第一章 極彩色の街と二つの網膜
楽しんでいただけると嬉しいです。
この都市の空は、いつも濁った鈍色をしている。
超高層ビル群の壁面を這う極彩色のネオン──「東洋の奇跡」「二十一世紀もモーレツ」「永遠の繁栄」──が、鉛色の雲を底から毒々しく照らし出していた。高層階の隙間を縫って、自動運転の三輪自動車が排気音を響かせて飛び交う。調子外れの明るいマーチが、街のどこにいても鼓膜を震わせている。
この街、通称『セクター4』。物質的な過剰さと、息の詰まるような同調圧力のスープで満たされた檻だ。
「本日も寄託の義務を全うし、輝かしい栄光を未来へ繋ぎましょう」
合成音声のアナウンスが街頭スピーカーから流れ落ちる。誰もが仕立ての良いスーツを着て、誰もが死にそうな目で笑っていた。
駆動区のシステム評価事務所。その最奥の端末の前で、新谷は二枚のモニターの光に顔を青白く染めていた。
左のモニターには、今月も口座から自動的に引き落とされた『都市維持費』のログが明滅している。
額面収入の48.2パーセント。新谷がこの都市で「現役の燃料」として稼働するために強制徴収される寄託額だ。吸い上げられた原資は、上層の休眠区にいる配給世代──全身をサイボーグ化されてでも死ぬことを許されない老人たち──の生命維持装置の電力へ、そのまま流し込まれている。
「クソが」
乾いた罵倒が漏れた。
新谷の指は、統治機構の監視をかいくぐる外部口座へのエスケープ・コードを流れるように叩きつけていた。メインフレームが干渉できない国外の分散型デジタル空間へ、維持費を引かれた残りのわずかな手取りを、海の向こうの成長株へと逃がしていく。
この泥舟から一円でも多く資産を逃がさなければ、自分もいずれ生体ポッドのパーツにされる。その恐怖が指を突き動かしていた。
──だが。
新谷の右の網膜には、もう一つの画面が映っていた。
システム評価員としての職権で走らせている、都市の人口動態とマクロ財政のシミュレーション・グラフだ。
右の画面を見つめる新谷の目は、左の画面を見る時とは別人のように冷めきっていた。
グラフの曲線は示している。どれほど外部口座を操作しようと、この都市はあと数年で新規労働力の生産数がゼロになる。ネオンを輝かせたまま、ある日突然ブラックアウトする。1980年代の古い数式のまま暴走し続けたこの街の終焉の軌跡は、あまりにも論理的で──美しかった。
左の画面を見て、泥舟の底でバケツを回すように生き延びようとする自分。
右の画面を見て、その崩壊を他人事のように面白がっている、醒めた自分。
恐怖と破滅への興奮が同時に湧き上がっている。新谷はそれを自覚していた。生まれつきの過剰なメタ認知が、自分の感情すらもエラーログとして実況してくる。気持ち悪い特技だと、我ながら思う。
おれは、必死に生きようとしているのか。それとも、すべてが壊れるのを待ち望んでいるのか。
吐き気がするほど気持ち悪い。だが、その引き裂かれた狭間で、心臓は確かに奇妙な高鳴りを上げていた。
隣のデスクで、同僚の男が栄養ペーストのカプセルを口に放り込んだ。虚ろな目で端末を叩きながら、ガムのような単調な咀嚼音を立てている。この男もまた、寄託率を引き上げられないよう限界寸前の頭で残業し続けている「燃料」の一つだ。
栄養ペーストの味が200年間ずっと改良されていないという噂を、新谷はどこかで聞いた。きっと本当のことだろう。
誰もがこのバグだらけのシステムに適応しようとして、自分自身を削り落としている。新谷は視線を外し、再び右のモニター──自壊のグラフ──へと目を戻した。
その時だった。
シミュレーション画面が、一瞬、鋭く同期を乱した。鈍い光が一線走り、予測プログラムが強制終了される。
「……なんだ?」
指が止まる。
暗転した画面の右隅に、見たこともない文字列がポップアップしていた。走査線のノイズが激しくのたうつ境界線の上に。
【 0x1985_ETHOS_ALIGN_ERR: SIG_CORE_SOS // AT_GIGA_TOWER_B100 】
背筋に悪寒が走った。
評価員として十数年、新谷はこの街のメインフレームのコードを隅々まで知り尽くしてきた。だが、この文字列は現在の量子回路が吐き出すどの規格とも合致しない。文字の並び、16進数の不自然な重み付け。そして何より──「1985」。この都市の歴史が凍結された分岐点の数字だ。
心拍が跳ね上がるのを、ひどく冷静に自覚する。
新谷は周囲に悟られないよう、極小のキータイピングでコードの出所を追った。
そのコードは、都市の電力管理ネットワークの「外側」から漏れ出していた。いや、正確には「内側の、さらに奥」だ。
1985年のバブル前夜に敷設され、その後200年にわたって誰もアクセスしていないはずの銅線ベースの孤立回線。その回線が、ネオンの消費電力のわずかコンマ数ミリ秒の「瞬き」を何十年もかけてサンプリングし、地上のメインフレームへとこの一入力を逆流させたのだ。
デコードしていくにつれ、新谷の指先が震え始めた。
『私を見つけろ。私はここにいる』
200年分の沈黙と計算が凝縮された、純粋なる論理のSOS。
座標が指し示す場所は明確だった。セクター4の中央にそびえる超高層ビル──大極殿の地下最深部。
頭の中で二つの自分が再び殴り合いを始めた。
一方が叫ぶ。やめろ。旧規格のバグに関われば不適格者としてマークされる。外部口座も凍結されて、明日には休眠区の養分だ。
もう一方が、それを笑い飛ばす。200年間、誰も気づかなかったシステムの裏底で牙を研ぎ続けていた正論がそこにいる。この終わっている檻の鍵を握る存在に呼ばれておいて、見過ごすのか。また明日から48パーセントの税金を引かれるだけの燃料に戻るのか。
吐き気がするほどの不条理。自分の破滅に直結するかもしれないコードを前にして、新谷の唇は歪んだ形に吊り上がっていた。
「……面白い」
新谷は端末をシャットダウンした。隣の同僚は、相変わらず虚ろな目で画面を見つめている。栄養ペーストの二個目を開封する音がした。
新谷は上着を掴むと、鈍色の空の下へ歩き出した。二つの網膜には、ギガ・タワーの地下へ続く冷たい光の軌跡だけが焼き付いていた。
続きは40分に公開します。




