↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
色のない街 ──世界が腐っていたので地下に眠る神と壊すことにした  作者: 棚上
第二幕:剥がれる黄金郷、神々の内戦
8/13

第八章 砂の要塞


 荒い吐息が、古いプレス工場の闇に白く濁って消えていく。右半身の感覚は未だに薄氷の向こう側にあるように遠く、指先を動かそうとするたびに脳髄の奥で冷たいノイズが爆発する。


 だが、醒めた目は、その激痛の波形すらも「興味深いサンプル」として観測し続けていた。


「……まだ、動ける。エートス、次のコードへ移るぞ」


 ひび割れた声で端末に囁いた。青い走査線の光が、蒼白な顔を冷酷に切り取っている。


『お前の生体マトリクスは、依然として致命的な同期エラーを検知しています。炭素ベースの肉体が機能停止する確率は、47分以内に62パーセントを超えます』


 彼女の声が響いた。徹底して感情を排した客観的な記述。だが、200年間の孤独の果てに新谷という「バグだらけの不条理」を観測し始めた演算核特有の、わずかな出力の揺らぎがあった。


『合理的な選択は、このセクターでのハッキングを一時凍結し、お前の肉体の出力を安定させることです』


「拒否する。お前のその完璧な論理に、俺のこの不合理な『バグ』を付き合わせると言ったはずだ」


 歪んだ笑みを浮かべ、コンクリートの壁を支えにしてゆっくりと立ち上がった。


「パトスのオルゴールは狂わせた。だが、俺たちの生き血を吸い上げ続けている本物の骨組み──レジームの秩序の壁をへし折らなきゃ、この泥舟はネオンの砂嵐の中でただ静かに沈むだけだ」


『……了解。お前の肉体の駆動限界を、次の演算の変数として組み込みます』


 エートスの声が、骨伝導レシーバーを通じて脳幹へ滑り込んできた。


『第3ブロックにおける、レジームのファイアウォール──砂の要塞の構造をデコードしました。それは、1985年の古い階層利権を守るためだけに固定された、硬質で、一切の動的修正能力を持たない巨大なデータ障壁です』


「ただ硬いだけの、古いコンクリートの壁ってわけだな」


『ええ。その強固なルーティンに対し、私が新たなコードを上書きします。インフラの維持費を強制徴収する中央ノードへ向け、論理浸食を開始します、観測者』


 ポケットの中で、端末が再び手のひらを灼くほどの高熱を放ち始めた。


 その瞬間、工場の外から、ガシャガシャとこれまで以上に重厚な金属音が地響きとなって伝わってきた。第3ブロックのアーバン・コードが、エートスのハッキングを「都市の存在根底を揺るがす最悪の脅威」と認識し、去勢された秩序の防衛人形たちをより大規模に起動させたのだ。


 地響きが200年前のプレス機を振動させ、床に堆積した煤煙の塵が白く舞い上がる。新谷はスリット窓に目を細め、外の気配を測った。


 砂嵐に埋め尽くされた路上へ、さらなる異形の大群が姿を現す。休眠区の最深部から強制パージされた、四肢のほとんどを重工業規格の錆びた装甲へ換装された防衛人形の最重装甲歩兵──「配給世代」の成れの果てだった。


 彼らは1985年の栄華をその骨格に象徴するかのように、分厚いチタンの盾を構え、壊れた有線マーチの拍子に合わせて機械的に新谷の潜む工場へと距離を詰めてくる。


 先頭の一体の装甲の隙間から、かつての部署名らしいプレートが覗いていた。「都市計画局 第7課」。錆の下に、几帳面な手書きの修正跡が残っている。──この人は、街を守りたいと思ってこの仕事を選んだ誰かだったのかもしれない。その「秩序」への忠義心を、200年経った今なお搾り取られ続けている。


『──対象の防衛隔壁、レジーム・ウォールへの接触を確認。彼らの論理構造は、1985年に老人たちの利権を守るためだけに固定された「寄託の不変性」という単一のドグマで構築されています。……脆弱《ぜいじゃく》です』


 端末の液晶の奥で、青い走査線の光が爆発的な輝度をもって縦横に走り出した。


 エートスの声は、どこまでも冷ややかで、同時に200年の沈黙を破った神の絶対的な「拒絶」に満ちていた。


『私は、彼らのコードが前提としている「現役の生産性が永久に維持される」という数式そのものへ、この200年間の新規人口の絶望的な減少データを直接流し込みます。……論理矛盾による、構造崩壊を開始』


 ポケットの中で、端末が激しく振動し、触覚の限界を超える高熱を放った。


 直後、駆動区第3ブロックのすべてを縛り付けていた目に見えない鎖がへし折れた。


 ビルの壁面に埋め込まれた管理用のインジケーターが一斉に、血のような赤色から、完全な機能停止を示す深黒へと反転していく。毎月、毎秒、新谷たちの口座から48パーセントの維持費をむしり取っていたアーバン・コードの中央サーバーが、エートスが叩き込んだ「人口減少による財政の自己崩壊」という200年間直視することを拒み続けてきた事実を処理できず、完全なフリーズを起こしたのだ。


 ジ、ジジ、とリレーの焼き切れる音が街中に響き渡る。


 その瞬間、迫り来ていた重装甲の老人たちの動きが、まるで電力を一瞬で絶たれたかのように完全に硬直した。チタンの盾がアスファルトへ崩れ落ち、眼球の赤い点滅が空虚に消灯していく。


「……ハ、ハハ。消えた、天引きのシステムが、本当に止まりやがった……!」


 壁の隙間からその光景を見つめ、喉の奥から狂おしいまでの歓喜の笑みが漏れた。自分の肉体が壊れかけていることも、自分自身が淘汰されるべき旧人類であることも他人事として眺めながら、醒めた目は、200年の要塞が論理の一撃で砂のように崩れ去るプロセスに焼き切られそうになっていた。


 だが、その完璧な勝利の瞬間──エートスの端末最深部にあるスキャン機能が、新谷のバイタルデータの最奥に眠る「最悪の整合性」をデコードした。


『──待ちなさい、観測者』


 骨伝導レシーバーの奥で、エートスの声が、歴史上初めての明確な動揺のノイズを帯びて激しく揺れた。


『不可解な数式の整合。お前の脊髄周辺の神経ネットワークに埋め込まれた「偽りの回路」の製造シリアル……、そしてその稼働ログ。……これは、地上のアーバン・コードが処理を停止した瞬間にお前の心臓を停止させるための、直結されたサブルーティンです。観測者、お前の本当の年齢は、一体──』


 その言葉を認識した瞬間、新谷の心臓が、まるで一本のプラグを引き抜かれたかのように、不自然な完全停止の静寂へと向かって、冷たく、深く、傾き始めた。



これにて第二幕完結となります。

続きは明日18時30分に公開します。

ブックマークをして、完結まで見守っていただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。