10
「総員、警戒を怠るな。未知の惑星における最大のリスクは『未知』そのものにある。……そこ、歩幅を詰めすぎるな。地面の硬度変化に注意しろ」
白亜の戦艦の艦橋と同じ、鉄の規律を帯びた声がエメラルド色の草原に響きる。
ここは生態調査任務候補地惑星のひとつ。天界呼称『E - 377』、通称『プラネット・ガーデン』。
清浄な大気と淡いエメラルド色の空。独自の進化を遂げた多種多様の花々が絨毯のように広がる無限の草原。
文明を構築するほどの知的生命体は確認されず、広大な自然が広がるばかりのこの安穏とした惑星の調査が、今日の導閃隊に課せられた任務だ。
リーダーは、陽光に透ける金髪を風に遊ばせながら、設置型の聖律シールドを編み上げていく。その指先は、戦場での弾倉交換と同じ正確さで聖律回路を構築していた。
しかし、作業用パネルを見つめる彼の視線は、十歩ほど先でマシュマロのような多足獣を追いかけるアルシノエの背中を、病的なまでに往復している。
彼にとって、この平和な風景こそが、予測不可能な爆発物よりも制御の難しい、最大の脅威に映っていたのだ。
「リーダー、いくらなんでも過保護ではありませんか? 生命反応はどれも、眠っている赤ん坊より微弱ですよ。ほら、深呼吸してみてください。この星の空気は、私たちの艦の循環システムよりよほど清潔です」
ドクターが、重そうなバスケットを抱えながら苦笑した。中からは、ハーブと焼きたてのパンが混ざり合った、無機質な宇宙には存在しないはずの生活の匂いが溢れている。
部隊の健康維持を職務とする彼女の目は、リーダーの肩が不自然に力んでいるのを見逃さない。彼は守るべきものが増えるたび、自分の心を鋼鉄で塗り固める癖があるのだ。
「ドクター、安全に『絶対』はない。我々は侵略者ではないが、この星にとって異物であることに変わりはないんだ。……よし、交戦可能半径内に不可視の警報トラップも敷設完了だ」
リーダーは真剣な顔で満足げに頷くが、その背後ですでに任務という概念は崩壊しつつあった。
彼が張った鉄壁のシールドの内側で、仲間たちはすでに、戦士である前に一人の保護者としての顔を覗かせ始めていたからだ。
─────
「おい見ろよアルシノエ! こいつ、触るとぷにぷに弾むぞ! 船のトレーニングルームにあるサンドバッグよりずっといい感触だ!」
パラディンが、全身を白い毛で覆われた多足獣と草原を転げ回っている。
足裏で草を踏むたび、繊維が潰れるシャリッという繊細な音が響き、そこから淡い燐光が立ち上った。天界の植物よりも少しだけ粘り気のある、生温かい感触が、重厚な軍用ブーツの底を通して伝わってくる。
パラディンは、その異質な感触に最初こそ眉を寄せたが、すぐに童心に帰ったような笑い声を上げた。
「わあ、すごーい!あ!待って、パラ兄、そっちはだめ!その子、くすぐったいって!」
アルシノエが小さな翼を懸命に羽ばたかせ、跳ねるように駆けまわる。彼女が笑うたび、草原を渡る風の音が変わった。
周囲の草花が、まるで早回しの映像を見ているかのように一斉に開花し、頭が痛くなるほど濃密で甘ったるい香りが鼻腔を突く。
集まってきた生物たちは、いつの間にか彼女の足元で陶酔したように身をよじらせ、ハープの長い音色のような鳴き声を響かせた。
それは美しい光景であったが、同時にどこか異様でもあった。
「……また共鳴しすぎだ。この星の生態系を狂わせなきゃいいけどな。アルシノエ、あまり聖力を垂れ流すなと言ってるだろ」
岩場で発光植物の種を採取していたエリュシオンが、苦々しく呟く。
彼は光輪の空間拡張機能から手に馴染んだ採集キットを取り出し、ピンセットで慎重に種を摘み取っていく。
だが、隣にアルシノエがしゃがみ込んだ瞬間、植物が意志を持つように彼女の方へ頭を垂れて指先に擦り寄るのを見て、彼は短く、諦めに似た息を吐いた。
「リュシくん、なにしてるの?アルシノエも、いっしょにやる!これ、きらきらしてて、お星さまみたい!」
花の冠を揺らした少女が隣にしゃがみ込む。
エリュシオンは「……邪魔するなよ」とぶっきらぼうに突き放したが、その手はすでに、少女の小さな手でも扱える小型の採取用ピンセットをキットから選び出していた。
「いいか、根元を傷つけないように。優しく聖力を通せばここの石の色が変わるから、呼吸を合わせて抜くんだ。……そう、上手いじゃないか。お前、案外こういう地味な作業に向いてるかもな」
自分の汚れきった指先が、彼女の純粋さに触れてしまわないよう、彼は慎重に一定の距離を保ちながら指導する。
「えへへ、リュシくんとおんなじ! アルシノエ、リュシくんの助手さんになる!」
そう言って無邪気に笑う少女の横顔を見て、エリュシオンは胸の奥を小さな棘で刺されたような感覚を覚えた。
自分がこの調査という名目のピクニックに、誰よりも救われていることに気づいてしまったからだ。
彼はそれを悟られまいと、再び植物の根元へ視線を落とした。
──────
お昼時、ドクターが広げた光素繊維のシートは、未知の惑星における唯一の聖域となった。
豪華な料理が並ぶ中、メンバーの素が少しずつ剥き出しになっていく。
日常に戻る彼らの姿は、天界と魔界にその名を轟かせる英雄部隊ではなく、ただの不器用な共同体だった。
リーダーは周囲への警戒を怠らず、なおも鋭い視線を辺りに巡らせる。腰を下ろすことさえせず、いつでも盾となって前に出られるよう、手の届く位置に装備を整えたまま仲間達の誰が襲撃されたとしても最速で対応できる位置を模索しているのだろう。
一方、パラディンは具材がこぼれるのも構わず、特大のパンを頬張っていた。口の周りに乳白色のソースをつけながら、「これだよ、これ!合成糧食とは魂の格が違う!」と叫び、ホークアイの皿に山のように肉を盛りつけては彼女の苦言を笑い飛ばす。
エリュシオンは偏食を隠そうともせず、皿の端に避けられた青い野菜を、ドクターの小言から逃れるようにパンの影へ隠しては、アルシノエに「これ、食べていいよ」と押し付けていた。
「リーダーも、そんなに険しい顔をしていないで。現地調査には『環境の享受』も含まれるはずですよ。この風、この温度。それらすべてが、私たちの細胞には必要な栄養なんです。」
ドクターに促され、リーダーは渋々と腰を下ろした。
差し出されたサンドイッチを、彼はまるで未知の爆発物を鑑定するような目で見つめたあと、意を決して一口運ぶ。
「……ふむ。ドクター、この味付けは、非常に……効率的に幸福感を誘発するな。計算されたスパイスの配合だ。任務継続のためのエネルギー補給としては、完璧と言わざるを得ない」
「素直に美味しいって言えばいいのにねぇ、リーダーは。そんなに難しく考えなきゃ食べられないの?」
ホークアイの茶化すような言葉に、一同からどっと笑い声が上がった。
リーダーの口元に、小さなパン屑がついている。それだけで、彼が二十四時間背負い続けていた最強の盾という呪縛が、少しだけ軽くなったように見えた。
アルシノエは、自分の分のおかずを少しずつ、みんなの皿に分けて歩いた。
「アルシノエね、この星、だいすき。みんなといっしょだから、もっとだいすき! ずっと、こうしていたいな!」
彼女の光輪が、空のエメラルド色を反射して美しく輝いた。
リーダーの横に腰を下ろした少女の小さな体温は、冷たい金属の鎧で覆われていた男の芯を、ゆっくりと、しかし確実に溶かしていく。
彼は不器用な手つきで、アルシノエの頭を撫でる。その動作一つにさえ、彼は自分が他者を慈しむことへの戸惑いと、それを許してしまいたいという葛藤を滲ませていた。
─────
陽が傾き、空がエメラルドから深い群青へと溶け込み始める。
遠くで聞こえるのは夜行性の生物の泣き声だろうか。
それは金属が擦れるような、どこか寂しく、胸の奥を掻き毟るような響きだった。
そうして、この星の本当の顔が、覗き始める。
「撤収だ。予定の調査時間は過ぎている。……これ以上の滞在は、精神的な弛緩を招く」
リーダーは再び厳格な指揮官の仮面を被り、聖律シールドを解除した。
だが、その手つきは、どこか名残惜しそうに草原をなでる風のように。装置を回収する動作の一つひとつが、先ほどまでの機敏さを欠いていた。
帰還艇へと向かう一行の背後で、アルシノエが落とした花の冠を、多足獣たちが名残惜しそうに囲んでいる。
それはすぐに、この星の旺盛な生命力に飲み込まれ、形を失い、土へと還っていくだろう。
天使がここにいたという証拠は、きっと風が吹けば消えてしまうほどに脆い。
ハッチが閉まり、艦内に戻ると、いつもの無機質な金属音と、網膜を刺すような冷たい造化光が一行を迎えた。
そこは効率と機能性だけが支配する、血の通わない世界。その見慣れた光景に、各々が自身の生活へと戻っていく。
疲れて眠りについたアルシノエはドクターに抱かれ、パラディンやホークアイ、エリュシオンも、言葉少なにそれぞれの持ち場へと戻っていった。
そして、リーダーは一人、艦橋の自席に戻る前に、ふと自分の足元を見た。
重厚な軍靴の隙間に、あの草原の、小さな光る種がいくつも付着していた。それは泥にまみれながらも、無機質な白い光の下で健気に明滅している。
彼はそれを、すぐには払い落とさなかった。
汚れ一つないはずの艦橋の床をじっと見つめ、それから誰にも気づかれないように、その小さな未知を、手袋を脱いだ指先でそっと摘み上げる。
私たちは、この過酷な宇宙で戦い抜くために、心に幾重もの鉄を巻いてきた。感情を削ぎ落とし、効率という名の盾で自分たちを守ってきた。
けれど、こうして足元に残った泥や、ポケットの奥に忍び込んだ種こそが、私たちが「生きて帰るべき理由」を教えてくれる。
勲章や名誉などよりも、この不格好に付着した小さな生命の残渣こそが、今の私たちにとっての唯一の真実だった。
発艦のエンジン音が重く低く響く中、リーダーは一人、ポケットの中のわずかな温もりを、指先で確かめる。
その未知は、彼の冷え切った指先に、かすかな、しかし消えない熱を灯し続けていた。




