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神創銀河系第7宙域。
光すら音を忘れるほどの静寂のなか、白亜の戦艦は静かに航行していた。
艦内照明が夜間の淡い蒼から朝を示す乳白色へとゆっくり移り変わる。
食堂エリアでは調理ユニットの起動音が発せられ、しばらくすると温められた合成糧食によって形作られた料理の香ばしい匂いと、焼き上がったパンの香りがいっぱいに広がる。設定時間通りに点灯していく照明の下で、目を覚ました導閃隊の面々が集まり始める。
それは、巨大戦艦にはあまりにも不釣り合いな、穏やかな朝だった。
──ただし、ある一点を除いては。
「報告」
低く、迷いのない声が空気を引き締めた。
「本日のアルシノエの健康状態は良好。体温、心拍、聖力循環、全て基準値内だ。しかし──」
リーダーはホログラムディスプレイに映る数値を凝視したまま、さも軍事報告さながらに耽々と仲間達と情報を共有する。
その表情は、かつて艦隊規模の作戦を指揮していた時と寸分違わない。
しかし、そこにあるのはただ今日のアルシノエの健康数値だけではなく──過去1カ月分の起床時表情変化、眉の角度、視線の動き、呼吸間隔。
精密にグラフ化されたそれは、彼がドクターに命じて作らせたアルシノエのバイタルチェックシステム。
そこまでしてリーダーが気を配るもの、それは──
「機嫌指数が、予測値を15%下回っている。これは外的要因が予測される数値に他ならない。──原因究明が急務だ」
──3歳(天使種の実年齢においては、300歳である)の少女の朝の顔色だった。
「……夢見でも悪かったんじゃないの?」
「まだ300歳でしょ?なってなかったっけ?まぁいいわ、そのくらいの歳なら意味もなく機嫌が悪い日くらいあるわよ」
呆れたような顔で全自動フードレプリケーターに向かっていくのは、エリュシオンとホークアイ。
朝から食堂に集められたかと思えば、食事よりも先に真剣に子供の顔色を伺っている指揮官に溜息すら出ない。
戦艦の整備から子育てまで多岐に渡って忙しいドクターにわざわざ時間を作らせてまでバイタルチェックシステムまで作らせる必要があったのかと前々から若干の苛立ちを覚えていたエリュシオンは、フードレプリケーターのタッチパネルを乱暴に叩いていた。
「あー、それなら理由に心当たりがあるぜ」
その時、誰よりも先に起床して食事を摂っていたパラディンが、山盛りのシリアルを頬張りながら口を開く。
スプーンが皿に当たり、軽い音を立てた。
「昨日寝る前、アルシノエと追いかけっこしててな。あの子の大事な“クマの聖律ぬいぐるみ”、どっかに置き忘れちまったんだ」
その言葉に、リーダーの視線がゆっくりと持ち上がる。
「捜索は?」
「した。当然、俺もな。……でも見つからなくて」
パラディンの言葉が終わるより早く、食堂の自動ドアが静かに開いた。
──全員の動きが止まる。
ふたつの足音。そのうちひとつは小さく、ドアが開いたそこにいたのは、銀の髪を揺らしながら、ドクターに手を引かれ沈んだ顔で立ち竦んでいるアルシノエの姿。
母や姉のように慕うドクターの服の裾を引きながら進むその足取りはいつもよりもわずかに遅い。
そして――その腕には、いつもあるはずのものが無かった。
「……おはよう、みんな。くまさん、どこにいったか知ってる?」
首をかしげる。
その瞳は、ほんの少しだけ潤んでいた。
その瞬間。
その場にいた全員の思考が、一瞬だけ停止した。
戦術も合理性も、何一つ役に立たない。
ただ一つ――
「泣かせてはいけない」という結論だけが残る。
その小さな問いは、どんな警報よりも優先度が高かった。
「あら、大変!」
ホークアイが弾かれたようにアルシノエに駆け寄る。
小さな身体を抱き上げ、光の乱反射で薄桃色を放つ子供特有の柔らかい銀髪をそっと撫で、今にも泣きそうな少女の目元に触れ、微笑んだ。
「アルシノエ、その可愛いお顔に涙は似合わないわ。ほら、私と一緒にクローゼットを探しましょう?ついでに新作のフリルドレスも──」
「ホークアイ」
リーダーが遮る。
「彼女は今、装飾ではなく安心を求めている。紛失物の捜索は可及的速やかに行うべきだ」
リーダーが手を軽く上げると、その動きに呼応するように、空中に艦内の精密な三次元マップが展開される。
無数の光点が各区画を示し、各地点に設置されている補助ロボットたちに一斉指令が下る。
「艦内全ユニットに通達。これよりコード・イエローを発動。対象はクマ型聖律ぬいぐるみ一体。全域捜索を開始せよ。最優先任務だ」
「はいはい、了解です、リーダー」
ドクターが穏やかに笑いながらフルーツを切り分ける。
ホークアイの腕の中で不安げに瞳を揺らすアルシノエの為に小さく切り分けた黄色く熟れた果実を差し出しながら、その穏やかな笑みで少女の不安を和らげた。
「大丈夫ですよ、アルシノエ。みんなで探せばすぐに見つかるわ。ね、エリュシオンも手伝ってくれますよね?」
窓辺。
朝食代わりのスムージーを片手に端末に視線を落としていたエリュシオンの肩が小さく跳ねた。
「いや、……僕は……」
姉から突如として声をかけられたエリュシオンは気まずげに言い淀む。
その手元の端末では既に、自身の管理する温室や周辺のダクトにぬいぐるみがないかカメラ越しに確認しているということを姉に見抜かれ、視線を泳がせるしかない。
弟の不器用な優しさを姉が見抜けないはずがないということを、天使種では年若い彼はまだ理解できていなかった。
「ど、動力源の調整があるし……」
誤魔化そうとしたエリュシオンがその言い訳を終えるその前に。
「リュシくん……くまさん、迷子なの……」
小さな手が、彼の服の裾を引いた。
沈黙。
彼は視線を逸らす。
その頬が、ごくわずかに赤くなる。
さっきまでホークアイの腕に抱かれていたはずの幼子が、頼っている。
そこまで頼られ、期待の目を向けられていながらそれを振り払うほど、彼は冷徹にはなれない男だった。
「……一回だけだ」
背を向ける。
「動力室に迷い込んでたら危ないからな。確認するだけだよ」
言い訳の形を保ったまま、足早に食堂を出ていく背中を、誰も止めなかった。
────
捜索開始から三十分が経過。
監視ログをナノ秒単位で走査するリーダー。
野生の勘を頼りにダストシュートへ潜り込むパラディン。
ホークアイは艦内維持清掃ユニットを相手に、恐らく意味はない交渉術を展開する。
その横でアルシノエを宥めながら、ドクターは端末を操作して映像記録を整理している。
だが──見つからない。
「おっかしいなー……」
パラディンがダストシュートから顔を出した。
「アルシノエの“奇跡”なら、とっくに──」
その時だった。
アルシノエが、メインデッキの中央でふと、足を止めた。
「……あ」
零れ落ちるような小さな声。
小さな指が、ゆっくりと上を指す。
「あそこに……いるかも」
全員が指の先を辿る。
──天井近くのメンテナンスハッチ。
子供の手が届くはずもない場所。
何故そんなところに、と誰もが首を傾げた、その瞬間だった。
彼女の周囲に、淡い黄金の光が集まり始めた。
重力が、わずかに歪む。
その微かな歪みは次第にその振幅を広げ、やがてまだ幼く飛べるはずもないアルシノエの小さな身体を持ち上げた。
だがその軌道は――ほんの僅かに、不安定だった。
「──っ」
気づいたのはエリュシオンだった。
反射的に踏み出す。斥候として駆ける瞬間のように、聖律のエネルギーで足元の空間を圧縮し弾く、エリュシオンの得意とする聖律位相転移。
しかし、動揺が完璧だったはずのエリュシオンの聖力を乱したのか、あと一歩が届かない。
「わわっ!?」
アルシノエの身体が、ふわりと浮かび上がった。
未成熟で飛ぶことのできないアルシノエは見えない水の中を翻弄されるように、ハッチへと向かっていく。
「共鳴だ! 僕の聖力に当てられてる!」
エリュシオンが手を伸ばす。
アルシノエの持つ奇跡を起こす力。神に愛されたその力は、この戦艦を動かすエリュシオンの膨大な聖力に“共鳴現象”を引き起こし、彼女の周囲に黄金の聖力となって現れた結果、船内の重力分布を局所的に書き換えたのだ。
三次元駆動に慣れていないアルシノエが空中を翻弄されていることに気付いた誰もが少女の手を掴もうと伸ばした手も、全ては“奇跡を起こす力”で回避されてしまう。
その場にいた誰もが、奇跡を起こす力に対抗しようと自らの聖力を練り上げた、その瞬間。
ガシャリ、とハッチが開いた。
次の瞬間、埃をかぶったクマのぬいぐるみが、あり得ない軌道で弾き出される。
壁に一度。
天井に一度。
テーブルを掠め──それは、一直線に、
「とっ――確保ぉお!」
パラディンが空中で身体を捻り、見事な回転レシーブでキャッチした。
静止。
一拍遅れて、アルシノエの歓声がメインデッキに響き渡った。
「見つけたわね、アルシノエ!」
ホークアイが拍手する。
リーダーは腕を組み、静かに頷いた。
「目標確保。作戦完了だ」
アルシノエが、地面に降り立つ。
パラディンからぬいぐるみを受け取り――そして、ぎゅっと、抱きしめた。
「うん!ありがとう、みんな!!」
そして。
満面の笑みで、彼らを抱きしめる。
その瞬間、彼女から溢れた幸福の共鳴が、船内の照明に干渉する。
疑似太陽の乳白色ライトが、一瞬だけ七色に揺らいだ。
それは、ほんの一瞬の奇跡だっただろう。
「……まったく」
エリュシオンが顔を背ける。
「制御不能だな、この子は」
だが、その手には――誰にも見えないように握られた、小さな花があった。
ぬいぐるみを探しに行った温室で摘んできたばかりの、アルシノエの髪と同じ色の小さな花。彼女を慰めるつもりの、今はお役御免となったそれを少女の髪にそっと絡めてやると、やはりよく似合っていた。
「さて!」
ドクターが手を叩く。
「騒動の後は、皆さん揃ってレクリエーションですよ。今日はみんなで次に向かう惑星の植生を勉強しましょう」
笑い声。不満げな声。それを宥める声。
それぞれが思い思いの反応を見せる戦艦のメインデッキ。
それは、奇跡と呼ぶにはあまりにもささやかな光景だった。
けれど──
この船では、それこそが何より尊いものだった。
白亜の戦艦は、今日も星々の海を往く。
賑やかで、少し騒がしくて――そして、とてもあたたかいままに。




