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スキルを失ったあとに。  作者: カミツキ
第一章 裁定の内側

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第9話 忘れていたこと

村には、持ち主の分からない物が残っていた。


 宿の台所では、柄へ青い糸を巻いた包丁が使われている。女将は嫁入り前から自分の物だったと話したが、刃には三年前の日付と、文字が彫られていた。


 仕立屋の奥には、誰の身体にも合わない外套が吊られていた。肩幅は狭く、袖だけが長い。代金を受け取った記録はないのに、店主は捨てようとするたび胸が詰まり、布へ包み直して棚へ戻すという。


 村長の家では、食卓の端に椅子が一脚余っていた。


「奥様が使っていたものでは?」


 エイルが背へ触れると、老人は向かい側を指した。擦り切れた敷布の載った椅子が、湯の冷めた器を挟んで置かれている。


「妻の椅子は、あれだ」


 余った椅子には敷布もなく、座面に深い傷もない。


「では、誰が使っていましたか」


 老人の目が椅子へ向いた。唇が開いても言葉は出ず、やがて器を持ち上げ、冷えた湯へ口をつけた。


「誰も座っとらん」


 井戸の周りでは、子供たちが縄を回しながら同じ歌を繰り返していた。


 鳥は眠る。

 月は残る。

 名前を呼べば、朝になる。


「誰に教わりましたか」


 縄を持つ少女が隣の少年を見た。


「知らない」


「前から歌ってた」


「前とは、いつですか」


 縄は止まらず、歌も続いた。


 誰も、最初の一節を覚えていなかった。


 エイルの手の甲から伸びた青い糸は、宿、仕立屋、村長の家、井戸を通り、村外れの林へ続いている。井戸の女へ行き先を尋ねると、桶を引く手が途中で止まった。


「古い家が一軒あるよ」


「誰が住んでいますか」


「冬香と、ユイ」


「いつからですか」


 桶が傾き、汲み上げた水の半分が井戸へ戻った。


「いつからだったかね」


* * *


 林の道には子供の靴跡と犬の足跡が残り、曲がった柵の前では黒い犬が伏せていた。エイルが近づくと犬は立ち上がり、鼻先で門を押してからこちらを振り返る。


「中へ入れと?」


 尾が一度、地面を打った。


 窓には布が掛けられ、隙間から昼の薄い灯りが漏れている。戸口へ置かれた大きな鞄からは子供用の上着と乾燥したパンが覗き、その横には紐で閉じられた木箱が二つ並んでいた。


 犬が扉を掻くと、中で椅子を引く音がした。


 扉は開かない。


 エイルが取っ手を押すと、鍵は掛かっていなかった。


 部屋の中央には、肩までの髪をした女が灰色の外套を着て立っている。青い糸はその胸へ入り、右手は壁際の寝台へ伸びていた。


 寝台では少年が眠り、二枚の板で挟まれた左腕を胸へ載せている。血のついた布と半分残った水の器が脇へ置かれ、窓から寝台まで、小さな泥の足跡が続いていた。


 女の指先が少年の額へ触れる前に、エイルは手首を掴んだ。


「何を消しますか」


 女の顔が上がり、指が開いた。


「私です」


 黒い犬が部屋へ入り、寝台の下へ身体を滑り込ませる。


水瀬冬香(みなせとうか)


 閉じた窓の部屋で、枕の下から紙の端だけが持ち上がり冬香が押し戻す。女の喉が動いた。


「やっぱり、来たんですね」


「スキルを回収します」


「今は駄目」


 冬香は掴まれた腕を引かず、眠る少年へ顔を向けた。


「この子が起きる前に、終わらせないと」


「何を」


「この子から私を消します。そのあと、村へ行く」


「村人からも?」


「はい」


「なぜですか」


 冬香の目が、板で固定された腕へ落ちた。


「木から落ちました。私は村へ行っていて、帰ったときには林で倒れていた」


「誰が木へ登らせましたか」


「自分で登ったんです」


「誰が落としましたか」


「足を滑らせた」


「あなたではありません」


 冬香の指が、エイルの手の中で曲がった。


「見ていなかった」


「少年は、あなたを責めましたか」


「まだ起きていません」


「起きたら責めると?」


「責めなくても、私を見るたび思い出します。落ちたとき、私がいなかったことを」


 寝台の下から犬が鼻を出し、少年の右手が毛を探る。眠ったまま指先が背へ触れると、犬は頭を床へ戻した。


「起きたら、この子は私を覚えていません。知らない人が薬と食べ物を置いていった。それだけになります」


「折れた腕は残ります」


「治ります」


「一人で目を覚ましたことも残る」


「理由は分からなくなる」


「誰を責めればよいかも」


「誰も責めなくて済みます」


「責める相手だけを消すのですか」


 冬香はエイルを見た。


「私がいなければ、この子は傷つかなかった」


「腕は、すでに折れています」


「それは治る」


「置いていかれた理由は」


「忘れます」


「傷ではなく、理由だけを消します」


 冬香の唇が閉じた。


 エイルが手首を離すと、寝台が軋んだ。少年の瞼が開き、犬の耳が立ち上がる。


「冬香」


 掠れた声が部屋へ落ちた。


 冬香の肩が動く。


「水、飲む?」


 少年は器ではなく、寝台の脇へまとめられた鞄と木箱、畳まれた服、扉の前の靴を見た。


「また、いなくなるの」


 冬香の手が止まった。


「また?」


 少年は身体を起こしかけ、板の中で折れた腕を動かした。喉から息が漏れ、冬香が寝台へ手を伸ばす。


「動かないで」


 少年は壁へ背をつけた。


「触らないで」


 手が宙に残る。


「ユイ。何を覚えているの」


「分からない」


 ユイは枕の下へ右手を入れ、折り畳まれた紙を引き出した。角は丸く潰れ、何度も開いた折り目が白くなっている。


 紙には、女と子供と黒い犬が描かれていた。女は肩までの髪に灰色の外套を着ており、冬香と同じ顔をしている。


 絵の下には、子供の字で二つの名前があった。


【ユイ】

【クロ】


 女の下だけが空いていた。


「これ、誰」


 冬香の顔から色が引いた。


「どこで見つけたの」


「壁の裏」


「描いたのは」


「僕の字」


 ユイの指が、名前のない女を擦る。


「知らないのに、冬香と同じ顔」


 クロが寝台へ前脚を掛けた。


「前にも、朝起きたら誰もいなかった気がする」


「夢です」


「じゃあ、どうしてこの絵があるの」


 冬香が紙へ手を伸ばすと、ユイは胸へ抱え込んだ。


「取らないで」


「捨てるんじゃない」


「消すんでしょ」


 冬香の指が閉じた。


* * *


 エイルは手の甲へ浮かぶ名前を見た。青い糸は冬香の胸から右腕を通り、触れようとしていた指へ集まっている。


「スキル、《忘却(オブリビオン)》」


 冬香がユイとエイルの間へ立った。


「やめて」


「触れた相手から、あなたに関する記憶を消す力です」


「やめてください」


「何人から消しましたか」


「数えていません」


「この村だけではありませんね」


 冬香は外套の袖を掴んだ。


「必要だったんです」


「誰に」


「私に」


 炉の薪が崩れ、火の粉が網へ当たった。


「この世界に来たとき、森で男たちに捕まりました。逃げても顔を覚えられていて、追ってきた」


「記憶を消しましたか」


「はい」


「そのあとは」


「酒場で働きました。店主に殴られて、辞めると伝えたら部屋へ閉じ込められた」


「消しましたか」


「はい」


「そのあとは」


 冬香の目が、戸口の鞄へ落ちた。


「借りた金を返せなかった」


「消しましたか」


「返すつもりでした」


「消しましたか」


「はい」


「約束を破ったときも」


「はい」


「嫌われそうになったときも」


 爪が外套の布へ入った。


「先に消えれば、相手は苦しまない」


「あなたも」


「私も」


 寝台では、ユイが絵を抱いたまま冬香の背を見ている。


「僕からも?」


 冬香は振り返らなかった。


「一度だけ」


「嘘」


「ユイ」


「前にも、いなくなった」


「覚えていないでしょう」


「覚えてない」


 絵の端が震えた。


「だから、怖い」


 冬香の肩が下がる。


「覚えてないのに、朝になると扉を見る。冬香が村へ行くと、帰ってくるまで眠れない。どうして怖いのか、ずっと分からなかった」


 クロの首へ、ユイの右腕が回った。


 冬香が一歩近づく。


「私を忘れれば、今度は――」


「嫌だ」


「ユイ」


「怒る相手がいない方が、嫌だ」


 冬香の足が止まった。


 エイルは二人の間へ置かれた鞄を見た。乾燥したパン、衣服、銀貨。少年が冬を越すには足りない。


「あなたが消えたあと、ユイは誰と暮らしますか」


「村長へ頼みます」


「誰が頼むのですか」


「手紙を残します」


「書いた人間を、村長は覚えていますか」


 冬香の顔が鞄へ向く。


「ユイが読めば」


「誰からの手紙か分かりません」


「それでも、助けてくれる」


「あなたが助けを求めたことも、消えます」


 鞄の蓋へ置いた冬香の手が止まった。


「では、記憶を消さずに出ていきます」


「どこへ」


「分かりません」


「また同じことをしますか」


「しません」


「力が残っていても?」


 冬香は口を開いた。


 言葉は出なかった。


 家の外で犬が吠えた。クロではない。


 林の道を踏む足音は五人分だった。柵の前で止まり、枝の隙間から女将と仕立屋、杖をついた村長、井戸にいた二人の子供が見える。


 女将は青い糸を巻いた包丁を布に包み、仕立屋は灰色の外套を胸へ抱えていた。エイルが村を離れたあと、二人とも品物を元の場所へ戻せず、エイルが消えた林の道を追ってきた。


「ここに、誰がいるの」


 女将が家を見た。


「分かりません」


 エイルは冬香へ顔を向ける。


「それでも、来ました」


 仕立屋の指が外套へ食い込んだ。


「これを作った人がいる気がした。顔も名前も分からないのに」


 村長は杖を土へつけた。


「わしは、椅子を持ってこられんかった」


「誰の椅子ですか」


「分からん」


 老人は窓の灯りを見た。


「分からんまま、家に置いてくるのが嫌になった」


 子供たちは互いの手を握り、声を落として歌っている。


 鳥は眠る。

 月は残る。

 名前を呼べば、朝になる。


 誰も扉を叩かなかった。


 何を確かめに来たのか、自分たちにも分かっていなかった。


* * *


「あなたも同じでしょう」


 冬香の声が、足音の消えた部屋へ落ちた。


「何がですか」


「私たちを忘れていた」


 エイルの指が動いた。


 神崎弘人。

 前田祐樹。

 桐生真帆。

 白石沙耶。

 御堂彰人。

 久世透。

 朝倉環。

 佐伯葵。


 手の甲へ刻まれた名前を一人ずつ見ても、白い部屋で聞いた声は、呼び戻すまで沈んでいた。


「白い部屋で、私の話を聞いたんでしょう」


「はい」


「弟のことも」


「はい」


「私が何を望んだかも」


「はい」


「それなのに、名前を呼ぶまで思い出さなかった」


「はい」


 冬香の眉が寄る。


「私は忘れさせた」


 エイルの手の甲へ指を向ける。


「あなたは忘れた」


 指が下がった。


「何が違うの」


 エイルは【水瀬冬香】の文字へ触れた。


「あなたは忘れさせました。私は、覚えようとしませんでした」


「残された人には、同じでしょう」


「はい」


 エイルはユイが抱く絵を見た。女性と、空白になった時間が紙の上へ残っている。


「あなたへ力を与え、その結果を見なかったことも、私の罪です」


「なら、私を裁けない」


「私が正しいとは言いません」


 冬香の目が細くなる。


「それでも取るの」


「取ります」


「自分の罪は?」


 エイルは手の甲を冬香へ向けた。これまで回収した者の名前が並び、その下に【水瀬冬香】が残っている。


「消しません」


「名前を残せば、それで済むの?」


「済みません」


「なら、何のために」


「逃げないためです」


 エイルは【水瀬冬香】の文字へ指を置いた。


「私の罪で、あなたが忘れさせたことは消えません」


 指を離す。


「あなたの罪で、私が忘れていたことも消えません」


「それでも、私から奪う」


「はい」


「あなたは何も失わないのに」


「失ったことにして、軽くはしません」


 冬香の目が、手の甲の名前へ戻る。


「私の罪が残ったまま、私が回収します」


「ずるい」


「はい」


「私にも残せと?」


「力を失ったあと、あなたが決めます」


 エイルは手を差し出した。


「回収します」


 冬香は動かなかった。


「取ったら、戻るんですか」


「何が」


「消した記憶」


「戻ります」


 冬香の息が止まった。


「全部?」


「消した記憶は、スキルの中に残っています」


「消えたんじゃないの」


「人から離しただけです」


 冬香は扉を見た。外に立つ村人の影が、窓の布を埋めている。


「待って」


 エイルの手を避け、ユイへ向かった。


「先に、もう一度だけ」


 右手が少年の額へ伸びる。


 ユイが払った。


「嫌だ」


「これから、もっと苦しくなる」


「冬香も?」


 手が止まる。


「うん」


「じゃあ、同じでいい」


「同じにはならない」


「忘れるよりいい」


 冬香の指が、少年の額の上で震える。


 やがて、手は膝へ下りた。


「お願いします」


* * *


 エイルは、冬香が何度も人へ触れてきた右手を包んだ。


「スキル、《忘却(オブリビオン)》を回収します」


 青い光が、指の腹から薄い膜となって剥がれた。最初の一枚には、森を走る男たちの顔が映り、次には酒場の扉と、振り上げられた店主の腕が浮かんでいる。


 膜はエイルの掌へ入らず、部屋の中を横切って壁を抜けた。


 外で誰かが息を呑む。


 青い膜は一本ずつ冬香の指から離れ、村、街道、その先へ伸びていく。触れられて冬香を失った人々のもとへ、それぞれの朝と声を返していた。


「やめて」


 冬香が右手を掴んでも、光は指の間を抜けた。


「今なら、まだ――」


 最後に残った青い光は、ユイへ伸びている。


 一本ではなかった。


 二本。


 冬香の指が震える。


「待って」


 光はユイの胸へ入り、冬香の右手から色が消えた。


 すべての記憶を返したあと、色を失った薄膜だけがエイルの掌へ折り重なり、消えた。


 スキルを回収した。


 扉の外で、包んだ金属が土へ落ちた。


 女将が両手で頭を押さえ、柵へ背中をぶつける。口は動いているが、言葉にならない。


 仕立屋は外套を地面へ広げた。縫い目を指で追い、途中で手を止める。


「私が、縫った」


 その先が続かなかった。


 村長は杖を離し、土へ座り込んだ。


「妻が死んだ夜」


 窓へ顔を向ける。


「誰かがいた」


 二人の子供は歌を途中で止めた。一人は口元を押さえ、もう一人は林の道へしゃがみ込む。


「冬香」


 少女が初めて名前を口にした。


「冬香に、教わった」


 誰も扉へ近づかなかった。


 戻った記憶の中で、冬香に助けられた時間と、冬香が消えた朝が重なっていた。林には、誰も言葉を続けられない時間が残った。


「この包丁、あなたがくれた」


 冬香は扉へ走ったが、取っ手へ手を掛けたまま引けなかった。


「私が熱を出した冬に、三日も台所へ立ってくれた」


 声が途切れ、次に出た音は低くなった。


「そのあと、宿代を払わず消えた」


 仕立屋の声が重なる。


「外套を注文したのも、あなたね。布を選んで、春までに払うって言った」


 窓の外で布を広げる音がした。


「三年待った」


 老人の杖が地面を叩く。


「妻が死んだ夜、この椅子に座っていた。朝まで、わしの話を聞いた」


 杖がもう一度、土を打った。


「次の日には、誰がいたのか分からなくなった」


 子供たちの歌が、林へ近づいてくる。


 鳥は眠る。

 月は残る。

 名前を呼べば、朝になる。


 途中で一人の少女が泣き出した。


「冬香に教わった」


「井戸に落ちたとき、助けてもらった」


「でも、そのあと消えた」


「どうして忘れさせたの」


 冬香は、開けられない扉へ額をつけた。


 感謝も、怒りも、同じ木の向こうにいた。


* * *


 寝台で、ユイの身体が跳ねた。絵が床へ落ち、頭を両手で押さえようとして、折れた腕の板が寝台へ当たる。


「ユイ」


 冬香が振り返る。


 少年の目は、今の部屋を見ていなかった。


 最初の朝、寝台の隣は空になり、冷えた鍋と乾燥したパンだけが残っていた。冬香の名前を呼んでも、村人は誰のことか分からない。


 半年後、灰色の外套を着た女が林の道へ立った。


『泊まるところを探しています』


 ユイはその女を知らなかった。クロだけが駆け寄り、靴へ鼻を押しつけた。


 次の冬、食卓には二人分の器があった。


 また、冬香の椅子だけが空になった。


 村へ捜しに行っても、誰も冬香を覚えていない。やがて同じ女が家へ戻り、戸口でユイへ尋ねた。


『以前、会ったことがありますか』


 ユイは首を振った。


 クロだけが、女の足元から離れなかった。


 少年の目が今の部屋へ戻る。


「二回」


 冬香の足が止まった。


「ユイ」


「二回、置いていった」


 冬香は寝台へ近づき、床へ膝をついた。


「ごめん」


「忘れさせて、知らない人になって戻ってきた」


「行く場所がなかった」


「僕のところなら、忘れてるから?」


「違う」


「何が」


 ユイの指が、床へ落ちた絵の端を掴む。


「忘れたのは、ユイだけだった」


「冬香は?」


「全部、覚えてた」


 別の町へ着いた朝も、冬香はパンを二つ買った。夜になると咳が聞こえないか戸口へ顔を向け、薬草屋では子供用の熱冷ましを手に取った。代金を払ってから、渡す相手がいないことに気づいた。


 捨てられなかった薬包は、鞄の底に残っている。


「だったら、どうしてすぐ戻らなかったの」


「怒られると思った」


「怒るよ」


「嫌われると思った」


「だから、知らない人になったの?」


 冬香の手が床を掴んだ。


「会いたかった」


「でも、僕には忘れさせた」


「うん」


「冬香だけが覚えてた」


「うん」


「ずるい」


 冬香の指から力が抜けた。


「うん」


「僕は、この人のことをずっと待ってた」


「知らなかった」


「冬香が消したから」


「ごめん」


「それしかないの」


 冬香は顔を上げた。


「今は、それしかない」


 ユイは絵を裏返し、壁へ顔を向けた。


「触らないで」


 冬香の手は、膝の上に残った。


* * *


 林の外では、声と足音が何度も入れ替わっていた。


 最初に来た五人のうち、女将と仕立屋が村へ戻った。村長は柵の前に座ったまま動かず、二人の子供も歌をやめて家の窓を見ている。


 日が傾くころ、林の道へ人が増え始めた。


 手ぶらで来る者。家に残っていた食器や手紙を抱えてくる者。途中で足を止め、村へ戻る者もいた。


 誰も同じ歩幅では歩いていなかった。


 扉を開けると、林の道には村人が散らばっていた。


 青い糸を巻いた包丁を持つ女将。外套を抱えた仕立屋。余った椅子を若者へ背負わせ、杖をついて立つ老人。歌を知る子供たち。


 冬香へ礼を言う者もいれば、金を返せと声を上げる者もいる。何も話さず、顔だけを見ている者もいた。


 冬香は敷居を越えられなかった。


「聞いて」


 声は重なる村人の間へ沈んだ。


「私は――」


「金を返して」


 仕立屋が外套を地面へ置いた。


「三年前の布代と仕立て代。今払って」


「今は」


「また消える前に」


 冬香の肩が動き、目が村人の後ろを走った。


 道がある。


 森を抜ければ、別の町へ行ける。


 知らない人間の中へ入れば、また最初から始められる。


 エイルの掌に、大地と門の印が浮かんだ。


「水瀬冬香。この世界へ残るか、元の世界へ戻るか、選んでください」


 冬香は門の印を見た。


「元の世界でも、こちらで過ごした時間と同じだけ進んでいます」


 印の内側へ水が満ち、雨の降る日本が映った。濡れた横断歩道の向こうで、年を取った女が信号を待っている。


 母親だった。


 水面が揺れ、食卓へ子供用の器が置かれた記憶へ変わる。


『あの子が生きていれば』


 父親の箸が止まった。


『冬香が見ていれば』


 夏の川では、弟の帽子だけが水面を流れている。白い部屋で、冬香は両耳を塞いでいた。


『私のことを、みんなの記憶から消してほしい』


 エイルは願いを聞いた。


 家族の顔を見なかった。


 水面の向こうでは、母親が一人で食器を洗っている。父親の姿はなく、弟の写真だけが棚へ残っていた。


「戻れば、家族は私を覚えていますか」


「はい」


「弟のことも」


「はい」


「私が見ていなかったことも」


「はい」


 冬香が門へ手を伸ばすと、背後で扉が軋んだ。


 ユイが折れた腕を胸へ抱えて立ち、クロが足元についている。


「戻るなら、戻ってもいい」


 冬香の手が止まった。


「ユイ」


「僕は止めない」


 少年は冬香を見た。


「でも、僕のことを忘れないで」


「忘れない」


「今は、力がないから?」


 冬香の指が門の光へ触れる。


「違う」


「怒ってるか、聞かないの」


「怒ってる?」


「怒ってる」


 冬香の喉が動いた。


「嫌い?」


「分からない」


「許してくれる?」


「分からない」


 門の白い光が、冬香の指を照らしている。林には、金を返せと言った女、夜を一緒に過ごした老人、助けられた子供、二度置いていかれた少年がいる。


 誰も、冬香を忘れていない。


 冬香は門から手を離した。


「ここに残ります」


「残留を受理すれば、送還へ変更できません」


「はい」


「許されない可能性があります」


「はい」


「嫌われる可能性があります」


「はい」


「忘れてはもらえません」


 冬香はユイを見た。


「はい」


「それでも残留を望みますか」


「望みます」


「残留を受理します」


 エイルの掌で大地の印が光り、門の水面が閉じた。


 手の甲が熱を持つ。


【水瀬冬香】

【スキル回収】

【裁定完了】

【残留】


* * *


 仕立屋が地面の外套を冬香へ差し出した。


「三年前の分」


 冬香は腰の袋を開き、入っていた銀貨を四枚、掌へ載せた。仕立屋は一枚ずつ数える。


「足りない」


「あと、いくらですか」


「七枚」


 冬香は林の向こうにある宿、井戸、縫い物の積まれた店を見た。


「働いて返します」


「逃げたら」


 袋を閉じる手が止まった。


「探してください」


「忘れさせない?」


「できません」


「できても?」


 冬香は外套を拾い、腕へ抱えた。


「しません」


 仕立屋は銀貨を握ったまま、林の道を戻った。


 村人たちはまだ残っていた。


 一人ずつ、冬香の前へ出る。


 冬香は敷居に立ち、覚えている名前を呼んだ。


* * *


 日が落ちる前に、ユイは二枚の絵を壁へ並べた。


 一枚には、ユイとクロと、名前のない女が描かれている。もう一枚には今の三人がいて、女の下には黒い文字があった。


【冬香】


 冬香は古い絵へ手を伸ばした。


「これは外そう」


 ユイの右手が紙を押さえる。


「置いとく」


「名前もないよ」


「冬香だって分かった」


「前の私です」


「今も冬香でしょ」


 冬香の指が紙から離れた。


「どうして残すの」


 ユイは二枚の絵の端を揃えた。


「忘れてたことも、忘れないように」


 クロが壁の下へ伏せた。


 二枚の絵は、同じ高さに並んでいた。

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