断章・月のこぼれ落ちる泪
断章です。周瑜の娘のあの人も登場します。
――手のひらから滑りおちた過去が夢となって戻ってくる。
とても切なくて、切なくて――。
そして大切な記憶。
1
白い花が咲き誇ほこる草原――空には大きな満月。
甘い香りと夜気が幻想へと導くその風贅、ざわざわ、ざわざわと草木が子守歌を奏でる。
――その白い花は茉莉花という。
遠い先祖が、大陸の東の最果までに持ち込んだ花。
「月の女神が、私たちを見守ってくださる」
母が優しく、ふっくらとした手で香霄の額を撫なでて昔話を語ってくれる。
――遠い昔、月の女神だったご先祖さまは戦を嫌い東の国へ旅立ちました――。
幾多の困難を乗り越えてこの地に、小さな邑を築きづいた女神はその後、月の宮殿へと帰っていきました。
その裔が私たち花月の一族。
東の大陸には珍しい、白い肌と金の髪を有す。瞳は青い空を映したような色。
住処とするは、琥珀の小石が敷きしめる小川沿い――泉をたたえる森深く。
一種、界外と離れた場所に暮らし、自然と共存することを旨としている。
外界、邑の外にでることは禁忌――中華(大陸)は乱世のただ中にあるからだ。
いくつもの国が血で血を洗う戦をしている。
戦で死んでいった者の血の臭いは、花月族にとって毒だった。
領有土地からでればその邪気に病にかかってしまう。
「……いまも、外は戦?」
香霄は母にそうたずねた。
その声は、戦は怖いもの、あってはならぬもの、と長老に教えられたからだ。
戦による悲しい話もたくさんきいて、そのことを思うと心が張り裂さる痛みが襲う。
早くに夫を亡くした母は、まだ若く邑でも指折りの美女。
長身で、背に波打つ髪はなぜが金色ではなく、銀。
輝く月光の色を髪に閉じこめた香霄とは違い、母は冴え冴えとした色を髪に閉じこめていた。
「そうね、まだ…戦は続くでしょう」
「悲しいことが…たくさん?」
「ええ、それでも戦はやまないわ。戦を嫌い、国を平和にしたいと思う、本当に強い意志をもつものが現れば平和になるとおもうのだけど……」
香霄は小首をかしげた。
「なんで、そう思わないんだろう? 平和がいちばんだって」
母は複雑にわらった。
悲しみや恨み、憎しみが戦の渦となり消えることはないということを理解するには早すぎる。
「おやすみなさい、香霄」
母は香霄を腕の中に抱きしめる。
その腕の中にいれば怖いこともなく、安らぎにつつまれて眠ることができる。
香霄は安堵のうちに寝息を立て始めた。
★ ☆ ★
翌日も、香霄は元気に邑を駆けまわる。
同い年ぐらいの子供達と遊び、また年下の子供の面倒もよく見るお姉さんとして。
そんな少女を村の人々は微笑しく見守る。
「今日も元気だねえ、香霄は」
「そうさな、あの子が元気に駆かけ回まわっているだけで、私たちも元気になる。あと数年すれば美女になるかもしれないなぁ。その時はうちの嫁にきてほしい」
うんうん、と頷く夫に妻が怪訝に眉を顰めて首を横に振る。
「なにいってるんだね、あの子は巫女になる運命だと忘れたのかい?」
「そうだった、」
ハッと、口を押さえる夫に対し、妻は大きなため息をつき、憂いを帯びた瞳で香霄を見やる。
「長老も酷なことをおっしゃる、香霄が女神の申し子なんて……」
『いずれ、この子は神となるだろう、』
香霄の母親である月遥が、生まれた娘を長老にみせたとき、そう告げられたそうだ。
十六歳になったら邑の巫女にさせると。
巫女になれば、結婚はおろか恋愛もできない。生涯を、邑の平和のために祈り続けなくてはならないのだ。
しかし、少女は自分が巫女になるとまだ知らない。いや、だれも香霄に教えてはいなかった。
「香霄は、受け入れるだろうか……」
子供たちと香霄の声が邑にこだまする、それは大人たちにとってどこか切なくさせた。
再び時は流れて、運命が動き出す。
2
「楠葉、どうしたの?」
突然、足下でじゃれていた銀狐が何かに反応してダッ…、と琥珀の泉を抜け外界へ繋がる道を駆けていくのに香霄は驚いた。
「――ッ、どこへ行くのよ、もう!」
すぐに楠葉を追う。
香霄は十五歳になっていた。
娘としての顔はまだ色濃くはないが溌剌な美女として育っていた。
邑の子供たちの中で一番、背が小さかったが、それも野を駆ける白い足は羚羊のようにしなやで細い。
風に弄ばれる金の髪は金糸の波のように流れる。
やっと楠葉に追いつくと、香霄はハッと目を瞠った。
楠葉が心配そうにのぞき込んでいるのはなんなんだろう?
おそるおそる近づいてみるとそれは『人』だった。
けれど香霄は、自分たち一族以外の人種をみたことがない。
黒髪に、日に焼けて褐色の肌。
「――人!」
香霄はおどろいて声をあげたが、それ以前に彼が瀕死の状態だと気づいてさらに慌てた。
ぼろぼろの黒い衣服はべっとりと血に濡れていて、肩に矢が刺さっている。
楠葉がぺろぺろと、頬をなめているけれど反応がない――いや、ぴくり、と指がこわばったのをしって香霄は楠葉に命じた。
「この人を手当てするから運ぶの手伝って!」
「わかった、」
狐が一言、人間の言葉で応じると、軽い爆音とともに煙に包まれ、煙りが晴るとともに、人の姿になり、軽々と青年を担いだ。
「……ねぇ、楠葉、どうしてこの人が倒れているってわかったの?」
急いで運びながら香霄は長身の男性に変化した楠葉に問いかけた。
今は彼だが、この銀狐は雌。
楠葉は不思議な力を宿した狐だった。
風が冷たく吹いていた日、香霄は冴え冴えとした月をぼんやり見つめていた。
そのとき突然、狐がこぼれ落ちる月光を身に纏いながら現れて、
「女神から、あなたにお仕えせよ、と命じられました」
といった。
この邑の人間は直感で動物たちの言葉は解っていたけれど、まさか人の言葉で話す動物が現れるとはおもってもみなかった。
いや、楠葉はただの狐じゃない。
天からの使者だ。女神がよこした者を無碍にはできないし、香霄は寂しかった。
香霄は銀狐に〈楠葉〉という名を与えて常に一緒にいることを命じた――友達兼従者として。
銀狐――楠葉は承諾した。
それは二年前、香霄の母・月遥が他界した数日後の出逢いだった。
「死にたくない、という声が聞こえたんだ」
「え?」
「生きて、帰りたいと……このもの思いが強かった」
香霄は楠葉の腕に抱えられている青年を見つめて眉をよせた。
「帰りたいって? 好きで戦をしていたんじゃないの?」
「だれも好きで戦をしているわけじゃないよ、香霄。命じられて仕方なく戦をしなくてはいけないんだ」
「なんで、そんな命令をきくのよ」
「きかなきゃ、殺されるからだろう?」
楠葉の答えはいつも明快だ。
「死にたくないから戦で生き残るしかないんだ。人を殺したくなくとも」
香霄と楠葉は、琥珀の泉の前に彼を寝かせ傷を消毒してやりよく効く薬草をつぶして傷口に塗っていく。
「――っ!」
「みるだけでも痛そうな傷だなあ」
香霄は傷を見るたびに吐き気に襲われたが、とにかく彼を助けるため、我慢して薬を塗っていく。
(本当に、これで助かるのだろうか?)
でも、香霄が塗ったところの傷がス…、と塞がっていく。
「助かるかな?」
「それは香霄のお心しだい」
「?」
楠葉はくすり、とわらう。
「にしても、この者は顔つきがよい」
「う、うん」
香霄はあらためて青年の顔をみた。
まだ少年といったほうがいいのかも。
体格もよく、背もあるし、十八ぐらいの青年かとおもったけれど、実際年齢は香霄と同い年ぐらいなのでは?
綺麗に拭った顔は、まだ少年らしさを十分のこし、そして異常に眉目秀麗だった。
長い睫に、形の良い唇、そしてしなやかに鍛えられた躰。
楠葉も少年をマジマジとみつめて意味ありげに唇の端をつりあげた。
「いいものをひろったな、お前の婿にいいかもしれない、邑の貧弱男たちは私的に気に入らなかった」
「冗談はやめてよ」
「それより、コレをこれからどうするか、だ」
「うーん、長老に話すとか?」
「即座に追い出される方にかける」
「じゃあ、私の家におくとか?」
「歩けるようになったら、厄介だろう?」
「楠葉がみはってるとかじゃだめ?」
「無理ではないが……」
いいごもる、楠葉。
良案が見つからなくて悩んでいる二人に、
「なにをしている?」
突然、鋭い声が落ちてきた。
ハッとふりかえると、大きな岩からおかしそうにこちらをみている香薔がいた。
香霄の従姉にあたる彼女はいつも神出鬼没で、毎度二人をおどろかせる。
『香』る『薔』薇……『香薔』という名にふさわしく、気高さを秘めた、切れ長で理知的な瞳。
筋の通った鼻筋に、紅をささずとも赤い唇をもつ彼女。
香霄と似た面差しだが、香霄にはない艶めくものを秘めていた。
けれどさすがは従姉、厳正な女神のような容顔に似合わず活発的で面白いことには進んで加わってくる。
「姉さんっ、おどかさないでよ!」
「すまぬ。しかしヘンなものを拾ったな?」
彼女も座り込んで少年をのぞき込む。
「だって、楠葉が……」
「私はべつに、あのままほっといて見殺しにしてもよかったんだが?」
「見殺しにできるわけないでしょ!」
「だから私のせいにされてもこまる」
「う~!」
頭を抱える香霄に香薔は微笑する。
「私は香霄の意見に賛成だな。長老に包み隠さず話してみたらいい。あのしわくちゃな顔には似合わずあの人は解ってくださるとおもう」
「ほんと!」
「ああ、これはここだけの話だが、あの長老も若い頃、界外の人間をかくまったことがあるとか」
「あの人が」
ぽん、と脳裏に浮かんだのは頬を染める老婆の顔。
(とても似合わない)
とりあえず、この少年を助けるためならなんでも実行あるのみよ!
「ありがとう、姉さん」
★ ☆ ★
さっそく長老のもとに向かい事情を話すと、
「――……忘却薬をのませるのがいいだろう」
長老は嗄れた声音でそういい、香霄に薬草を手渡した。
黒く濁って毒のようだと香霄はそれをみて怪訝におもったけれど、それ以前に、界外の人間をこの邑に連れ込んでしまったことを叱られなかったのが香霄にとってすごく不思議だった。
長老は邑の奥にある、大樹の根本に広がる、うつほにすんでいた。
薄暗いところだが、中に小川が流れて澄んだ音が絶え間なくこだまする。
「――どうして、私を叱らないんです?」
「叱る? なぜじゃ?」
「だって、界外の者がこの邑にはいって」
「香霄が連れ込んだわけじゃなかろうに。その者が、勝手に迷い込んだだけだろう?」
「そうだけど……」
老婆か杖をついて呵々とわらい、不満げな香霄をみやる。
「外部の人間がそう簡単にこの邑には入れない。だが入ってきた以上はなんだかの運命だと受けとめなければな」
「運命ねえ……」
(寛大というかなんというか)
複雑なため息を吐く香霄に長老は樫の杖を目の前に向ける。
「香霄、そなたも運命の輪にあることをわすれるでないぞ、」
「? ……はい、」
長老の言葉の意味するところが解らないまま一応頷いて、香霄はその薬をもって自分の家へと帰っていった。
その薬の効力は抜群だったのか、薬湯と混ぜて少年に呑ませて数日後、目覚めた彼は記憶をすべて失っていた。
自分の名前も、出生もすべて。
ただ、心に残っているのは消化しきれない不安だった。
3
「黄希、」
香霄によばれて黄希は振り返る。
「ハイ、なんでしょう?」
食器をかたづけていた黄希はにこにこと笑い返事をする。
「~~もう、なんで敬語つかうのよっ、前みたいに普通にしゃべりなさいよっ」
黄希は香霄が投げた木簡を巧みに避けて首を横に振る。
「以前の僕を反省して敬語を使うようにしているので、気にしないでください」
「気にしないでって、まだ横柄な口の利き方のほうが気持ちよかったわ」
複雑なため息を吐く。
香霄は拾った少年に黄希、という名を与えた。
『黄色い肌』をして、この邑に迷い込んだ『希な人』
そういう意味をこめて。
因みに姓は『黒』、髪が漆黒だから。
最初目覚めた彼の口調くはどこか横柄で。
「お前はだれだ? どうして予はこんなところにいる?」
開口一番それ。
命じることになれている、と言う感じだったのに、最近。
香霄が巫女となったとたんに口調と態度がガラリ、と変わってしまった。
昔は香霄の後をついてまわる、自分よりちょっと年上(?)な弟だと思っていたのに、最近では邑になれ、また邑人にも可愛がられ(力仕事をさせられ)て、顔も美形だから娘たちに人気だったりする。
それが、腹立たしいけど。
一昨年、香霄は巫女の『宣下』をうけ、拒否するまもなく邑人たちに巫女に奉られてしまった。
黄希を始め、邑の人たちも態度を変えてしまい居場所を見失い、仕方なく香霄は巫女になった。
巫女の仕事は、ただ平和を祈ること。
香霄自身、何時も村が平和であるようにと祈らない日はない。
(戦は辛いもの)
それは黄希が負った傷の深さを見ればさらにその想いは強くなる。
だれも傷つかない平和が一番だ。
(でも)
「黄希は私のことをどう思ってる? やっぱり巫女として見ているの?」
「はい。巫女はこの邑に必要な方ですから」
即答すると香霄の青い瞳に寂しさが満ちるのを知って黄希はハッとするが、仕方がない。
「私は、楠葉や姉さんと同じ答えを期待してたのに、どうして解わかっててそういうのかしら?」
「香霄自身と見て欲しい、ということですか?」
香霄はこくん、と頷く。
黄希は口を開き閉じしたが、思い直すように頭をふる。
「僕には、香霄を巫女としてみることしか許されておりません」
「黄希……」
香霄は黄希の頬に触れようと手を伸ばすけれどゆるりと拳を作りやめた。
この手は人の願いを聞き取れる力があることを知ってしまったから。
香霄は黄希の願いを聞くのを怖かった。
4
満月の夜。
香霄が歌えば花が咲き、暖かな風がわたり、草木が歌う。
平和を語る縷々とした歌声は邑に響き、舞えば、昊に風が生まれ、歌声は呪文となって夜空に吸い込まれる。
いつもは、香霄一人で舞い踊るが、ときに香薔が舞に参加することがある。
白い衣を纏う香霄に対して、香薔は赤い衣を翻し、彼女が舞えば風に香が乗る。
あまく軽やかな眠りへと誘うような。
二人の衣は薄く、月明かりに照らされて躰が影になって見える。
女性のしなやかさな身体が強調される服装。
いつみても、美しい……。
黄希は敬愛をこめて二人の舞を見つめた。
黄希は護衛として巫女の傍にいることを許された。
この〈豊穣の舞〉は許されたもの以外、決して見てはいけないきまりだから、彼女の護衛として、近くで舞を見ることができて黄希は幸せだった。
触れられないけど、ずっと傍にいられるのだから。
「ほれてるようだなぁ」
「えっ」
くすくすと、足下でうずくまる銀狐が面白そうに黄希をみめていう。
「香霄が好きなんだろう?」
「好きだ……悪いか?」
「ふふふ、最近素直になって嬉しい事よ、だがけっして触れてはいけないぞ、もう彼女は巫女……いや社禝なのだから」
「え?」
銀狐の金色の瞳は、舞い踊る娘二人を追っている。
「あの二人は自分が人間だと思いこんでいるようだが、すでに社禝としての力を得ている」
社禝とは国家、同時に土地神のことをさす。
〈社〉が民が安んずるところ、〈禝〉は民を養うという意味。
銀狐は目を細めて舞い続ける二人を見つめながら言葉を紡ぐ。
「まあ、その力が発揮されるのは一度魄(身体)が滅びてからのことだが……その時はすでに社禝としての自覚が芽生めばえているだろう」
魄が滅びる、
それは『死』を意味していることをしって黄希はキッ、と楠葉を睨んだ。
「そんなことは僕がさせない!」
「お前はそのための、護衛だろう」
「……」
その通りなので黄希はなにも言えなくなる。それを見て狐は面白そうに目をさらに細めた。
この狐は時折、人を試すきらいがある。
ため息をついて白い花が咲く、地面に座り直す。それと同時にまた銀狐が語る。
「花月族の社禝は〈主〉を〈廟〉として傍にあり続ける。その主が善政を行えば国は栄えるし、悪政を行えばその命を奪うというが、本来は代償なのだ、無償で願いが叶うとおもっている愚か者が多いが」
「?」
「黄希、そなたはその命と代償に香霄になにを願う?」
「なにを、いってるんだ?」
どくん、と心蔵が痛く高鳴る。
その話をどこかできいたとがあるような気がしたからだ。
(一体、どこで?)
「なにを話してるの?」
豊穣の舞が終わって二人が黄希たちのもとに近づいてくる。
「なんでもありません」
黄希は汗を拭う大巾を二人に手渡し首をふるが、
「黄希の恋人のことをはなしていたんだ」
「楠葉!」
(誰がそんな話をしていた!)
しかし、香霄は真に受けて、黄希の胸の衣を掴つかんで揺さぶりにかかる。
「やだ! 黄希、そんな人がいたの? なんでもっと早く教えてくれなかったのよ!」
「あ、いやその、」
黄希はキッ、と楠葉を睨むが、狐がフサフサのしっぽをふって決して視線を合わせない。
「うん、もう! 黄希って恥ずかしがり屋なのね? まあ、今度紹介してね」
香霄はそういうが、香薔の方はくすくすと笑っていた。
★ ☆ ★
花月の一族を探し出せ、
これは命だ、お前に与える最初の……。
命令だ!
「わあぁっ!」
黄希は悲鳴ひめいをあげて目覚めた。
「夢……?」
けれどいまだ低い声が、耳に強くこだましている。
額にのった汗を手の甲でぬぐうと、思った以上に汗をかいていた。
髪もしっとりと濡れている。
最近、あの声に起こされ、深夜に目が覚める事がしばしばだった。
この邑の、どの者の声とは異なる音、そしていやらしく響く声音。
夢の人物は影に落とされて、顔は見えなかったが、畏怖を感じさせた。
「一体、なんなんだ……」
前髪をかき上げて、大きなため息をつき、黄希は汗を落としに赴く。
あと数刻で星は消え、一番闇深い時が始まりそして空が薄くあけてくる。
冷たい水で身体をあらいながら、ふと、肩の傷を黄希は撫でた。
傷跡は、触っても痛くはないが相当深い傷だったことはわかる。それも命を奪うような。
どうして自分はこの邑に生き倒れていたのか。
そして自分は一体何者なのだろうか?
「思い出さなくていいのよ、」
と香霄は言ってくれるが、時折、思わずにはいられない。
( 記憶を失う前、自分はどこで、どのように生きていたのだろう)
黄希は頭を振る。
(忘れよう。すべて…)
そう自分に言い聞かせる。
きっと過去はろくでもないもに決まっている。
戦で何人も殺しているのは確かなのだから。
「いま、この時を大切にしよう」
過去の自分は死んだ。
おもむろに琥珀の石を取り上げる。
その琥珀の中に懐かしい花を見たような気がした。
金木犀……?
なぜ、その花の名が思い浮かんだのか?
懐かしいような、切ないような……。
じっと、見つめているのもつかの間、突然不穏な気配があたりに張りつめた。
ぴりぴり、と肌を刺すような。
(なんだ、この気配は)
木々から鳥たちが飛びだっていく、一斉に。
そして森の動物たちも。
黄希はいやな予感を覚え、香霄たちのもとに急いだ。
5
「蛮族を狩れ!」
「奴らは我らに仇なすモノぞ!」
「狩り出せ!」
邑に怒号が響き、火矢がいかけられる。
槍が、矛が空を切り逃げまどう人々を切り捨てていく。
殺戮を楽しむ兵士たちの喜びの糧となる。
香霄は悲鳴をあげた。
「なぜこんな事に!」
いつも平和であるようにと願っていたのに、なぜ!
「巫女さま早くお逃げ下さい!」
「巫女さまだけでも!」
「黄希、巫女さま方をたのんだぞ!」
普段武器を取らない男たちがせめて武器の代わりになる農具を各々手に持ち決死の覚悟で邑を家族を守るために立ち向かっていく。
「だめ、生き延びなきゃ!」
その声は悲鳴に紛れて消える。
黄希は香霄の手首を取り、森の奥へと逃げる。
そのあとを銀狐がついてきて追っ手を神力によって撃退していった。
森が開けるのをみつけて、
(無事に逃げ延びられる、)
希望を黄希は見いだしたが、突然香霄は立ち止まり手を振り払った。
遠く響く悲鳴や断末魔が香霄を引き止めたのだ。
「私は逃げたくない、皆と一緒に逝いく!」
「香霄!」
「さよなら、黄希は私の分も生き延びて」
「だめだ!」
黄希は香霄の手首をとって引き寄せる。
「行かせはしない、いや、行ってはならない! 彼らの目的は君だ!」
「私?」
「君は神だから……王の願いを叶える生ける社禝なのだから……ッ痛!」
「黄希!」
黄希は突然激しい頭痛に襲われて膝を折った。
そして脳裏に何時も見る夢が色彩をおびてよみがえる。
いつも闇から命じる男、父王だ。
生への執念がおぞましく、周囲に畏怖を与えた。
『命令だ、花月の社禝を我に献上しろ』
かの社禝は王の願いをかなえるという。
我が子と認められたければその者を献上することだ。
さすれば、王位をお前にくれてやる。
(王位なんて、いらなかった。
ただ父に、良くできた公子だと、認められれば)
でも恋いこがれていた父はそこにはいなかった。
やさしく微笑んでくれた父は。
こんな、認められ方など意味がないのに…。
けれど、良くできた息子だとただほめられたくて。
幼い自分の甘えた、願い。
「黄希、大丈夫?」
心配に香霄は黄希の顔をのぞき込む。
彼は青ざめ、呆然と呟いた。
「僕は、この村を探すように命じられた……」
「え?」
「花月族の巫女は願いを叶える力をもつと聞いて、だから王は、僕に邑を探させた」
「黄希、まさかあなたがこの戦を招いたの!」
「違う! 僕はただ!」
(違わない。僕はこの香霄を王に献上するために)
「いや、僕のせいだ……父王に命じられて僕はここを探していたんだ、戦をしながら、探っていた、そう、僕がこの邑に入り込んだからこんな事になってしまったんだ……僕のせいだ」
自嘲に嗤うと、黄希は立ち上がり香霄を抱きしめる。
「黄、希……」
その力強い抱擁に息ができなくなる。
「君は生き延びてくれ、 いつかまた逢えるから」
優しく香霄の唇にキスをのこし、拳を強く香霄の腹部にいれた。
「黄希……」
香霄の白い手が黄希の頬に触れる、一途な想いを感じ取る前に意識がとぎれた。
「ごめん、香霄…」
もう君に会うことはない…今生では
でも後悔はない
(君に会えただけで僕は救われた)
人間に化けた銀狐に香霄を預けた。
「楠葉、香霄を頼む」
「黄希、死ぬな。香霄が悲しむ」
黄希は穏やかな笑みを残して禍々しく燃えさかる邑へとかけもどっていった。
6
「美しい娘ではないか」
軍を指揮する将軍は一人奮戦する娘……香薔をみてあごひげを撫でた。
花月族の邑を見つけ出し、女神を連れてくるよう命じられた将軍・楊嘉の目は一人の女の動きを追っていた。
返り血を浴びながらも気丈に襲い来る敵から奪った刀で兵を切り裂く。まるで舞うように。
「あれが女神かもしれぬ、生かしてとらえよ!」
その命令に雄叫びをあげて香薔に襲いかかる兵士たち。
大勢に襲いかられては為すすべがない。
香薔は覚悟を決めたが、一閃。
黄希の剣が兵士等らを切り裂いた。
「香薔どの、早く逃げてください! 巫女はあなたが死ぬことを望んでおられない!」
「黄希!」
「はやく! ここは僕に任して、皆を連れて逃げて!」
「わ、わかった!」
鬼気迫る黄希の迫力にのまれ、香薔はそれに従う。
民が数人、香薔に導かれて邑を離れてくのを目の端にとめて、キッと将軍を睨む。
「楊将軍、これはなんのマネだ!」
楊嘉は黄希を見て目を一瞬だけ瞠ったが、それを隠すようにわざと戯け大きな動作で供手をする。
「おぉ、これは公子、いきておられたか。行方がしれず死んだものかとおもいました」
「なぜだ、ただ一人を王に献上すればよいことだろう? なぜ殺戮など!」
「いいえ、これは王の命令です、一族を根絶やしにせよ、と」
「それは予が許さぬ!」
「!」
黄希は大地を蹴けって、一閃のもと、楊嘉の首を刎た。
血しぶきが虚空に散り、首がごろりと落ちた。
冷徹な剣聖と唱われた、公子の剣の腕は鈍ってはいなかったが、しかし、
「ぐはっ…」
楊嘉の剣は黄希の腹を貫いていた。
首がにやりと嗤ったのを黄希は知った。
(香霄……)
★ ☆ ★
「黄希……?」
香霄は、黄希に呼ばれた気がし、優しく瞼を愛撫するきらめく陽光に促され目をあけた。
戦は、殺戮はおわったの?
みんなは……。
自分を心配にのぞき込む顔には黄希の姿はない。
「よかった巫女、無事で」
「……黄希は?」
「彼は……」
皆の顔が曇る。
それが意味するのは……。
「黄希!」
「巫女!」
「まだ危険です!」
香霄を引き止めようとするが、香霄は風のように手をすり抜けて邑へ駈ける。
どうか無事でいて!
生きていて!
8
殺戮はおわり、至いたる所に血煙が漂ただよっていた。
茉莉の花も踏みにじられ、また血に染まり、赤く萎れ、その血の草原に、たくさんの躯が転がっていた。
けれど邑の人間の躯より兵士の躯の方が多い、なぜ?
血でぬかるんだ大地をさまよい、吐き気に耐えながら香霄は黄希の姿を求めた。
そして長老のうつほの前に倒れている黄希を発見した。
深く腹部を刺されたのか下半身がどす黒く濡れている。
「黄希! 黄希っ」
香霄の悲痛な声に血に濡れた瞼がかすかに反応し、うつろな瞳が香霄をとらえる。
「巫、女?」
「黄希、じっとしていて、いま、なおしてあげるからね!」
黄希は首をかすかにふる。
「もう、僕は助からない。はやくここから逃げて……」
「そんなことない!」
香霄はもてる力をもって傷を治そうとしたが、黄希の躰がそれを受けない。
力が押し戻されてしまう。
「どう、して…」
「ねえ、香霄……君は金木犀の花をみたことがある? 僕の国にはたくさん咲き誇るんだ、まるで君のようにあまやかで優しい香りがするんだ……」
「黄希!」
(ただ、あなたの傍にいたい)
その思いが躯となった躰に残っている。
ただ、傍に……。触れられる存在でなくとも傍にいることを望む。
「黄希……」
涙が、黄希の頬にはねては落ちる。
「黄希、また逢えるのではなかったの?」
あなたが死んでしまったらもう、逢えないじゃない。
「……そうだ」
以前、長老が巫女の最期の願いは絶対なるものといっていたことを思い出す。
「巫女になっていてよかった、ううん、そのために私は巫女になる運命だったんだ。あなたを助けるために」
そう思えば、巫女になったことに後悔はない。
香霄は微笑んで冷たくなった黄希の唇にキスをし、落ちていた匕首を拾った。
「私の命をあなたにあげるから、生きて、そしていつの日にか私を目覚めさせて」
強く呼んでくれたらあなたの願いを叶えてあげるから。
(長い、永い年月をかけて)
もしかしたら、私はあなたのことを忘れてしまうかもしれない。
『ただ傍に。』
でも、その思いは忘れないでおくから、今度はともに逝ってあげる。
9
「香霄……、」
香霄を追ってきた香薔と楠葉は彼女の変わり果てた姿を見て目を瞠みはった。
香霄は、空に向かって伸のびる青々とした若木へと姿を変えていた。
その木の根本に健やかに眠る黄希が……。
それから永い時が流れて……。
一族は千々に散って、消えていった。
楠葉は遠い東の島国に渡り、香薔は数百年後に小覇王の子を産んでこの世をさった。
いや、また愛しい人に出逢うために旅立った。
私はそれをずっと見守ってきた。
でも、私はいつ目覚めることができるのだろう。
本当にその日が来るのだろうか?
永き夢は時に現をみせる。
風になりその時を旅する。
でもその旅を楽しむほど、生きていた香霄としての記憶が、手からこぼれる砂のようにさらさらと失われていく。
いやだ、失いたくない。
この想い、私の願いだけは。
大切な思いを強く握りしめたとき。
誰によばれた。
明るく眩しい陽光が瞼を優しくなぜて。
香霄は、ゆっくりと瞼を開けた。




