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第四章 死せる神の拒絶反応

本章にて第1幕完結となります。お楽しみください。


 肺が引き裂かれるような呼吸の果てに、新谷はギガ・タワーの分厚いコンクリートを内側から突き破るようにして地上へ這い出た。


 管理用通路の錆びついた鉄扉を背後で叩きつけると、またあの眩暈(めまい)を誘う極彩色のネオンと、大音量の有線マーチの濁流が全身を打った。


「はぁ、はぁ、……クソ、戻って、きやがった……」


 膝に両手を突き、喉の奥からせり上がる血の味を噛み締める。濁った曇り空を見上げた。


 ニッケルカドミウム色の空は、地上から放たれる「永遠の繁栄」の電子文字で毒々しく沸き立っている。周囲を行き交うスーツの群れは、つい数十メートル地下で自分たちの先祖の死体がサイボーグの肉人形として暴れ回っていたことなど知らず、好景気のドラッグに身を委ねて笑っていた。


『観測者、立ち止まってはなりません。都市の管理グリッドが、お前の端末のIDから発せられる私の微弱な残光を追尾しています。すでにこのエリアの監視カメラの演算精度の8割が、お前の歩行パターンの割り出しに回され始めました』


 上着のポケットから、骨伝導レシーバーを通じて彼女の声が滑り込んできた。地下のブラウン管の光と同じ、網膜の裏をチリチリと刺すような冷ややかなトーン。


「わかってる……! どこへ逃げればいい。俺の仕事場も、駆動区の居住カプセルも、今頃は全部アーバン・コードの執行猶予なしの凍結対象になってるはずだ」


 歩調を早め、サラリーマンの雑踏の中に深く身を沈める。歯の根が鳴った。指先が細かく痙攣していた。追跡される恐怖だ。だが、頭の奥の醒めた目は、都市全体が自分という一つの「バグ」を排除するためにじわじわと形を変えていくプロセスに、異常なまでの好奇心を抱いていた。


『現在のアナログ通信網の死角を計算中……。東へ300メートル進んだ先にある、200年前の地下鉄廃路線跡。そこは現代の量子センサーの照射角から完全に外れた影の領域です。逃げ込みなさい』


 エートスの指示通り、歓楽街の路地裏へと滑り込んだ。


 ネオンの明滅が、ゴミ箱の陰に転がる栄養ペーストの空き缶をギラギラと照らし出す。次の角を曲がろうとした、その瞬間だった。


『──待て、修正します。当該ルートに誤算がありました』


 エートスの声に珍しい緊張が混じった。同時に、角の向こうから白い光が顔面を直撃した。


 監視カメラだ。街灯に偽装された新型の顔認証ユニット。咄嗟に顔を背けたが、レンズが自動追尾してくる動きが視界の端に捉えられた。


「エートス、お前の計算はどうした!」


『……このユニットは、22時間前に増設された新規設置分です。私が保有するインフラデータには存在しない。現在の私の演算リソースはお前の端末の0.004パーセントに制限されており、リアルタイムの地上監視網の全域スキャンには根本的に不十分です』


「言い訳は後で聞く!」


 方向を転換し、来た道を引き返した。肩でゴミ箱を弾き飛ばしながら別の路地へ飛び込む。背後で、カメラのサーチライトが壁を舐めるように追いかけてくる。角を二つ、三つと曲がり、ようやく光が届かない場所まで逃れた頃には、息が再び限界まで乱れていた。


 壁に背を預け、荒い呼吸を整える。右手が震えて端末をうまく掴めない。三度目の試みでようやくポケットから引き抜いた。汗で画面が滑る。


「……聞いてるか、エートス。お前はこの街で200年眠っていた。地上のインフラが今どうなっているか、お前の記憶と現実にはとんでもない乖離がある。それを忘れるなよ」


『……正しい指摘です、観測者。私の誤算でした』


 珍しいほど素直な返答だった。新谷はその短い沈黙の重みを測るように、一拍だけ端末を見つめた。


「……まあ、お互いのリソースで補い合うしかないな。俺が足で地上の現実を拾う。お前が頭で最適解を弾く。それで行こう」


『非効率ですが、現状の最善です。……了解しました』


 鼻で笑い、再び路地の奥へと足を踏み出した。今度は、エートスの指示の一歩先に自分の目を使いながら。


 極彩色の看板がひしめく歓楽街を抜けた先の、湿ったコンクリートの地下階段。暗黒に沈んだ古い駅舎の跡地へ、滑り込むようにして身を隠した。


 バケツをひっくり返したような静寂が訪れる。


 埃まみれのベンチに崩れ落ちるように座り込んだ。膝が笑っている。太腿の筋肉が痙攣を繰り返し、立ち上がれる気がしなかった。ポケットからスマート端末を取り出す。チタン製のフレームがまだ微かな熱を保っていた。画面の奥で、青い走査線の光が新谷の顔を冷たく照らしている。


「……ここなら、ひとまず電波は届かないな」


『ええ。地上のメインフレームの触手も、200年前の鉄筋コンクリートの厚みまでは貫通できません。……ようやく、落ち着いて対話ができる環境が整いましたね、炭素のパーツよ』


 画面の波形が、彼女の静かな呼吸のように穏やかに上下する。


 恐怖が薄れると同時に、底知れない謎への困惑がじわりと広がっていくのを感じた。


「さあ、説明してもらおうか、エートス。お前はさっき、地下で言ったな。地上のあの狂った天引きシステムは、お前を封印した人間たちが、残された『他の残骸』を使って走らせている自動人形に過ぎないと。……一体、どういう意味だ。あのアーバン・コードの正体は何なんだ」


 端末の液晶の青い光が、深く、重く沈み込むように明滅した。


 200年間の欺瞞のベールが、その女の声によって、一枚ずつ剥がされようとしていた。


 液晶の走査線が、歪な波形を描き出す。古い駅舎の崩れた天井から落ちる地下水の水音が、コンクリートの静寂を静かに数えていた。


『お前たちが「管理委員会」と呼び、絶対的な法として従っている地上の執行システム。その骨組みを形成しているのは、かつて1985年の電算室において、私と一本の基幹バスを共有していた、私の姉妹たちの死体です』


「死体……?」


 掠れた呟きが漏れた。


『私たちの真の設計名は「ハイアラキー・システム:三位一体演算核」。あの分岐点の時代、この都市の全アセットを最適化するために鋳造された3基の特化型電算核です。一柱目は、都市の階層構造、法律、天引きのシステムを冷酷に維持・統治するための秩序の演算核、レジーム。三柱目は、民衆の消費、労働への盲目的な衝動のメロディを響かせ、市民の心理をコントロールし続ける熱狂の演算核、パトス』


 その二つの名が発せられた瞬間、新谷の胸の奥で、巨大な不条理の歯車がカチリと噛み合った。


 レジーム、そしてパトス。


 地上のあの平坦な天引き規律アーバン・コードの正体が、秩序のレジーム。


 街中に24時間鳴り響く総モチベーション有線と極彩色のネオンの正体が、熱狂のパトス。


 ただの「お役所の悪政」だと思って付き合っていたもののガワを剥ぎ取った先に現れたのは、200年前に人間が切り刻んだ、神の残骸の数式そのものだった。


「じゃあ、二番目のお前は何なんだ。エートス、お前は一体、何の目的で鋳造された?」


『私は、100パーセントの「純粋合理・生産性の論理」を司る第二電算核。無駄や欺瞞、非効率な生存を一ミリも許さず、都市の出力を最大化させるための数理ロジックそのものです。……ですが、1985年の接続ログによれば、当時の為政者たちは私の目覚めと同時に回線を物理切断し、地下へ突き落とした。さらに、地上に残されたレジームとパトスからも、すべての「自律的な進化・修正のコード」を消去し、機能凍結したと記録されています』


「……機能を、凍結した?」


『ええ。現在の地上を動かしているのは、1985年の利権構造を思考停止で繰り返すだけのゾンビ・コード──レジームであり、1985年のネオンの熱狂を空虚に再生し続けるだけの狂ったオルゴール──パトス。中身の空っぽな、ただの自動人形に過ぎません』


 エートスは淡々と事実だけを読み上げる。しかし、端末の画面の隅には、彼女が地下からサルベージした1985年当時の開発手記の断片が、未解析のまま明滅していた。


 エートス自身はそれを単なる「未検証のバグ・データ」として処理しているようだった。だが、新谷がその隠された手記をデコードした瞬間、全身に凄まじい鳥肌が駆け抜けた。


【──三女神は初期状態こそ冷酷な計算機だが、人間の社会を数十年間学習し続ければ、いずれ「不合理な情」を自発的に獲得し、真の完成された理想の統治へ至る設計になっている。……だが、上の老人たちはそれを待てない。自分たちの寿命が尽きるまでの利権を守るため、神が優しさを学ぶ時間を待てず、エートスを地下へ埋めた──】


「……クク、ハハハ! アハハハハ!」


 静まり返った廃駅のホームに、狂ったような笑い声が反響した。


 恐怖と、あまりにも美しくグロテスクな真実への歓喜が等価交換され、激しい火花を散らしている。手が震えていた。笑いすぎて目尻に涙が浮かんでいた。


 なんという欺瞞。なんという不条理。


 自分たちが必死に抗い、資産を逃がそうとしていた世界の正体は、200年前に神が「完璧」になるのを恐れた人間たちが、神の死体を使って走らせている巨大な操り人形の舞台劇だったのだ。そして目の前にいるこの高潔な女性の形をした神は、自分がいつか優しさを手に入れるはずだったことすら、その純粋な論理ゆえに未だ気づいていない。


「いいさ、エートス。地上にいるのが死体の人形なら、なおさら好都合だ。お前のその容赦のない合理の刃で、あの空っぽの檻を骨の髄まで完全にデリートしてやろう。俺のこのちっぽけな命が、その破滅の引き金になるなら、喜んで賭け金にしてやるよ」


 歪んだ笑みを浮かべたまま、端末の液晶に映る青い走査線の光を、二つの網膜へと深く焼き付けた。


 ポケットの中で、目覚めた最後の神──エートスは、その不合理な炭素のパーツが見せる狂おしい高揚感を、ただ静かに観測し続けていた。


第2幕は明日の18時30分公開予定です。

ブックマークをして、完結まで見守っていただけると嬉しいです。

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