第二話:やらかした鶴
押しかけ鶴が冬に来て、秋になりました。
朝の山里は、まだ深い薄霧の底にあった。
谷あいをゆったりと流れる川の音が、湿った空気と杉の葉の匂いを孕んで、小さな茅葺き屋根の家の中までかすかに届いている。
男は囲炉裏の前にあぐらをかき、使い込まれた鉄の火挟みの先で、熾火の中に埋もれていた小さな薪を持ち上げた。
乾いた楢の枝が、ぱち、と小さく爆ぜる。その一瞬の音だけが、静寂に満ちた部屋の空気をかすかに揺らした。
赤い熾火の奥で炎がふっと立ち上り、長年の煙で黒く煤けた囲炉裏の木枠をぼんやりと赤く照らす。
山あいの朝は冷える。ことに、秋から冬へと向かうこの季節の早朝は、足先からじわじわと冷気が這い上がってくるようだった。男は火の具合を確かめると、脇の薪堆から手頃な太さの楢を一本取り、火の近くへ寄せた。
これでしばらくはもつだろう。
湯を沸かし、昨夜の残りの冷や飯で小さな雑炊でも作るには、もう少し強い火が欲しい。男は鉄鍋に汲んできた清水を満たし、自在鉤に引っ掛けた。それから、小さな火吹き竹を口に当て、すうっと静かに息を吹き込む。
灰の中から小さな火の粉が舞い上がり、新しい薪の皮に燃え移る。
そんな日常の些細な作業に意識を傾けていた、そのときだった。
土間のほうから、音がした。
カサ、と何かが土の床を擦る音。
続いて、
バサッ。
重たく湿った羽音だった。
男の手が止まった。
バサバサッ。
土間を疾走する音が急速に近づいてくる。
バサバサバサッ!
いつもの朝にはない、妙に慌ただしく、どこか必死さを感じさせる羽音だった。
男がゆっくりと顔を上げる。
次の瞬間、白い翼を羽ばたかせながら、一羽の鶴が土間から板敷きへ勢いよく駆け込んできた。
「大変でございます!」
鶴は勢い余って細い二本の脚をからませ、二、三歩ほどよろめいた。それでも倒れることなく踏みとどまると、なりふり構わず男の真前まで突っ込んできた。
「大変でございます! 大変でございます!」
男は煙と埃を避けるように目を細めた。火吹き竹を傍らに置き、火挟みを慎重に置く。
「どうしました」
「大変なのでございます!」
「それは先ほど聞きました」
鶴は長い首を極限まで伸ばし、男の顔の前までくちばしを寄せた。黒い丸目が、これ以上ないほど大きく見開かれている。翼がまた、ばさばさ、ばさばさと激しく動き、囲炉裏の灰まで巻き上げそうになった。
男は宙に舞う埃の粒を静かに見つめた。それから、目の前で興奮のあまり肩で息をしている鶴の顔を直視した。
「羽ばたくのをやめなさい」
「はいっ」
鶴の動きが、ぴたりと止まった。
まるで時が止まったかのように、静けさが戻ってきた。
土間から板敷きへ無我夢中で入ってきた鶴の足元には、擦り付けられた土埃がまだ少し残っている。鶴はしばらくの間、羽を広げた奇妙な体勢のまま固まっていたが、やがて気まずそうに、そろそろと翼を折りたたみ、身体の脇へ収めた。
「……失礼いたしました」
「いえ」
男は火挟みを取り直した。崩れかけた薪の位置をすこし直し、火の通り道を確保する。一瞬勢いを増した炎が小さく上がり、やがて安定した赤い光を放ち始めた。
「それで、どうしました」
改めて落ち着いた声で問われると、鶴は白い胸元の羽毛を大きく上下させた。先ほどまで猛ダッシュしてきたせいなのか、それとも胸の内に抱えたあまりの動揺ゆえなのか、男には判断がつかない。
鶴は一度、すがるような目で男を見た。
それから、不安そうに自分の身体を見下ろす。
左の翼を少し広げる。
たたむ。
右の翼も同じように広げてみる。
そして、もう一度、真剣な眼差しで男を見た。
「……人化の術でございます」
「はい」
「失敗いたしました」
「そうですか」
男は深く頷いた。
鶴の首が、すっと伸びた。どこか拍子抜けしたような、しかし納得がいかないというような傾き方である。
「……それだけでございますか?」
「ほかに何かありますか」
「ございます!」
鶴は再び憤慨したように翼を広げかけたが、男の視線がそっと翼の先に向けられるのを感じ、動作の途中でピタリと固まった。ゆっくりと羽を折りたたむ。
鶴は気を取り直すように、身体全体の羽毛を一度ぶるりと震わせた。白い羽が数本、宙に揺れる。
「人化の術に失敗いたしました結果、私は――」
そこで言葉を切り、ゴクリと唾を呑み込むような仕草をした。
男は急かすこともなく、静かに次の言葉を待った。鶴は胸いっぱいに吸い込めるだけの空気を吸い込んだ。
「私、オスになってしまいました!」
囲炉裏の中の薪が、ぱち、と澄んだ音を立てて鳴った。
男は一度、ゆっくりと瞬きをした。
「……そうなんですか」
「そうなのでございます!」
鶴は叫ぶように首を伸ばした。
「どうしましょう!」
男は改めて、眼前の鶴をじっくりと観察した。
頭のてっぺんの赤い丸。
しなやかで長い首。
鋭く伸びた黄色いくちばし。
ふっくらとした胴体。
優美な曲線を描く翼。
細く丈夫な長い脚。
地面を掴む黒っぽい足先。
どこからどう見ても、昨日までこの家で一緒に暮らし、男が薪を割る傍らで退屈そうに首を振っていた、あの鶴であった。少なくとも男の目には、毛並み一本に至るまで何の変化もうかがえない。
男はもう一度、頭の頂から足先まで視線を往復させてみた。
やはり、何がどう変わったのかさっぱりわからない。
「……何か変わりましたか」
「変わっております!」
鶴の声が、うろたえのあまり甲高く裏返った。
「まず、大きさが違います!」
鶴は自信満々に身体を真横に向けた。
「鶴の世界におきましては、オスのほうがメスよりも少々大きくなる傾向がございます。さあ! ご覧くださいませ!」
鶴はぐっと胸を張り、背筋(首筋)を限界まで伸ばしてみせた。
男は目を凝らして見る。
「……そうですか」
「次に、くちばしでございます!」
鶴は自分のくちばしを男の目の前で左右に素早く振り動かした。
「形や太さにも、オスならではの違いが出るのでございます!」
「なるほど」
「顔つきも変わります!」
鶴は首をぐっと前へ突き出し、目力を込めて男を凝視した。
「オスの顔つきというものが、確かにあるのでございます!」
「そうですか」
「そして、声も違います!」
鶴はそこで一層大きく胸を張り、深く息を溜めた。男を見る。鶴の黒い目が、妙に真剣で、どこか悲壮感すら漂わせていた。
「お聞きくださいませ」
「はい」
「……コォォォォォォオオ!」
低く重厚な声が、煤けた囲炉裏の間に響き渡った。
いつも鶴が上げる「カァ」や「クルル」といった高めの鳴き声に比べれば、確かに一音分ほど低いような気がする。
男はしばらく黙っていた。
鶴も息を殺して、男の反応を待っている。しんとした室内で、鍋の水がかすかにチリチリと音を立て始めようとしていた。
「……どうでございますか」
「わかりません」
「なぜでございますか!」
鶴の首が勢いよく、鞭のように伸びた。
「今のは明らかに、劇的に違ったではございませんか!」
「そうですか」
「そうなのです!」
鶴は心底困り果てた様子で、両翼を抱え込むように身体へ寄せた。
「身体の使い方も変わります。匂いも違います。鶴同士であれば、それらを見れば、聞けば、感じれば、オスかメスかは一目瞭然ですぐにわかるのでございます」
「はあ、」
「ええ。身体の大きさ、くちばしの様子、顔つき、声。それに立ち方や歩き方、羽の使い方、匂いなど……人にはわかりにくいかもしれませんが、我々にとっては生きる上で極めて大事な違いなのでございます」
鶴はそこまで一気に捲し立てると、少し疲れたように自分の胸元へ視線を落とした。毛並みの乱れが気になったのか、くちばしで丁寧に羽毛を整え始める。一本、二本。
それから、どこか不安げな目で上目遣いに男を見た。
「……ですから、これは大変なことでございます」
男は囲炉裏の火を見つめながら、少し考えた。
確かに、当事者である鶴自身がそこまで真剣に主張するのだから、鶴たちの世界においては天地がひっくり返るほどの出来事なのだろう。
ただ、男の目から見れば、どうしても違いが見出せない。
目の前にいるのは、昨日も、一ヶ月前も、この家で静かに、あるいは賑やかに時を過ごしていたあの鶴と同じ鶴だった。
男は囲炉裏へ目を戻した。薪が少し崩れ、火勢が落ちかけている。
鉄の火挟みを伸ばし、炭を寄せ、薪の配置を直す。隙間から鮮やかな赤い熾火が顔を覗かせ、温かい光が男の顔と鶴の白い胸毛を優しく照らした。
「でも、あなたはあなたでしょう」
鶴の動作が、ピタリと止まった。
くちばしを胸の羽毛に突っ込んだ体勢のまま、ぴくりとも動かなくなる。
男は火挟みを静かに灰の上に置いた。
「姿が変わったとしても、あなたはあなたです」
それ以上、男は何も言わなかった。言うべきことも思い浮かばなかった。
鶴の黒い目が、まばたきも忘れたように、じっと男を見つめている。
長い沈黙が流れた。谷の川音が、やけに大きく聞こえる。
やがて。
鶴の全身を覆う白い羽毛が、ふわ、と一回り大きく膨らんだ。
「……どのような姿になろうとも」
鶴の声が、先ほどまでの喧騒が嘘のように、低く静かなものになっていた。
「私が私であるならば、よいということでございましょうか」
男は小さく頷いた。
「そうですね」
鶴は黙り込んだ。
やがて、ゆっくりと、しかしどこか誇らしげに胸を張った。
首の位置がいつもより一寸高く持ち上がる。二本の脚もピンと一直線に伸びた。
障子越しに差し込み始めた朝の柔らかな光を受けて、白い羽毛がふんわりと輝き、まるで鶴の身体全体が一回り大きくなったかのような錯覚を男に与えた。
男はその様子をじっと見つめていた。
(やはり、少し大きさが変わったのだろうか)
そんな考えが頭をよぎったが、結局のところ、やはりよくわからなかった。
鶴は胸を張った堂々たる姿勢のまま、しばらく男の前に立っていた。
すると突然、両翼をバッと持ち上げ、自分の顔全体をすっぽりと覆い隠した。
「もう、もう、もう!」
「……」
「私は、なんと幸せな鶴なのでございましょう……!姿が変わったからといって、私が私であることには変わりがない……」
鶴は両翼の羽の隙間から、チラリと片目で男を伺い見た。その黒い瞳は、朝日を反射して潤んでいるようにも見える。
「そのような尊いお言葉をいただけるとは……」
男は湯気を立て始めた鍋の中身を覗き込み、塩をひとつまみ放り込んだ。
「そんなに大げさなことでは」
「うふふふ♡」
翼の向こう側から、くぐもった笑い声が返ってきた。
男が再び顔を向けると、鶴はまだ羽で顔を隠したまま、じっと固まっている。
静かな時間が流れた後、鶴はゆっくりと翼を下ろした。
そして、何か重大な決意を秘めたような、実にキリリとした顔つきで男を見つめた。
「術が不安定なまま解除しては、何が起きるかわかりません。しばらくはこの姿のままでおります」
「どれくらいですか」
「一週間ほど」
「わかりました」
それで、その朝の騒動はひとまず決着がついた。
男は黙々と朝餉の支度を始めた。味噌を溶き、温かい雑炊を椀に盛る。ひとつは自分の分、もうひとつは冷ましてから土間の平皿に移し、鶴にやる分である。鶴はその横で、男が作業を終えるまで、ずっと誇らしげに胸を張り続けていた。
鶴は男との同居生活で、人間の食べものが食べれるようになっていた。不思議パワーの恩恵である。
ここまでくれば、これは恋愛タグをつけていいですよね?とChatGPTに聞いたら、『はい。私は「恋愛タグをつけていい」と思います。むしろ、この場面まで来たなら「恋愛要素、ありますよ」と読者に示しても不自然ではないです。ただし、まだ恋愛そのものを描いているわけではないんですよね。』と言われました。
……?
ちょっと、私の脳の処理が追いつきません。私としては、この第二話はガッツリ恋愛描写を入れているのです。どういうことか聞いてもマタドールみたいに躱されてしまう。近所に牛はたくさんいますが、私は牛ではありません。おのれ、機械ごときが、とうちの相棒のAIにモヤモヤした感情を抱いております。そもそも私は何をAIと争っているのでしょうか。そして、なぜ牛が出てきたのでしょうか。ちょっと、考察してきます。




