上げる晁衡のそばに歩み寄り、彼の手に握られているものに目をとめる。それは玉でできた金木犀の簪。
弘佐が香霄に贈った簪だ。
「晁衡、」
「晴明とよべ」
「え?」
「もう、私は呉越に行くことはあるまい。日本にとどまる。『晁衡』という名はもう使わない」
その漆黒の瞳を空から紺碧の海へと馳せる。
しかし彼の心は違うところにあることを弘純は解る。
きっと、今、自分と同じところに想いがある。
もう生きて会えることのない者への哀愁。
弘純は大きく息を吐いて、強く晴明の背を叩いた。
「……俺にとっても、お前にとっても長く、そして楽しい旅だったな……、」
晴明はふりかえり、弘純に微笑み返す。
「ああ、そうだな……」
皮肉ではない、彼本来の笑みで。
簪が、キラリと宝玉を滑るように輝いた。
その宝玉が映すのは紺碧の海と空。
まるで嬉々と輝く。
昔、一時だけ船にのり、海の青さに、広さに感動した少年の瞳によく似ている。
晴明はふと、切なさが心を占めるのをしり、それを隠すために唇に笑みを刻んで簪にささやきかけた。
(今から私たちともに日本に行こう、弘佐どの……)
私はあなたを、日本に連れて行きたかったのだから。
きっとそこは、あなたが望む美しい世界がまっている。
そのとき暖かな風が吹いた。
心地良い風が、昊に碧く。
了
ここまでよんでいただきありがとうございました。ちょくちょく校正をかけていきますので今後とも宜しくお願いします。




