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『プラネット・ガーデン』の調査を終えたその日。

 白亜の戦艦クレイディアが夜間サイクルに入ると、艦内を支配していた鋭利な緊張感は、どこか遠い場所へと退いていく。

 換気システムが吐き出す低い駆動音だけが、ここが真空の死地に浮かぶ鉄の檻であることを思い出させていた。


 メインの照明が落とされ、通路には琥珀色の予備灯が灯る。その淡い光は、昼間は冷たく輝いていた壁の金属板を、古い木造校舎の廊下のような、どこか懐かしく、ひどく脆い質感に変えていく。

 重厚な軍靴が絨毯を踏みしめる不規則な音が、その静寂をわずかに乱した。


 リーダーは、自身の個室へ向かう足を止め、アルシノエの自室の前で立ち尽くしていた。軍服の第一ボタンを外し、首元を緩めてもなお、胸の奥に居座る硬い何かが閊えて取れない。

 彼は一つ、深い息を吐き、重いハッチのレバーに手をかけた。


「……本日の就寝スケジュールを五分超過している。アルシノエ、速やかに睡眠体制に入れ」


 彼は意を決して扉を開け、事務的な、それでいてどこか逃げ道を探すような声で告げた。

 ベッドサイドに立つリーダーの手には、場違いなほど薄い電子ブックが握られている。

 それは数時間前、ドクターから「今夜の任務です」と、悪戯っぽい微笑みと共に託されたものだった。


「やだ!リーダー、お昼におはなし読んでくれるって約束した!アルシノエ、まだおめめパッチリだもん!」


 パジャマ姿のアルシノエが、ベッドの上で跳ねる。

 ホークアイが新調したというそのパジャマは上質なコットンの柔らかそうな皺を湛え、彼女が動くたび、入浴後の淡い香油の香りと昼間に浴びた草原の気配を微かに振りまく。

 その頭上の光輪は、少女の興奮を映してチカチカと明滅し、琥珀色の室内に不規則なリズムを刻んでいた。


「……約束、か。確かに、口にした記憶がある。否認はせん」


 リーダーは観念したように、軋むベッドの端に腰を下ろす。

 有能な指揮官であるはずの彼は、子供用の電子ブックを、まるで作動中の時限爆弾でも扱うかのような慎重すぎる手つきで握り締めていた。

 その指先には、戦場で銃器を握り続けてきた者特有の、隠しきれない硬質な緊張が宿っている。

 彼は画面をスワイプする動作一つにさえ、精密機械を解体するような過剰な慎重さを注いでいるのだ。




 ──────




「おっ、リーダーが読み聞かせか? 珍しいもんが見れるな」


 一方その頃、ドアの隙間から覗き込んでいたのは、ニヤニヤとした笑みを浮かべたパラディンだった。

 その後ろには、温室での作業を終えたばかりのエリュシオンが湿った土の匂いを纏ったまま立っている。


「……静かにしろ、パラディン。リーダーは任務の最中だろ」


 エリュシオンは鋭く釘を刺したが、その背後から近づいたホークアイが、楽しげに彼の肩を叩いた。


「いいじゃない。私たちのリーダーが、あんな真面目に絵本を握っているのよ?こんな面白……珍しいもの、見逃しちゃ損よ」


 メンバーたちが、誘われるように廊下へと集まってくる。

 彼らはからかう言葉を投げかけながらも、その視線には、かつての自分たちには決して許されなかった平穏な夜への、渇望に似た敬意が混じっているのだろう。

 狭い自室の空気密度が、一気に上がったような気がした。




「……ゴホン。では、読み上げる。……『昔々、ある遠い星系に、一人の勇敢な天界騎士がいた。彼は自身の光輪出力を最大化し、迫り来る暗黒星雲の脅威を退け──」

「リーダー、それよみかたがこわい!」


 少女の純真無垢な即座の苦情に、廊下で聞き耳を立てていた面々から失笑が漏れる。

 リーダーの朗読は、まるで軍の損害報告を聞いているかのような硬さだった。

 抑揚はなく、一語一語が鋭利な弾丸のように空気を撃ち抜く。これでは子供を眠らせるどころか、総員を第一種戦闘配備につかせてしまう。

 リーダーは、自分の声がこの部屋の夜に馴染んでいないことを自覚し、わずかに眉間に皺を寄せた。


「貸してください、リーダー。あなたでは一生かかっても、アルシノエは眠れません」


 見かねたドクターが、ハーブティーのカップをサイドテーブルに置き、部屋に入ってきた。

 彼女はリーダーの手から滑り落ちそうになっていた電子ブックを、ごく自然な所作で受け取る。

 リーダーは自分の任務を奪われたことに一瞬だけ不満そうな顔をしたが、ドクターの瞳に宿る呆れと慈しみの混ざった光を見て、静かに口を閉じるしかない。

 おもむろに椅子から立ち上がった彼は、部屋の影へと身を引いた。


 そして、ドクターはアルシノエの隣に座り、彼女の小さな頭を優しく撫で毛布をかけなおす。

 そして祝福そのものが音となったようなその声は、リーダーの硬質な音とは対照的に夜の空調音に溶け込むほど穏やかだ。

 それはアルシノエという自分たちが守るべき小さな存在にだけ向けられる、特別な安らぎを帯びた調べだった。


「……騎士様はね、星の輝きを集めて、小さな女の子に魔法のブローチをプレゼントしました。それは、夜の闇を照らす、世界で一番優しい光でした。ねえ、アルシノエ。あなたの光輪と同じ色ね」


 ドクターの言葉に呼応するように、壁際にいたエリュシオンが指先を小さく弾く。

 無機質な天井に、淡い光の粒が結ばれ、ゆっくりと降り注ぐ。それは彼が温室で育てた花の胞子が舞うような、命の拍動を感じさせる幻影だった。

 パラディンは、身振り手振りで『勇敢な騎士』が剣を下ろす仕草を演じ、ホークアイは両手から放った輝く聖律で、アルシノエの毛布をふわふわの綿雲のように変えていく。


「……ふむ。ドクター、その解釈は原文の戦術的背景を無視している。騎士がブローチを贈ったのは、それが通信中継器を兼ねていたからであって……」


 リーダーが小声で異議を唱えようとしたが、ドクターは物語から目を離さずに、ただ人差し指を自分の唇に当てた。


「今は物語の時間ですよ、リーダー」


 その一言に、リーダーは言葉を飲み込んだ。

 彼は自分の論理が、この琥珀色の空間においてはいかに無力で、無粋であるかを悟る。

 ベッドから少し離れた椅子に座り直した彼は、物語の続きを聞くアルシノエの横顔を、ただ黙って見守った。


 やがて、アルシノエの大きな瞳が、眠気に抗いきれずゆっくりと隠されていく。

 規則正しい、小さな寝息。

 興奮した翼のバタつきも止まり、頭上の光輪は、眠りに落ちた主を守るように、静かな定常光へと変わった。

 ドクターが、アルシノエの手元にまで掛かっていた毛布を、首元まで引き上げる。そしてその指先で、少女の額に触れた。それは健康状態のモニタリングではない、ただの愛着からくる無意味な接触だった。



「……任務完了だな」


 リーダーが、誰にも聞こえないほどの囁き声で言った。

 誰からとも知れず、五人は古い機械を壊さないように扱うような足音で、静かに部屋を出る。


 琥珀色の廊下に出ると、再び遠い空調の音だけが戻ってくる。ハッチを閉める際、リーダーは一度だけ、暗くなった部屋の奥を振り返った。

 そこには、自分たちが守り抜かなければならない理由が、静かに呼吸を続けている。


「……ドクター。一つ、確認したい」


 窓の外に広がる、永遠の虚無――星海を見つめたまま、リーダーがポツリと呟いた。


「あの物語の騎士は、最後にはどうなったのだ。暗黒星雲を退けたあと、彼は、その少女とどう生きた?」


 ドクターは、リーダーの横顔に刻まれた深い思索の影を見つめた。そこにあるのは指揮官としての責任感ではない。

 一人の男が、いつか訪れるはずの“戦いのない明日”を、どう迎えていいのか分からずに怯えている、迷子のような戸惑いだった。

 彼にとって、平和とは戦場よりも未知の領域なのだ。


「騎士様はその後、剣を置いて、その女の子と一緒に、ずっと幸せに暮らしたそうですよ。……毎日、今日のような、静かな夜を過ごしながら」


 ドクターは、あえて「私たちのように」とは言わなかった。

 その言葉は、リーダーが自分自身の心の中で見つけなければならない答えだと知っていたからだ。

 窓の外を見つめる無骨な男は、返事をすることはなかった。ただ、夜露のような冷たさを湛えた窓ガラスに、自分の指先をそっと押し当てる。その感触は、先ほどまで座っていたベッドの温もりとは対照的に鋭かったが、彼の表情からは、もう強張った緊張は消えていた。


 導閃隊という最強の部隊が、銀河の果てまで征く理由。

 それはもはや、大義のためでも、軍命のためでもない。


 誰もいない廊下で、リーダーは一度だけ自分の胸ポケットに触れた。

 そこには、あの草原で軍靴に付着した光る種子が入っていた。彼はそれを、捨てられない機密文書でも扱うかのように、より深く、ポケットの奥へと押し込む。


 アルシノエの寝息が、扉の向こうから微かに漏れ聞こえてくる。

 その小さな音に背を押されるように、天使たちは再び、自分たちの配置へと戻っていく。明日の空を、今日と同じように静かな夜へと繋げるために。


 澄んだ靴音が、今度は迷いのない一定のリズムで、琥珀色の静寂の中に消えていった。


 私たちは、壊すことよりも、守り続けることの方が遥かに難しいことを知っている。

 けれど、あの子の寝顔を一度でも見てしまえば、その困難さえも、誇らしい任務に思えてくるのだ。

 冷たい鉄の壁に囲まれたこの艦で、私たちは今夜も、小さな体温を抱いて銀河を往く。


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