第五章・版図
第五章・版図
1
開運一年。
だが南唐では保大二年。
南唐皇帝・李景はこの世の栄華を極めたきらびやかな後宮でまだ幼い我が子・従嘉をあやしながらも、そのまなざしは違うところにあった。
南の地、ビンに。
李景、字は伯玉。
先帝・李弁が二年前に亡くなり李景が二十八歳で皇帝に即位した。
容姿端麗で、詩余を好む文人皇帝だが野心家でもある。
南唐が領有している土地は、淮南・江南とよばれるところだ。
長江下流・南北までまたがり、隋の煬帝が開いた大運河の起点である揚州を中心として、唐代より経済的繁栄をほこり、長安・洛陽の文化も、大運河を通じて送られた。
李景の父・李弁は在位期間中、乱世であるものの、ひたすら戦はさけ民休につとめた。
そして李弁は臨終のとき『他国と戦を避けるべきだ』と、いっていたが、
(私は父とは違う)
李景はにやりと笑った。
(時は熟した)
皇帝として威厳をしめすにはまず領土を広げることだ。
そしていずれは華北にとってかわり天下を頂くこと。
それが乱世を治める唯一の途ではないか。
李景は脳裏に地図をひろげ、南唐軍という駒を福州を首都とする南のビンに進める。
いまビンは内乱の途にある。
それに乗じて領土を広げるに越したことはない。
ビンは滅びその領土は我がものとなる。
李景の思い描く版図にビンの地が消え、自領となる。
そして江南で残るは杭州を首都とする、弱小の『呉越』
ビンを攻め取れば、南西北から呉越の地を攻め滅ぼし華北の朝廷とならぶ勢力になる。
(いける)
今、いままで味わったことのない緊張と興奮が李景の身体をめぐった。
「父上?」
従嘉は父の目に危険なものを感じ、怯えるように不安げに声をかける。
李景はハッとして、穏やかさを取り繕い重くなった息子を抱き上げながらいう。
「父は決めたぞ、ビンをとる」
「?」
「これはいずれお前のためにもなることだ」
李景には似合わない不敵な笑みだった。
同年、十二月、南唐は建州を攻撃する。
2
二十歳の若い青年二人が、金木犀の香りが漂う杭州の街道を歩いていた。
秋も深まり比較的温暖な杭州も時折秋のすずやかな風が吹き抜ける。
ふたりとも庶民の服装をしているが、あふれ出る気品は隠しようがない。
一人は穏やかだが威厳を感じるし、もう一人は稟とした鋭敏さがある。
街の者たちはその青年たちが何者であるかわかっていたが、あえて大げさに拝礼などせず、ひそかに目礼をする。
この国を安寧に導いてくれる青年たち、若き呉越王とその宰相に感謝と敬意をこめて。
「隆道、やっと杭州も落ち着いたな」
呉越王・弘佐は愛しげに街を眺ながめて目を細めた。
五年前。
大火の時、民は絶望と悲嘆にくれていたが、いまは違う。
政策がうまく行き届き、街は整備されて治安は整い、貧しい者でも三食の飯が食せるようになっていた。
たった数年で、生活水準が向上したのだ。
そして外国との貿易が盛んになり、さらに塩田の開発を進め、経済も活発になっていった。
子供たちは元気にはしゃぎ遊び、大人は麗らかな陽気につられ詩余を口ずさんでいる。
「みな、兄上のご尽力です」
弘宗は供手をして微笑むが弘佐は、
「いや…、」
と軽く首をふる。
「私一人では、ここまで成ならなかった。お前や臣下たちの協力があってこそだ。礼を言う」
「あ、兄上、どうかお顔をあげてくださいっ、嬉しくは思いますが、いまはお忍びの最中でしょう? 変におもわれます」
「そうだったな」
弘佐はくすりと、微笑む。
お忍びといっても弘佐は王になってからもひまさえあれば一人(と香霄)で街に出かけているのでお忍びにはあまりなっていない。
街の者も弘佐が時折自分たちを気づかって街に降りるのをしっているからこそ騒ぎ立てたりしない。
「以前はふたりでお忍びをしてとんでもない目にあったからな」
弘佐はしみじみと過去を振り返る。
父の放った刺客に殺されかけて、弘佐は一時行方不明になった。
(まあ、あれはあれで貴重な体験であったが)
弘佐は内心苦笑を漏らすが弘宗は真剣な表情をつくりいう。
「そうですよ、それにまた命を狙われる可能性だって十分にあるのだから、気をつけてくださいね」
「大丈夫。私は、お前や将たちの腕を信用しているから」
弘佐はちらりと、視線を後方にやった。
数歩はなれた位置に護衛二人が弘佐たちの後をついてきている。
武官らしい服ではなく平服なので民たちに混じってしまいがちだがしっかりと弘佐たちを見張っていた。
弘宗がついてくるように命じたのだが、この中で一番の剣技をもっているのは弘佐。
国一番の剣技を持つ将と手合わせしても、引けをとらず、みごとな剣捌きだ。
弘宗はため息をついて、
「わかっているならよろしいですけど、でもどうして今日は私をさそってくれたのです? いつも、私が気づかないうちに風のように消えて、いつのまにか、ふらっと帰ってくるのに」
「うん、ここはお前とともにお忍びして楽園をつくる決意を固めた街道。もう一度ふたりでここにきて自分がおこなったことが間違いではなかったと確かめたかったし、あの大火から立ち直った街を隆道と見たかったのだ……、それと」
弘佐は懐から手紙を取り出し、弘宗に渡す。
「弘純兄上が杭州に来ている」
「弘純兄上が?」
「手紙ではなく直にあって話しがしたいそうだ、重要な話があると……、」
「ビンの情勢でしょうか?」
弘宗はハッと手紙から顔をあげ、訊ねた。
弘純はときおり弘佐宛てに手紙を送る。
それには他国の状況が事細かにかかれていてとてもためになり、最近の手紙にはビンの状況を書いてくる……。
現在ビンは内乱のただ中にあり。
ただの内乱ならまだしも、南唐がビンの建州を攻略した。
近く、ビンの領土は南唐のものとなり、そうなれば呉越は南西北、南唐に囲まれてしまう。
呉越国は中原の朝廷を宗主国と仰ぎ、毎年莫大な贈り物をし、そのかわり南唐を牽制してもらっているのだが……。
「兄上は、どうお考えなのですか?」
「期をみている」
弘佐ははっきりそう答えた。
「国が滅びゆくのをただ黙って見ていることはできない」
(そう、ただ黙っては……)
弘佐はそう思いつつ。
版図、か。
以前は〈この世の楽園〉を実現にさせようと必死だった。
自分や臣たちの手で国を良くしていくこと、それしか考えてなかった。
そのかいがあって、今ようやく軌道にのり国は落ち着いてきて弘佐の望む国に近づいた。
それで十分だとおもっていたのに……南唐と同じようにどこかで天下を夢見ている自分に気づく。
手の届く範囲で国を治めていられでばいいと思っているのに、天下がチラついてしまう。
たとえ弱小の国でも他国の隙を見て乱に乗じ、勢力を伸ばすことができれば、疲弊している中原の王朝と取ってかわる。
そう壮大な構想は思っているそばから途端に冷める。
弘佐は深いため息を吐いた。
(人間の欲望とは、いやなものだな)
「香霄といられることの方が大切なのに……」
「兄上……、香霄とは誰です?」
弘佐はハッと、口を押さえる。
「あ、いやなんでもない」
いけない、おもわず口をついてしまった。
想いや、悩んでいることが思わず口をついて本音がもれてしまうことがある。
心だけに留まれない想いが。
今、香霄がいなくて良かったと思う。
彼女は今、『眠っている』のだから。
この時期、香霄はどうしようもない眠りにおそわれ耐えられないと言う。
たしかに弘佐が王についてからしばらく彼女は姿を現すことはなかったが…。
毎年、大火がおこった時期に眠りしばらく姿を現さない。
(なにか関係があるのだろうか?)
でも香霄が眠っている間は、彼女への気持ちを押さえなくてすむから、少し楽だった。
でも会えないときの方が心細いし、不安がぬぐえない。
(香霄……)
今度は声に出さないようその名を強く呼んだ。
3
弘純たちと再開即位式以来、五年ぶりだ。
だから以前とかわらない弘純をみて弘佐は嬉しくなった。
待ち合わせ場所は杭州の港。
港には弘純の入港を特別許可しているので、問題なく入れるようになっていた。
弘純の数歩下がった背後に晁衡の姿もある。
弘純は一応服装をあらため紺を基調とした商人らしい服をきているが、晁衡は相変わらず白い狩衣に身をつつんで、異国の香りを漂わせている。
「兄上、晁衡どの、お久しぶりです!」
供手をする弘佐の背をかるくたたいて弘純は破顔した。
「見違えたぞ。前はまだ子供子供していたのに成長したな」
「もう子供ではありません五年も経つのですから」
「もう五年か。ああ、この国をみたぞ、弘佐。お前が望んだ国が出来つつあるな。
他国をみて歩いたが、民が普通の暮らしをしているのは今のところ呉越だけだ。おっと……、一国の王になれなれしいか?」
「いいえ、かわらずに接してくれる兄上がそのままで嬉しいです」
「でも後ろの丞相はふてくされてるぞ?」
「ふ、ふてくされてません、こ、子供じゃあるまいし」
ただ、兄の信頼が弘純ばかりに寄せられるのがちょっと悔しいだけで。
つまりヤキモチだ。
「ここで話はなんだから、船で土産話でもしないか?」
晁衡がそう勧める。
「おう、そうだな。いろいろ話さなければならないことがあるし」
「また、船で日本国まで連れて行こうと…、しないでしょうね?」
「まさか。だが見せたい国はおおくあるがな」
苦笑して弘純はいい、船室に案内する。
船室の中には珍しいものがたくさんあった。
とくに、水晶でつくられた灯籠がとても明るく真昼のように船室を照らす。
「これは?」
「ああ、南唐の宮中にある灯籠だそうだ、あるお偉い方からもらい受けた。あと茶は楚の銘茶だ、なかなか手にはいらないものだ」
得意げにいいながら透明感があり芳ばしい香りをたてる品茗杯を人数分わたす。
その品茗杯は越州の青磁。
蓮を連想した柄の上質で優美な一品だ。
弘佐は茶杯を両手で包み一口飲んでため息混じりの感歎をもらし呟く。
「おいしい……」
「だろう?」
「なんだか、兄上がうらやましいなぁ。あのとき海賊になっていればよかった」
「あ、兄上!」
弘佐の言葉に弘宗があわてて振り返る。
「ははは、今からでも遅くはないぞ? 王位を弘宗に譲って俺たちの仲間になるか?」
「冗談です。憧れはしますが」
弘佐はくすくすわらって、安堵をうかべる弟と、少し面白くない顔をして襟首をかく兄をみくらべる。
そしてしばらく弘純と晁衡の土産話で花を咲かせた。
ふたりの旅も多くの葛藤があったらしい。
弘純は海賊だが、資金を稼ぐために貿易商人として各地をまわっては情報を集めては弘佐に報せてくれていたが、その間、日本に一度帰り、他の海賊と一戦交えたり、嵐に遭い船が沈んだり…波瀾万丈な日々をおくったらしい。
その度に弘純と晁衡はケンカをしながらも、絆を強くしていった。
その証拠に昔感じたよそよそしさがふたりの間から拭われている。
「ところでだ、弘佐」
弘純は地図を卓の上に広げて弘佐を呼ぶ。
「軍を動かす気があるのか? ……ビンに」
「ええ、あります。兵をださなければ南唐勢力をひろげる事を許すこととなり、いずれ呉越は飲み込まれてしまう。それに朝廷から頂いた元帥の職をはたせません」
ことり、と音をたてて品茗杯をおき、口元を綻ばせる。
そして広げられた地図を見るその顔は、兵馬を統括する兵馬都元帥の表情にかわった。
鋭利で剛毅な光が瞳にあがるのを知って弘純は弟の将器にゾクリと肩が震えた。
この五年で弘佐は外見だけではなく、心根もどこか変わった気がした。
いや、成長したといったほうがいい。
(安穏に楽園を目指すだけではいけないということを知ったのだろうか?)
弘佐は意志が強く決めたらどんなことでもやり遂げる。
――もしかしたら弘佐は天下に覇を唱えることが出来るかもしれない。
弘佐が望めば、だが……。
★ ☆ ★
ビン、という国は王審知が建国した。
国土は山岳部が多いが、しかし首都の福州は海に面し海上貿易の要。
審知は兄に従って兵を率いてビンにはいり福州などを占領し、唐朝は彼の兄を福建監察史に任じ、そしてその兄の死後、王審知があとを継いだ。
王審知の先祖は代々農民で、彼は民の事情に通じていたので、生活は質素倹約主義に徹し、国政については、租税や労働を軽減して、福建地域の経済文化の発展を促進した。
審知は民にとって良い為政者(王)だった。
しかし、彼の死後、彼の子供たちによって国の平和は崩れはじめる。
ビンは呉越と同じく中原の王朝を宗主国と仰いていたが、長興四年(九三三年)王延鈞が福州で皇帝と称し、国号をビンとした。
その後、骨肉の争いがはじまったのだ。
審知の子、延翰は弟・延鈞に殺害され、その延鈞も息子の継鵬に背かれ殺された。
以後君臣が乱れて内乱になり、その隙をついて南唐が建州を攻撃したのである。
★ ☆ ★
「ビンといっても滅んでいるに等しい。福州節度使に命じられた、李仁達が李景に背いて、呉越に助けをもとめていると訊いたが本当か?」
「ええ、よい大義名分ができました」
静かに告げる弘佐の目はここにある地図をみていない、脳裏に浮かぶ版図を凝視している。
弘純は弘佐の真剣な表情をみつつ、地図の上に人差し指をおいて行軍ルートを仮想してなぞる。
陸路と水路。
「ただ兵力が問題だな、南唐が呉越の三倍ちかくある」
「『呉越は南唐には勝てない』と、臣たちは口々にいう。先王のとき大敗した以来それがいまだ尾を引いているのです」
なさけない、と吐き捨てるように弘宗はいうが、
「……大事ない、いまだビンの〈邪気〉ははれていないから……」
晁衡が意味ありげにいった。
「邪気、とは?」
「言葉の通りだ。聞くところによると、ビンの先帝は呪術に凝っていたらしい。
巫者(黒魔道師)や道士をあつめてはその言を信用していたそうだ。誰かをあやめる呪術もおこなっていたかもしれないな。
力がないのに呪術を扱えば大きな代償がふりかかる、今、民も兵も巻き込んで血の代償をあがなわれているのだろう」
「代償、ですか……っゴホゴホッ」
突然、咳がこみあげ、弘佐はがたんと崩れ床に手をついた。
「大丈夫か、弘佐?」
弘純が慌てて弟の背をなぜ、弘佐は無理に微笑んだ。
「ええ、もう大丈夫です。……少し外に出てきていいですか?」
「あ、ああ」
弘佐は立ち上がって甲板に向かう。
そして甲板に出るとさざ波の音が強く耳に入り、外との明るさの違いにおどろく。
話し込んでいたせいでいつの間にか陽はくれ、夕闇に沈み、松明が掲げられる時刻になっていた。
(早く帰らないといけない)
そう思いながら、また咳が繰り返しむせる。しかし今度は咳が止まらず、苦しくて息ができない。
とめようとすると酷い頭痛に襲われさらに苦しく気が遠のく。
刹那、強く背をたたくような衝撃のあと、嘔吐した。
松明に照らされてそれが明らかになった。
手を濡らしたのは――血。
弘佐は震える手をきつく握った。
(病か……)
いい知れない恐怖が襲ったが、誰かが来るのをしってあわてて口を強く拭い手巾を海におとす。
「弘佐どの、大丈夫か?」
晁衡が静かに聞いてくる。
弘佐は恐怖を笑みで押し隠し、
「……いえ、平気です、なんでも」
「嘘をつくな」
いうや、晁衡は弘佐の手をつかまれ、かがり火に照らされてあらわになる。
血に汚された手が。
「病におかされているのか、呉越王」
「……」
晁衡は大きなため息をついて、おもむろに手巾で弘佐の手を丁寧に拭う。
「晁衡どの?」
「誰にもいわない。皆に知られると困るのだろう? これから軍を動かそうとする元帥としては。だが話をきかせてもらうぞ」
4
晁衡からもらった薬のお陰でだいぶ落ち着いた。
その薬は晁衡の母がくれたものだという。
晁衡の父が病におかされ、吐血したのをみて幼かった晁衡は慌てて母が住む森へと駆け込んだ。
……すると母は薬草を渡してくれたそうだ。
そして薬をつくって父に飲ませるとたちまち病がやわらいだ。
「これは少量で良く効く。この間一度、日本に戻って薬を造ったのだ」
そういい、薬を弘佐に分けた。
「助かります」
「……弘佐どの、香霄に願ったことは?」
鋭い視線で晁衡に訊ねられて弘佐は首を振る。
「――いいえ、一度も。でも香霄は言いました。国のためになることならば、いくらでも願いをかなえると――私は社禝だから、と」
「国のためになることか……」
晁衡は孟子の一節を思い出す。
(曰く、社禝を重きとなす……、か)
社禝は土地神のことを指すが、国家を指すこともおおい。
〈社〉が民が安んずるところ、〈禝〉は民を養うという意味。
香霄はつまり民を守る神といったところで、弘佐、つまり呉越王は〈社禝の廟〉というところなのだろうか?
となれば為政者とともに社禝があるのことだろう。
少し中華思想とは離れるところだろうか、この考えは……?
晁衡は内心おもい苦笑した。
まあ、神の序列は人間が想像して広めたもので本来は序列などないのかもしれない。
神は神――人は人だ。
「民の、個人的な幸せは民自信が見つけるものです」
弘佐は紺の空に輝きを増してきた月と、よりそう小さな星をみつめながらつづける。
「私が王として成すことは、民の生活の保証。生活が立ちゆけるように、政をしなく
てはいけない。
実は、あるとき香霄に訊かれたのす。
『民の助けになりたかった』と答えたら笑われました。
当然私はムッとしましたが、彼女は諭すようにいってくれたのです。
個人を助けるより大勢の幸せを守りなさい、と。
すべて為政者の手によって民の生活がにぎられている。そして生かすも殺すも王しだい。でも民は王自身のものじゃない、王が民自身のもの」
晁衡はフッと唇の端をつり上げた。
「社禝が諭すか。おもしろい」
「そう、ですか?」
「で、その香霄は今いったいどうしている? 気配すらない」
「眠っています」
「眠っている?」
晁衡は首を傾げて問う。
「この時期になると、とても眠くなるのだそうです。——以前もそうだったでしょう?
風を呼んだ後、香霄はそのまま秋が終わるまで姿を見せることはなかった。毎年そうなのです」
「寂しい、か? 弘佐どのは」
「えっ!」
突然、的ハズレな、でも的を射ている質問に弘佐はドキリとして頬を赤くする。
「ははは、先ほどは何事にも動じない将器をみたが、まだからかいがいがある」
「晁衡どのっ!」
晁衡は笑って、しかし冷めた、真剣な表情で弘佐をみつめた。
「弘佐どの、私は、いまでもあなたを日本につれて帰りたい」
弘佐はその言葉に怪訝に眉をひそめた。
「晁衡どの……、なぜです? あなたは以前も私を日本に連れて行くといったが、何か理由があるのですか?」
「私には人の生き死にがわかる。
日本で、私は陰陽師として貴族に請われて未来を見て予言してきた。
しかし、貴族の場合は己の闇に怯え死ぬものが多い。
それにたいして大陸の者のほとんどは乱世にのまれ、餓鬼や戦で死んでいく。
でもこの国の民は為政者のために死ぬことはない、ほとんどのものが寿命で死ぬのだ。——ただ一人を除いては」
弘佐は晁衡の言葉の意味がわかって、悪寒がはしったが、同時にあきらめたし、すこし安堵した。
〈楽園〉は造られていくのかもしれない。
(私の命一つで)
「いつ、私が死ぬのか、晁衡どのにはみえているのですね? では私はその間にやらなくてはいけないことをやらなければ…」
「だがこの国を離れればあなたは生きることができるかもしれない」
「その代わり民が他国と同じ末路をたどるのは許せない」
強く言い切る。
「——死ぬのは怖い、とても。でも私一人の命で民の命数が長らえるならそれでいい」
けれどしだい弘佐の表情がゆがみ、恐怖や悲しみが混じり、本音を漏もらした。
「こんな風に言い切れますが、実は怖い……。自分が死ぬというのが、私が一生懸命
築いたものが消え去ってしまうことが、悔しくも、惜しくも……」
(いつ、私は死ぬのか?)
最近胸がとても苦しくなるときがあったが血を吐いたのはこれが初めてだった。
これでも十二分に動揺している。死にたくないと思う、けれどそれと夢を天秤にかければ、〈命を諦める選択〉をする自分がいる。
それに。
私はもう長くはないのかもしれない……助からない。
身体が震え、涙が頬をつたう。
「怖い……」
晁衡は切なく息を吐く弘佐を抱きしめた。
「いまは、泣いてもいい。弘純どのやみんなには見られたくはないだろう?」
弘佐は声を殺して、どうしようもない運命を静かに受け入れようとした。
★
「弘佐、これを」
別れ際、弘純は弘佐に錦に巻かれた一振りの刀を手渡した。
赤鞘、金の鍔に白い柄、見事な異国の刀。
弘佐は柄を握って鞘から抜刀すると鋭く、優美な刀身が現れる。
「日本刀だ。妖魔を祓うといわれている。八幡神宮の、といってもわからないか。
……まあ南唐と戦うならこれを念のため腰におびていろ」
「ありがとうございます、兄上」
「俺はもうすこし福州の様子をうかがってくる。それまで臣たちを納得させろよ」
「大丈夫ですよ、元佑兄上は強引で押しが強い」
弘宗は苦笑して言う。
まだ年若い自分たちに不満をもっている臣たちがいるが、強い意志で弘佐は臣下たちの反対意見を退けて兵を挙げるとみている。
兄には不思議と人を惹きつけ従わせる力をもっているのだから。
「もし軍を動かすときはこの弘環、船艦を率いて加勢すると約束しよう」
弘純は弘佐に前に膝をつき臣下の礼をとった。
5
深い闇にうかぶ、下弦の月。
薄雲が波となし、白銀に輝く船を運んでいるようだ。
深夜、弘佐は中庭におり季節に関係なく咲き誇る金木犀をみつめて切なく呼びかけた。
「香霄……君の姿がみたい」
ふと父を思い出した。
いまの自分と同じように香霄を呼んでいた父を。
(あの時、父も同じ気持ちで香霄を呼んだのろうか)
そして彼女は父のもとに舞い降りてきたのだろうか、金木犀の香をのせて。
父も、祖父も香霄のことが好きだったのだろうか、
愛していたのだろうか?
香霄は彼らに対してどのような気持ちを懐いていたのだろう。
王は香霄に魅了される呪いをかけられているのかもしれない。
実際そうだとしても……。
(それでもいい)
彼女が側にいるなら。
いてくれるなら。
でも、その時間が自分には長く残されていない。
身体が朽ち始めている。
晁衡からもらった薬が効いているのか、血を吐くことはないが、ひどいめまいに襲われるときがある。
もし、薬の効能が切れたらどうなる?
その時は死ぬときなのだろうか?
恐怖と一つの思いが弘佐の身体を震えさせた。
死んだらもう彼女には逢えない。
「香霄――!」
弘佐は心の底から香霄を呼んだ。
逢いたい。
ただ傍にいて欲しい。
私の中にある死にたいする戸惑いや恐怖を消し去って欲しい、一時でもいい香霄、君が欲しい――香霄!
そのとき。
濃い香りとともに風が吹きわたり、ざわざわと木々が揺れ、月のやさしい白い光をまとって姿を現した香霄は社禝と言うより――女神。
風に弄ばれ空に舞い散る金糸の髪。
碧の瞳が宝玉のように輝き、弘佐を見つめ、彼女はやさしく微笑みかける。
「弘佐どうしたの?」
「香霄……」
弘佐は手を伸ばし、つよく香霄を抱きしめた。
香霄は、優しく包むように弘佐の頭を抱きしめ、弘佐は甘えるように香霄の胸に顔を埋め、そしてさらに強く抱きしめる。
紗のようにかるくて、重みのない香霄の身体。
強く抱きしめれば霧散してしまうかもしれない。
でも抱きしめずにはいられなかった。
いつも風のように弘佐を包んではどこかへ消えてしまう彼女を逃したくはなかったから。
「私が眠っている間になにか、あったの? 辛いことが、悲しいことがあったの?」
香霄は優しく問いかける。
でも弘佐は答えない、ただただ強く香霄を抱きしめる。
「弘佐、」
「香霄が欲しい。とても……」
「今日の弘佐は変だわ……神と人の壁は、」
「今、超えてみせる。君がとても欲しい」
強くいい、これ以上、言葉を継がせないよう香霄の唇をふさぐ。
甘く、切ないものが香霄と弘佐に満ちる。
おかしいのは弘佐だけじゃない。
(私も、おかしい)
弘佐がいなくなってしまう恐怖がある。
どうして……。
遠い昔、手のひらから零れていってしまった恐怖がざらりと、した感触で戻ってきたような。
それが痛くて切なくて——。
香霄は涙がつたうのをとめられなかった。
★ ☆ ★
弘宗は弘佐を探していた。
弘佐の執務室にて、気になるものをみつけ、訊きたいことがあったからだ。
それはうす紙に包まれた薬。
(もしかして兄上は……)
異様な焦りが弘宗の全身を巡った。
少々体調が優れないときがあるといっていたけれど、それはただの風邪ではないのでは?
寝室に訪れたが、弘佐がいなかった。
さらに心配して探した。
しかし人を呼ばなくともすぐに弘佐の姿を見つけることができた。
弘佐は院庭にいた。
上に袍を羽織らず薄着なのにはいらだちを覚えたが、とりあえず、声をかけようとした刹那、暖かい風が縁を巡った。
弘佐の前に女神が舞い降りたのを知って弘宗は目をみはる。
とても美しい女だった。
美しく、惹かれずにはいられない。
まるで蟐蛾(月の女神)が月から舞い降りたような……。
透けるように白い肌、碧眼、金の髪、十六歳くらいだろうか?
「あれが兄上が言っていた女神なのか?」
美しいが、危険だ。
弘宗にはなぜか彼女が『禍々しいもの』にみえた。
だが、愛を語らうふたりの邪魔は出来なかった。
6
軍議は紛糾した。
「出兵するだけ無駄です。第一、ビンを救援なさる義理がどこにある」
「あちらはビンの兵も内に抱き込んだ、無惨に敗北するのは目に見えている」
「王はみすみすこの国を南唐に明け渡すおつもりか!」
古参の将軍たちは南唐がまだ『呉』だったときの大敗の恐怖におびえ、兵を挙あげることは能わず! とさけび、文官たちも弘佐にむやみに兵をだすものではないと諫めはじめたからだ。
若輩で、戦を知らぬ王という思いもあるだろう。
だか弘宗を筆頭とする若い者が勝てると主張する。
敗戦に怯えて、降伏の途しか、考えない愚か者、と。
紛糾を極めたとき、呉越王は机を強くたたき、臣下たちの言を絶つ。
そして一同を見渡し通る強い声で憤然と言い放った。
「吾は兵馬都元帥である。なのになぜビンに兵を挙げることが許されない?
諸将はこの国で養蓄し、吾ひとり、身をもって先んずることができようか、いや、
できまい——吾に異議ある者は斬る!」
いうや、皇帝から賜った剣を抜きはなち、卓をまっぷたつに斬り捨てる。
諸将はその弘佐の迫力にのまれ、否といい続けることができなかった。




