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スキルを失ったあとに。  作者: カミツキ
第一章 裁定の内側

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第8話 一人分

 町へ入る前に、エイルは同じ女を三人見た。


 一人は門楼で弓を構え、一人は壊れた荷車の下へ肩を入れ、もう一人は道端へ膝をついて泣く子供の傷へ布を巻いている。三人とも肩までの黒髪を後ろで束ね、同じ高さの身体で、それぞれ別の方向を見ていた。


 顔も、声も同じだった。


「次の荷車、通して」


 門楼から落ちた声へ、車軸を支える女が地面へ肩をつけたまま返す。


「車輪が先です」


 子供の膝へ結び目を作った女も立ち上がった。


「走ってもいいけど、転んだら次は自分で洗ってね」


 子供が頷き、女は門へ向かった。エイルの横を通り過ぎた胸へ、群青色の糸が沈んでいる。


 門楼の女にも。


 荷車の下の女にも。


 三本ではない。


 糸は町の奥へ枝分かれし、屋根、煙突、学校の窓、鐘楼の下へ伸びていた。


佐伯葵(さえきあおい)


 三人の顔が、同じ角度でエイルへ向いた。


 門楼にいた葵は弓を隣の男へ押しつける。


「持っていてください」


「俺が?」


「落とさなければ大丈夫です」


 葵が石段を下り始める間にも、町の中から四人目が走ってきた。片手に野菜籠を提げ、反対の腕には眠った赤ん坊を抱えている。


「誰?」


 荷車の下から出た葵が、服についた土を払いながら近づいた。


「エイルです」


 四人の口が閉じ、野菜籠から葱が一本落ちた。


「あっ、白い部屋の」


「はい」


 赤ん坊が身じろぎすると、抱いていた葵は頭を支え直し、道向かいの店へ顔を向けた。


「ミレナさん。起きたら乳をお願いします」


 店から出てきた女へ赤ん坊を渡す。ミレナの腕が重さに負け、頭の側が下がった。


「重い」


「四か月なので」


「そうじゃなくて、抱き方が分からないんだよ」


 葵は赤ん坊の頭の下へミレナの手を入れ、肘の位置を直した。


「ここを支えてください」


「あとで来るんだろ」


 葵は眠る頬を見た。


「来ません」


 門の鐘が高く鳴り、間を置かず二度続いた。石段を下りていた葵が顔を上げる。


「東の畑です」


 弓を預けられた男が、門楼から身を乗り出した。


「何の鐘だ」


「猪です」


「三回は火事じゃなかったか」


「高い鐘が猪、低い鐘が火事です」


「どちらが高い」


 葵は石段を上り直し、町の奥からは鍋を抱えた別の葵が走ってきた。


「東は私が行きます」


「食堂は?」


「煮込み中です」


「火は?」


「弱めました」


「見ている人は?」


 鍋を抱えた葵の足が止まる。


「いません」


 野菜籠を持っていた葵が籠を道端へ置いた。


「私が戻ります」


 荷車を直していた葵は、すでに東門へ走っている。


「猪は私が」


 四人は別々の方向へ散り、エイルだけが門の中央へ残った。


 町の人々は、誰も驚いていなかった。


「旅の人かい」


 赤ん坊を抱くミレナが、葵の残した野菜籠を足元へ寄せる。


「先に宿へ行った方がいい。葵が手を空けるまで時間がかかるよ」


「どの葵ですか」


 ミレナは赤ん坊の頭を支え直した。


「葵は葵だろ」


* * *


 通りのどこに立っても、葵が見えた。


 市場では二人が同じ台を挟み、一人が肉を切る横で、もう一人が野菜を刻んでいる。屋根の上では瓦を運ぶ葵から、下にいる葵へ一枚ずつ手渡され、学校の窓からも同じ顔が覗いて子供たちと文字を読んでいた。


 診療所の扉からは血のついた布を抱えた葵が出てくる。


「先生、糸を」


 白衣の男が棚から顔を出した。


「どの太さだ」


「右側、上から二番目です」


「右は薬だろ」


「先生から見て左です」


「最初からそう言え」


 葵は棚へ入り、自分で糸を取った。その向かいでは、別の葵が老人の背へ載せられた薪を数えている。


「三本までです」


「四本運べる」


「昨日、腰を痛めました」


「昨日のことまで覚えとるのか」


「私が運びましたから」


 薪を一本抜いて自分の肩へ載せる。


 群青色の糸は、町中にいるすべての葵を通り、鐘楼の下へ集まっていた。そこには石造りの小さな建物があり、鍵のない扉の奥に机と椅子が一つずつ置かれている。壁には町の地図が掛かり、診療所には赤、井戸には青、夜警の詰所には黒い印が刺さっていた。


 地図の前にも、葵がいた。


 ほかの葵と同じ顔と服で、違うのは椅子に座っていることだけだった。


 裏口が開き、泥をつけた葵が入ってくる。


「猪は森へ戻しました。四頭です」


 椅子の葵の肩へ手を置くと、二つの輪郭が重なり、泥をつけた身体が光へ変わった。


 残った葵は机へ両手をついた。爪の間へ泥が現れ、息が一度止まる。


「何が起きましたか」


「戻った記憶です」


 右肩が猪の体当たりを受けたように揺れた。


 別の扉から、白衣を着た葵が入ってくる。


「縫合、終わりました」


 肩へ触れ、光へ変わる。残った葵の指が針を持つ形へ曲がり、掌へ血の匂いが移った。


「痛みますか」


「縫われたのは私ではありません」


 葵は自分の右手を開く。


「でも、覚えています」


 窓の外で鐘が鳴り、葵は椅子から立った。


「スキルを回収します」


 椅子の脚が床を擦る音だけが残った。


「今ですか」


「はい」


 葵は壁の地図へ向き直り、赤、青、黒の印を目で追った。


「今、何人いますか」


「二十七人です」


「回収すれば、一人に戻りますか」


「はい」


「その前に、全員を戻せますか」


「戻せます」


「では、戻してください」


 葵の指が診療所の赤い印へ触れた。


「出産に立ち会っている私がいます」


 川沿いの青い印へ移る。


「子供たちを見ている私も」


 最後に、町外れの黒い印を押した。


「炭焼き窯の温度を見ている私もいます。今消えれば、窯が割れます」


「誰かへ返してください」


「代われる人がいません」


「なぜですか」


 葵の指が地図から離れた。


「私がやっているからです」


 窓の向こうでは、屋根の葵が瓦を置き、次の一枚へ手を伸ばしている。


「日が沈むまで待ってください。仕事を返して、全員を戻します」


 エイルは地図に残る印を見た。


「あなたを罰するために、回収するのではありません」


 葵の顔が上がる。


「では、なぜ?」


「私が、この力を与えました」


「町があなた一人を二十七人として使うところまで、見ませんでした」


 群青色の糸が、窓の外を行き交う同じ背中へ続いている。


「この力を残さないと、私が決めました」


「私から取るのは、あなたですか」


「はい」


 葵は地図から印を一本抜いた。


「日が沈むまでに戻します」


「待ちます」


 抜かれた赤い印が、机の上へ置かれた。


* * *


 食堂の鍋は、底だけが焦げていた。葵は木べらで黒い部分を掻き、焦げのついたまま店主へ差し出す。


「火を弱めるのは、泡が鍋の縁へ届く前です」


 店主は木べらを見たまま、手を出さない。


「明日も来るんだろ」


「来ません」


「朝だけでも」


「来ません」


「昼の仕込みは」


「昨夜のうちに切ってあります」


「明後日は」


 葵は木べらを店主の手へ押しつけた。


「自分で切ってください」


「包丁は苦手なんだ」


「前は使っていました」


「お前が来る前の話だ」


「手は残っています」


 店主の指が木べらへ回った。


「言い方が冷たくなったな」


「同じことを、今朝から十八回話しています」


「俺は一回しか聞いてない」


 葵の口が閉じた。


 店主が鍋底を掻くと、剥がれた黒い欠片が煮込みへ混じった。


「入っています」


「分かっとる」


「取り除いた方が」


「次へ行け」


 葵の足は動かなかった。


「客に出せません」


「今日は俺が決める」


 店主は焦げを混ぜたまま、鍋を掻き続ける。


「もう焦げとる。次へ行け」


 学校では、文字を教えていた葵が若い女へ出席簿を渡した。机に並ぶ子供たちは、二人の間で顔を動かしている。


「午前は読み書き、午後は計算です」


「私には教えられない」


「一頁目を読んでください」


「それだけで授業になるの?」


 葵は一番前の少女へ顔を向けた。


「昨日、どこまで読みましたか」


 少女が本を開き、指を置く。


「ここ。半分まで」


 葵は本も若い女へ渡した。


「今日は残りの半分です」


「明日は?」


「二頁目」


「明後日は?」


「三頁目」


 女の腕が下がる。


「そんなやり方でいいの?」


「私はそうしました」


「あなたは全部読めるでしょう」


「最初は一頁目も読めませんでした」


 教室の後ろから少年の手が上がった。


「先生、ここ分かんない」


 若い女が葵を見る。


 葵は出席簿から手を離した。


「先生は、そちらです」


 子供たちの顔が女へ向いた。女は本を開いたが、上下が逆だった。前の少女が身を乗り出し、黙って向きを直す。


 診療所では、白衣の男が糸のない針を目へ近づけていた。


「穴が見えん」


 葵が糸へ手を伸ばしたところで、エイルは手首を掴んだ。


「この一本だけです」


「次の一本も、あなたが通します」


 白衣の男が窓辺へ椅子を運び、糸の先を舌で濡らした。一度目は外れ、二度目も針の脇を通る。


「私が」


 葵の手首には、エイルの指が残っている。


 三度目。


 糸が穴を抜けた。


 男は針を窓の光へ掲げた。


「通った」


「はい」


「お前がいなくても」


「はい」


 男は針を下ろす。


「傷を縫えるとは限らん」


「私も、最初は縫えませんでした」


「誰で練習した」


 葵が袖を上げると、肘の内側に歪んだ縫い跡が残っていた。


「自分の腕です」


 白衣の男は傷を覗き込んだ。


「下手だな」


「はい」


「明日、来ないのか」


「来ません」


 男は針を机へ置いた。


「なら、今日のうちにもう一本通せ」


* * *


 町の西では、川が石橋の下を流れていた。十人の子供が浅瀬へ入り、網で魚を追っている。岸には二人の葵が立ち、一人が上流、もう一人が下流を見張っていた。


 エイルと歩いてきた葵は、岸へ置かれた笛を拾う。


「誰か、代わってください」


 子供たちが顔を上げ、橋の上で樽を積んでいた父親たちも作業の手を止めた。


「二人いないと危ないだろ」


 男の顎が、上流と下流の葵へ向く。


「明日からはいません」


「なら、川遊びは禁止だ」


 水の中から声が上がった。


「嫌だ!」


「魚を捕る約束した!」


 葵は父親へ笛を差し出す。


「上流に一人、下流に一人。水が膝を越えたら上がらせてください」


「仕事がある」


「今日は樽を置いてください」


「出荷が遅れる」


「子供を川へ入れたのは誰ですか」


 男は笛と子供たちを見比べ、抱えていた樽を荷車へ戻した。隣の男も縄から手を離す。


「上流は俺が見る」


「俺は泳げんぞ」


「岸に立つだけだろ」


 二人が川へ下りると、葵たちは笛を渡した。


 下流にいた葵が近づく。


「二人、戻ります」


 肩と肩が触れ、一つの身体が光へ変わった。


 残った葵の足が水へ入る。流れの冷たさ、十人分の名前、下流へ流された網を掴んだ腕の重さが一度に戻り、膝が折れた。


 エイルが横から腕を支える。


「大丈夫です」


「立てていません」


「次があります」


 上流にいた葵も歩いてくる。


「待ってください。戻せば、また記憶が増えます」


「日が沈みます」


「最後には、一人の身体しか残りません」


 葵は上流の自分へ手を伸ばした。


 光が重なる。


 川面の眩しさが両目へ入り、耳の中へ子供たちの声が増えた。葵は岸へ片手をつき、吐いた息で水面を揺らす。


「次へ行きます」


 笛を持った父親が川から上がり、葵の反対側へ腕を回した。


「休め」


「窯が」


「俺たちも行く」


「温度の見方を知りません」


「教えながら歩け」


 男は濡れたまま、葵の身体を支えた。


「一人で歩くな」


* * *


 町外れの炭焼き窯から、黒い煙が上がっていた。窯の前にいる葵が細い穴へ鉄棒を差し込み、周囲には四人の男が立っている。誰も棒へ触れていなかった。


「色を見てください」


 葵が抜いた先端は赤く焼けている。


「何色ですか」


「赤」


「赤のどれですか」


 男たちが顔を寄せた。


「明るい赤」


「橙に近い」


「俺には全部同じだ」


 葵は棒を地面へ置いた。


「薪を一本抜いてください」


 一人が窯の口へ手を伸ばす。


「それは入れる方です」


「同じ薪だろ」


「左が乾燥済みです」


「印をつけろよ」


 男が炭を拾い、乾いた薪の端へ一本の線を引いた。


「最初から、こうすればよかった」


 葵の目が黒い線で止まる。


「私には分かりました」


「俺たちには分からん」


 別の男も炭を持ち、残りの薪へ印をつけていく。


「明日から全部につける」


 葵は鉄棒を拾い、最初の男へ渡した。


「赤が暗くなったら、空気穴を開けてください」


「割れたら?」


「次の窯を作ります」


「今日の炭は駄目になるぞ」


「はい」


「簡単に言うな。お前は失敗したことがないから言える」


 葵の袖から、肘の歪んだ縫い跡が覗いていた。


「失敗したものを、別の私が直しました」


 男の指が鉄棒へ回る。


「同じじゃないか」


「違います」


「何が」


「失敗した私が、残りませんでした」


 窯の中で薪が崩れ、低い音が地面へ伝わった。男たちが穴を覗く間に、窯を見ていた葵が近づく。


「戻ります」


 肩へ触れた身体が光へ変わり、熱、煙、鉄棒の重さが残った一人へ入った。葵は咳き込み、唇へ黒い煤をつける。


 空には、夕方の色が混じり始めていた。


* * *


 鐘楼へ戻るころには、町を歩く葵の数が減っていた。


 屋根には住民が上がり、瓦を一枚ずつ手渡している。市場では店主が肉と野菜を同じ包丁で切り、隣の女に手の甲を叩かれていた。診療所の窓には、白衣の男が針へ糸を通す姿があり、学校からは、読めない文字を子供に教わる女の声が聞こえる。


 うまく回ってはいない。


 それでも、止まってはいなかった。


 石造りの部屋へ戻った葵は、椅子へ届く前に床へ膝をついた。二十五人分の同じ一日が、身体の内側へ重なっている。


 焦げた鍋の匂い。川の冷たさ。針が皮膚を抜ける感触。子供たちの読む声。猪の背についた泥。


 窓の外で誰かが肩を叩くたび、葵の顔が別の方向へ動いた。


「最後の一人は」


 エイルが地図を見る。すべての印は抜かれていた。


「二階です」


 葵は手すりを掴み、身体を引き上げるように階段を上った。


 二階には小さな部屋が一つあり、閉じた窓の前へ薄い布が敷かれていた。その上で、最後の葵が靴を脱ぎ、毛布を顎まで掛けて眠っている。枕元の砂時計には、まだ半分の砂が残っていた。


「この人は」


「眠る担当です」


「担当」


「ほかの私が動けなくなったときに戻して、休んだ記憶を受け取ります」


「あなた自身は眠らないのですか」


「誰かは、起きています」


 眠っていた葵が目を開けた。身体は起こさず、毛布から片腕だけを出す。


「もう時間?」


「はい」


「まだ、眠い」


「知っています」


「今日、何かあった?」


「全部」


「そう」


 伸びた指へ、立っている葵が触れた。


 眠っていた身体が光へ変わり、毛布だけが床へ落ちた。


 葵の瞼が閉じる。


 眠気が一度に戻り、身体が前へ倒れた。エイルが受け止めると、額が肩へ当たる。


「寝てください」


「回収が残っています」


「眠ってからでもできます」


「寝たら、起きない気がします」


「起こします」


 葵はエイルの肩から顔を上げた。


「最後に、一人で眠ったのがいつか分かりません」


「今は、一人です」


 部屋の中には、葵一人分の呼吸だけがあった。


「静かですね」


「はい」


「町が止まったみたいです」


 窓の外で鍋を落とす音がし、怒鳴り声が続いた。鐘が一度だけ鳴って、途中で止まる。


「止まっていません」


 葵は窓へ顔を向けた。


 町のあちこちから、揃わない音が届いていた。


 間違っている。


 葵のいない音だった。


* * *


 日が沈むと、鐘楼の下へ町の人々が集まった。


 食堂の店主は木べらを持ち、教師を引き受けた女は出席簿を胸へ抱えている。白衣の男の指には糸が絡まり、川を見ていた父親たちの裾は濡れたままだった。炭焼きの男は煤のついた鉄棒を肩へ載せている。


 葵は一人で広場へ出た。


「ほかの葵は」


「戻しました」


「明日の朝は?」


「いません」


「食堂はどうする」


「店主が」


「診療所は」


「先生が」


「夜警は誰が立つんだ」


 門楼から、低い鐘が一度、間を置いてもう一度鳴った。


「火事だ!」


 誰かの声へ、門楼の男が顔を出す。


「練習だ! 低い鐘が火事で合ってる!」


「二回は盗賊だろ!」


 声が重なる。


 葵の足が門へ向いたところで、エイルは前へ立った。


「任せてください」


「間違えています」


「はい」


「止めないと」


「あなたが直せば、次もあなたを待ちます」


 鐘がもう一度鳴った。今度は高い音だった。


「混ざっています。危険です」


「はい」


「私、何か壊しましたか」


「はい」


 葵の顔が上がった。


「あなた一人で壊したのではありません」


 エイルは、広場へ集められた道具を見た。焦げのついた木べら。上下を確かめなければ開けない出席簿。糸の絡んだ針。濡れた笛。煤に汚れた鉄棒。


「鍋が焦げる前に、あなたが木べらを取りました。文字を間違えれば、あなたが書き直しました。針が通らなければ、あなたが縫いました」


「失敗したら、困る人がいます」


「はい」


「怪我人や、子供です」


「はい」


「では、どうすればよかったんですか」


「任せることです」


 葵の指が服を掴んだ。


「失敗すると分かっていても?」


「はい」


「誰かが傷ついても?」


「傷つけない方法を、一緒に考えるべきでした」


「考えている間に、間に合わなかったら」


「それでも、全部をあなた一人の仕事にはしない」


 広場の端で樽が倒れ、中身が石畳へ転がった。葵の身体が動きかける。


 持ち主の男が先に走り、自分の手で樽を起こした。


「あなたは、頼まれる前にも動きました」


「私がやった方が早いから」


「はい」


「失敗しないから」


「はい」


「困っている人を放っておけないから」


「その結果、町の人々はあなたが動くのを待つようになりました」


 葵は、樽の中身を拾う男を見た。


「一人では足りなかったから、二十七人になった」


「その力を与えたのは私です」


「二十七人いれば、全部できた」


「それでも、あなたは誰にも頼りませんでした」


 葵の指が止まる。


「元の世界にいたときと同じです」


 広場を鳴らす鐘が、途中で音を外した。


「身体だけが増えて、あなたは一人で眠る担当まで作りました」


「眠らないと、動けなかったから」


「眠ることまで、仕事にしました」


 葵の両腕が下がった。


「帰れるのか」


 食堂の店主が木べらを肩へ載せた。


 葵の目がエイルへ動く。


「元の世界へ送還できます」


「なら帰れ」


「待ってくれ」


 広場の奥から、子供を抱いた女が前へ出た。


「この子は葵に取り上げてもらった。次に熱を出したら、誰が診るの」


 白衣の男が針を持ち上げる。


「俺が診る」


「糸も通せなかったじゃないか」


「二本通した」


「子供で練習するつもり?」


 男の指が針を隠すように閉じた。


「練習じゃない」


「失敗したら、この子が死ぬ!」


 女は子供を抱いたまま葵へ近づき、空いた手で袖を掴んだ。


「残って。診療所だけでいいから」


「学校も必要だ」


 別の男が声を上げる。


「文字を教えられる者がいない」


「夜警はどうする」


「猪が戻ってきたら?」


「窯が割れたら、冬の炭がなくなる!」


 声が重なり、葵の袖を掴む指が増えた。


「分かりました」


 葵が広場を見回す。


「私が一人なら、朝は診療所へ行きます。昼から学校、そのあと食堂を仕込んで、夜は――」


「駄目です」


 エイルが葵の腕を取った。


「放してください」


「二十七人で続かなかったことを、一人で続けようとしています」


「でも、困っています」


「はい」


「今、私を必要としている」


「必要と、使い続けてよいことは同じではありません」


 子供を抱いた女がエイルへ顔を向ける。


「天使なら、代わりを置いていって」


「置きません」


「この子が死んでも?」


「死なせない方法を、あなたたちが探してください」


「無責任だ!」


 飛んできた声へ、エイルは顔を向けなかった。


「はい」


 葵の袖を掴んでいた女の指が強くなる。


「行かないで」


 食堂の店主がその手首を掴み、葵から外した。


「俺だって残ってほしい」


「なら、なぜ」


「残せば、明日も俺は木べらを渡す」


 店主は焦げた鍋の蓋を開いた。苦い匂いが広場へ流れる。


「俺は帰せと言う」


「私は言えない」


 教師の女が出席簿を抱えた。


「明日の授業が怖い」


「俺も患者が怖い」


 白衣の男は針を見たまま、顔を上げない。


「帰っていいとは言えん」


 炭焼きの男が鉄棒を地面へ立てた。


「だが、残れとも言わん」


 広場の声は揃わなかった。


 誰も、町が明日から回るとは言わなかった。


 エイルは手を差し出した。


「私がこの力を与えました」


 葵は、袖に残った指の跡を見た。


「町からあなたを二十七人分奪うことも、私が決めました」


 広場の奥から、もう一度声が飛んだ。


「勝手に決めるな!」


「はい」


 エイルは手を下げなかった。


 葵はその掌へ、自分の指を重ねた。


「お願いします」


 指先が触れると、葵の背後へ二十七人分の輪郭が現れた。


 包丁を持つ葵。本を抱く葵。針、弓、笛、鉄棒、薪、野菜籠を手にした葵。毛布へ包まれたまま眠る葵もいる。


 輪郭は一人ずつ、持っていた物を足元へ置いていった。


「スキル、《多重存在(マルチプル)》を回収します」


 群青色の線が、それぞれの影から剥がれ始める。市場を歩いた足、針を持った指、夜警で暗闇を見続けた目から線が抜け、エイルの掌へ集まった。


 二十七人。


 十人。


 三人。


 一人。


 最後に残った葵の胸から、幾重にも重なった群青色の輪が外れた。輪は互いに擦れて薄い音を立て、エイルの掌へ収まる。


 スキルを回収した。


 葵の身体が傾き、食堂の店主が木べらを投げて肩を支えた。


「一人は軽いな」


「重さは同じです」


「そうか」


 葵は自分の手を開いた。


 指は十本。


 掌は二つ。


 影は一つだった。


* * *


 エイルの掌に、大地と門の印が浮かんだ。


「佐伯葵。この世界に残るか、元の世界へ戻るか、選んでください」


 葵は町を見た。


 門の鐘が高く二度鳴り、誰も意味が分からないまま顔を見合わせている。


「残れば、手伝えます」


「一人分です」


「はい」


「すべてはできません」


「はい」


 食堂の店主が焦げた鍋の蓋を開いた。


「食堂には来るな」


 子供を抱いた女が、葵へ一歩近づく。


「診療所だけでも残って」


 白衣の男は針を指で挟んだまま、顔を上げなかった。


「俺は、来るなとは言えん」


 教師の女も出席簿を抱え直す。


「明日の授業だけ、手伝ってほしい」


 川の男が笛を吹くと、音にならない息だけが抜けた。


「川は俺たちで見る」


「危険です」


「分かっとる」


「でも」


「それでもだ」


 声は揃わなかった。


 葵は、差し出された門の印を見た。


 白い部屋が、記憶の奥から戻る。


 床へ座り込んだ女。鳴り続ける電話。仕事の画面には赤い文字が並び、机には母親の病院の予約票、流しには洗っていない食器が積まれていた。


【至急】

【未対応】

【本日中】


『私が、もう一人いれば』


 女は両手で顔を覆った。


『全部できたのに』


 エイルは、できるかどうかだけを見た。


 一人でしか生きられない身体へ、何人分もの一日を与えた。


「戻ります」


「送還後、スキルは戻りません」


「はい」


「この世界へ戻ることもできません」


「はい」


「元の世界では、あなたがここで過ごした年月と同じだけ時間が進んでいます」


 葵の指が動いた。


 焦げた鍋。出席簿。針。笛。鉄棒。


 誰の手にも、もう葵の手は重なっていない。


「それでも送還を望みますか」


「望みます」


「送還を受理します」


 門の印が開き、向こう側に見覚えのある建物の廊下が現れた。壁は塗り替えられ、かつての部屋には知らない表札が掛かっている。


 葵は町を振り返った。


「明日、鍋を焦がさないでください」


「約束はできん」


「子供を川へ入れないで」


「天気を見て決める」


「窯の印は」


「もうつけた」


「診療所の糸は、窓辺に」


 白衣の男が手を振った。


「帰れ」


 葵の口が閉じる。


 門へ片足を入れ、もう一度止まった。


「困ったら」


 店主が焦げた鍋の蓋を閉じた。


「お前以外に頼む」


 葵は水面の向こうへ進み、白い枠が閉じた。


 広場から、一人分の影が消えた。


 エイルの手の甲が熱を持つ。


【佐伯葵】

【スキル回収】

【裁定完了】

【送還】


 町の鐘が高く一度鳴った。


 門楼から声が落ちる。


「これは何だ!」


 広場の全員が顔を上げた。


 誰も答えを知らなかった。


* * *


 東京では、朝の雨が止んでいた。


 区役所の相談室には机が一つあり、その上へ四種類の書類が並んでいる。


【本人確認】

【失踪届取下げ】

【住民登録】

【生活相談】


 佐伯葵は、借りた服の袖を握っていた。向かいに座る男の髪には、白いものが混じっている。


「お兄ちゃん」


「本当に、葵なんだな」


「うん」


 男は顔を両手で覆い、指の隙間から息を落とした。


「母さんは」


「施設にいる」


 葵の手が止まる。


「病院は」


「俺が連れていった。そのあと、一人では暮らせなくなった」


「仕事は」


「何年も前に退職扱いだ」


「部屋は」


「解約した」


 机の書類が一枚、空調の風で動いた。


「私がいなくても」


「困ったよ」


 男が顔を上げる。


「でも、どうにかした」


 葵は積まれた書類を見た。どれから手をつければいいのか分からない。


 男が椅子を引いた。


「今から母さんのところへ行くぞ」


「今日?」


「ずっと待ってたんだ」


 葵の指が膝へ入る。


 眠っていた自分。


 二十七人分の仕事。


 一人になった町。


「今日は無理」


 男の椅子が止まる。


「何年待たせたと思ってる」


「分からない」


 葵は机の時計を見た。


「今日は手続きをして、眠る」


「葵」


「明日の十時に行く」


「俺は仕事だ」


「一人で行く」


 男は葵を見たあと、鞄から一枚の紙を出して机へ置いた。施設の名前と住所が書かれている。


「十時だからな」


「うん」


 葵はその紙だけを取った。


 机には、残りの書類が積まれている。


 全部を今日やる必要はなかった。


 葵の手にある紙は、一枚だった。

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