第三章
― 三 ―
そうして、またすれ違いの日々が続いて。日に日に死願病のせいで長くなってしまっている残業とまた戦っていれば。
「……ほんとに二か月以上もよくすれ違ったよな」
「……すみません……」
きっと先輩が私のことを思って今日は「上にいる」と伝えてくれたんだろう。私以外誰もいなかったはずの部屋に、その人の低い声が響いた。
画面越しに目が合えば、叶はじとっと私を睨んでくる。その間にも聞こえる頭の「しね」という言葉も含めて、もう一度「ごめん」と言って。
「えーと、ごめんちょっとまだ残業ありまして……」
「待つでもいいし、気が楽ならその状態でもいいから話せば」
「えぇ……」
正直「待って」と言いたいけれど。散々待たせた挙句これ以上待ってなんて言える資格はなさそうで。すれ違いは若干事故もありそうだけど、待たせたことは変わりないのでうなずいて。
未だ「完了」ボタンにカーソルを合わせた状態から動けないまま、どう話そうかなと、思考を巡らせた。
巡らせながら、感じるのは恐怖。
この人は死願病を知っているのかな。もし私がそれだったら、どう思うだろう。自分もその対象だと知ったら。
「……」
きっと失望した目に、変わってしまうんだろうな。それにほんの少し、さみしさと悲しさを覚えた。そんな資格の方が、ないのに。
「幸」
「はい、すみません」
逸れかけた思考は叶に戻されて。ふと、大好きなあなたへの伝え方が浮かんだ。
最後の最後に、まだずるさを出しながら口を開いた。
「映画をね、観たんだ」
まるで一本の映画のような、地獄の物語を。
「死願病って知ってる? 聞いたことある?」
「……あれだろ、他人を対象に”死”を願う病気ってやつ」
「そう。……その、映画をね、観てさ」
本当に、辛いだろうなぁって。
頭の中でまた「しね」って音が聞こえてくる中。その声でマウスに乗せた指は動かせない中。口だけは、勝手に動いてた。
私には、大好きな人たちがいます。家族や友人、知り合って意気投合した人たち。きっと私は、その人が大切にしているものも大好きでしょう。
私には、大切にしているものがあります。大好きで、手放せなくて。生涯やり続けたいことがあります。それは夢として。いつか、必ず叶えたいと心に決めていたことがありました。
夢に向かって、一歩一歩近づきながら、大好きな人たちが喜ぶ日々。
そんな幸せな連鎖は、死願病によって負の連鎖に変わりました。
一歩進もうと思えば大好きな人たちへ「しね」という言葉が聞こえてくる。
もしもそのまま進んだら、その人たちが本当に私の願いによって死んでしまうんじゃないか。
それが怖くて怖くて進めない。
自分としっかり向き合ってみた時期がありました。病気になり始めてしばらく経ったころ。どうしてなのか、たくさん向き合ってみました。けれど頭の中はどうしてかは教えてくれませんでした。代わりに、その「しね」という思いは自分に向けたかった言葉だと知りました。本当にその人たちに思いたいわけではないと知りました。
けれど思考は他人を使って、私をいじめてくる。
大切な人たちに対して「しね」という言葉が聞こえます。
その大切な人が大切に思っているもの、人にも「しね」と聞こえます。逢ったこともない人でも、その人が大切にしていたならば対象になっていく。たとえ本当は「私」に向けられた思考の声だとしても、だんだんとわからなくなるんです。
私は本当に、その人たちのことが大切ですか。大好きですか。
大好きだったとしたら、どうして「しね」の対象にするんですか。
苦しいよ、辛いよ。
思いたくないのに思ってしまったら、私は罪の意識が芽生えます。思えば思うほど、その罪の意識は大きくなって。
私はだんだんと、大切な人たちを好きでいていいのかわからなくなります。
大好きな人なのに、「しね」とよぎった数だけ罪悪感があって。このままこの人のそばにいていいのかわからなくて。好きなことをしていても聞こえて、夢を目指していいのかわからなくなって。
「……だんだん何をするのも辛いんだろうな、苦しいんだろうな、って。映画観てたら、感情移入しちゃってさぁ」
「……」
「ドキュメンタリーみたいな感じでね。その死願病は、最初はニュースでも取り上げられてたけど。周りの声もあってだんだんと取り上げられなくなったんだって」
確かにどっちも辛いよね。思ってる本人も辛いし、きっと、病気だとわかっていても思われている相手も辛い。
本当に、辛い病気だと思う。
「なんとなくそれで、真剣に考えちゃって」
「……残業も多くなったって?」
「そんな、感じ」
「ふぅん……」
叶の音を最後に、部屋には時計の音だけが響く。私はまだ、「完了」ボタンを押せないまま。それがたった数秒なのか、結構な時間なのかわからないけれど。沈黙に耐え切れなくて、口を開いた。
「……叶はさ」
「うん?」
「もし……まぁ今でも先でもいつでもいいんだけど。……想いを寄せた人が死願病だったら、どうする」
それをカミングアウトされたら、どうする?
なんとなく叶は見れなくて。未だ動くことのない人差し指をぼんやり見る。
そうしてまた時計の音が聞こえ始めて、しばらく。
「……」
「……俺がもしカミングアウトされたら」
叶が、しっかりとした声でこぼした。
「まず、ほんとにそれはいわゆる”死亡”のしねだったのか聞く」
その言葉に。
ちゃんと声は聞こえたはずなのに、うまく処理ができなくて。さっきまでは見れなかった叶を反射的に見ていた。
「……聞く?」
「聞く」
しっかりと頷いて。
「ほんとに死んでほしくて願ったのか聞くよ。でもそれに苦しんでるやつらは、別にほんとに死んでほしくて願ったんじゃないんだろ?」
「……そう、だね」
「それの確認が取れたら、考え方を変える提案をしてみる」
「考え方……」
「そう。そりゃあさ、”しね”なんて聞こえたら思いつくのはいわゆる死亡の”しね”かもしれないけど。頭の中で聞こえるってことは別に漢字変換なんてしてねぇじゃん」
「……」
「よく流行ってんだろ、略語みたいなさ」
俺だったら。
「”しね”って言葉は”幸せになってね”の略語にすればいいんじゃねぇのって、そいつに言うよ」
――そうして。
「今までそいつが”ごめんなさい”って思った数だけ、”幸せを願ってくれてありがとう”って言う」
大切な人。その大切な人の、また大切な人に。
幸せを願ってくれて、ありがとうと。
「……そう考えたら、楽なんじゃねぇの」
こつり、こつり。
画面の方に目を戻せば靴の音が聞こえた。でも私は音の方を向けなくて。ただただ、だんだんと見えなくなる画面をしっかり見ようと目を凝らす。
「怖かったら、楽な方向に考えていいんだよ」
「っ、……」
「例えばこのボタンを押したからって、そいつが死ぬわけじゃない」
押せずにいるマウスに乗せている手に、あたたかな手が重なった。
「最初は怖いかもしんないけど、ボタンを押して」
カチリ、上からボタンが押される。その時にまた、私の頭の中には「しね」と聞こえた気がした。その罪悪感に襲われそうになる前に。
「そんで”しね”って思ったら、お前はまたひとつ、誰かの幸せを願えたことになる。その人は今以上に、周りに愛されて幸せになる」
そういう考え方したっていいんじゃないの。
「ぅ、……っ」
――許されますか。
この”しね”という音がいつか聞こえなくなるまで。今は、「幸せになってね」という言葉を縮めたものだよと思っても、許されますか。
「自分がそうやって許してやれば、大丈夫」
言葉にしていないはずなのに、上からは優しい声が聞こえて。いつの間にか流れていたしずくがさらにぽたぽたと落ちていく。完了ボタンが押されて、画面が切り替わったところで、頭にはぽふりとあたたかい手が置かれた。
「ずっと辛かったんだろ」
「……ん」
「たぶんさ、普通ならって言ったら失礼かもだけど。当たり前にある感情で、思ったら”あぁ思ったな、あいつムカつくところあるもんな”くらいで済ませられるものだと思う」
「……うん」
「でもそれについて、すっげぇ考えて、罪悪感感じて、思わないように頑張って、ちゃんと心の中でずっと謝ってきたんだろ」
「、うん」
「そんくらいお前は優しい人間だってことを、もっと褒めたらいいんじゃねぇの」
苦しかったね、辛かったね。よくがんばったねって。
「そう褒めたら、もうそのことは忘れたっていいんじゃね。罪悪感感じる必要もないし、戻りそうになっても、”今は幸せを願った”って思いなおせば大丈夫」
だからもう。
「苦しまなくていいんだよ」
優しく撫でられながら紡がれる言葉に、いつの間にか声を上げて泣いていた。
辛くて、苦しくて。
罪悪感でいっぱいで。何もかも手につかなかった。
考え方を変えればその言葉を言っていいとか、思っていいとかそういう問題でももしかしたらないのだろうけど。
それでも、この苦しさから逃れるまでは――ううん、この苦しさを感じていた自分も、ちゃんと愛せる日が来るまでは。
私は今日から、幸願病の疾患者だと、心に言い聞かせて、誰かの幸せを願おう。
自分の名に恥じぬように。
そう、心に決めて。
私は今までの苦しさや辛さをすべて出し切るくらい、叶の腕の中で涙を流した。




