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 食堂には、スプーンが磁器の皿に触れる音すらなかった。


 いつもならアルシノエの笑い声やパラディンの騒々しい足音が満たしているはずの空間は、今、冷え切った真空のような静寂に支配されている。

 窓から差し込む午後の柔らかな陽光だけが、やけに鮮明にテーブルの上を照らし出していた。


 その光の筋の中で、リーダーが差し出した銀色のスプーンが、行き場を失ったまま微動だにせず空中に留まっている。

 スプーンに乗せられた鈍色のペースト。数日間の発熱から快復したばかりのアルシノエの健康状態を考慮してフードレプリケーターに栄養バランスを完璧に算出させてリーダーが作らせた完全食──ただし、視覚と味覚の楽しみを一切排除した効率の結晶だ。


 当然、艦を維持する燃料と何ら変わりないそれは、幼い少女の瞳に映るはずの食事の喜びを無慈悲に削ぎ落としていた。


「……アルシノエ、もう一度言う。残さず食べなさい。」


 リーダーの声は、静かだが、ひび割れた氷のように硬い。

 寸分違わぬはずの声音には、わずかな強張りが混じっていた。


 対するアルシノエは、ぎゅっと唇を噛み締め、椅子の端を掴んで背を向けていた。


「いや!これ、色がかわいくないもん!こんなの、げんきになる色じゃない!」

「アルシノエ、それはワガママだ。効率的なマナ摂取は、お前自身を守ることに直結する。いい子だから一口だけでも……」


「リーダーのわからずや! もうしらない!」


 アルシノエは椅子から飛び降りると、食堂を飛び出していく。

 後に残されたのは、差し出したスプーンが、わずかに宙で震えている金髪の指揮官だけだった。

 敵陣の急所を射抜くその指先が、今は、幼い少女に差し出す一口の重さに、制御を失いかけていた。


「リーダー、それを規律で語るのが間違いなんだよ」

「………パラディン」


 いつの間にか背後にいたパラディンが、苦笑混じりに肩を叩く。


「あんたは怖い上官じゃなくて、頼れるパパなんだぜ?パパに甘えたいだけさ」

「……パパ、だと? 私が……?」


 リーダーはその言葉を、未知の劇薬でも飲み下すかのように反芻した。

 悠久を生きてきたこの長い歳月、彼は常に「剣」であり、「盾」であり、人々を導く「旗印」であった。

 導閃隊という名を背負い、数え切れないほどの命を預かり、勝利へと導き。

 その背中に、幾多の兵士の視線を背負ってきた。


 だが──。

 誰かの“帰る場所”になったことが、一度でもあっただろうか。


「頑張れよぉ、“パパ”。うかうかしてりゃ筆頭パパの座は俺が貰うからな~~~」


 ひらひらと手を振りながら、パラディンが去っていく。その軽薄な足取りが遠ざかるまで、リーダーはただ、立ち尽くしていた。


 戦場に私情は不要であり、孤独こそが指揮官の証であると信じて疑わなかった男の胸に、かつて経験したことのない、熱く、そして震えるほどに心許ない風が吹き抜けた。




 ─────




 創造自然庭園バイオーム・テラリウム

 そこは、エリュシオンが研究を兼ねて管理しているいくつかの温室のひとつ。


 温室のハッチを開ける。

 そこには艦内の乾燥した空気とは対照的な、濃密な湿気と花の香りが満ちている。

 巡航する戦艦の駆動音は、幾重にも重なる葉に吸い込まれ、ここだけが別の季節のように静まり返っていた。


 入ってきたリーダーに気づいたエリュシオンが、無言で視線を一角へと向けた。

 その視線を辿ると、アルシノエの銀髪と同じ色の花──霜百合が咲き乱れる場所がある。

 その陰で、少女は膝を抱え、丸くなって座り込んでいた。

 何も言わず、じっと。目の前のリリーの花だけを、見つめている。


「……エリュシオン。少し席を外してくれるか」


 震える声を押し殺して頼むと、エリュシオンはゆっくりと振り返った。

 その瞳には、一人の少女を愛おしむ者特有の、鋭い独占欲と警戒が混ざっている。

 彼は一度、リーダーを値踏みするように睨んだが、やがてアルシノエの頭をぶっきらぼうに撫でた。


「…………。また泣かせたら、今度は本当に許さないからな」


 エリュシオンはそう吐き捨てると、リーダーを射抜くような嫉妬混じりの視線を残し、影の中に溶けるように去っていく。


 静けさだけが残る。


 リーダーは軍服が汚れるのも厭わず、湿った土の上に腰を下ろした。


「……アルシノエ。……さっきは、すまなかった」


 アルシノエの肩が小さく揺れる。


「……お前の健康維持は重要で、不測の事態に君を守る確率を数%でも引き上げるための──」


 そこで、言葉が止まった。小さく、自嘲気味に息を吐く。


 違う。

 そんな話をしに来たわけではない。


 リーダーは短く息を吐いた。


「……いや、違うな。私は、お前を失うのが怖い。だが、そのためにお前を悲しませていたのだとしたら、私は……ひどい、大馬鹿者だ」


 その声は、自分でも驚くほどに静かだった。

 アルシノエは、黙ってリーダーの言葉に耳を傾けていた。

 怒っているのか、泣きそうなのか。俯いた彼女の顔はリーダーには伺えない。

 ただ、逃げることなく聞いてくれている。それだけを頼りに、リーダーは小さく息を吐き寄り添った。


 そして、ゆっくりと、震える手で懐から小さな銀紙の包みを取り出す。


「これは……軍の規定にはない、不要な嗜好品だ。だが、もしお前が良ければ……一緒に食べないか?」


 包みの中には、少し歪な星形をした飴があった。

 戦場ではあらゆる手練手管と完璧な一手でどんな盤上もひっくり返す男が、不慣れな作業で何度も、何度も削り直した跡がある。

 角は丸く、表面には彼の迷いと祈りが、無数の削り痕となって刻まれていた。


「ドクターにも、お前の好む味だと保障してもらった。だから……きっと、好みの、味だと……思う」


 自信なさげに言葉尻をすぼめていくリーダーの声色に、アルシノエがようやく顔を上げた。


「……リーダーも、いっしょにたべる?」

「ああ。私も、お前と一緒なら……その、甘いものも悪くないと思う」


 アルシノエの顔に、いつもの奇跡のような笑顔が戻った。

 彼女はリーダーの腕に飛び込み、その首にぎゅっと抱きついた。


「アルシノエ、リーダーだいすき!ワガママいって、ごめんなさい!」

「……。ああ、……謝るのは、私の方だ」


 小さな体温が、硬い軍服越しに伝わってくる。


 軽い。

 悠久を生きる天使として、銀河の命運や無数の部下の命という、巨大で空虚な重みばかりを背負ってきた。だが、守るべきものとは、本来こんなにも軽く、あたたかい。

 リーダーはその、決して手放してはならない重みを、静かに、強く、抱きしめていた。


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