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 白亜の戦艦クレイディアのメインブリッジは、深い海底に似た静寂に包まれていた。


 メインコンソールの微かな電子音と、空調が吐き出す乾いた風の音だけが、ここが少数精鋭部隊の生活拠点であることを主張している。

 この部隊の指揮官であり部隊長である男──リーダーは、次なる航路の座標を精査するため、青白いホログラムを見つめていた。その端正な横顔は、彫刻のように冷徹で、一分の隙もない。


 隣ではドクターが、アルシノエの頭上で淡く瞬く光輪に、端末からデータを流し込んでいた。光輪器官に刻んだ聖律術式による生体モニタリングの最終調整。それはこの船における、ドクターだけが調整可能な最も聖域に近い技術メンテナンスだ。


「リーダー、アップデートを完了いたしました。これでアルシノエのバイタルは、銀河のどこにいても私のデータクラウドに届くはずです」


 ドクターはいつものように、理性的で淀みのない口調で告げた。

 信頼する副官の言葉に、リーダーは視線をコンソールから外さず、短く頷く。


「助かる、ドクター。彼女の安全管理こそが、我々導閃隊に課せられた最優先事項だ。……例外はない」


 その言葉には、最強の指揮官としての自負と、ある種の強迫観念が滲んでいた。

 しかし、当の最優先事項──アルシノエは、自分の頭上で回る光輪を指で弄び、何やら重大な秘密を抱えた軍師のような顔で、コンソールの端を見つめている。


 アルシノエは最近、ドクターから教わった“空間拡張機能”の訓練に余念がなかった。

 ドクターが「大事なものをしまっておく場所よ」と囁いたその機能を、彼女は自分なりに解釈していた。すなわち、「大好きな人たちが大切にしているものは、私が預かってあげるべきもの」なのだと。


「……えいっ!」


 アルシノエが小さな、丸みのある指を光輪にかざした。

 ブリッジの空気が一瞬だけ甘いオゾンの匂いに満たされ、空間が水面に投げた石のように、微かな波紋を広げた。次の瞬間、コンソールの端に置かれていた、黒いチタン製の記憶媒体が、飴玉のように虚空へ吸い込まれた。


「あ、しまっちゃった……。リーダーの、だいじなやつ」


「……報告。リーダーの私物、アルシノエが吸い込んだ。回収不能」


 モニターの影で端末を弄っていたエリュシオンが、顔も上げずに淡々と告げた。

 その雑な言い方が、ブリッジの静寂を粉々に砕く。


「なっ……! アルシノエ、待て。今、何を……何を収容した?」


 リーダーが、人生で初めて照準を外したかのような狼狽を見せた。

 一歩踏み出し、相手がまだ幼い少女であることに気づいて急停止する。

 冷徹な青い瞳は泳ぎ、額には戦場でも見せたことのない種類の、嫌な汗が滲んでいる。


「だめ!ドクターが『だいじなもの』をいれる場所っていったもん!リーダーのだいじなもの、アルシノエが守ってあげるの!」


 アルシノエは誇らしげに胸を張り、両手を光輪にかざしてガードを固めた。


「待ちなさい、アルシノエ。そのデバイスには、軍の……軍の機密と、私の個人的な日記……いや、極秘作戦記録が収められている。今すぐ出しなさい。これは命令だ!」


「日記」という言葉を飲み込もうとして、さらに泥沼にはまるリーダーの姿に、ブリッジにいた者たちの視線が一斉に突き刺さった。


「ははは! リーダー、日記なんて書いてたのかよ! 偵察記録じゃなくて『日記』か。そりゃあ国家機密より重てぇな!」


 騒ぎを聞きつけたパラディンが、トレーニング帰りの大柄な体を揺らしながら首を突っ込んでくる。

 ホークアイもまた、香水の匂いを漂わせながら、誘惑的な、しかしすべてを見透かしたような微笑みを浮かべてアルシノエの隣に座った。


「あら、それなら私の最新のドレスカタログもアルシノエに預けておこうかしら。リーダーの『極秘作戦記録』とお隣さんなら光栄だわ」

「ふざけている場合か!ドクター、今すぐ強制解除を。ハッキングでも何でも構わん。私の……私の名誉が、いや、機密が危機に瀕している!」


 リーダーの懇願は、もはや悲鳴に近かった。

 しかし、ドクターは眉を寄せ、端末に表示される複雑な聖律回路を眺めながら、深いため息をついた。


「申し訳ありません、リーダー。感情同期が強すぎますね。今のアルシノエは、本気であなたを守っているつもりです。無理にこじ開ければ、次元干渉で中身のデータごと物理的に破損します」


「……破損、だと? 私の、あの、十万字以上に及ぶ、成長記録が……?」


「ほう、随分と書き溜めてたんだな」パラディンが追い打ちをかける。


 掘った墓穴に埋まるように、リーダーは絶望して膝をついた。

 最強の指揮官、原初天使サマエルの盾。いかなる敵軍の猛攻にも屈しなかった男が、幼い少女が抱く純粋な善意という名の防壁の前に、完全敗北を喫した瞬間だった。




 ─────




 結局、デバイスが返却されたのは数時間後。艦内の食堂に夕食の匂いが立ち込め始めた頃だった。

 ドクターから「リーダーが困っているから、一度お返ししましょうね」と諭されたアルシノエが、少しだけ名残惜しそうに光輪からデバイスを取り出す。


「はい、リーダー。アルシノエ、ちゃんと守ったよ!」


 誇らしげに差し出された黒いデバイスを、リーダーは震える手で受け取った。まるで、いつ爆発するか分からない信管を握るような手つきだ。


「……中身は、その、読み取っていないな?」


 リーダーの問いに、アルシノエは首を傾げた。


「えっとね、むずかしい文字はわかんなかった。でも……」


 彼女はリーダーの顔をじっと見上げ、その光輪を少しだけ眩しそうに細めた。


「リーダーがアルシノエのこと『かわいい』って書いてるところだけ、あったかい光になってたよ!ここだけ、ピカピカしてた!」


 食堂の空気が、一瞬で凍りつき、直後に沸騰した。

 アルシノエの共鳴能力。それは言語を介さずとも、そこに込められた執念に近いほどの強い愛着を、エネルギーの輝きとして読み取ってしまったのだ。


「…………っ」


 リーダーは耳の裏までを真っ赤に染め上げ、言葉を失った。

 彼は無言でデバイスを懐の最も深いポケットに叩き込み、手元のスープを猛然とすすり始めた。その姿は、およそ英雄とは程遠い、ただの不器用な男のそれだった。


 パラディンが吹き出すのを堪えきれず、テーブルを拳で叩く。

 エリュシオンは「……読みが当たったな」と呟き、自分の皿に視線を戻した。


 ドクターは、そんなリーダーの背中を見つめ、唇の端に翻訳不能なほど穏やかな、しかし意地悪な微笑を浮かべた。


「リーダー。後で私にもその『作戦記録』、共有していただけますか? 彼女の感情同期のサンプルとして、非常に興味深いデータが取れそうですから」


「……断る」


 地を這うような低い声。だが、その声には以前のような鋭利な冷たさはなかった。


 白亜の食堂に、英雄たちの不揃いな笑い声が響く。

 窓の外、広大な宇宙の暗闇に抗うように、アルシノエの光輪が小さく、誇らしげに輝いていた。

 リーダーが懐のデバイスをそっと撫でる。チタンの冷たさは、すでに彼の体温と、それ以上に熱い自白の結果によって、温められすぎていた。

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