プロローグ
イヤホンを付けて、音楽をかけて。
いろんな音を、シャットアウトしてみる。
世界の音、誰かの音。
――私の、頭の中の音を。
― プロローグ ―
きっかけは、わからない。
時期だけはぼんやりと覚えていて、去年の秋ごろ。気づいたら、私の頭の中には「それ」がいた。
思いたくない言葉。苦しむ私をあざ笑うかのように、「それ」はずっとずっと、付きまとう。
他人への、「し」の言葉。
とてもとても大好きで大切なものがあって、愛する人たちがいる、私の世界。
そんな、大切で愛する者たちに、私の頭の中は「し」を願う。
おかしいなんて誰よりもわかってる。大好きなものに、そんな言葉が浮かぶなんて。
人として当然の感情ではあるんでしょう。それもちゃんとわかってる。小さい頃なんかは深く意味なんて考えず、「あいつなんて」って思ったりもしたし、なんならみんな当たり前のように口にしたと思う。
”しね”、なんて。
でもそれってやっぱり、ムカついてたり、その人が嫌だなって思う瞬間だからこそ出てくる言葉なんじゃないかって思う。――きっと私たちとは。
”死願病”と呼ばれる病を持つ私たちとは違って、その負の感情に伴って、合致した言葉が出るんだろう。
それを考えるたびに。
音楽の合間にも頭の中で「しね」という言葉が聞こえるたびに。
私――願ノ(の)幸は、またその言葉に後悔と罪を心に刻んで、ため息をついた。
死願病というのは、その名の通り感情なんて関係なくただただ誰にでも「しね」と思ってしまう病らしい。大人になってからの方がなりやすくて、環境とか人間関係とかで心が疲弊した人がなりやすいと聞いた。その対処法は未だにわかっていないのか、いくら調べても出てくることはなかった。ただ、わかっているのは。
”死願病”になった人間は、今ではもう忌み嫌われるものだということ。
これが見つかった当初、二十年くらい前には未知の病としてニュースに取り上げられたそうだ。頭の中でなんにでも「しね」と聞こえる恐怖感、おかしくなっていく大人たち。最初は誰もが恐怖をしたり、大丈夫と声をかけるような風潮になっていたけれど。
一周回って冷静になったのか。人は、”死願病”そのものではなく”死願病で苦しむ人”に、恐怖や軽蔑の目を当て始めたそうだ。
“病気とは言え、あなたは私の「死」を願っているんでしょう?”
“それが病気だとしても、思ったことは結局ひどい言葉じゃない。”
”君はおかしいよ。”
“大好きな者にまで、誰彼構わず「死」を願うなんて。”
”確かにそれは、病気だ。”
”でも治ったとしても。”
――病気だったとしても、願われたこっちはたまったもんじゃない。
だんだんと、だんだんと。冷静に考えれば当たり前だろうなっていう声がたくさん出てきて。騒がれたときから二十年。私が二十代の前半に入りかけた頃には、”死願病”という病は、軽蔑の対象で。たとえその病になったとしても、誰にも相談なんてできず。よほどじゃない限り病院にも行かないという人が増えたらしい。それは、当然、私も。
大切な人がいる。大好きな人がいる。
でも私は、その人たちにも「し」を願う。
思いたくない。どうして思うんだろう。なんでこうなっちゃったんだろう。もしも仮にそれがその人たちに知られてしまったらきっと、許されることなんてないんだろう。それが、たまらなく怖い。許されないことも、「し」を思うこと自体も。
「……!」
頭の中の声を聞かないようにしながら歩いている中ですりよって来た小さな命。にゃあ、なんて鳴いて、私に「撫でて」と言ってるみたい。それがかわいくて、思わず顔がほころんだ。そうして自然と、手が伸びていく。
けれど。
「……」
その小さな命に触れようとした瞬間に、悪魔の声が聞こえて。思わず手をひっこめた。
――もしも。
もしも、私がこの手で触れてしまって。その瞬間にまた「しね」と思ってしまって。
この子が、本当に死んでしまったらどうしよう。
これは死願病の人が陥りやすい思考らしい。自分がそうなんじゃないかって思い始めた頃、図書館の隅に置かれていた、たった一つの死願病に関する文献を読んで知ったもの。
命あるものには必ず終わりが来る。
わかっているけれど。私は。
「……ごめんね」
ただただそれが怖くて、怖くて。ひっこめた手を伸ばすことはないまま、小さく呟いて。その場を足早に去って行った。
逃げるように猫から離れて、大通り沿いを走っていき、会社へとたどり着く。
「はっ、はぁ……」
上がった息を整えて、少し汗ばんでしまった額を拭きながらエントランスに入った。すると。
「幸?」
名を呼ばれて、ぱっと顔を上げる。その人を見て、一瞬心臓がどきりとはねた。
入口から真正面に進んでいった、この建物の奥にあるエレベーターのところ。そこには、同期であり、
「叶」
私の、好きな人がいた。
前なら、口角が自然と緩んで足早に駆け寄っていたけれど。今、この死願病になってからは、罪悪感で素直に喜べなくて。少し足取り重く、近づいていく。
「……おはよ」
「はよ。なに、息切らして。走ってきたのか」
「……ちょっとね」
苦笑いで肩を竦めた私に、叶はふっと笑う。細くなるその蒼い瞳に、少しだけ心臓が早くなりながら、着いたエレベーターに一緒に乗る。思いのほか密集しているせいで、叶との距離は近くなった。これは、ちょっとまずい。なので申し訳ないけども。
「……願ノさーん?」
「……」
「なんで俺のこと押すかな?」
「走って、きたもので……」
汗も気になるし、この距離はどうしたって「あれ」が嫌で。叶をぐぐぐっと押してみる。けれど。
「もうちょい詰めろって。周りに迷惑」
「うぅ……」
抵抗むなしく、さっきよりもぐっと寄られてしまう。
「……!」
そのときに、ふわっとした匂いが鼻をくすぐった。落ち着く匂い。これは、
「柔軟剤」
「お前が言ってたやつ」
「変えたの?」
「お前の匂い好きだから」
それは勘違いさせる発言ではないでしょうか。ぐっと照れを奥歯でかみしめてこらえて、少し守ってくれているような叶の腕の中でエレベーターが上に昇るのを待った。
彼――空下叶とは、この会社の同期だ。
もともと同じ経理課に配属されていて、席も隣だった。叶が、私の作ったハンドメイドの作品をほめてくれたのがきっかけでよく話すようになって。
叶の優しさに、話の楽しさに。恋に落ちるのは時間の問題だった。
入社した年の秋ごろには一緒によく出かけるようになって、正直、向こうも良く思ってくれてるのかなって思う瞬間がたくさんあって。いつ、言おうかな。でも勘違いだよね。その心の押し問答でもたもたしていたら。
春。
叶の異動が決まった。
一年で? 仕事がんばってたのに? そう思うけれど、上の人からより力を発揮できる場所にということで、営業課に異動になって。階が違うから、叶と逢うのはこの通勤・退勤時と、異動してから彼が行くようになった喫煙所くらいに激減してしまった。
「……」
そこから半年くらいしてからだろうか。死願病が発病したのは。入社当時、あんなに楽しかったのにな。仕事は忙しいけれど。叶と一緒にいれて、一緒にがんばって、とても楽しかった。
「……」
その春を思い返すと、悲しくて気持ちが落ちてしまう。そうしてそれに伴って、一瞬のときめきもすべてかっさらうように。
「し」の言葉が、私に押し寄せた。
上司はどうして叶を異動させたの。いつの日か、叶のおかげもあって経理がよくなったとも言ってたのに。今では通勤とかでしか逢えなくなってしまった。そんなことする上司なんて――。通勤と言えば、あの猫はどうなったんだろう。生きてるかな。帰りに近く見てみる? でも、いなかったら? もし、死んでしまっていたら。――こわい。
「幸?」
恐怖に支配されそうになった時、叶が私の名前を呼ぶ。今は、名前を呼んだらだめだよと思っても、口には出せない。ぱっと頭の中の標的は切り替わって、目の前の叶に向けて、頭が言う。
しね、なんて。
聞こえた瞬間に一気に血の気が引いてしまう。好きなのに、頭の中では死を願う。どうして?
「幸、どうした」
「……なんも」
申し訳なくて、顔をそらした。笑えてたかな。でも、もし笑えてたら。
私、好きな人に笑ってそんなこと思ったの?
――あぁだめだ。
「っ、行くね」
「あ、おい」
ようやっと着いた経理課の階。急いで人をかき分けて。
罪悪感から逃げるように、私はその場を後にした。




