第三話:元に戻れた鶴
【一日目】
翌朝。男が目を覚ますと、家の外からは昨日と変わらぬ穏やかな川のせせらぎが聞こえていた。布団を畳み、土間へ出る。ギィと音を立てて木戸を開けると、山の朝の空気は澄み渡るように冷たく、対岸の杉林には白い薄霧が帯のように漂っていた。
川のほうから、バシャリ、と水を強く打つ音が聞こえてきた。
鶴が朝の漁をしているらしい。
しばらく戸口で待っていると、霧の奥から白い影がすうっと現れた。川から戻ってきた鶴である。その くちばしには、生きのいい山女魚が二匹、威勢よく尾を跳ねさせていた。
鶴はいつもと同じように魚をくわえたまま、誇らしげな足取りで板敷きまで歩いてくる。ただし、昨日から妙に胸を張っていた。首の角度も、いつもの倍くらい高い。歌舞伎の練り歩きでも模しているかのように、大袈裟に脚を持ち上げて歩く。
男は囲炉裏の傍らから、その一連の動作を静かに見守っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま戻りました」
鶴はくちばしから魚をポトンと板敷きの笹の葉の上に置いた。
「本日も見事な獲物でございます」
「ありがとうございます」
鶴は自画自賛するように、さらにグッと胸を突き出した。
男は笹の上の山女魚を見た。ピチピチと跳ねている。それから、その横で仁王立ち(鶴立ちと言うべきか)をしている鶴を見上げた。あまりにも胸を張りすぎて、後ろに倒れそうに見える。
「……機嫌がいいんですか」
「いえ」
鶴は一旦首を縮め、人差し指ならぬくちばしの先で己の胸を指すような仕草をした。
「オスらしくしているのでございます」
「そうですか」
鶴は胸を張ったまま、まるで警護の武士のように魚の傍らに佇んでいた。
男には、その動作が「オスらしさ」とどう結びついているのか、最後までよくわからなかった。
【二日目】
二日目の朝も、鶴は川から山女魚を二匹獲ってきた。
男が薪を割るカァン、カァンという乾いた音が山肌にこだまする中、鶴は薪割りの作業現場から三歩ほど離れた位置で、じっと男の作業を見守っていた。
割れた薪が跳ねるたびに、鶴はびくっと首を伸ばしたが、すぐに「ふん」と鼻で笑うような仕草(鶴に鼻はないが)をして、再び胸を張る。
男が声をかける。
「危ないですよ」
「オスの鶴たるもの、薪の片片ごときで退くわけにはまいりません」
頼まれてもいない意地を張っていた。
男はそれ以上何も言わず、割れた薪を黙々と揃えて束ねた。
昼過ぎには、鶴はまた大股で部屋の中を何往復も歩き回っていた。その足音がいつもより少しだけドタバタとうるさかったが、男はただ静かに茶を飲んでいた。
【三日目】
三日目。外はどんよりとした曇り空で、今にも雨が降り出しそうだった。
囲炉裏のそばで、男が鉄鍋の煤を布で拭っていると、すぐ隣で羽を整えていた鶴が突然、咽喉を鳴らした。
「コォォ……」
地響きのような、低い声だった。
男は手に持っていた湯呑みを静かに板間の上に置いた。
「どうしました。喉に骨でも引っかかりましたか」
「違います! オスの声でございます!」
「そうですか」
「昨日よりさらに低く、深みのある声になっていると思われませんか?」
鶴は期待に満ちた目で男を覗き込んできた。
「わかりません」
「……そうでございますか」
鶴はがっくりと翼を落とし、しばらくの間、板間の合わせ目をじっと見つめていた。
しかし、「ハッ」と我に返り、何事もなかったかのようにすっと首を伸ばして胸を張り直した。その健気とも言える空回りぶりに、男の口元がごく僅かに緩んだが、鶴が気づくことはなかった。
【四日目】
四日目。雲が切れ、眩しいほどの秋晴れとなった。
鶴はやはり川から生きのいい魚を二匹、誇らしげに獲ってきた。
男の前を通る。
胸を張る。
すれ違いざまに、チラリと男の反応を見る。
男は遠ざかっていく鶴の、妙に力の入った後ろ姿を見送った。
(これが本当に、オスになったことによる本能的な変化なのか。それとも、単に『オスになった』という事実によって機嫌が良くなり、舞い上がっているだけなのか……)
男の頭の中で、その答えが出ることはなかった。
【五日目】
五日目の夕暮れ時。室内には茜色の光が斜めに差し込んでいた。
鶴は囲炉裏の横で、念入りに毛繕いをしていた。翼を大きく広げると、部屋の中にふわふわと白い羽毛が舞う。そのうちの一枚の羽が、すうっと落ちて床に届いた。
鶴はそれを見つけると、くちばしで器用に拾い上げ、自分の翼の隙間へそっと押し戻した。その愛くるしい動作は、昨日までの鶴と何一つ変わらない。
男は薪組みを直し、新しい楢の木を一本放り込んだ。ぱちぱちと威勢のいい音が響く。
鶴はしばらくの間、揺れる炎の赤を静かに眺めていたが、ふいに思いついたように口を開いた。
「人というものは、実に不思議なものでございますね」
「そうですか」
「はい」
鶴は首を軽く捻りながら言葉を続けた。
「自分の身の回りの変化や、姿が変わることに対して、あまり頓着なさらない」
「人によると思います」
「そうなのですか?」
「たぶん」
鶴は不思議そうに首を小傾げた。
「では……もしや、以前の私が庭先で踊っていたときも……」
「ありましたね」
「ただ魚が二匹獲れて、嬉しくて浮かれていただけだと思っておられたのでございますね」
「楽しそうだなと思って見ていました」
鶴の羽繕いをする動きが、ピタリと固まった。
「……あの舞を、でございますか?」
「はい」
「あ、あれは求愛行動でしてよ!?」
「そうだったんですか」
「もう!」
鶴の首が八の字を描くように激しく躍動した。
「翼を最大限に広げ、身体を左右に揺らし、軽快に跳ね、愛を奏でる声を上げていたではございませんか! あれのどこが単なる魚釣りの喜びになるのですか!」
「その直前に、魚を四匹持って帰ってきたので。たくさん獲れて美味しかったのかなと」
鶴は言葉を失い、固まった。
真っ黒な瞳が、呆れと、脱力と、他にも混ざり合った複雑な色を帯びて、男をじっと見つめている。
「……なるほど」
「はい」
「そういうことでございましたか」
鶴は妙に深く納得した様子で、何度も首を縦に振った。そして、どこか吹っ切れたように再び毛繕いを始めた。
「人というものは、鶴のことをよく見ているようで、実はまったく見ておられないのでございますね」
「そうかもしれません。申し訳ない」
「……」
鶴は一回翼を休め、男を見つめた。
「これは、こういう意味です。という解説は必要ですか?」
「そうですね、誤解が減る」
「わかりました」
それきり、鶴は何も言わなくなった。部屋にはただ、薪が燃える小さな音だけが満ちていた。
【六日目】
六日目は、朝からあいにくの土砂降りだった。
樋から落ちる水滴が地面を叩く音が激しく響き、とても川へ出かけられる天気ではない。
鶴は退屈そうに家の中で過ごしていた。首をぐーっと高く伸ばしてみたり、極限まで縮めて亀 のようにしてみたりしている。
男は囲炉裏の土間で、静かに薪割り用の小斧を使って、焚き付け用の細い木切れを作っていた。
すると、暇を持て余した鶴が、何を思ったのか男の真前を「オスらしく」練り歩き始めた。
男の目の前でぴたりと止まり、胸を張る。そして、また歩き出す。
男は薪を削る手を止めた。
「何をしているんですか」
「歩いております」
「そうですか」
「オスらしく、堂々と」
「なるほど」
鶴は自分の行いに大変満足した様子で頷くと、また往復を始めた。男は一呼吸置くと、再びトントンと静かに木を削り始めた。雨の日の、穏やかで妙な時間が過ぎて行った。
【七日目】
七日目の朝。雨は上がり、山肌からは澄み切った雲海が立ち上っていた。
鶴が男の真前に立ち、凛とした姿勢をとった。
「戻ります」
「はい」
「術をかけ直します。今度は間違えず」
「頑張ってください」
鶴は静かに両目を閉じた。
左右の大きな白い翼を、ゆっくりと、最大限に広げる。朝の光が薄い羽を透かし、白銀色の光を放った。鶴は口の中で何か呪文を唱えるように、喉の奥から低く声を響かせた。男の耳には理解できない音の羅列であったのだが、不快ではなかった。
室内でほんの少し、風が巻き起こった。囲炉裏の灰がほのかに舞い上がる。男は目を細めてその光景を見守った。
まもなく、つむじ風が収まった。鶴がゆっくりと目を開ける。自分の身体のあちこちを確かめるように、翼をバサバサと動かし、首を左右に捻り、長い脚を交互に持ち上げた。最後にくちばしの感触を確かめると、パッと男を見た。
「戻りました!」
翼が歓喜に揺れた。
「そうですか」
「はい!」
鶴は嬉しそうに身震いをした。
「無事に戻ることができて嬉しゅうございます、やはり、いつもの自分が落ち着きますわね」
男は鶴を見た。七日前と全く変わらぬ眼差しで、頭から足先までを順番に眺める。
白く美しい羽毛にしなやかな首。細い脚。黒い目。長いくちばし。
やはり、男には何が変わったのか最後までよくわからなかった。
昨日までの鶴と、今の鶴。その肉体的な違いなど、人間である男の目には何一つ見出せなかった。
けれど。
朝になれば川へ行って魚を獲ってくることも。囲炉裏のそばで身を寄せ合うように羽を整えることも。何か少しでも変化があると大騒ぎして走り回ることも。嬉しいことがあると、抑えきれずに翼を跳ねさせることも。
そのすべてが、男の鶴であった。
男にとっては、それだけでよかった。
◇
山里の四季は、静かに、しかし確実に移り変わっていった。
春には山桜が谷を淡い桃色に染め、残雪の隙間から葺の薹が顔を出した。男がそれを摘んで帰ると、鶴は珍しそうにくちばしでつついた。
夏には青々とした緑が山を覆い、川のせせらぎが冷涼な風を運んだ。夜になれば囲炉裏の火を落とし、二人は月明かりの中で風の音を聞いた。
秋には紅葉が山を赤と黄色に塗りつぶし、落葉の絨毯が家を包んだ。
そして再び、寒烈な風が吹き抜け、冬が訪れる。
その季節の巡りの中で、鶴は諦めることなく「人化の術」の練習を重ねていた。
時には術の途中で失敗し、右の翼だけが妙にねじれたような格好になって「助けてくださいませ!」と叫びながら転がり込んできたこともあった。
またある時は、首から上だけが人間の女性のようになりかけて、自分の姿を水溜まりに映して「ギャーッ!」と悲鳴を上げ、そのまま山へ逃げ出しそうになったのを男が宥めて連れ戻したこともあった。
男には、なぜ鶴がそこまでして人間の姿になりたがるのか、本当の意味では理解できていなかったかもしれない。
ただ、失敗しては落胆し、それでもまた羽を整えて健気に練習に励む鶴の姿を、男はいつでも温かい眼差しで見守り続けた。失敗した日には、いつもより少し多めに魚を焼き、静かに傍らに置いてやった。
煙草の葉の減りが遅いことに気付くのは、もう少し後になる。




