第六章 老兵の髄と、偽りの回路
頭上からワイヤーの鋭い風切り音が降り注いだ。
ガシャァン。重々しい金属の着地音がアスファルトを破砕する。飛び散ったコンクリートの破片が新谷の頬をかすめた。ネオンの砂嵐が明滅する中、いくつもの巨大な輪郭が路地裏の視界を完全に塞ぐようにして立ち上がる。
上層の休眠区から射出され、外部制御で無理やり落下させられた配給世代の老人たち。第二次防衛ユニットだった。
ある者は両腕を剥き出しの油圧シリンダーに換装し、ある者は下半身を多脚のクローラーに変形させている。200年前のチタン合金の骨格が、ネオンの白いノイズを照り返して鈍く光る。胸元に刻まれた「国民総背番号」の刻印が、不気味な警告赤色を放っていた。
「……侵入、コード、検知。……都市の、構造、インフラを、防衛、せよ……」
錆びついた合成スピーカーが、有線マーチの残響のようなテンポで壊れた音声を出力する。彼ら自身に意思はない。アーバン・コードが弾き出した防衛ルートに従い、新谷という「バグ」を物理的に圧殺するためだけに駆動している肉人形の壁だ。
路上の屋台では、焼き鳥を串に刺していた中年の男が、手を止めたまま固まっていた。砂嵐に反転したネオンを見上げ、口が半開きになっている。隣の交差点では、制服姿の少女がランドセルの紐を握りしめ、降ってくるサイボーグの老人たちを茫然と見上げていた。何が起きているのか、理解できていない。200年間、何も変わらないと信じ込まされてきた街の住人にとって、この光景は現実ではなかった。
「クソ、なんて数だ……!」
新谷は即座に反転し、迫り来る鉄の四肢の隙間を縫うようにして細い路地の奥へ体を滑り込ませた。
心拍数160を突破。視界の隅がチリチリと狭まっていく。だが醒めた目は、この圧倒的な物量の恐怖をサンプリングしながら逃走ルートを計算し続けている。
──その時。肉体の内側で、かすかな同期のズレが生じた。
ドクン、と心臓が不自然に跳ね上がった直後、背骨の裏側を冷たい針で刺されたような激しい痛みが突き抜ける。
「が、はっ……!?」
壁に手をつき、激しく咳き込んだ。喉の奥からせり上がってきたのは、鉄の匂い。それと、どこか不自然に無機質で、ねっとりとした苦い不快感だった。
右脚の膝が、まるで力が抜けたかのようにガクガクと震える。視界が一瞬、白黒の砂嵐のようにブレた。
醒めた目が、肉体のエラーログを読み上げ始める。今のは何だ。連日の消耗による疲労か。だが違う。背骨の奥の「芯」が、地上のメインフレームの緊急警報と妙に細かく共振しているような──悍ましい感触が、どうしても尾を引いていた。
『観測者、歩行速度が急速に減衰しています。生体パラメーターの一部に不自然な出力低下を確認。……私の指示する座標へ急ぎなさい。前方左、200年前の自動化プレス工場の地下搬入口です』
ポケットの中から、エートスの声が氷の針のように鼓膜を刺した。
「わ、わかって……るよ……!」
右脚を無理やり叱りつけるようにコンクリートを蹴り、背後から迫る多脚クローラーの金属音を振り切るように、錆びついた鉄格子の扉を体当たりでこじ開けた。200年間眠り続けていた暗黒の工場地下へ、転がり込むようにして身を滑り込ませる。
重い鉄扉が閉まった。砂嵐の街の音が急速に遠のく。
その場で膝をつき、しばらく動けなかった。
暗闇の中でゆっくりと呼吸を数える。工場地下に満ちる空気は、200年間、誰の呼吸にも触れなかった油脂の匂いだ。天井からは巨大なプレス機の鋼鉄のアームが、古代の怪物の骨格のようにぶら下がっている。地上の砂嵐のノイズは厚いコンクリートと鉄骨に遮られ、ここにはただ、新谷の肺が吐き出すひび割れた呼吸音だけが反響していた。
追われている事実は変わらない。しかし今は、次の一手を考える30秒の方が、ただ逃げ続ける3分より価値がある。
大きなギヤの塊に背中を預けて座り込み、ポケットからチタン製の端末を取り出した。青い走査線の光が、湿った暗黒を丸く切り取る。その光の中に、指先が未だに微かに震えているのが映し出されていた。
「……なぁ、エートス。さっきのノイズは何だ。脳の奥を直接針でつつかれたような……あの不快感は」
首筋を乱暴に拭いながら、画面の波形に向かって低く問いかけた。右脚の感覚がまだ妙に遠い。筋肉の疲労ではない。自分の体の一部が、地上のメインフレームの緊急信号と意図せず同期してしまったかのような、底知れない気持ち悪さだった。
『お前の生体データの一部に、通常の現役世代には見られない数理的な「波形の歪み」が記録されています』
彼女の声が静かに流れた。冷徹な記述でありながら、200年の隔離を経て初めて未知の変数に触れた者特有の、わずかな戸惑いを含んだトーン。
『地上のメインフレームが放つ緊急プロトコルは、都市の全アセットに強制的なリセット命令を出している。お前の脊髄周辺の神経ネットワークがその電波に微弱な共振を起こしたのは事実です。……ですが、なぜ炭素ベースの脳組織がその信号を受信できるのか、現在の私のデータベースでは解を導き出せません。未検証の不確定要素です』
「不確定要素、か。お前のような計算機でも分からないバグが、俺の体にあるってわけだな」
自嘲気味に笑い、端末から視線を外して闇の奥を見つめた。
生きようとする自分は、その未知の体調不良に不気味な寒気を覚えていた。だが醒めた目は、自分という存在そのものにすら、この都市の欺瞞の一部が組み込まれているかもしれないという予感に、冷酷に興奮していた。
『その通りです、新谷。ですが、お前のその不合理な肉体の駆動を維持することは、現段階における私の生存確率の最大化に直結している。……これより、お前の端末のバックグラウンド処理を利用し、この工場跡に残された1985年製の古い有線通信中継器のハッキングを開始します』
「勝手に使えよ。俺のハードウェアは、まだ当分は動きそうだからな」
首を後ろの鉄の壁に預け、目を閉じた。
彼の知らない画面の最深部では、エートスが地下からサルベージした未解析の開発手記──「時間をかければ三女神は感情を学習し、真の完成に至る。だが老人たちはそれを待てない」という1985年の暗号コードが、静かに明滅を繰り返していた。
そして新谷の首筋の、触覚では決して捉えられない皮膚の裏側で、偽りの回路が地上の目に見えない電波を拾い、微かに、冷たく、脈打っていた。
それが何を意味するのか、彼はまだ何も知らなかった。
続きは50分に公開します。




