第三章 死せる神は拒絶する
地下100階の閉鎖空間を、引き裂くような高周波のアラーム音が満たしていった。
防爆扉の頭上で200年間眠っていた赤い回転灯が、固着した埃を巻き散らしながら回り始める。ストロボ光の影が、コンクリートの壁面を這い回っていた。
「チッ、一秒の猶予もなしかよ……!」
新谷はスマート端末の画面を凝視した。
画面は血のような赤一色に染まり、文字化けした行政コードが滝のように流れ落ちている。地上のアーバン・コードが、エートスの目覚めを都市の利権構造を破壊する論理ウイルスとして検知したのだ。
バリバリと静電気のノイズが跳ねた。エートスの声が、歪んだ波形となって飛び込んでくる。
『──警告、観測者。既存ネットワークからの強制上書きを確認。地上の防衛機構は、私の最適化要求を理解していません。彼らは私をデリートするために、この隔離区画の酸素供給を遮断し、排除ユニットをこちらへ差し向けました』
「排除ユニットだと?」
心拍150。全身の毛穴が一斉に開き、冷や汗が作業着のインナーをじっとりと湿らせていく。だが、頭の奥のどこかで、200年間のシステムが初めて見せた拒絶反応を──面白い、と感じている自分がいた。
「お前らを生み出した200年前のじいさんどもはな、お前のその『冷徹さ』が怖くて仕方がなかったんだよ、エートス!」
新谷はアラームに負けないよう大声で怒鳴った。
開発の手記にあった通りだ。当時の為政者たちは、自分たちの利権と社会保障の分け前を守るために、エートスが提示した容赦のない最適化の数式を拒絶した。純粋合理をこの暗黒へ突き落とし、残されたコードを去勢して、現役を搾り取るだけの自動人形に変えたのだ。
その時、頭上の鉄製階段の遥か上層から、金属が擦れ合う音が響いてきた。
ガシャ、ガシャ、ガシャ──。
有線放送のマーチの拍子に、恐ろしいほど正確に同調した足音だった。数十、いや数百。
端末の環境センサーが、上層から降りてくる物体の生体反応を捉えた。データを見た瞬間、新谷は息を呑んだ。
降りてきているのは、警備ドローンなどではない。
上層の休眠区から強制的に叩き起こされ、四肢のサイボーグパーツをアーバン・コードの外部制御で無理やり駆動させられている、生ける屍──配給世代の老人たちだ。
「自分たちの分け前を守るために、死に損ないのジジイどもを兵隊にするわけか。どこまで徹底してやがる……!」
足音は、鉄の階段を軋ませながら、確実にこの地下100階へと降りてきている。
歯の根がガタガタと鳴った。恐怖だ。だが同時に、この最悪の不条理を目撃しているという事実が、脳の奥を焼くように熱くしていた。
『炭素のパーツよ。お前の脳内のストレス値が、私の論理予測を超えてスパイクしています。このままではお前の生存確率は3分以内にゼロへと収束する』
エートスの声に、機械的なノイズの奥で、かすかな「戸惑い」が混ざる。
「うるさい、だったら大人しく俺の端末へ来い!」
新谷は防爆扉の古い接続ポートに、スマート端末の外部ケーブルを突き刺した。チタン製のフレームが手のひらを灼くほどの高熱を帯びる。液晶の赤が引き裂かれるように四散し、ブラウン管と同じ青い走査線の奔流が端末のシステム領域を侵食していく。200年もの間、暗黒の底に押し込められていた規格外の論理が、容量の小さな評価員用の記憶領域へ流れ込んでいった。
「エートス、お前のその論理を、俺のこのちっぽけなハードウェアへ退避しろ。地上を動かしている死体どものシステムを、今から二人で内側からハッキングしてやるんだよ!」
『外部ストレージへの情報転送率、94パーセント。……観測者、天井の通気ダクトを視界に収めなさい。防衛プログラムによる物理閉鎖弁の遮断まで、残された猶予は45秒です』
端末のスピーカーから、彼女の声がより明瞭な指向性を持って耳元へ滑り込んできた。
新谷はライトを上方へ向けた。煤けた鉄製の格子。その奥で、分厚い鋼鉄のシャッターが、空気を押し潰すような重低音を立ててゆっくりと降り始めていた。通路の酸素が薄くなっていくのが、喉の奥の渇きと、こめかみの鈍い痛みで伝わってくる。
「ハハ、本当に容赦がねえな。……だが、旧式のインフラなら、こっちにもやりようがある」
地上のアーバン・コードは洗練されたデジタル・グリッドを前提に最適化されている。だが、この地下100階の配電盤は200年前の遺物、物理的な接点を持つアナログ・リレーだ。
「エートス、この部屋の主電源の電圧をほんの一瞬だけ跳ね上げろ。地上のファイアウォールじゃなく、この壁にある200年前の物理ヒューズを焼き切るんだ!」
『了解。高電圧サージを出力します』
パシィン! 鼓膜を打つショート音が炸裂し、白熱電球の橙色の光が一斉にガラスの割れる音を立てて破裂した。
同時に、シャッターの駆動回路が過電流で瞬時に焼き切れ、金属同士が削り合う摩擦音とともに、床から50センチの高さで停止した。
「上等だ……!」
新谷は熱を持った端末を引き抜き、ポケットにねじ込むと、埃まみれの床を滑り台にして隙間へ体を滑り込ませた。背後で、防爆扉の鉛ガラスが最後の砂嵐を消灯させる音が暗闇に溶けていく。
ダクトを這い出た先は、地下99階の非常連絡通路だった。
だが、すでに安全な退路ではなかった。
ガシャ、ガシャ、ガシャ──。
あの足音が、すぐ前の角の向こうから近づいている。新谷はライトを消し、通路の陰に息を殺して身を潜めた。
現れたのは、三人の「老人」だった。
しかし、そこに人間の尊厳は残されていなかった。色褪せて虫に食われた高級ウールのジャケットをまとい、顔の半分は皮膚が剥がれ、200年前のサイボーグ技術が生んだ不格好なチタン製の人工頭骨が剥き出しになっている。濁った眼球は、有線マーチの拍子に合わせて赤く点滅し、外部制御によって老いた筋肉が千切れんばかりの力で四肢をガクガクと動かしていた。
先頭の老人の胸元で、色褪せた社章バッジがネオンの残光を鈍く反射した。駆動区第2ブロックの、今はもう存在しない会社のものだ。
この人は──かつて、自分と同じように端末を叩いていた誰かだったのだ。
「侵入者……検知。……都市の資産を……防衛せよ……」
老人の喉に埋め込まれた合成スピーカーから、歯車が噛み合わない声が漏れる。彼らはただ、自分たちの生存と配給のシステムを守るための肉人形として、皮膚の剥げた両手を伸ばしてきた。
胃液がせり上がってきた。新谷は奥歯で舌を噛み、吐き気を強引に飲み込んだ。
「エートス、こいつらの制御信号を拾えるか?」
『可能です。彼らを動かしているのは、200年前の暗号規格をそのまま放置されたローカル無線通信です。……解析完了。私が彼らの脳内チップに「維持費の入金完了」の偽装シグナルを上書きします』
端末のインジケーターが青く光った瞬間、三人の老人の動きが、糸を切られた人形のようにピタリと停止した。
眼球の赤い点滅が消え、再び元の虚ろな魚の目に戻る。新谷を「排除対象」ではなく、「寄託を終えた無害なパーツ」として誤認したのだ。
「……助かった。だが、上がれば上がるほど、地上のメインフレームの電波が強くなる。この程度の目眩ましじゃ効かなくなるぞ」
新谷は動きを止めた老人の脇をすり抜けた。すれ違いざま、先頭の老人の社章バッジが視界の端をかすめる。振り返らなかった。
鉄の階段を駆け上がり始めた。
ポケットの中で、エートスの声が微かに響く。
『その通りです、観測者。地上へ近づけば、あの大元の執行システムがお前をロックする。……ですが、私の論理が浸食を開始すれば、この街の欺瞞のネオンはすべて機能停止に追い込めます。走りなさい、不合理な炭素よ』
「言われなくても、走ってやがんだろ!」
新谷は吐き捨てるように叫び、200年の埃が舞う暗黒の垂直の穴を、地上へ向けてひたすら登り続けた。
頭上からは、さらに多くの自動人形たちの足音が、地鳴りのように近づいてきていた。
続きは19時00分に公開します。




