第四話:人になれた鶴【完】
鶴は息を飲んだ。囲炉裏の微かな炭の爆ぜる音だけが響く部屋で、おそるおそる自分の手元を見つめる。
そこにあったのは、細く滑らかな肌に包まれた五本の指だった。爪の丸みも関節の節々もすっきりと整い、裏返せば薄い手相の筋が手のひらを横切っている。
二本あった翼はない。抜けて飛び散る白い風切羽の残骸すらなく、ただ柔らかく温かい人間の腕があった。
「……なれた」
喉を鳴らすと、口から出たのは細く澄んだ声だった。鶴は勢いよく立ち上がった。二本のかかとでしっかりと踏みとどまる。
見下ろす板の節模様が滑らかな一つの面として映り、親指と人差し指の間に水かきもない。肩のあたりから零れ落ちる腰までの黒髪は、冬の陽光をかすかに反射して滑らかな重みを持っている。
ようやくだ。
あの日、大雪の山中で罠にかかり、冷たい雪に埋もれていた自分をあの人が助けてくれた。あたたかい手で抱き上げ、怪我を治し、そっと空へ帰してくれた。
あの穏やかな目を見た瞬間に、すべてが決まった。人間になって、隣でずっと一緒に暮らしたい。その一心で修行を始めたものの、人間に化ける術は恐ろしいほど難しかった。
どれだけ術式を紡いでも人間になれず、川面に映る姿を見ては泣いた。それでも諦めきれず、「一週間で構いませんから役に立ってみせます!」と大嘘をついてこの家に転がり込み、男の世話をしながら修行を重ねてきた。
その二年間の努力が、今この瞬間に結実したのだ。
「本当に……ほんとうに、人間になれた……!」
早く、見せたい。あの人が帰ってきたら、真っ先に囲炉裏の前で迎えよう。
『見てください!』
『できました!』
『私、やっと人間になれました!』
どんな顔をするだろう。目元を和ませて、褒めてくれるだろうか。すると、山道を踏みしめる聞き慣れた足音が近づいてくる。土間の前で足音が止まった。
ガタリ、と戸が開く。
「戻りました」
いつもの、少し低くて温かい声。山仕事から帰ってきた男の声だ。鶴は囲炉裏の前でくるりと向き直り、満面の笑みを浮かべた。
「あの――」
声を出そうとした、その瞬間だった。土間に立った男の動きがぴたりと止まった。
背負っていた柴の束がどさと音を立てて落ちる。男の顔からいつもの穏やかさが潮が引くように消え去り、腹を空かせた熊と鉢合わせしたかのような緊張を含んだ眼光が鶴を射抜いた。
男の右手がごく自然に腰元へ伸びる。腰から引き抜かれたのは鉈だった。男は軸足を低く落とし、刃先をまっすぐに鶴へと向けた。
「誰だ」
背筋に冷たい氷を押し当てられたような戦慄が走る。二年間この家で暮らしてきて一度たりとも聞いたことのない、冬風のように冷たい声。
「……え?……あ、あの」
「動くな」
目の前の男は本気で警戒している。
鶴の頭の中は真っ白になった。気をやっている場合ではない。『私です!』と言おうとして、ハッと口をつぐんだ。自分の体を見下ろす。どこからどう見ても人間だ。
鶴の要素が、どこにもない。人里から離れた深い山の中にある男の家。山仕事から帰ってきて引き戸を開けたら、土間の奥で見知らぬ女が、にこにこしながら立っている。
「…………あ」
鶴の口から、小さな声が漏れた。男の握る拳には、いつでも鉈を振り下ろせるだけの強い力が入っている。男からしてみれば、留守中に鍵もかかっていない山家へ勝手に入り込んで居座っている、完全な不審者だ。
(あ、これ……)
体がガタガタと震え出した。
(思ってた展開と……ちがう……!)
感動の出会いになるはずだった囲炉裏の前で、鶴は完璧な人間の姿のまま、ただただ青ざめて固まることしかできなかった。
低く静かな声が、ぴしゃりと室内を打つ。
「この山家に入り込んだ理由を言え」
「私ですってば! 二年間、あなたの元でお世話になっていた、あの鶴です! 雪の中で助けていただいた、あの!!」
必死に訴えかけるものの、男の眉根は寄ったままだ。
「言い訳はいい。証明しろ」
「証明!? 証明とおっしゃられましても! な、何を以て証明とすればよろしいのでしょう!? あわわ、どうしましょう、どうしましょう……!」
鶴の頭の中はぐるぐると渦を巻いた。追い詰められた鶴の脳裏に、一つの閃きが降りた。
(そうだ……! 鳥であった頃、いつもお見せしていた、あの……!)
「舞います!!」
男の目が、丸く見開かれた。鉈を構えていた腕がわずかに弛み、張りつめた表情にぽかんとした抜け作のような隙が生まれる。
「え、」
「私はあなた様の鶴でございます!! では、一手ご覧――は、はっっっっっっくしゅんっ!!!!」
山家に、雷のような盛大な響きが轟いた。
反動で鶴の体がくの字に折れ曲がり、広げていた両腕が盛大にぶれる。そこにいるのは、生まれたままの素裸で鼻の頭を真っ赤にして震える間抜けの姿がひとつ。
山の秋風が隙間風となって吹き抜け、鶴の素肌を容赦なく撫で上げていった。
「………………」
男はゆっくりと鉈を腰の鞘へと戻した。
そして、額を押さえながら深く、息を吐き出した。
「もういいです」
「えっ」
「証明は十分です。その、威勢だけはいいのに最後で台無しにするところといい、詰めの甘さといい……間違いなくうちの鶴です」
「そ、そこでございますか!?」
男は鶴の身を見ようとせず、すっと視線を斜め上へ逸らした。そのまま、囲炉裏の脇に置いてあった防寒用の厚手のはんてんを掴むと、投げるようにして鶴へ寄せる。
「それより、あの……まず何か着てください」
鶴は二度目のくしゃみで答えた。言われるがまま半纏に腕を通すと、ぶかぶかだった。さらに男が奥から引っ張り出してきた着物を肩へ掛けられる。
「これも」
「お手数をおかけします……」
半纏に着物、長い黒髪。男は衣を身にまとった鶴の姿を確認し、囲炉裏の前へ戻って薪を一本放り込んだ。ぱちと火の粉が跳ねる。
「……本当に、あの鶴なんですね」
「だからそう申し上げております!」
「それで……なぜ裸だったんです」
「人間になる術に、服まで含まれていると思っておりまして……」
「そうですか」
男はそれ以上追及しなかった。
鶴は半纏の襟元をぎゅっと握りしめた。無事に認めてもらえて嬉しいはずなのに、指先も足先も冷えきり、歯がカチカチと鳴る。
「さっきは鉈を向けましたから、怖がらせてしまってすみません」
「違います! 怖いのではなく、寒気が……」
男はやかんからお椀へ白湯を注いで差し出した。
「これを」
「ありがとうございます」
男はため息を吐くと囲炉裏に薪を追加したが、いっこうに鶴の震えは止まらないため、奥へ行き、抱えて戻ってきたのは大きな熊の毛皮だった。
「これを使いましょう」
男は女の姿の鶴を後ろから抱きかかえるように座った。
毛皮で包み込まれると、重く暖かい熱が体を覆った。ほっと息を吐いた瞬間、男の手が冷えきった指先を包み、ゆっくりと擦り合わせる。
「手が冷たいですね」
「……すみません……」
「謝らなくていいです」
続いて毛皮の中に手が入れられ、足先まで両手で温められる。
じんわりと伝わる熱に、鶴は思わず縮こまった。鳥の体温は人間より高く、羽毛という天然の防寒具があった。しかし今の皮膚はあまりにも無防備で、同じ秋の山がまったく別の過酷な世界に思える。
鶴はだんだんと腹が立ってきた。
「どうして、貴方様はこんなにあたたかいのですか、 不公平です。 私も同じ人間になったのに!」
鶴は男の腕へぎゅっとしがみついた。男は一瞬固まったものの、特に何も言わずそのまま体を寄せてやる。
「……あなたより筋肉量があるからじゃないですか」
「では、私も鍛えます!」
「今すぐでなくていいです」
男はまたため息を吐き、毛皮が隙間なく体を包むよう整えた。鶴はその胸元へ額を預ける。どくん、どくん。鼓動が響いていた。鳥の鼓動と違い、体の芯に響くようだ。
「……人間になるって、大変なのですね」
「今さら気づいたんですか」
男が少しだけ笑う声を、胸元で聞く。
人間になれたら、もっと素晴らしいことばかりだと思っていた。なのに今の自分は、毛皮に包まれて男に手足をさすってもらいながら、ただ震えているだけだ。
「……でも。あなた様がいらっしゃるなら、大丈夫です」
「そうですか」
男の返事はいつも通り淡々としていた。けれど、鶴を抱く腕だけは、ほんの少しだけ強くなった。
人間という生き物はあまりにも寒さに弱い。羽毛もない皮膚一枚では、この山家で男の手を煩わせるばかりだ。それに、先ほどから男が吐くため息の数が多すぎる。
ようやく身体が温まった鶴は男の胸元からすっと身を引くと、意を決して気を巡らせた。ポン、と軽い音とともに白い羽毛が舞い散る。次の瞬間には、毛皮の真ん中に一羽の鶴がぽつんと座っていた。
「……羽毛、ありがたや……」
喉を鳴らして羽を膨らませると、全身を包む圧倒的な安心感に鶴は深く息を吐いた。やっぱりこの姿が一番温かい。
鶴は首を伸ばし、申し訳なさそうに男を見上げた。
「お騒がせいたしました、大変申し訳ありません」
反省の意を込めて頭を下げた。男を驚かせ、鉈を向けさせ、挙げ句の果てに介抱までさせてしまったのだ。男は毛皮の上に残された鶴をじっと見つめていたが、やがてフッと目元を緩めた。大きな手で鶴の頭を優しく撫でる。
「いいんですよ。……私は、そのままの貴方が一等、綺麗だと思っています」
「……っマ、マコトデゴザイマスカ!?」
鶴は思わず羽をパサつかせた。さらに男は、撫でていた手をそのまま鶴の翼の付け根あたりに添え、静かに続けた。
「鶴のまま、私と夫婦になりませんか」
「喜んで!!!!」
山中に鶴の狂喜の叫びが響き渡った。鳥の姿のままでも嫁にしてくれる。あの憧れていた男の妻になれるのだ。胸がいっぱいになった鶴は、男の顔の周りをバタバタと羽ばたき、歓喜の舞を捧げた。
◇
それからというもの、二人の山暮らしは拍子抜けするほど穏やかに続いていった。
夫婦にはなったものの、鶴は人間に化ける修行を諦めなかった。「冬が寒いのなら、夏になれば良いのでは?」という鶴らしい大雑把な結論に至ったからだ。
男もそんな鶴を見守り、着物をニ反仕立ててくれた。
そして夏。
「できましたー!」と自信満々に部屋から出てくる鶴だったが、修行の成果は相変わらず個性的だった。
ある日はぴちぴちの若い娘。
ある日は腰の曲がった老婆。
またある日は精悍な男の姿。
「……今日は男ですか」
「おかしいですね、男ぶりを上げようと思ったわけではないのですが」
「まあいいでしょう。薪割りでも手伝ってください」
「はい!」
おっちょこちょいで相変わらずどこかズレている鶴と、すっかりそれに慣れきった男。
山の小さな家からは、今日も賑やかな夫婦の笑い声が響いていた。
これにて完結です。種族も性別も山にッポイした恋愛小説になれたらいいなと思います。人間になったら幸せになれる。女になったら嫁になれる。……と思っていた鶴ですが、最終的には、「別に鶴のままでよくない?」というところに着地しました。最後まで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。




