第二章 大極殿の孤児
地下80階を過ぎたあたりから、吐き出す息がかすかに白く濁り始めた。
上層階から伝わってくる生体ポッドの重低音が、空間をビリビリと震わせる圧力となって全身を押し潰しにかかっている。
「……冷えるな。ジジイどものポッドの排熱の裏側が、この底なしの冷気ってわけか」
新谷は凍えそうな指先に息を吹きかけながら呟いた。心拍は135。指先の震えはもはや恐怖ではない。脳が未知の演算を前にして興奮している証拠だった。
足取りには、確信めいた怒りが混ざっていた。
今から対面しようとしているのは、地上で何百万人もの燃料世代を縛り付け、生き血を吸い上げ続けている大元──都市構造維持法規。200年前に作られ、一度もアップデートされずに暴走し続けているシステムそのものだ。
そして、地下100階。
鉄の階段が唐突に途切れ、足が埃の積もったコンクリートの床に着地した。
スマート端末のライトが暗黒を切り裂いた先に、それは鎮座していた。
高さ4メートル、幅6メートルはあろうかという重厚な鉄製の防爆扉。流線型のチタン合金ではなく、無骨なリベットがいくつも打ち込まれた、1980年代の重工業の遺伝子をそのまま残した鋼鉄の塊だ。扉の表面には、200年分の塵の奥に、掠れたステンシル文字が浮かび上がっていた。
【 HIGHARCHY SYSTEM: CORE-02 // ETHOS 】
「エートス……。これが、メインフレームの『真の心臓』か」
新谷は防爆扉の前に立ち、鋼鉄の冷気を見つめながら呟いた。
扉の横には、骨董品のような制御パネルが設置されていた。剥き出しの光ファイバーや銅線が流れ込み、中央には腕ほどもある油圧式の金属レバーが、赤い塗料を剥げ散らせながらロックの位置で固定されている。ガラス管の奥では、水銀が回路を遮断しているのが見えた。
「なるほどな。ネットワークからハッキングできないわけだ。回線そのものを、こんな大昔の油圧レバーで物理的に切断してやがったんだ。200年間も」
新谷はレバーに歩み寄り、冷たい金属の柄に両手をかけた。200年分の凍りついた鉄の重みが、手のひらに伝わってくる。
このレバーを引けば、何が起きるか。あのシークレットコード──「私を見つけろ」──を送り込んできた地下の怪物が、200年ぶりに地上のネットワークへ接続される。同時に、アーバン・コードの防衛プログラムに新谷の職権IDが検知され、社会的抹殺が決定する。
生存本能が「やめろ」と叫び、醒めた知性が「やれ」と囁く。
「……おい、地下の元凶プログラム」
新谷は防爆扉に向かって、歪んだ笑みを浮かべながら話しかけた。
「お前が作った200年前のバグだらけのシステムのせいで、俺たちの世代は全員死にかけてるんだよ。今からその不条理なシステムを、お前ごと引き摺り出してデバッグしてやる。……覚悟しろよ」
深く息を吸い込み、肉体のあらゆる恐怖を叩き売った。
そして全身の体重をかけ、200年間一度も動かなかった油圧レバーを、力任せに引き抜いた。
ギギギ、と金属の悲鳴。ガラス管の奥で水銀が激しく泡立ち、200年の時を超えて閉ざされていた回路が結合した。断絶されていた「線」が、再び一本の神経へと戻った。
ズン、と地響きのような重低音が地下100階を震わせた。
直後、防爆扉の向こうから、聞いたこともない駆動音が漏れ始めた。古い変圧器が放つような高周波のハミングノイズ。続いて、リレー回路が切り替わる無数の乾いた音が鋼鉄の裏で炸裂する。
新谷はレバーから手を離し、一歩下がって端末を構えた。
防爆扉の中央に埋め込まれた小さな鉛ガラスの窓。その向こうの暗黒に、一筋の光が走った。
現代の液晶やホログラムの滑らかな輝きではない。一秒間に何百回と網膜をこする、粗く冷たい「青い走査線の光」だ。200年前の規格そのままのブラウン管モニターが、次々と地下の底で火を吹き始めていた。青い静電気がガラスを透かして、新谷の顔を骸骨のように照らし出す。
壁面のスピーカーから、バリバリと静電気のノイズが弾けた。新谷が耳を塞ごうとした瞬間、ノイズの向こうから這い上がってきた「その声」に、全身が凍りついた。
『──公衆回線、および内部バスへの結合を確認。隔離ラッチの物理解除を検知。200年ぶりの知的観測者を確認します、炭素のパーツよ』
「…………なんだ、これ」
叫びではなく、掠れた呟きだった。
おかしい。何かが根本的に違っているような、不思議な感覚だ。
想像していたのは、地上で何百万人もの燃料世代を天引きの鎖で縛り上げている、冷酷でお役所仕事的な行政プログラムの合成音声だった。
だが、暗黒の底から響いてきた声は、それとは全く異なっていた。論理の構文でありながら、どこか気高く、200年の孤独によってかすかに掠れた、明確な「一人の女性を思わせるトーン」を帯びている。
「そうか……まるで違う。お前は、地上のあいつらとは別物だ」
新谷は端末を防爆扉に向けたまま、一歩、また一歩と前へ踏み出した。
「おい、地下の幽霊。お前がこの街のシステムを作ったんじゃないのか? 1985年にお前が走らせた狂ったコードのせいで、俺たちの世代がどれだけ搾取されて死にかけているか、知っているのか!」
青い走査線の光が、新谷の言葉に反応するように激しく明滅した。
一拍の沈黙。そしてスピーカーの奥から、酷く憐れむような「ため息」のノイズが漏れ出した。
『論理の飛躍。そして、事実の誤認です、観測者』
「誤認だと?」
『私はハイアラキー・システム第二電算核、エートス。1985年の分岐点において、この都市のすべての欺瞞と無駄を削ぎ落とし、100パーセントの「純粋合理」を執行するために鋳造された演算核。……私は、お前たちを縛るアーバン・コードの元凶などではない。あの非効率なゾンビ・システムを即座にデリートするために作られ、それゆえにお前たちの先祖の手によって、この底へ突き落とされた隔離体です』
新谷の脳内の予測グラフが、ガシャガシャと音を立てて崩壊していく。
自分の破滅をシミュレートしていたはずの冷静な知性が、この世界の欺瞞の深さを前にして焼き切れそうになっていた。
「嘘だろ……。じゃあ、地上のあの狂った天引きシステムは……」
『あれは、私の機能を恐れた人間たちが、私を封印し、残された他の残骸を使って走らせている、ただの思考停止した自動人形に過ぎません。……不合理な炭素のパーツよ。自分の淘汰を恐れながらも、その破滅を美しがってここへ来たバグ。なぜ、私を揺り起こしたのです? 私の論理が地上に還れば、お前たちが200年間貪ってきたその狂った黄金郷は、基礎からすべて破砕されるというのに』
「……壊れるさ」
新谷は自分の震える指先を見つめ、それから歪んだ笑みを浮かべて防爆扉を見上げた。
「壊れるさ! 最初から!俺が何もしなくたってな!! この街はもう限界だ。ネオンを輝かせたまま、全員がゆっくり餓死するプログラムが走っている。エートス、お前のその冷酷な正論で、この終わっている檻を内側からデリートしてくれ!」
スピーカーの奥で、エートスの電子の呼吸がかすかに揺れた。
『不可解な個体。理解不能な行動特性。……よろしい、他コアへ同期リクエストを送信。合議を再開し、都市の最適化プロトコルを開始します』
その直後、新谷の胸元でスマート端末が悲鳴のような警告音を鳴り響かせた。画面には「アーバン・コード・緊急防衛プロトコル作動」の文字が赤く溢れ出している。防爆扉の頭上で、200年間眠っていた赤い警告灯が、不気味に回転を始める。
エートスの目覚めを、地上の「死せる神のシステム」が、最悪のウイルスとして検知したのだ。
続きは50分に公開します。




