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白亜の戦艦の医療区画。
その医務室の一角には、常に微かな消毒液の匂いとドクターが淹れるハーブティーの香りが混ざり合う。
静寂を嫌う換気システムの低い駆動音だけが、ここが宇宙を征く鉄の檻であることを思い出させるような空間。
白亜の壁に囲まれたこの空間は、外側に広がる永遠の虚無とは切り離された、唯一の温かな停泊地だった。
「いい?アルシノエ。意識を、柔らかく指先へ集めてみて。そう、水面にそっと指を触れるみたいに」
ドクターの指先が、自身の光輪の縁をなぞる。
微かな共鳴音が室内の空気を振るわせ、虚空が飴細工のように柔らかく歪んだ。次の瞬間、そこから清潔な白さを保ったままの包帯が、重力を忘れたようにふわりと出現する。
それは天使が使う奇跡の力というよりも、高度に洗練された祈りに似た所作だった。
「わあ……! アルシノエも、ドクターみたいにやりたい!」
「ふふ、あまり無理をしてはダメですよ。あなたの光輪は、まだ咲いたばかりの蕾のようなものですから。ゆっくり、一緒に育てていきましょうね」
ドクターはそう言って、アルシノエの柔らかな銀髪を、慈しむように撫でる。
彼女の指先に残る温もりは、アルシノエにとっての絶対的な安らぎだ。
この広い戦艦のたった5人の保護者達。その誰もが少女にとっての大切な親であり兄姉であり友人であるとしても、ドクターはその中でも最も特別な“母”だった。
ビーッ、ビーッ
壁の通信パネルが、低く鋭い電子音を鳴らす。それが示すのは、艦長室からの呼び出し──リーダーの、どこか切羽詰まったような声だった。
「──ごめんなさい、アルシノエ。急用ができてしまいました。ここでいい子にしていられますか?」
「うん! アルシノエ、おるすばん、がんばるよ!」
小さな拳を握って胸を張る少女に、ドクターはもう一度優しく微笑み、足早に医務室を後にする。
自動ドアが閉まる瞬間の金属音が、アルシノエの胸を少しだけざわつかせた。
─────
一人残された医務室で、アルシノエは自分の頭上に浮かぶ光輪を見上げた。
ドクターの手によって、幾晩もかけて聖律術式を刻み込まれた、自分だけの特別な冠。
それは多機能なデバイスでありながら、アルシノエにとっては「みんなと繋がっている」という証そのものだった。
「………アルシノエも、おてつだいするの」
彼女の視界に、床に転がっていた木製のおもちゃや、ドクターが愛用しているティーセットが映る。
みんなに「すごいね」と言ってほしかった。ドクターの手を借りなくても、役に立てるのだと、そう証明したかったのだ。
それは幼い子供が背伸びをしようとする、あまりに純粋な、それ故に危うい衝動だっただろう。
だが、彼女の聖力は、まだ凪いだ水面を知らない。
「……えいっ!」
掛け声と共に、ぐ、と聖力を込めた瞬間、光輪が激しく火花を散らした。
ジジッ、という不穏な音と共に、虚空に開いた穴が、飢えた獣のように周囲の物を呑み込み始める。
「……え、あ……まって!」
それは医務室の道具だけに留まらない。
艦体に刻まれた聖律術式を流れる聖力の奔流を伝い、空間の歪みは目に見えない触手のように、遠く離れた仲間たちの持ち物へと、無差別に手を伸ばしていく。
小さな少女の“お片付け”という願いは、制御を失い、歪んだ。
─────
艦長室
「……装備していた予備の弾倉が、ホルダーごと消失した。磁気異常か?」
作戦の最終確認を行っていたリーダーの声が、困惑に揺れた。
常に自分の装備を極少単位で把握している彼にとって、腰元から鉄の重みが消えるという事態は、戦場を生き抜いてきた本能が警告を発するほどの異常事態だ。
「なんだリーダー、お前もか! 俺の特製増強飲料シェイカーもだ。さっきまでそこにあったのに、幽霊にでも盗まれた気分だぜ!」
パラディンが苛立ちを隠さずに頭を掻きむしる。
そこへ、ホークアイが眉根を寄せてひどく不機嫌そうに歩み寄ってきた。
「私のポーチもよ。ドクター、この船に空間の裂け目でもできているんじゃない? 鏡も口紅も、まとめて行方知れずだわ」
ドクターの背筋に、冷たい汗が伝った。脳裏に過ったのは、アルシノエの持つ他者の聖力と共鳴してしまう特質。
それが暴走すれば、艦内のあらゆる私物が少女の元へ引き寄せられてしまうだろう。
その瞬間、全員の心の中に、震えるような波紋が流れ込んできた。
『……ふえぇ、みんな、ごめんなさい……!』
アルシノエの、泣きじゃくるような声。
それは言葉というよりも、抱えきれない重荷に押し潰されそうな悲鳴。
彼女の意識が、仲間たちの持ち物に触れ、その“重さ”を肩代わりしてしまっていた。
『あたまのなかが……いっぱいで……でてこないの! おもいよぉ……!』
「医務室です! 急ぎましょう!」
ドクターの叫びに、全員が弾かれたように走り出す。通路を駆ける足音が、金属の床に反響して重なり合った。
─────
食堂の入り口に辿り着いた彼らが目にしたのは、顔を真っ赤にして、激しく点滅する光輪の下で震えるアルシノエの姿だった。
ひび割れたガラスのような鋭い光を撒き散らした光輪は、周囲の空気を歪ませている。
「アルシノエ、落ち着いて。私を見て。私の呼吸に合わせて」
真っ先に駆け寄ったドクターが、アルシノエの小さな肩を抱き寄せた。
リーダー、パラディン、ホークアイが、まるで幼い雛を守る鳥のように少女を囲み、それぞれの光輪を共鳴させる。
それはもはや、単なるエネルギー制御ではなかった。
彼らの意思が、アルシノエの混乱を包み込み、宥めていく。
「エリュシオン! 供給路を確保しろ!」
リーダーの鋭い声が飛ぶ。
柱の陰で、自分の使っていたじょうろが消えたことに半べそをかきながらうろたえていた褐色肌の天使が、覚悟を決めたように飛び出してきた。
エリュシオンは誰よりも孤独を知っている。
だからこそ、アルシノエが今、自分一人で何かを成し遂げようとして失敗した痛みが、自分のことのように分かった。
「……ったく、どいつもこいつも、世話が焼けるんだよ!」
エリュシオンの金色の瞳が輝き、己の熱を、その不器用な情愛を、アルシノエへと注ぎ込む。
──その瞬間。
ポポポンッ! という、春の種が弾けるような軽い音が響いた。
光輪からあらゆるものが雪崩のように溢れ出す。
精緻なティーセット、白銀の弾倉、鈍色のシェイカー、刺繍されたポーチ、そして使い古されたじょうろ。
アルシノエの“ないしょのポケット”から解放された日常の断片が、床に散らばっていく。
静まり返った食堂。床を跳ねる音が止み、無機質な静寂が戻る。
足元に転がった数多のキャンディを見つめたまま、アルシノエは顔を上げなかった。
その視線は、自分のしでかした失敗の大きさに凍りついているようだった。
「ドクター……アルシノエ、おてつだい、したかったの……。みんなを、助けたかったの……」
掠れた声。その一言一言が、自責の念で震えている。
ドクターは……すぐには答えなかった。
床に散ったキャンディの一つをそっと拾い上げ、その包み紙のシワを丁寧に伸ばすと、アルシノエの小さな掌に戻してやる。その繊細な指先が、わずかに震える少女の手を優しく包み込む。
「ええ、分かっていますよ。ありがとう、アルシノエ。あなたの優しさは、ちゃんと届いていますからね」
ドクターの落ち着いた声が、震える少女の閉じていた心を溶かす。
そのたった一言で、堪え切れなかった涙が堰を切ったように溢れ、弱々しく光っていた光輪は、安心したように柔らかな陽だまりの光へと戻っていった。
母娘のような姉妹のような暖かな光景を横目に、リーダーは足元に散らばった弾倉を一つ、手に取る。
彼はそれをじっと見つめたまま、小さく、誰にも気づかれないほど微かな溜息を吐いた。その瞳には、規律を乱された怒りではなく、最悪の事態を免れたことへの、そしてこの幼い少女が無事だったことへの深い安堵が滲んでいる。
そして彼は言葉を紡ごうとして一度呑み込み、それから最も穏やかなトーンを選んだ。
「失敗は成長の糧だ。アルシノエ。……だが」
冷静なる指揮官の大きな手が、アルシノエのまだ小さな翼をそっと整えてやる。
彼は一拍置き、わざとらしく弾倉を振ってみせた。中でカラカラと乾いた音が響く。
「私の装備の中に、大量の菓子類を混入させるのは、次回から控えてもらいたい。……作戦中に甘い匂いが漂うのは、いささか規律に反するからな」
「あはは! リーダー、それ最高じゃん! 今度から弾丸の代わりにアメちゃんぶっ放せよ!」
パラディンの笑い声が、白亜の食堂に響き渡る。その音は、張り詰めていた空気を完全に霧散させた。
アルシノエも、ようやく涙を拭って、くすぐったそうに小さく笑った。
窓の外には、どこまでも冷たく暗い宇宙が広がっている。
けれど、この鋼鉄の揺りかごの中にある絆の輪は、どんな太陽よりも温かく、彼らを繋ぎ止めていた。
それは血縁でもなく、義務でもない。
欠落した者たちが寄り添うことで生まれた、最も純粋な「家族」の形だった。
たとえ、また誰かの物が消えたとしても。
それを見つけ出し、笑い合える場所がある限り、彼らはこの広い宇宙で迷子になることはないのだろう。
不完全な光輪が繋ぐこのささやかな日常こそが、何にも代えがたい彼らの戦利品だった。




