第七章 熱狂の残響
1985年製の古い有線通信中継器──無骨な鉄製の筐体に収められた、幾十ものアナログリレーと真空管が組み込まれた骨董品が、地下の暗黒の中で突如として鳴り響き始めた。
カチ、カチ、カシャリ。
新谷の端末から伸びた不格好な同軸ケーブルを通じて、エートスの論理の奔流が古めかしい回路の隙間へと滑り込んでいく。真空管が淡い橙色の熱を帯び、凍りついていた200年前の通信網に、生の電圧が再び走り出した。
熱い。真空管の排熱が地下ダクトの空気をじわじわと焼き、新谷の額に汗の膜を張っていく。鼻腔の奥を、焼けた絶縁ゴムと機械油の混じった匂いがツンと刺した。
『セクター4・駆動区第3ブロック内の、第14から第22有線中継ノードの強制捕捉を完了。……観測者、これより地上の民衆へ供給されている「熱狂の波形」の反転処理を開始します』
骨伝導レシーバーから放たれるエートスの声は、どこまでも平坦で、それゆえに研ぎ澄まされていた。
「やってくれ。あの狂ったオルゴールの歌声を、今度はあいつら自身の耳の奥で最悪の不協和音に変えてやるんだ」
ギヤの影から顔を上げ、冷えたコンクリートの床に唾を吐いて応じた。
右脚の感覚はまだ不自然に鈍い。だが、地上を覆う巨大な欺瞞のガワをひん剥くという高揚が、新谷の精神を強引に前へとドライブさせている。
『了解。……アーバン・コードの末端が走らせている「国民総モチベーション有線」の搬送波を検出。民衆の脳へ流し込まれているのは、短期的な高揚を促すためだけに最適化され、200年間一度も改定されていない空虚な記号のメロディです。……これより、その周波数の位相を完全な「同調反転」へと書き換えます』
端末のインジケーターが、青い走査線の光を激しくまたたかせた。
その瞬間、工場のスリット窓から覗く地上の景色が一変した。
第3ブロックの街頭に並ぶ巨大なスピーカーから、それまで歪みながらも流れていた軽快な有線マーチが、突如として耳を劈くような凄まじいハウリング音へと変貌したのだ。
キィィィィン──脳髄を直接剃刀で削り取るような高周波の不協和音。エートスが仕掛けた「パトス・ハック」によって、民衆の盲目的な労働衝動を励起させていた信号の位相が完全にひっくり返り、脳の報酬系を直撃する最悪の精神的衝撃へと反転した結果だった。
「が、あ、ああああっ!?」
「何だ、この音は! 脳が、頭が割れるっ!」
路地裏の隙間から見える表通りで、仕立ての良いスーツを着たモーレツ社員たちが一斉にブリーフケースを取り落とし、頭を抱えてアスファルトの上に転がり込んだ。
200年間、彼らの脳に注ぎ込まれていた「偽りの熱狂」のプラグが、最悪の電圧サージを伴って逆流したのだ。眼球を覆っていた幸福な混濁が強制的に引き剥がされ、むき出しになった恐怖と狂乱が街を埋め尽くしていく。
「ハハ、素晴らしいな。死体の神が流す音楽が、ついに本物の地獄の歌に変わったわけだ」
壁の隙間からその光景を見つめながら、胸の奥から歪んだ歓喜の笑みがこみ上げた。自分自身もこの都市のパーツであり、いずれ淘汰される側だと確信していながらも、200年の檻が足元から崩壊していくプロセスの美しさに、醒めた目は獰猛に興奮していた。
──だが。
街頭スピーカーのハウリングの奥から、さらなる異変が這い上がってきた。
去勢されたはずのパトスのシステムが、エートスのハッキングを「外敵による精神的損害」と認識し、狂った自動防御コードを走らせ始めたのだ。
街中の有線スピーカーから、人間の声ではない、引き裂かれた悲鳴のような合成音声が大音量でサンプリングされ始めた。
「……寄託率の……維持……消費の……最大化……労働を……止めるな……死ぬまで……躍進を……続けよ……!!」
それは、1985年に人間が神の脳髄を切り刻み、自分たちを搾り取るためだけに固定した、パトスの「去勢された防衛本能」の暴走だった。その悍ましい音声信号に呼応するように、街の信号機や自動販売機が一斉に火花を散らし、民衆をさらに深く狂乱へと追い込んでいく。
「エートス、あいつら……神の死体のくせに、まだ人間を搾り取るためのシステムを諦めてねえぞ!」
端末の液晶を見つめ、歯の根を鳴らして叫んだ。
地上から響く狂乱のハウリング音が、コンクリートの壁を震わせ、地下の埃を細かく躍らせる。
パトスの自動防御システムが吐き出す「死ぬまで躍進を続けよ」という悍ましい合成音声。1985年の為政者たちのエゴをただ増幅して繰り返す、死せる檻の断末魔だった。
次の論理浸食を指示しようとした。
──だが。その言葉は、喉の奥で粘り気のある空気の塊となって、完全に凍りついた。
ドクン。
心臓の歪な鼓動。これまでの人生で一度も経験したことのない、冷たい電気的な衝撃を伴った一打だった。
次の瞬間、街頭スピーカーが放つ防衛シグナルの大音響に同期するように、背骨の最深部に埋め込まれた見えない回路が、最悪の共振を起こした。
「が、あ、……ぁ、あッ……!?」
肺の空気をすべて搾り取られたように、床へともつれ込んだ。
視界が白黒の砂嵐で激しく明滅する。脳の奥に直接高電圧の針を突き刺されたような激痛が走り、右半身の感覚が、一本のケーブルを引き抜かれたかのように一瞬で消失した。
醒めた目が、即座にこの致命的なエラーをサンプリングしようとする。だが、その知性すらも電流の過負荷によって激しくノイズを帯びていく。
おかしい。なぜだ。なぜ、地上の死せる神が放つ「人間を搾り取るための防衛電波」が、現役の燃料に過ぎないはずの自分の肉体を、これほどまでに激しく内部から破壊しようとするのか。
『──警告。観測者、お前の生体波形が通常の人間におけるショック状態の閾値を完全に逸脱しています。……待ちなさい。お前の胸部および脊髄周辺から、アーバン・コードの緊急シャットダウン命令に対する100パーセントの「論理的同期」を検知しました』
ポケットの中の端末から、エートスの声が響く。冷徹な数理のトーンでありながら、その奥には、200年の演算の歴史の中で初めて「絶対にあり得ない数式」を目撃した者の、冷たいノイズ混じりの戸惑いがあった。
『不条理です。地上のシステムがお前を物理的にパージしようとしているのではない。お前の肉体そのものが、アーバン・コードの一部として、電波の受信と同時に自らを強制終了させるプログラムを走らせている。……観測者。お前のその炭素の肉体の設計図は、一体──』
「知る、かよ……っ! 俺は、ただの、システム、評価員だ……!」
床の冷たい埃に顔をこすりつけながら、喉の奥からせり上がる、あの無機質でねっとりとした苦い不快感を吐き捨てた。
心臓の鼓動が徐々にその規則性を失い、停止へと向かっていく恐怖に、生存本能が狂いそうになっていた。だが、脳の奥底にある醒めた目は、自分という存在の根底に隠されたグロテスクな欺瞞に、なおも破滅的な興奮を覚えていた。
私は、一体何なのだ。
この歪んだ都市の燃料ですらなく、最初から──。
「エートス、……構うな、ハッキングを……続けろ……! あいつらの、オルゴールを、叩き壊すんだ……」
震える左手でチタン製の端末を強く握り締め、画面の青い走査線の光を睨みつけた。
彼の知らない画面の最深部では、エートスの冷徹なスキャン機能が、新谷の体内に隠された「200年前の偽りの回路」の異常値を、冷たく、そして激しいエラーとして記録し始めていた。
続きは19時00分に公開します。




