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 戦艦クレイディアのトレーニングエリアは、生命の気配を拒絶するような白亜の壁に囲まれている。天井のパネルから降り注ぐ疑似太陽は、どこまでも平坦で、影の輪郭さえも曖昧にぼかしていた。


 その中心で、アルシノエは背中の小さな白い翼を、必死に、そして懸命に動かしていた。


「……んんっ、えいっ!」


 短い掛け声と共に、ふわりと彼女の身体が僅かに床を離れる。

 視界がわずかに揺れ、浮遊の予感に胸が高鳴ったのも束の間。羽ばたきはまだ、この巨大な鉄の塊を支配する重力を振り切るには至らない。

 空気の壁に押し返されるようにして、少女はふかふかのトレーニングマットの上に尻もちをついた。


「あぅ……」


 アルシノエは、期待外れだった自分の翼を恨めしそうに見つめた。

 リーダーやパラディン、ホークアイ、エリュシオン、ドクター。彼ら高位の天使種が見せる、あの重力を嘲笑うような優雅な飛翔。銀河の風を切り、星々の海を自在に泳ぐ彼らの背中には、目も眩むような大きな翼がある。


 自分もいつかは、あんな風に「びゅーん」と飛べるはずだ。

 そう信じて疑わない無垢な願いは、繰り返される着地の衝撃に、少しずつ削られようとしていた。


「……飛べない。アルシノエ、まだできないのかなぁ」


 ぽつりと漏れた弱音は、高い天井へと吸い込まれて消える。

 諦念に心が塗り潰されかけたその時、孤独になりかけた少女の耳に、静かな衣擦れの音が届いた。


「焦らなくて大丈夫ですよ、アルシノエ」


 振り返るよりも先に、清潔な滅菌処理剤の清涼な香りの中に潜む春の陽だまりのような温かな香りが鼻をくすぐる。

 白金の長いローブを翻し、トレーニングエリアの入り口をくぐったドクターが、アルシノエの隣に静かに膝をついていた。

 彼女は部隊の医師として少女の身体の異常を調べる前に、アルシノエの“母親役”として、震える小さな羽先をそっと指先で撫でた。


「あのね、ドクター。みんなみたいに、かっこよく飛べないの。アルシノエだけ、おいてけぼりみたい……」


 小さな肩を落とす少女の言葉を、ドクターは否定しなかった。

 ただ、柔らかな眼差しをその翼に向けたまま、静かに語りかける。


「あなたの翼は、ちゃんと育っています。今はまだ、この艦の空気の重さを知るための時間。飛べるようになるその日まで、この翼はあなたの熱を、そしてみんなからもらう勇気を、じっくりと蓄えているのですから」


 ドクターの指が、アルシノエの頭上で淡く瞬く光輪に触れる。

 本来は生体情報を司るだけの天使種特有の無機質な器官に、精緻なレース細工のような聖律回路が刻み込まれている。それは天使種の証であると同時に、ドクターがアルシノエの為に施した、目に見える愛情の結晶だった。


「飛べない間は、この光輪を使って私とお話ししましょうか。……いい?誰にも聞こえない、私とあなただけの特別な秘密ですよ」


 ドクターが自身の光輪にそっと指を添え、目を閉じる。

 次の瞬間、アルシノエは驚きに目を見開いた。


『──聞こえますか?』


 アルシノエがぱっと顔をあげる。

 耳から入ってくる「音」ではない。自分の心の中に、ドクターのしっとりと落ち着いた声が直接流れ込んできたのだ。


『わあ……! ドクターの声、あたまのなかにいる!』


 驚きと感動が混ざり合い、アルシノエは自分の光輪を両手で押さえる。

 耳ではなく、魂で直接繋がっている感覚。それは、物理的な距離を超えて、常に誰かと共にいるという確信を与えてくれる。

 飛べないもどかしさは、いつの間にか、自分だけに与えられた「秘密の絆」への誇らしさに塗り替えられていた。



 その平穏な静寂を打ち破ったのは、廊下の向こうから聞こえてきた、床を叩く騒がしい足音だった。


「よお、お姫様! 飛行訓練の調子はどうだ?!」


 重厚な自動ドアが開くと同時に、パラディンの快活な声がトレーニングルームに響き渡る。静かだった空間が、彼の登場だけで一気に熱を帯びたように感じられた。


「パラ兄だ!」


「ははっ、苦戦してそうなわりにゃ、元気いいじゃねぇか! まだ飛べねぇってなら、俺の肩に乗れ!銀河一周、光速で案内してやるぜ!」


 豪快に笑いながら、パラディンがアルシノエをひょいと肩車する。

 視界がいきなり高くなり、アルシノエは歓声を上げた。


「ちょっとパラディン、酔わせるような真似はしないでちょうだい。ねぇ、アルシノエ、今日はドクターに空間拡張の使い方も教わったんでしょう? 試しに、何か出してみてくれる?」


 呆れた顔でパラディンの後から入ってきたホークアイが、いつもの冷静な口調でたしなめながらも、期待を込めた眼差しを送った。

 アルシノエは、パラディンの肩の上で「えっへん」と胸を張る。


「いいよー!……えいっ!」


 彼女が光輪に意識を集中すると、何もない虚空が、まるで水面に石を投げた時のように、波紋を描いて揺れた。


 そこから、飛び出してきたのは、一本のキャンディ。

 物質をデータ化して光輪に収納する、ドクターが部隊の為に独自に開発した空間拡張技術を子供向けに扱いやすく改良したアルシノエの為だけの“ないしょのポケット”だった。


 だが、キャンディに続いて、見たこともない真っ赤な果実がいくつか、パラディンの肩を滑り落ちて床に転がった。


「……糖分を摂りすぎているな」


 冷静さを帯び、抑揚を抑えた重厚な低音に振り向くと、そこには立っていたのはリーダーだった。

 感情の起伏を押し殺したような彼の声には、しかし隠しきれない親としての過保護さと、わずかな困惑が混じっている。

 彼の視線は、アルシノエの血糖値がわずかに上昇していることを、その眼で見透かしているようだった。


「あら、これは………」


 ドクターが困ったように頬に手を当てる。

 この果実に心当たりがあったのは、ドクターだけではなかった。

 全員の脳裏に浮かんだのは、艦内の温室を預かる、あの不器用な青年。


「あ!あのね!これはリュシくんが『内緒だぞ、おなかがすいたら食べていいよ』って!」


 アルシノエの無垢で正直すぎる告白が、広いトレーニングエリアに響き渡る。


 一瞬の静寂。



「……余計なこと言うな、バカ!」



 温室の奥へと続く通路から、激昂した叫び声が聞こえ、続いて何かが派手に転がる音がした。エリュシオンが物陰でずっと見守っていたのは、もはや隠しようもない。


 走り去る最年少部隊員の背を見送り、小さく溜息をついたリーダーの、その形良い口元はわずかに綻んでいるように見えた。


「……全く。エリュシオンも、詰めが甘いな」


 リーダーは転がった果実を拾い上げると、それをアルシノエに手渡した。

 冷徹な監視者としてではなく、不器用な家族の長として、彼女の頭上に浮かぶ光輪をそっと見つめる。


「アルシノエ。その光輪は、お前がどこにいても我々と繋がっているという証だ。飛ぶということは、一人で高い場所へ行くことではない。私たちがお前を支え、お前が私たちの希望を繋ぐ。真の飛翔とは、その“循環”だ」

「……みんなと、いっしょ?」

「ああ。お前が飛ぶとき、私たちの力はお前の翼の風となる。約束しよう、お前は決して独りではない」


 リーダーが自身の光輪に指を触れ、静かな聖力を解き放つ。

 その波動が、ドクター、パラディン、ホークアイの光輪とも共鳴し、アルシノエの光輪へと流れ込んでいく。


 その瞬間、小さな身体が、ふわりと宙に浮き上がった。


「わあ……!」


 それは、彼女の小さな翼だけでは決して届かない高さだった。

 足の下には何もない。けれど、不思議と怖くはなかった。

 自分の身体を、誰かの温かな意思が、目に見えない掌のようにしっかりと、そして優しく支えているのがわかったから。


 黄金色に輝きを増した光輪が、五人の絆を繋ぐ楔のように、トレーニングルームの冷たい壁を温かな光で塗り替えていく。

 飛べないもどかしさ、おいてけぼりの寂しさ。

 そんなものは、この光の中に溶けて消えてしまった。


『ドクター、リーダー、みんな……だいすき!』


 アルシノエの心からの声が、テレパシーの波となって、全員の心へと直接染み渡っていく。

 それは、どんな高度な機能説明よりも雄弁に、この船が単なる兵器ではなく、一つの“家”であることを物語っていた。


 白亜のトレーニングルームは、いまや銀河のどの恒星よりも温かな光に包まれている。

 たとえ翼がまだ未熟でも、たとえまだ何者でもなくても。

 誰かに支えられて宙に浮くその一瞬の温もりこそが、彼女にとっての“本物の飛翔”だった。


 外に広がる暗く冷たい宇宙をよそに、鉄の揺りかごの中では、家族という名の小さな太陽が、絶えることなく燃え続けていた。

【用語・設定解説】

『光輪』

 天使種の頭上に浮かんでいる反物質的器官。天使種の生体情報や精神・聖力などを制御・補助することができる。

 特に導閃隊の隊員とアルシノエの光輪にはドクターが聖律術式を刻んでおり、遠距離通信や収納機能、言語の翻訳や遠隔アーカイブアクセスなど多機能な端末となっている。

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