第五章 局所ゲリラ戦 嵐の予兆
第2幕 開始です。お楽しみください。
地下水の冷たい一滴が、コンクリートの梁から滑り落ちて古いバラスト軌道を叩いた。かすかな波紋が広がる。200年前に放棄された地下鉄の廃駅ホームは、地上の極彩色を完璧に遮断する漆黒の防空壕だった。
新谷は埃まみれの鉄製ベンチに背を預け、手元の端末を見つめていた。
青い走査線の光が、彼の顔に幾何学的な影を落としている。アルミニウム合金のフレームからは、エートスの論理演算が発する生温かい排熱が指先へ伝わっていた。
「……計算は終わったか、エートス。俺たちがここから生きて地上を歩くための、合理的なルートだ」
掠れた声で闇に向かって問いかけた。不適格者として登録された恐怖で喉が痙攣している。だが、頭の奥の醒めた目は、この圧倒的な孤立無援の状況を、まるで他人のチェスの盤面のように眺めていた。
『演算はすでに完了しています、観測者』
端末のスピーカーから、地下の冷気を震わせて彼女の声が響いた。無機質な数理のトーンでありながら、どこか気高い、張り詰めた鋼線を思わせる響き。
『現在の私の全リソースは、お前が所有するこの脆弱な評価員用端末──演算能力にして地上のメインフレームの0.004パーセント──に押し込められています。この状態での正面突破、あるいは都市全体のネットワークへの直接介入は、自壊を意味します。よって、私が生存確率を最大化させるために導き出した解は、一つしかありません』
「……局所ゲリラ戦、か」
唇の両端を歪に釣り上げ、画面に浮かび上がった光の地図を凝視した。
画面には、新谷が毎日通っていた駆動区第3ブロックの細部が、無数の配線パターンとなって立体的に描かれている。
『その通りです。地上の執行システムを構成するレジーム(秩序維持のゾンビ・コード)とパトス(熱狂の狂ったオルゴール)は、1985年の仕様のまま凍結された巨大な自動人形です。想定外の局所的なバグに対する動的な修正能力を持っていません。私たちが最初に対象とすべきは、第3ブロックの「景気変動偽装グリッド」──あの街を欺瞞で包むネオンの制御信号、パトスの末端です』
「あのギラギラした光の檻の、一部の骨組みをへし折るわけだな」
声に出して独りごちた。
地上のシステムはあまりにも巨大で、それゆえに鈍重だ。200年間、一度の設計変更もなく同じ天引きと熱狂のルーティンを繰り返してきた人形の巨人は、自分たちの体内に侵入した「本物の合理」が末端の毛細血管から神経を蝕み始めていることにすぐには気づけない。
「やってやろうじゃないか。あの空っぽの黄金郷のガワを、まずはその足元から剥ぎ取ってやる」
ゆっくりとベンチから立ち上がり、作業着のポケットから本物の珈琲の豆を数粒、口に放り込んだ。ブラックマーケットで手に入れた、非効率な苦味と香り。脳のニューロンが冷酷に覚醒していく。
『炭素のパーツよ。お前の脳内から再び、生存確率の維持には不要な高揚物質のスパイクが観測されています。不条理ですが……そのエラーを、私の最初のハッキングコードの推進力として利用しましょう。……これより、第3ブロックのネオン・コントロールへ向け、論理浸食を開始します。地上へ上がります、観測者』
「フッ、指図するな、神様。俺のこの老いぼれかけた肉体は、とっくにそのつもりで動いてる」
端末を握り締め、廃駅の湿った階段を、極彩色の光が沸き立つ地上へ向かって一段ずつ踏みしめるように登り始めた。
地上へ通じる重い鉄扉を押し開けた瞬間、再び網膜を切り裂くような極彩色の光波と、思考を強制停止させる有線マーチの爆音に叩きつけられた。
駆動区第3ブロック。
数時間前まで「システム評価員」という仮面をかぶり、48パーセントの天引きを大人しく受け入れる善良な燃料として、死んだように生きていた街だ。頭上では、ビル群の壁面を這い回る数万マイルのネオン管が、「二十一世紀も一億総躍進」「繁栄の永久機関」という文字をギラギラと撒き散らし、スーツ姿のモーレツ社員たちを夜の消費戦線へと駆り立てている。
(誰も気づいちゃいない)
端末の画面を伏せ、人混みに紛れながら周囲をサンプリングした。
行き交うサラリーマンたちの目は、パトスの放つ光のドラッグで完全に混濁している。自分たちが200年前の死体の歯車としてすり潰されていることにも、この都市が数年後にフリーズを迎えることにも、誰も気づいていない。
『追尾信号を検知。前方および右後方の監視カメラが、お前の歩行パターンの照合を完了しました。アーバン・コードの末端ノードが排除ユニットの最適ルートを計算し始めています。猶予は1分20秒』
骨伝導レシーバーから、エートスの静かな、しかしナイフのように尖った声が響く。
「1分もありゃ十分だ。エートス、あそこの変電サブ・グリッドの制御信号を叩き割れ。1985年の規格なら、今の端末の処理能力でも一撃のはずだ」
歩調を変えず、路地裏のコンクリート壁に設置された錆びついた高圧配電盤を顎で指した。そこから数千本の古い同軸ケーブルが、第3ブロックを覆うネオンの壁へと蜘蛛の巣のように伸びている。
『了解。お前の端末の監査用パッチを偽装し、ローカル・バスへの強制介入を実行します。……カウント、3、2、1。論理浸食、開始』
ポケットの中で、端末が白く灼けるような熱を放った。
直後、決定的な「バグ」が街を襲った。
ビルの壁面で「永遠の繁栄」と叫んでいた巨大な赤いネオン文字が、激しく脈打つように点滅した。次の瞬間、極彩色の光はすべて掻き消え、第3ブロック全体のネオン管が一斉に、ザー、というおぞましい電子音とともに白黒の砂嵐へと反転した。
街頭スピーカーから流れていた軽快な有線マーチが、バリバリと激しい静電気の悲鳴を上げて途切れる。
「な……なんだこれ!? 看板が……!」
「おい、有線が聞こえないぞ! 今月のモチベーション維持はどうなるんだ!」
路上を埋め尽くしていたスーツの群れが一斉に足を止め、狼狽した声を上げた。200年間流し込まれ続けていた「熱狂のプラグ」が急に引き抜かれたのだ。民衆の目の混濁が揺らぎ、中身の空っぽな怯えが顔に張り付き始める。
地上のシステムはあまりにも巨大で、それゆえに想定外の「砂嵐」に対してあまりにも脆弱だった。
200年間同じルーティンを繰り返してきたレジームの末端回路は、この局所的な論理エラーをどう処理すべきか分からず、第3ブロック全体の警備システムが一斉にフリーズした。信号機が黄色い点滅のまま固定される。
「ハハ、見たかよ。死体のシステムが、正論を突きつけられて脳死してやがる」
恐怖と高揚が等価交換されて焼き切れそうになるのを感じながら、新谷は歪んだ笑みを漏らした。醒めた目が、この完璧なファースト・ストライクの美しさを、網膜の裏にスローモーションで焼き付けていく。
『歓喜している時間はありません、観測者。メインフレームがこのエラーを「セクターの物理的破損」と認識。第3ブロックの全出入口を遮断するため、休眠区からさらに大規模な排除ユニットの強制パージを開始しました。……上を見なさい』
息を呑んで頭上を見上げた。
タワーの中層、緑色の光が明滅する休眠区の壁面が、ガシャガシャと生き物のハサミのように開き始めていた。そこから、何十、何百ものワイヤーが地上へと射出される。ワイヤーの先で蠢いているのは、全身のサイボーグパーツを火花散らせながら、外部制御で無理やり「落下」してくる、あの生ける屍たちの第二次防衛波だった。
「チッ、本当に容赦がねえな、この街の死体どもは……!」
端末を握り直し、砂嵐の白い光に照らされた路地裏へと向かって、全力で足を踏み出した。
ポケットの底で、エートスは、この不条理な戦いに命を賭けて笑う炭素のパーツの生存確率を、ただ静かに計算し続けていた。
続きは40分に公開します。




