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序章

 銀河辺境を駆ける白亜の戦艦『クレイディア』。

 そのメインブリッジに、不釣り合いな静寂が落ちていた。


 本来なら戦術情報と命令が交錯し、絶え間なく光が走るはずの空間。

 だが今、そこにあるのは――その場に集う5人の誰もが言葉の選び方を見失ったような、奇妙な沈黙ばかり。


 彼らが囲む中心の円形作戦テーブルの上に、ぽつりと置かれたそれ。

 特製の浮遊式ベビーバスケット。


 その中にいるのは、気まぐれに小さな手足を動かしている――赤ん坊だった。


 柔らかな手足は、一定のリズムを持たない。

 指は何かを掴もうとするように開いては閉じ、呼吸に合わせて胸がかすかに上下する。

 時折、意味もなく身をよじるその動きは、どんなに注視していても気を落ち着かせることはできない。


 その「不可解な存在」を囲み、五人の天使種が立っていた。

 かつて、神によって形作られた世界を管理する為に生み出されたという7体の原初天使の末弟であったサマエルに仕え、彼等に遂行できない任務はないとまで謳われた最強の部隊“導閃隊”。

 そのサマエルが堕天し、忠誠を誓った主人と共に指揮系統までも失って戦場を渡り歩いていた彼等は、原初天使であり天使を統括する天使軍のトップであるミカエルにより再び天使軍として引き入れられたのがもう何千年前の話だろうか。

 そして、天使軍として復帰した彼等に降った機密レベル最大の最重要任務。原初天使ミカエルよりも更に上位の存在である、原初天使 議長 メタトロンから課せられたその最重要使命。


 それこそが、この赤ん坊を狙う悪魔の軍勢から守り抜き、時が来るまで育て上げること。


 そしてなにより今、彼らは――明らかに困っていた。



「……報告する」


 最初に口を開いたのはリーダーだった。

 “導閃隊”の指揮官にして、冷酷無比の英雄。天使種としての長い寿命の殆どを神に捧げた職業軍使。

 その声はいつも通り低く、揺らがない芯の通った口調は冷たくも、指揮官としての威厳に満ちていた。


「当該個体の護衛任務開始より三時間が経過した。以降、混乱を防ぐため、本個体に識別名を付与する必要がある」


 淡々とした言葉。

 だが視線の先にあるのは、敵でも目標でもない。


 バスケットの中で、あくびをしようとして途中でやめた赤ん坊だった。


「暫定的に『被検体101』、あるいは『対象A』と呼称することを提案する」


 沈黙と、静寂。


 次の瞬間、それを破ったのは――


「いやいやいや、それはないだろ!」


 “導閃隊”の副隊長にして天使軍でもトップの膂力を誇る突撃隊長、パラディンだった。


 勢いよく身を乗り出した彼は、バスケットを覗き込む。

 揺れた茶褐色のポニーテールがその頭上の光輪(ヘイロー)の光をわずかに反射し、彼の困惑を示すように光輪がわずかに明滅した。

 彼もまた、この状況に困惑している。それでも、無垢な少女の無邪気な仕草に、すっかり警戒心を取り除かれていた。


「見ろよ、この頬。完全に無防備だぞ。ぷにぷにだ……こいつは中毒性がある……」


 指先でそっとつつく。


 むに、と沈む。


「……な?」


 満足げに振り返り、赤ん坊よりも締まりのない頬を緩ませるパラディン。


「ここはシンプルに『ほっぺちゃん』だ。これ以上の名前はない」

「却下だ」


 間髪入れず、リーダーが切り捨てた。


「軍の通信プロトコルに深刻な混乱を招く」

「いや、招かないだろ……」

「招く」


 断言だった。

 有無を言わせないリーダーのひと言に撃沈したパラディンは、力なくテーブルに突っ伏してしまう他なかった。


「あら、それなら私の出番ね」


 別の声が滑り込む。

 銀の髪を肩口でさらりと揺らした“導閃隊”切っての狙撃手、ホークアイが一歩前に出た。


 彼女はバスケットの縁に手をかけ、少女の頬へと指を伸ばす。

 その動きは、まるで高価な宝石の質を確かめるように慎重だった。


「見て。この色合いに、この丸み」


 指先が、やわらかな頬に触れる。


「ほんのり赤くて、透明感がある。……楽園の果実そのものじゃない」


 目を細める。


「そうね……『エペル』なんて、どうかしら。響きも綺麗だし、この子に似合うわ」

「……リンゴ、か」


 リーダーがわずかに眉を寄せる。


「悪くはないが、識別名としての必然性に欠ける」


 ホークアイの提案もにべもなく却下を下したリーダーだったが、その音の響きが耳に残っているのを、自分でも理解していた。

 確かに、このまろく曲線を描き赤く色づいたこの赤ん坊特有の頬は熟れたリンゴを思わせる。そう思えば思うほどに、エペルという名はこの赤ん坊に良く似合っているように思えてしまったのだ。


 見知らぬ大人たちに囲まれ覗き込まれているというのに、怯える様子もない赤ん坊を前に、天界最強の天使部隊と謡われた彼等が今や見る影もない。


(英雄も形無しだな……)


 そんな仲間達の様子を、少し俯瞰した視点で眺める青年がひとり。少し呆れたように溜息を吐く彼、“導閃隊”の斥候であり賛歌聖唱による戦闘支援で部隊に貢献する兵站係、エリュシオンだった。

 彼は、赤ん坊の名付けにああでもないこうでもないと言い争う仲間達を見ても何も言わなかった。


 ただ、バスケットの中――少女の髪に視線を落とした彼は、その銀糸の美しさに目を奪われた。


 ほんのりと、光を含んだ銀。

 わずかに桃色を帯びた、その色彩。


(……似ている)


 思考は、言葉にならないまま浮かぶ。


 この巨大戦艦で彼の心の安らぎであるいくつもの温室。そこに咲く、永久凍土の惑星に咲く特別な花と同じ色。

 それは淡く、静かで、触れれば壊れそうな──「リリー」。


 彼は、開きかけた口を閉じる。

 代わりに、ほんのわずかに、呼吸を整えた。


「皆さん」


 その空気を柔らかく切り替えたのは、平時は生活基盤であるこの戦艦のエンジニアであり、戦闘時には偵察や伝達、戦闘サポートから衛生兵としても多岐に渡って統合支援を行う、この部隊の万能屋である、ドクターだった。


「そろそろ収拾をつけましょうか」


 ターコイズの瞳が、順に部隊全員を見渡す。

 その視線には、わずかな苦笑が混じっていた。


 彼女の繊細な指がテーブルに備え付けられたタッチパネル端末にこれまで上げられた呼称候補を表示して並べていく。


「『被検体101』、『対象A』、『ほっぺちゃん』、『エペル』……」


 そして、ふと顔を上げる。


「エリュシオン。あなたは?」

「…………別に」


 短い返答。

 視線は逸れたまま。

 しかし、植物を愛するエリュシオンの脳裏にあるのは、少女の柔らかい光を含んだその銀髪が彼の育てる霜百合によく似ているという事実。

『リリー』と、その名をつければ、きっと喜ぶだろうという期待。


 ドクターは、それ以上追及しなかった。

 主張をしない実弟の行動は理解している。その上で、主張しないなら言及もしないこと。それがこの姉弟の昔からの“一線”だったから。

 しかし、ただ、小さく微笑む。


 そして――


 バスケットの中へ、そっと手を差し入れた。


 赤ん坊の指に触れる。


 それは小さな、とても小さな手。

 触れた瞬間、ぎゅ、と握り返してくる、確かな生きる意志。


 その温もりを確かめるように、ドクターは一度だけ瞬きをした。



「――アルシノエ、というのはどうでしょうか」



 その一言が静寂に落ち、広がる。

 誰も、続く言葉を発さなかった。


 空気が、静止する。

 名だけが、そこに残る。


「……アルシノエ?」


 リーダーが、その響きを確認するように呟いた。


 それは、遠い星の古い言葉。“誇り高く、気高き意志”を意味する名前。

 かつて、導閃隊を導いた彼等の主人が口にしていた言葉。彼等が忠義を尽くした主人の信条こそが、その名に意味として込められていた。


 次の瞬間。


 それまで不機嫌そうに身をよじっていた少女が、ぴたりと動きを止めた。


 そして――


 ぱあ、と。


 花が開くように、笑った。


 小さな手足が、無秩序に動く。

 その動きに呼応するように、空間がわずかに震えた。


 こぼれる。

 光が。


 金色の粒子が、空中に滲み出し、ゆっくりと漂い始める。


 それは熱でも電気でもない。

 ただ、在るだけで周囲を満たす何か。


 天使が聖力を使って起こす奇跡ほどに練られていない、ただ純粋に、少女の感情をそのままにあふれさせて光となって現れた聖力の残滓。


「あ!」


 パラディンが声を上げる。


「笑ったぞ! 今の名前で!」

「あら、気に入ったみたいね」


 ホークアイが目を細める。

 彼女の言葉に同意するようにパラディンとドクターが頷く。


 エリュシオンは、何も言わなかった。

 ただ、わずかに――ほんのわずかにだけ、口元が緩んだ。


 そんな仲間達の姿を、リーダーは黙って見ていた。


 仲間達の中心で無邪気に笑う存在。

 名を与えられ、それに応える子供。


 長い、長い沈黙のあと、彼は大きく息を吐いた。


「……やむを得ん」


 低く、しかしその声が確かに歓びを孕んでいることに気付かない仲間はいない。


「本個体の識別名を『アルシノエ』とする」


 一瞬、間を置く。


「以後、全隊員はこれに従え」


 命令。

 普段の指揮命令とは違ってわずかに柔らいだその声色に、仲間達は各々了解を口にする。


 しかしドクターは、もうひとつ──彼の耳が、ほんのりと赤くなっていることにも気付いていた。


 誰も指摘することはない。


 ただ静かに、その名が艦の中に定着していく。


 “アルシノエ”


 まだ何も知らない、小さな存在。


 だがその名は確かに、ここに刻まれた。

 そして誰もがどこかで理解していた。


 この出会いが、いずれ彼らの進む航路を、大きく変えていくことを。

【用語・設定解説】

『原初天使』

 神が世界を創造した際、世界を管理する為に作られた7体の天使のこと。それぞれに世界の管理権限が付与されており、その全原初天使を管理しているのが“議長”メタトロンである。


『天使種』

 一般的に、原初天使以外の天使をさす。光輪や翼などが特徴。無限ともいえる長い寿命をもつ。

 悪魔と戦う天使軍のトップは原初天使ミカエル。導閃隊も現在はこのミカエルの指揮下にある。


『ドクターとエリュシオンの関係』

 姉と弟。といっても人間のような家族関係ではなく、天使種の5%程度が該当する“始生天使”という特殊な出生であることから本人達が姉弟を名乗っているだけに過ぎない。容姿は似ていない。

 天使種は生命樹と呼ばれる特別な樹から生まれる“始生天使”と、天使種同士の交配で生まれる“受胎天使”の二種類があり、ドクターとエリュシオンは前者、リーダーやパラディンやホークアイは後者に該当する。

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