第一章
― 一 ―
死願病は、仕事ややりたいことにも支障が出たりする。
「……」
パソコンとにらめっこをして、眉間にしわを寄せて。マウスに指を添えて、カーソルは「完了」という部分に乗せたまま。
私はかれこれ一時間ほど、動けていない。
理由は当然、「しね」という言葉が頭に流れてくるから。
ただただ「しね」だけだったならまぁ、うん、まぁなんとか乗り切れたんだろう。あとはその願う対象が自分だったなら全然よかった。でもこの病気の厄介なところは。
「……また、大切な人の大切なもの」
いつだって対象が”自分以外”だということ。
大好きな人ということもあれば、その人が大切にしているものだったりもする。対象はその時々で違うけれど。一貫して、自分以外であることは決して変わらない。
「……大丈夫、大丈夫」
そのたびに後悔して、頭の中を一回切り替えるの繰り返し。さぁ切り替えよう、楽しいことを考えよう? あれだ、今日のお昼は大好きなハンバーグ丼だ。私はハンバーグ丼が好きだ、楽しみだ。好きだ、楽しみだ。その気持ちのまま。
「……押せっ」
カチリ、完了ボタンを押す。そして一瞬安堵した隙に。
「っ゛あーーー」
すぐさま聞こえた「しね」の言葉。
これはセーフか。いやでもわかんない。どうしよう。一気に押し寄せてくるのは不安。
思ってしまったかもしれない。いや確実に思った。でもボタン押した直後だったから大丈夫? でも。
でも。
この作った資料を使い続けて、職場の人たちに負の念が行っちゃったらどうしよう。挙句の果てに、本当に死んじゃったらどうしよう。そんな風に考えてしまう。
この死願病に侵されて、考えがほんとにおかしくなってるっていうのはよくわかってた。けれどどうしても考えてしまうそんな不安。そうして、どんどん。
「……もうやだ」
何もかも、楽しくなくなってくる。決定ボタンを押すことが怖い。新しく始めることが怖い。何かを作ることが怖い。
そのたびに、誰かへの「し」の言葉が聞こえてくるから。
その恐怖や不安は、また不安を呼んで。だんだんと自分が信じられなくて。何をしても、「ほんとに大丈夫?」なんて。あざ笑うかのような声も聞こえるようになった。
それになんとか「大丈夫」と呟いて、できあがった資料をプリントアウトするために席を立った。
日々が怖くても、前までは何かに没頭する時間が癒しだった。漫画を読んだり、夢中になれることをするのが、「し」から離れられてすごく心地よかった。
けれど。
「……」
今となっては、その癒しすらも、私を追い込んでくる。
「……はぁ」
夜。昼はパソコンとにらめっこをしたけれど、今は毛糸の目とにらめっこしている。
一目編んでは頭に「し」が浮かんで、手を止めて、鳴りやんでからまた編んでみる。そうして、また。
「うるさ……」
聞こえてくる、「し」の言葉。
死願病は日に日に進行しているのか、小さなころからやっていた編み物でも出るようになってしまった。入り込むことさえもできない、苦痛の時間。
「……うるさい……」
歩くときなら音楽を聞けば少し紛らわせられるからいいのだけど、何かをし始めるときはそれだと逆に不安になってしまう。正しいかがわからなくなってしまうから。けれど頭の声は日に日に大きくなる。その繰り返し。ぼんやりと編みかけのぬいぐるみに目を落とす。
小さなころから大好きな編み物。
大学からはハンドメイド作家としても活動するようになって早数年。最初こそ当然のごとく無名だったけれど、好きなものということもあって反応にかまわず作品をどんどん作っていった。そうしたら、作家として活動し始めてから一年後くらいには新作を出せば売れていくようになり。ファン、と言っていいのかわからないけれど、いつも反応してくれる人が増えていって、その嬉しさもあって、私はどんどん作品を作っていった。得意なのは毛糸で編むマスコットやぬいぐるみ。小さな子は特に喜んでくれて、それがうれしかった。
その喜びが罪悪感や恐怖に変わりだしたのは半年くらい前。
大好きな編み物でも「し」が聞こえるようになってしまってから。
一目編めば「し」の言葉が聞こえる。最初こそ、振り切って編み続けていたけれど。
だんだんと。
この、”願い”が形となって。
手にしたこのぬいぐるみたちを持った子が死んでしまったら?
そう考えたら、恐ろしくなってしまって。
編んでも発表や販売をしなくなったり、ついには新作の制作すらうまくできなくなってしまった。
「……はぁ」
そうして、編みかけては捨ててしまうことになる”作品になれなかった子たち”を見て、思う。
私は何が楽しかったんだっけ、と。
みんなの反応? 買ってくれること? 作ること? この病気がなくなれば、また楽しめるのかな。でも、本当にこの「し」から離れていいんだっけ。離れたいのに、何故か離れられない。それはこの病気に苦しんでるかわいそうな自分が可愛いから? それとも、「し」を願ったことを罪として、ずっと背負い続けなければと思っているから?
「どっちもなのかな」
忘れてはいけないと、思ってしまう。
だっていけないことを思っている。ましてや大好きなものたちに。たとえ病気だったとしても、きっと悪いことをしているんだということは、変わらない。
忘れてしまいたい、けれど、それは罪として一生背負っていかなければいけないと思う。
誰もがある感情でも、きっといけないことをしているのは確かだ。
「……」
ぐるぐる考えていたら、ぽん、とスマホが鳴る。画面を見ると、SNSにメッセージが来ていた。
「”最近、大丈夫ですか”」
表示されたのは、そんな心配のメッセージ。
新作を上げていたころは、私のタイムラインやSNSのメッセージは喜びであふれていた。けれど今では、こうした心配の声が増えてきている。そんな資格ないのに。でも、新作ができなくてもこうして声をかけてくれるというのは、とてもありがたいことなのだ。だから、本当はもっと作品を作らないといけない。それなのに。
「……明日に、しようかな」
今日は一段とうるさくて。この気持ちでは作っても後悔と罪悪感ばかりになってしまう。作らなければいけない。わかっているけれど。
「……ごめんね」
どうしてもうるさくて、苦しくて。
また、“作品になれなかった子たち”を増やして。
一度針を置き、そのまま私は眠りについた。
死願病になってから、悪循環ばかりだ。
「……」
手は止まり、仕事は遅くなる。やりたいこともできない。でも、やらなきゃいけないこともたくさんある。
頑張らなきゃ。
死願病を抑え込んで、なんとか。
「願ノさん」
「!」
ぐっと、奥歯を噛みしめながらパソコンとにらめっこしていれば、隣から声がした。そちらを向けば、当時叶の席だったそこには、入社時から世話をしてくれている先輩の一人・寺山真さんがいる。その人はこちらに近づいてきて、顔を覗き込んだ。
「最近調子、より悪くなってる? 平気?」
「……まぁ」
「なんかあったら相談してほしいな」
「……ありがとう、ございます」
その人は今日も、距離が近い。
肩と肩が触れそうな近さ。きっとパーソナルスペースが狭い人なんだろうとずっと言い聞かせているけれど。それにしても、距離が近いのではないかなとも思ってしまう。
「あぁ、そういえばこの前――」
「……」
そしてやたらと話しかけてくる。仕事中でも、休憩中でも。それに、頭の中でそっとため息をついて。ふと、よぎる。
しんじゃえばいいのに。
「っ」
「? どうかした?」
「い、いえ」
なんとか笑って、すぐさまパソコンに戻る。
――いけない。
いくら嫌だからってこんなこと。ずっと親切に仕事を教えてくれてる上司なのに。けれど気づいてしまったら止まらなくて。
「っ」
「あぁそうだ、今日の夜食事とかどうかな」
「……」
「いい店があってさ」
どうかな。
覗き込んでくるその人に「し」の言葉や、いろんな思いが止まらない。
食事なんて、行きたくない。
去年、それこそ叶がいたときからこうして声をかけてくれるけど、断ってるのに。
あのときは叶が助けてくれた。
今は? 今はいない。
じゃあ、どうするの。
このひとが、――。
「っ」
最後まで聞こえる前に、ガタリと席を立つ。
「どうしたの?」
「あ、えと」
ひゅっと音が鳴りそうな息をどうにか整えて。
「えっと、ごめんなさい。今日は、用事があって」
「そっか」
何か、口実を。
そうだお手洗い。ハンカチを持ちながら、口を開けば。
「!」
そっと、手が伸びてくる。その手は私の手に触れて。
「それじゃあ、また今度」
そう笑う先輩に、なんとか笑みを作って私はその場を一度離れた。
忙しい日々に、やりたいことができない日々。
もやもやして、けれどやる気は起きなくて。
何か癒しの時間が欲しい。でもそれに対して「し」を願うなら、それはしちゃいけないことだ。忘れる瞬間は、あるのかな。ないかもしれない。
だって現実だけじゃなく、夢でさえ。
「……」
私には「し」の言葉が付きまとうのだから。
「……また」
目を開けたら、暗い空間。
その先のことはわかってたから、先に耳をふさいだ。意味なんてないのはわかってるけれど、強く強く耳をふさいで、目も閉じる。
それなのに目の前には人が見えてきた。それはいつの日かイベントで作品を買ってくれた親子の、親の方だった。目の前に現れたその人は決まって言う。
「あなたのせいよ」
それに、ごめんなさいと心の中で言った。
「あなたのせいで娘が死んだの」
ごめんなさい。心の中でまた言えば、目の前の人は突然寺山さんに変わる。
「死願病なんだってね」
頷けば、彼は私に近づいて。普段の優しい声とは裏腹な、こわい声で言う。
「君が「し」を願うから、僕はこんなに苦しい思いをした」
見て、と見たくないのに目の前には光景が広がる。
血だらけで、ぼろぼろの姿。
それに、何度も何度もつぶやいた。
ごめんなさい。
何度も、何度も。
けれど夢の人たちは私を許すはずもなく。それからもずっと、私のことを責め続けた。
――これは、罰なんだろう。
「し」を願い続ける私への。
償わなきゃいけない。
その人たちのすることは、甘んじて受けなければいけない。段々とそう思うようになっていく。
それが自分を追いつめていることになっているなんて知らずに、私の思考はただただ恐怖に支配されていて。
「願ノさん、この件まだかな?」
「……すみません」
怖くて「完了」のボタンが押せなくて、仕事には前以上に支障が出ていた。
私に聞いてきた斜め前に座るその人――寺山さんと同じく入社当時からの先輩であり、叶のお姉さんである空下実さんに、小さく謝る。
「なんかできないことあったりする? わかんない?」
「あー……そういう、わけじゃ、ないんですけど……」
「……最近、体調よくなかったりするの? 相談とか乗るけど……」
「……えっと」
話しながらも、心配してくれてるその人に「し」が浮かぶ。だめだと思っていても次の「ね」が頭に聞こえて。
「……すみません」
心配してくれているのにその言葉を思ってしまったことに、また罪悪感。悲しさと苦しさに涙だけはなんとか堪えた。
「締め切りはまだあるから大丈夫だけれど……なんかあるなら言いなね。顔色も良くないし」
「ありがとう、ございます」
なんとか笑えば、実先輩も笑ってくれる。それに罪悪感を覚えながら、ぼんやりとする頭でまたパソコンを見た。すると、
「大丈夫?」
隣から小さな声が聞こえてくる。
隣を見れば、寺山先輩。その人は心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「なにか悩みでもあるの」
「……いえ」
「その割には最近てこずっているようだけど」
そっと、より隣に寄り添うように迫られて、思わず身が竦む。できれば椅子を引いて遠ざかりたい。でも、と頭の中でストップがかかる。
私は、この人に「し」を願った。
だから、償わなければならない。この人のやることは、受け入れなければ。
そう、思って。なんとか踏みとどまって、笑みをこぼした。
「大丈夫、です」
「そう?」
「はい、あの、いつもありがとうございます」
お礼を言えば、その人は笑う。そうして。
「っ」
そっと、手が伸びてきた。
「困ったことがあればいつでも言って」
やさしく、けれど私には、少しぞっとしてしまうような柔らかさで。手を、重ねられる。いやだ。
――いや。
「あ」
「?」
断っちゃダメ。でも、どうしても、ちょっと、嫌だ。
反射的に声を出せば、その人は首をかしげる。それになんとか苦笑いをこぼして。
「えっと、その、ちょっと、小休憩してきます、ね」
コーヒーもなくなったし、と。私は一度、席を外した。
「……完全におかしい人みたい」
屋上に出て、柵に腕を乗せて。空を見上げて、顔は笑みをたたえる。でも頭の中は、恐怖でいっぱい。
一周回っておかしくなったみたいだ。
「昔は何を思ってたんだっけ」
何をそんなに楽しくできていたんだっけ。こんな、恐怖ばかりの世界はいつからだったっけ。
きっとこれが、私がその人たちのことみんなみんな大嫌いだったなら。
「そうだったら、楽なのになぁ」
「何が」
「ぅわっ!!」
目の前の青い空がいきなり人に変わって思わず声が上がる。向こうも私の声にびっくりしたのか、空みたいに青い瞳が大きく開かれてた。
「そんなに驚くか」
「いや、うん……驚くでしょう……」
ごめん、なんて笑って。叶は私の隣に立った。こぶし一つ分空いた、その人との距離。それを感じて、ぼんやりと思う。
――あぁ。
前だったら、隣に来てくれたことがうれしくて。心地よいこの距離に、この人に。ドキドキしてたんだろうなぁ。今も決してないわけじゃないけれど。
「……」
頭の中に聞こえてくる声に、罪悪感の方が勝つ。
すぐさま聞こえてくる「しね」の言葉に、心の中だけで頭を振り乱しながら、笑った。
「どしたの? ここに来るの珍しいじゃん」
「お前もだろ」
「今ちょっと空見たくて」
「最近調子悪くてそれが祟って息抜きできる場所に来たとかじゃなく?」
ぐっと刺さる言葉には、とりあえず笑ってみる。
「なんかね、たまーにね」
うまく笑えてますか。
鏡なんてないから、わからないけれど。どうか口角よ上がっていてと願いながら、あいまいにうなずいておいた。
「あるじゃん、調子悪い時くらい」
「……日に日に悪くなってるって聞いてるけど?」
「密告者は私の上司でもあるあなたのお姉さんですか」
「大正解」
ここに来るときに買ってきたらしいコーヒーを口に含んでから。
「あの人お前のこと大好きだし。心配してんぞ」
「……」
「なんか知らないかって、今ではほとんど逢ってない俺にも聞いてきたけど」
何かあったの。
穏やかに聞かれた言葉には、ただただ笑って。
「……別にー」
嘘を、吐いてみる。けれど鋭いその人は、すぐにわかったらしくて。
「俺に嘘つくんだ?」
なんて言うから。今度は思わず、ほんとに笑ってしまった。
「あんたは私のなんなの」
「同期で親友」
「さいですか」
心の中では、「そして私の好きな人」と付け加えさせてもらって。
ほんのちょっとだけ明るくなった心で、上を見上げる。さっきより空は澄んで見える気がした。
「……なんでもないよ」
そうしてまた、嘘を吐く。
「……話なら聞くけど?」
「なんもないってー」
「幸」
けれど笑ってもごまかせないらしくて、あなたは私の腕を引っ張る。そうして向かい合って、真剣な目で私を見つめた。
その真剣な瞳に。
ほんの少しだけ、喉元が熱くなる。
少しずつこの病気が進行してから、叶だけじゃなくて、いろんな人が声をかけてくれた。
調子悪いときは、”どうしたの”って。
不調が続いたら、”悩んでるの”って。”話聞くよ”。
たくさんたくさん、声をかけてくれた。
――どうしたの?
そう聞かれたら私はこう返したい。
”苦しいんだ”って。
――悩んでるの?
そう聞かれたら、”悩んでるよ”ってうなずきたい。
――話聞くよ。
その言葉に、甘えたい。
でもね。話を聞いたら。
あなたは私のことをどう思いますか。
そんなこと思ってたのって、軽蔑しませんか。
変わらずに関係を保ってくれますか。
たとえこれが病気だったとしても、許されますか。
私は優しくしてくれたあなたたちを、これからも変わらずに好きでいてもいいですか。
その自問自答が止まらない。
「幸」
「……」
名前なんて呼ばないで。
私にきっと、その名前は合っていない。
死を願う私に、幸せを願う名前なんて、合ってないでしょう?
だめだ。
「なんでもないってば、大丈夫」
これ以上はだめ。
顔よ笑って。
「気の、せいだよ」
どうか笑って。
「……だいじょうぶ」
最後にこぼした声は、震えてる気がした。どうしてかな。笑ってるはずなのに。
喉が熱くて、目から何かこぼれそうなのは、気のせいだよね。
気のせいにしてよ。
「……話、聞く」
目元に手を伸ばしてこないで。
「帰り、待ってるから」
「……行かない」
「毎日待ってる」
――話せるときに、話して。
こぼれそうな一粒を拭って。
叶は私に背を向けて、その場を後にしていった。
そのときこぼれてしまったもう一つのしずくは、見ないふりをした。




