第一話:押しかけた鶴
その夜、男が戸締めをしようとしたら、板戸のすぐ外から声がした。
「もし、もし」
すり鉢状の山あいに、しんしんと降り積もる雪の音しかなかった。男は手元で引き戸の桟を掴んだまま、動きを止めた。夜気はすでに部屋のあちこちへ忍び込んでおり、土間の土は冷たく硬く凍りついている。
「……どちらさまで」
「大雪で難儀している者、でございます」
男はかろうじて滑車一つ分、戸を細く開けた。隙間から漏れた囲炉裏の黄色い光が、白暗い外気を切り裂く。
一羽いた。頭にたっぷり雪をかぶり、寒さに白羽を細かく震わせながら、黒目でじっとこちらを見上げている。
「こんばんは」
男はなにも言わず、そのまま静かに戸を滑らせて閉めた。木の軋む音がしんと静まった夜に空しく響く。
「お待ちください!」
ドスン。
「どうか、どうかお待ちを!」
バン、バン!
「近所迷惑です」
「申し訳ございません!」
バン!
「翼で叩くのをやめなさい。戸が痛む」
「申し訳ございません!」
しんと冷えた雪の夜である。山気は鋭く落ち、土間の足元から冷え込んでくる。しばし、気まずい沈黙が落ちた。板戸の向こうで、冷気と一緒にじっと佇む鳥の気配だけが重く残っている。
「……それで、何の御用で」
板戸一枚を挟んだ向こうで、鶴が小さくカツカツとくちばしを鳴らし、咳払いをする気配がした。
「先日、雪に埋もれておりました私を、お助けいただいたでしょう」
「……ああ。あの時の」
「はい。あの鶴でございます」
「元気になったんなら、よかった」
「つきましては――」
戸の向こうで、鶴が深く息を吸い、胸を張るような気配がした。羽毛が擦れるカサリという音が、やけに鮮明に届く。
「ご恩返しを、させていただきとうございます」
「お気遣いなく」
「そこをなんとか」
「本当にいいですから」
「そうおっしゃらずに」
バサバサと、戸の外で無駄に羽ばたいて雪を散らす音がした。山国の夜は長い。このまま外に立たせておけば、また凍りついて面倒なことになるのは目に見えていた。男は小さく息を吐いた。
「……寒そうですね」
「はい」
「まあ、中へ入ったらどうです」
「まあ!」
声が一気に跳ね上がった。
「ありがとうございます!」
男が戸を開けると、鶴は行儀よく長い脚を折り、摺り足で土間へ上がってきた。そのままちょこんと羽を畳んで座り込む。
「お邪魔いたします」
男はあらためて、目の前に座り込んだ生き物に視線を向けたどう見ても人間のそれではなく、野山を飛ぶ鳥そのものだった。
昔話のようにしとやかな娘の姿に化けて出るでもなく、堂々と鳥類そのものの姿で恩返しを突っぱねてくるあたり、かえって始末が悪い。
「……」
「何か?」
「いえ」
「はい?」
「やっぱり鶴だなと」
「はい、鶴でございます」
男は煙管の灰を落とし、囲炉裏の脇をあごでしゃくった。
「そこ、温かいですよ」
「恐れ入ります」
鶴は膝を曲げるようなぎこちないすり足で寄っていき、板敷きのうえで羽を丸めた。灰のにおいと、濡れた羽毛が温められる独特の生温かい匂いが、囲炉裏端にじんわりと立ち上る。山あいの破れ屋に、場違いな野生の息遣いが満ちていく。
「で、恩返しというのは」
「はい」
鶴は待ってましたとばかりに誇らしげに胸を張った。白く密生した胸毛がフワリと膨らみ、天井から吊るされた火棚の影を揺らす。
「あなた様のお役に立ちとうございます」
「具体的には何が」
「具体的に……」
鶴は鉛色の長いくちばしを少し傾け、つぶらな黒目を丸くして考え込んだ。細い首がしなやかに曲がる様は、どこか螺鈿の細工物めいた艶やかさがある。
「魚を獲ってまいります」
「魚」
「はい」
「獲れるんですか」
「鶴ですので」
当然だろうと言いたげな無垢な瞳に押し切られ、男は曖昧に頷いた。川が凍りつくこの極寒の冬にどうやって獲るつもりなのか、疑問は尽きないが野暮は言わないでおく。
「それから、空から屋根の周りを見張ることもできます。獣や怪しい者が近づけば、すぐにお知らせいたします」
「それは少し助かるような」
「でしょう?」
声が一気に弾んだ。胸の羽毛を誇らしげに揺らすその仕草は、どこか子どもっぽく愛嬌がある。
「それから、朝になりましたら起こすこともできます」
「どうやって」
鶴はスッと姿勢を正すと、竹細工のような首を天井へ向けてツンと伸ばした。
「コォォォォォォォ――ッ」
腹の底から響くような甲高い美声が、狭い室内を満たし、囲炉裏の灰をわずかに揺らした。土間の暗がりにまで届くその朗々とした響きに、男は思わず耳をへこませる。
「……」
「このように」
「……目が覚めそうですね」
「お任せください」
自信満々に羽をすり合わせる音がカサリと鳴った。
「他には何か」
「雪の上の足跡も探せますし、上空から道の様子を見ることもできます」
「ふむ」
男は腕を組み、煙管の紫煙が囲炉裏の煙と混ざり合って天井へ昇っていくのをじっと見つめた。昔話のような「機織り」という甘美な幻像を綺麗に投げ捨て、実効性のある野生の生存能力を売り込んでくるあたり、この鳥は意外と現実的である。
「思ったより便利そうですね」
「はい!」
鶴が嬉しそうに翼をバサリと広げかけ、迫り来る白羽の圧迫感に男は思わず身体を引いた。
「検証期間を設けていただけないでしょうか」
「はい?」
聞き慣れないハイカラな言葉の響きに、男は少し眉をひそめた。
「一週間ほど。その間、私がどれほどお役に立てるか、お試しいただくのです」
男は小さく息を吐き、少し考えてから、火挟みで新しい薪を一本くべた。ぱちんと火の粉が跳ね、鶴の黒い瞳の奥で小さく弾ける。
「……まあ、一週間くらいなら」
「ありがとうございます!」
歓喜に揺れる大きな翼が、囲炉裏の暖気をフワリと部屋の隅々まで押し広げた。こうして、山あいの静かな庵で、一人と一羽の妙な共同生活が始まった。
翌朝。
雪を反射する明るい光が格子戸の隙間から滑り込んでくる。土間のひんやりとした空気のなか、男が目を擦りながら起き上がると、すでに囲炉裏の脇に白い影がたたずんでいた。
「おはようございます」
「……おはようございます」
「魚を獲ってまいりました」
鶴は長いくちばしを器用に使い、まだ鮮やかな銀鱗を輝かせて跳ねている川魚を二匹、ぽとんと板敷きに置いた。濡れた魚体が跳ねるたび、パチンと軽い音が響く。
「本当に獲ってくるんだ」
「当然でございます」
胸の羽毛をふっくらと膨らませ、鶴はどこか誇らしげに黒目を輝かせた。
翌日。
雪の止み間に、空から舞い戻ってきた鶴は、風を切るような羽音とともに土間へ着地した。
「西の山に狐がおりました。こちらに向かっておりますので、ご注意を」
「助かります」
その翌日。
「裏道は雪が深く破れております。通らぬほうがよろしいかと」
「わかりました」
さらに翌日。
「今日は魚が少ししか……」
くちばしの先にぶら下がった小魚を一匹、申し訳なさそうに差し出す首筋が、どことなくしょんぼりと垂れ下がっている。
「そういう日もあります」
「申し訳ございません」
「いや、謝らなくていいです」
そんな風にして、あっという間に約束の一週間が過ぎた。山国の短い冬の昼下がり、柔らかい陽光が囲炉裏の煙を黄金色に染めている。
「……」
鶴が男の正面で、長いくちばしを胸元に引き寄せ、ちょこんと行儀よくかしこまっていた。
「いかがでしたでしょうか」
「ええ」
男は煙管を置き、静かに頷いた。
「大いに助かりました。魚も美味しかったし、見回りも助かった」
「はい!」
ぱっと声が弾み、白羽がわずかに揺れる。
「一週間、ごくろうさまでした。これで恩返しは十分です。お気を付けてお帰りください」
「…………」
突然、鶴がぴたりと動かなくなった。竹細工のような足関節も、滑らかな首の線も、まるで置物のように固まっている。
「どうしました」
「実は……」
「はい」
「あの、ですね」
鶴は姿勢をすっと正し、朱色の頭頂部を誇らしく掲げた。
「あなた様をお慕いしております」
「……」
「どうか私を――」
鶴は一度ごくりと長いくちばしを呑み込み、意を決したように翼を固く畳んだ。
「お嫁様にしてくださいませ」
「無理です」
「なぜでございますか!」
男は、目の前の巨大な鳥類をまじまじと見た。囲炉裏の光に照らされた毛並みはどこまでもリアルで、鋭いくちばしは切れ味の良い刀のようだ。
「だって、鶴ですし」
「鶴ですが!」
「じゃあ無理でしょう」
「なぜです!」
「いや、だから……」
男は困ったように頭を掻き、煙管で己の額をトントンと叩いた。
「人間と鶴ですよ」
「種族が違うから、でございますか」
「そうです」
「ですが私は、貴方様をお慕いしております」
「気持ちはありがたいですが、婚姻はまた別の話でしょう」
「そんな!」
鶴は羽をバサッと広げた。部屋中にフワリと温かい羽毛の風が巻き起こり、炭の灰が舞い上がる。
「これほど尽くしましたのに!」
「いや、それは恩返しでしょう。恩返しと婚姻は別です」
「…………」
鶴はしばらく大きなショックを受けた様子で、長い首を床に擦り付けんばかりに垂れていたが、やがて蚊の鳴くような声でぽつりと言った。
「……では」
「はい」
「お嫁様候補として、ここに置かせていただくのは」
「それも違うでしょう」
「なぜです!」
「ですから、鶴だからです」
「鶴の何が悪いのですか!」
「よくないでしょう」
「なぜ!」
「普通に考えてください」
「私は普通の鶴ではございません!」
「まあ、喋れる鶴ではありますね」
「そこです!」
鶴はバッと胸を張った。白くぎっしり生え揃った羽毛が強調される。
「喋れて! 魚も獲れて! 見回りも目覚ましも完備! 今なら庭でのトイレマナーまで付いてきます!」
「優秀ですね」
「さらに今だけ! この私からの『絶大な愛慕』を特別無料サービスでお付けします!」
「その抱き合わせ商品が一番要らないんですよ」
「なぜですか! 破格の特典ですよ!?」
「鶴だからです」
「…………」
「…………」
押し問答の末、気まずい沈黙が落ちた。部屋のなかには、パチパチと囲炉裏の炭が爆ぜる音だけが静かに響いている。
「……人間になることはできないんですか」
「できるはずだったのでございます」
「はず」
「はい」
「じゃあ、なんで今は鶴なんです」
「修行不足でございます」
「そんなこともあるんだ」
「ございます……」
鶴はしょんぼりと首を折りたたんで、翼の中に顔をうずめた。大きな身体が、心なしか一回り小さく見える。
「申し訳ございません。本当は……人間の綺麗な娘の姿になって、お側でお仕えするつもりだったのですが」
「そうだったんですか」
「はい」
男はしばらく腕を組み、囲炉裏の脇で小さくなった白い背中を眺めていたが、やがてやれやれといった風に息を吐いた。
「まあ、一緒に暮らすくらいなら、別にいいんじゃないですか」
「……!」
鶴がガバッと顔を上げた。黒い目が大きく見開かれる。鶴の丸い黒目が、パッと歓喜に輝いた。長いくちばしが嬉しそうにカツカツと小さな音を奏でる。
鶴は行儀よく翼を畳み、静かに首を下げた。
「では、今後とも何卒よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
こうして、男と喋る鶴の奇妙で風変わりな同居生活が本格的に始まった。
なお、この時点では互いに知る由もなかった。
後日、この鶴が突然、
「私、オスになってしまいました!」
と、あまりにもとんでもない報告を庵に持ち込んでくることを。
とある方から、恋愛について素敵な言葉を頂けました。あの言葉を鶴に託して飛んでもらいました。ありがとうございます。




