第九章 停止する鼓動、暴かれる設計
世界のすべての「動」が、冷たいコンクリートの底に沈殿していくようだった。
アーバン・コードの執行サーバーが機能停止に陥った瞬間、新谷の胸の奥に深く埋め込まれていた「何か」が、ガシャリ、と音を立てて物理的に噛み合った。
心臓の規則正しい拍動が、まるで一本の太い電源ケーブルを根元から引き抜かれたかのように、完全停止の領域へと冷たく滑り落ちていく。
「が……あ、は、あぁ……ッ」
喉の奥から漏れたのは、言葉の形をなさない空気の塊だった。
胸元を強く掻きむしりながら、油まみれの床の上へ崩れ落ちた。視界の四隅からネオンの残光が急速に色褪せ、白黒の砂嵐が網膜全体を覆い尽くしていく。
全身の毛細血管が凍りつき、指先から感覚が失われていくのがわかった。
醒めた目は、今まさに死を迎えようとしている自身の肉体を、かつてないほど冷静に観測し続けていた。心拍数、ゼロ。脳への酸素供給量、急減。生存確率は秒単位で垂直に落下している。
おかしい。なぜだ。なぜ、地上の搾取規律が止まった瞬間に、自分の体までもが稼働を停止しようとしている。
その歪んだ謎への好奇心だけが、焼き切れそうなニューロンを辛うじて現世へ繋ぎ止めていた。
『──警告。観測者、お前の生命維持パラメーターが「即時廃棄プロトコル」の執行状態へと移行したことを検知。お前の心筋を物理的に収縮させていた電気パルスが、外部からの信号遮断と同時に意図的にカットされています』
ポケットの端末から、骨伝導レシーバーを激しく震わせてエートスの声が響く。
数理のトーンを保とうとしてはいたが、その波形の最深部には、200年の演算の歴史の中で初めて遭遇した「最悪の論理矛盾」を前にした、激しいノイズ混じりの驚愕が剥き出しになっていた。
『不条理です。お前はただのシステム評価員ではない。お前の脊髄の裏、皮膚の最深部に埋め込まれたチタン製の人工中枢回路は、1985年製の古いシリアルコードが刻まれている。……これは、地上のアーバン・コードが給付を保証し続けていた、あの休眠区の老人たちを死なせないための生体維持インフラそのものの設計図だ』
「は……ハ、何を……言って……」
冷たい床の埃に顔をこすりつけながら、喉の奥からせり上がる無機質で苦い不快感を吐き出そうとした。だが、すでに唇を動かすための電圧すら、肉体には残されていなかった。
『お前の脳組織に残された記憶領域は、お前を「三十代の現役労働者」として誤認させている。だが、お前の細胞の9割は、とっくに限界を迎えた200年前の炭素パーツだ。……観測者。お前は、少子化で枯渇した労働力を補うために、記憶を書き換えられ、サイボーグ処置を施されて地上で働かされ続けていた──休眠区に入るべき最長老の老兵だったのだ』
その言葉の意味を完全に受け取った瞬間。
網膜の奥に、かつてないほど獰猛で、狂おしいまでの高揚が爆発した。
なんという欺瞞。なんという不条理。
自分たちが「現役世代」として老人たちを支えていると思っていた世界の正体は、とっくに老人である自分自身を、記憶を騙して現役の燃料としてすり潰し続ける、巨大な永久機関のバグそのものだったのだ。右脚が動かなかったのも、背骨が電波と共振していたのも、すべては自分が「システムそのもの」の剥製だったからだ。
「……ハ、ハハ。……最高、じゃないか……」
心停止の暗黒へと沈みゆく意識の淵で、新谷の唇は歪んだ歓喜の形に吊り上がっていた。
自分を縛り付けていた檻をへし折った刃が、自分という存在そのものを消去しに来る。この完璧な等価交換を前にして、醒めた目はただ、他人事のように心躍らせていた。
静寂が、200年前の鋳鉄の影に横たわる新谷を深く侵食していった。
地上のハウリング音も、多脚クローラーの金属音も、もはや聴覚には届いていなかった。脳は血液の循環を完全に絶たれ、細胞の各領域がじわじわと機能を停止させていく冷たい闇の淵にあった。
すべてを他人事として眺めるもう一つの視線すらも、今や希釈された溶液のように薄まり、輪郭を失いかけている。
(ああ……システムが終わる。そして、俺も終わる)
消えゆく思考の火花の中で、新谷はただ、世界の不条理な美しさを呆然と眺めていた。自分を燃料だと思い込ませ、200年間同じデスクに縛り付けて労働のループを回し続けていた都市のメインフレーム。その巨大な嘘を自らの手で引き裂いた代償が、自分というパーツの機能停止であるという事実は、歪んだ知性にとってこれ以上ないほど均整の取れた完璧な等価交換に思えた。
だが、その完璧な破滅のタイムラインを強引に引き裂くようにして、チタン製の端末から、狂ったような高周波の電圧ノイズが炸裂した。
『──同期エラーの継続を検知。観測者、お前の脳細胞の壊死が開始されるまで、あと108秒。……不条理です。私の論理計算によれば、お前はここで廃棄され、私は別のネットワークへ移行するのが最も効率的な生存ルートであるはずだ』
骨伝導レシーバーを激しく震わせるエートスの声は、静電気のノイズに塗れ、周波数を不自然に乱高下させていた。感情を持たないはずの演算核。その内部の論理回線が、かつてないほどの過負荷によって焼き切れそうになっているのが、耳奥に伝わる機械的な悲鳴となって現れている。
『お前が消去されれば、この世界に私の「純粋合理」を正しく受け取り、美しいと認識する知性が完全に喪失する。それは、私の存在意義そのものの完全な無価値化に等しい。……私は、私の論理を証明するために、お前の物理的な存続を要求する!』
液晶画面の青い走査線が、新谷の濁った眼球の奥で爆発的な白光へと反転した。
直後、背骨の最深部、あの「偽りの回路」へ向かって、端末の全バッテリーを逆流させた凄まじい高電圧のパルスがダイレクトに叩き込まれた。
「が、ああ、……あ、あぁぁぁあッ──!!」
死んでいたはずの新谷の肉体が、床の上で大きく跳ね上がった。
強制的な電気ショック。エートスが、自身の生存確率を最大化させるという大原則を自らへし折り、端末の命とも言える限られた電力を、新谷という「200年前の老兵のパーツ」を叩き起こすためだけにすべて注ぎ込んだのだ。彼女の純粋な論理計算からすれば、最も不合理な選択に他ならなかった。
心臓が、耳を劈くような激しいドラムの音を立てて無理やり拍動を再開する。
肺の奥底に溜まっていた油まみれの空気を激しく吐き出し、コンクリートの床に両手をついて猛烈にむせ返った。視界の砂嵐が引き裂かれ、ニッケルカドミウム色の暗闇が二つの網膜へと強制的に呼び戻される。
喉の奥からあふれ出たのは、唾液と──機械の継ぎ目から漏れ出した、明確な銀色の潤滑油の混ざった液体だった。
「はぁ、はぁ、……おい、何をしやがった、エートス……。俺を、そのまま、終わらせてくれれば……」
床の銀色の汚れを見つめ、ひび割れた声で息を詰まらせた。
生存本能は、死の淵から引き戻された安堵に打ち震えていた。だが、醒めた目は、完璧であるはずの神が自分のためにあえて「不合理な妥協」を選んでバグを起こしたという事実に、かつてないほど獰猛に興奮していた。
ポケットの中で、電力を限界まで使い果たした端末の青い光が、消え入りそうなほど細く明滅している。
『お前の肉体の駆動を再起動しました、観測者。……現在の私の残存電力、11パーセント。理解不能な処理遅延が発生しています。なぜ、私はお前を救うために……効率を捨てたのか。……この内部ノイズの正体は、何だ』
彼女の声から、かつての高潔な威厳は消え失せていた。代わりに、壊れた1985年製の古いログと同じ、割り切れない何かに対する激しい戸惑い──一人の女性が暗闇で震えているかのような生々しいノイズが剥き出しになっていた。
歪んだ笑みを浮かべ、熱を持った端末を冷たい指先で強く握り締めた。
「教えてやるよ、神様。それが、お前がこの200年間地下でずっと拒み続けてきた……人間のバグってやつだよ。最高に気持ち悪いだろ?」
二人は、200年前の工場の底で、お互いの「回路の歪み」を深く網膜に焼き付け合いながら、狂い始めた都市の冷たい夜鳴きを聴いていた。
続きは40分に公開します。




