第8話 一人分
町へ入る前に、エイルは同じ女を三人見た。
一人は門楼で弓を構え、一人は壊れた荷車の下へ肩を入れ、もう一人は道端へ膝をついて泣く子供の傷へ布を巻いている。三人とも肩までの黒髪を後ろで束ね、同じ高さの身体で、それぞれ別の方向を見ていた。
顔も、声も同じだった。
「次の荷車、通して」
門楼から落ちた声へ、車軸を支える女が地面へ肩をつけたまま返す。
「車輪が先です」
子供の膝へ結び目を作った女も立ち上がった。
「走ってもいいけど、転んだら次は自分で洗ってね」
子供が頷き、女は門へ向かった。エイルの横を通り過ぎた胸へ、群青色の糸が沈んでいる。
門楼の女にも。
荷車の下の女にも。
三本ではない。
糸は町の奥へ枝分かれし、屋根、煙突、学校の窓、鐘楼の下へ伸びていた。
「佐伯葵」
三人の顔が、同じ角度でエイルへ向いた。
門楼にいた葵は弓を隣の男へ押しつける。
「持っていてください」
「俺が?」
「落とさなければ大丈夫です」
葵が石段を下り始める間にも、町の中から四人目が走ってきた。片手に野菜籠を提げ、反対の腕には眠った赤ん坊を抱えている。
「誰?」
荷車の下から出た葵が、服についた土を払いながら近づいた。
「エイルです」
四人の口が閉じ、野菜籠から葱が一本落ちた。
「あっ、白い部屋の」
「はい」
赤ん坊が身じろぎすると、抱いていた葵は頭を支え直し、道向かいの店へ顔を向けた。
「ミレナさん。起きたら乳をお願いします」
店から出てきた女へ赤ん坊を渡す。ミレナの腕が重さに負け、頭の側が下がった。
「重い」
「四か月なので」
「そうじゃなくて、抱き方が分からないんだよ」
葵は赤ん坊の頭の下へミレナの手を入れ、肘の位置を直した。
「ここを支えてください」
「あとで来るんだろ」
葵は眠る頬を見た。
「来ません」
門の鐘が高く鳴り、間を置かず二度続いた。石段を下りていた葵が顔を上げる。
「東の畑です」
弓を預けられた男が、門楼から身を乗り出した。
「何の鐘だ」
「猪です」
「三回は火事じゃなかったか」
「高い鐘が猪、低い鐘が火事です」
「どちらが高い」
葵は石段を上り直し、町の奥からは鍋を抱えた別の葵が走ってきた。
「東は私が行きます」
「食堂は?」
「煮込み中です」
「火は?」
「弱めました」
「見ている人は?」
鍋を抱えた葵の足が止まる。
「いません」
野菜籠を持っていた葵が籠を道端へ置いた。
「私が戻ります」
荷車を直していた葵は、すでに東門へ走っている。
「猪は私が」
四人は別々の方向へ散り、エイルだけが門の中央へ残った。
町の人々は、誰も驚いていなかった。
「旅の人かい」
赤ん坊を抱くミレナが、葵の残した野菜籠を足元へ寄せる。
「先に宿へ行った方がいい。葵が手を空けるまで時間がかかるよ」
「どの葵ですか」
ミレナは赤ん坊の頭を支え直した。
「葵は葵だろ」
* * *
通りのどこに立っても、葵が見えた。
市場では二人が同じ台を挟み、一人が肉を切る横で、もう一人が野菜を刻んでいる。屋根の上では瓦を運ぶ葵から、下にいる葵へ一枚ずつ手渡され、学校の窓からも同じ顔が覗いて子供たちと文字を読んでいた。
診療所の扉からは血のついた布を抱えた葵が出てくる。
「先生、糸を」
白衣の男が棚から顔を出した。
「どの太さだ」
「右側、上から二番目です」
「右は薬だろ」
「先生から見て左です」
「最初からそう言え」
葵は棚へ入り、自分で糸を取った。その向かいでは、別の葵が老人の背へ載せられた薪を数えている。
「三本までです」
「四本運べる」
「昨日、腰を痛めました」
「昨日のことまで覚えとるのか」
「私が運びましたから」
薪を一本抜いて自分の肩へ載せる。
群青色の糸は、町中にいるすべての葵を通り、鐘楼の下へ集まっていた。そこには石造りの小さな建物があり、鍵のない扉の奥に机と椅子が一つずつ置かれている。壁には町の地図が掛かり、診療所には赤、井戸には青、夜警の詰所には黒い印が刺さっていた。
地図の前にも、葵がいた。
ほかの葵と同じ顔と服で、違うのは椅子に座っていることだけだった。
裏口が開き、泥をつけた葵が入ってくる。
「猪は森へ戻しました。四頭です」
椅子の葵の肩へ手を置くと、二つの輪郭が重なり、泥をつけた身体が光へ変わった。
残った葵は机へ両手をついた。爪の間へ泥が現れ、息が一度止まる。
「何が起きましたか」
「戻った記憶です」
右肩が猪の体当たりを受けたように揺れた。
別の扉から、白衣を着た葵が入ってくる。
「縫合、終わりました」
肩へ触れ、光へ変わる。残った葵の指が針を持つ形へ曲がり、掌へ血の匂いが移った。
「痛みますか」
「縫われたのは私ではありません」
葵は自分の右手を開く。
「でも、覚えています」
窓の外で鐘が鳴り、葵は椅子から立った。
「スキルを回収します」
椅子の脚が床を擦る音だけが残った。
「今ですか」
「はい」
葵は壁の地図へ向き直り、赤、青、黒の印を目で追った。
「今、何人いますか」
「二十七人です」
「回収すれば、一人に戻りますか」
「はい」
「その前に、全員を戻せますか」
「戻せます」
「では、戻してください」
葵の指が診療所の赤い印へ触れた。
「出産に立ち会っている私がいます」
川沿いの青い印へ移る。
「子供たちを見ている私も」
最後に、町外れの黒い印を押した。
「炭焼き窯の温度を見ている私もいます。今消えれば、窯が割れます」
「誰かへ返してください」
「代われる人がいません」
「なぜですか」
葵の指が地図から離れた。
「私がやっているからです」
窓の向こうでは、屋根の葵が瓦を置き、次の一枚へ手を伸ばしている。
「日が沈むまで待ってください。仕事を返して、全員を戻します」
エイルは地図に残る印を見た。
「あなたを罰するために、回収するのではありません」
葵の顔が上がる。
「では、なぜ?」
「私が、この力を与えました」
「町があなた一人を二十七人として使うところまで、見ませんでした」
群青色の糸が、窓の外を行き交う同じ背中へ続いている。
「この力を残さないと、私が決めました」
「私から取るのは、あなたですか」
「はい」
葵は地図から印を一本抜いた。
「日が沈むまでに戻します」
「待ちます」
抜かれた赤い印が、机の上へ置かれた。
* * *
食堂の鍋は、底だけが焦げていた。葵は木べらで黒い部分を掻き、焦げのついたまま店主へ差し出す。
「火を弱めるのは、泡が鍋の縁へ届く前です」
店主は木べらを見たまま、手を出さない。
「明日も来るんだろ」
「来ません」
「朝だけでも」
「来ません」
「昼の仕込みは」
「昨夜のうちに切ってあります」
「明後日は」
葵は木べらを店主の手へ押しつけた。
「自分で切ってください」
「包丁は苦手なんだ」
「前は使っていました」
「お前が来る前の話だ」
「手は残っています」
店主の指が木べらへ回った。
「言い方が冷たくなったな」
「同じことを、今朝から十八回話しています」
「俺は一回しか聞いてない」
葵の口が閉じた。
店主が鍋底を掻くと、剥がれた黒い欠片が煮込みへ混じった。
「入っています」
「分かっとる」
「取り除いた方が」
「次へ行け」
葵の足は動かなかった。
「客に出せません」
「今日は俺が決める」
店主は焦げを混ぜたまま、鍋を掻き続ける。
「もう焦げとる。次へ行け」
学校では、文字を教えていた葵が若い女へ出席簿を渡した。机に並ぶ子供たちは、二人の間で顔を動かしている。
「午前は読み書き、午後は計算です」
「私には教えられない」
「一頁目を読んでください」
「それだけで授業になるの?」
葵は一番前の少女へ顔を向けた。
「昨日、どこまで読みましたか」
少女が本を開き、指を置く。
「ここ。半分まで」
葵は本も若い女へ渡した。
「今日は残りの半分です」
「明日は?」
「二頁目」
「明後日は?」
「三頁目」
女の腕が下がる。
「そんなやり方でいいの?」
「私はそうしました」
「あなたは全部読めるでしょう」
「最初は一頁目も読めませんでした」
教室の後ろから少年の手が上がった。
「先生、ここ分かんない」
若い女が葵を見る。
葵は出席簿から手を離した。
「先生は、そちらです」
子供たちの顔が女へ向いた。女は本を開いたが、上下が逆だった。前の少女が身を乗り出し、黙って向きを直す。
診療所では、白衣の男が糸のない針を目へ近づけていた。
「穴が見えん」
葵が糸へ手を伸ばしたところで、エイルは手首を掴んだ。
「この一本だけです」
「次の一本も、あなたが通します」
白衣の男が窓辺へ椅子を運び、糸の先を舌で濡らした。一度目は外れ、二度目も針の脇を通る。
「私が」
葵の手首には、エイルの指が残っている。
三度目。
糸が穴を抜けた。
男は針を窓の光へ掲げた。
「通った」
「はい」
「お前がいなくても」
「はい」
男は針を下ろす。
「傷を縫えるとは限らん」
「私も、最初は縫えませんでした」
「誰で練習した」
葵が袖を上げると、肘の内側に歪んだ縫い跡が残っていた。
「自分の腕です」
白衣の男は傷を覗き込んだ。
「下手だな」
「はい」
「明日、来ないのか」
「来ません」
男は針を机へ置いた。
「なら、今日のうちにもう一本通せ」
* * *
町の西では、川が石橋の下を流れていた。十人の子供が浅瀬へ入り、網で魚を追っている。岸には二人の葵が立ち、一人が上流、もう一人が下流を見張っていた。
エイルと歩いてきた葵は、岸へ置かれた笛を拾う。
「誰か、代わってください」
子供たちが顔を上げ、橋の上で樽を積んでいた父親たちも作業の手を止めた。
「二人いないと危ないだろ」
男の顎が、上流と下流の葵へ向く。
「明日からはいません」
「なら、川遊びは禁止だ」
水の中から声が上がった。
「嫌だ!」
「魚を捕る約束した!」
葵は父親へ笛を差し出す。
「上流に一人、下流に一人。水が膝を越えたら上がらせてください」
「仕事がある」
「今日は樽を置いてください」
「出荷が遅れる」
「子供を川へ入れたのは誰ですか」
男は笛と子供たちを見比べ、抱えていた樽を荷車へ戻した。隣の男も縄から手を離す。
「上流は俺が見る」
「俺は泳げんぞ」
「岸に立つだけだろ」
二人が川へ下りると、葵たちは笛を渡した。
下流にいた葵が近づく。
「二人、戻ります」
肩と肩が触れ、一つの身体が光へ変わった。
残った葵の足が水へ入る。流れの冷たさ、十人分の名前、下流へ流された網を掴んだ腕の重さが一度に戻り、膝が折れた。
エイルが横から腕を支える。
「大丈夫です」
「立てていません」
「次があります」
上流にいた葵も歩いてくる。
「待ってください。戻せば、また記憶が増えます」
「日が沈みます」
「最後には、一人の身体しか残りません」
葵は上流の自分へ手を伸ばした。
光が重なる。
川面の眩しさが両目へ入り、耳の中へ子供たちの声が増えた。葵は岸へ片手をつき、吐いた息で水面を揺らす。
「次へ行きます」
笛を持った父親が川から上がり、葵の反対側へ腕を回した。
「休め」
「窯が」
「俺たちも行く」
「温度の見方を知りません」
「教えながら歩け」
男は濡れたまま、葵の身体を支えた。
「一人で歩くな」
* * *
町外れの炭焼き窯から、黒い煙が上がっていた。窯の前にいる葵が細い穴へ鉄棒を差し込み、周囲には四人の男が立っている。誰も棒へ触れていなかった。
「色を見てください」
葵が抜いた先端は赤く焼けている。
「何色ですか」
「赤」
「赤のどれですか」
男たちが顔を寄せた。
「明るい赤」
「橙に近い」
「俺には全部同じだ」
葵は棒を地面へ置いた。
「薪を一本抜いてください」
一人が窯の口へ手を伸ばす。
「それは入れる方です」
「同じ薪だろ」
「左が乾燥済みです」
「印をつけろよ」
男が炭を拾い、乾いた薪の端へ一本の線を引いた。
「最初から、こうすればよかった」
葵の目が黒い線で止まる。
「私には分かりました」
「俺たちには分からん」
別の男も炭を持ち、残りの薪へ印をつけていく。
「明日から全部につける」
葵は鉄棒を拾い、最初の男へ渡した。
「赤が暗くなったら、空気穴を開けてください」
「割れたら?」
「次の窯を作ります」
「今日の炭は駄目になるぞ」
「はい」
「簡単に言うな。お前は失敗したことがないから言える」
葵の袖から、肘の歪んだ縫い跡が覗いていた。
「失敗したものを、別の私が直しました」
男の指が鉄棒へ回る。
「同じじゃないか」
「違います」
「何が」
「失敗した私が、残りませんでした」
窯の中で薪が崩れ、低い音が地面へ伝わった。男たちが穴を覗く間に、窯を見ていた葵が近づく。
「戻ります」
肩へ触れた身体が光へ変わり、熱、煙、鉄棒の重さが残った一人へ入った。葵は咳き込み、唇へ黒い煤をつける。
空には、夕方の色が混じり始めていた。
* * *
鐘楼へ戻るころには、町を歩く葵の数が減っていた。
屋根には住民が上がり、瓦を一枚ずつ手渡している。市場では店主が肉と野菜を同じ包丁で切り、隣の女に手の甲を叩かれていた。診療所の窓には、白衣の男が針へ糸を通す姿があり、学校からは、読めない文字を子供に教わる女の声が聞こえる。
うまく回ってはいない。
それでも、止まってはいなかった。
石造りの部屋へ戻った葵は、椅子へ届く前に床へ膝をついた。二十五人分の同じ一日が、身体の内側へ重なっている。
焦げた鍋の匂い。川の冷たさ。針が皮膚を抜ける感触。子供たちの読む声。猪の背についた泥。
窓の外で誰かが肩を叩くたび、葵の顔が別の方向へ動いた。
「最後の一人は」
エイルが地図を見る。すべての印は抜かれていた。
「二階です」
葵は手すりを掴み、身体を引き上げるように階段を上った。
二階には小さな部屋が一つあり、閉じた窓の前へ薄い布が敷かれていた。その上で、最後の葵が靴を脱ぎ、毛布を顎まで掛けて眠っている。枕元の砂時計には、まだ半分の砂が残っていた。
「この人は」
「眠る担当です」
「担当」
「ほかの私が動けなくなったときに戻して、休んだ記憶を受け取ります」
「あなた自身は眠らないのですか」
「誰かは、起きています」
眠っていた葵が目を開けた。身体は起こさず、毛布から片腕だけを出す。
「もう時間?」
「はい」
「まだ、眠い」
「知っています」
「今日、何かあった?」
「全部」
「そう」
伸びた指へ、立っている葵が触れた。
眠っていた身体が光へ変わり、毛布だけが床へ落ちた。
葵の瞼が閉じる。
眠気が一度に戻り、身体が前へ倒れた。エイルが受け止めると、額が肩へ当たる。
「寝てください」
「回収が残っています」
「眠ってからでもできます」
「寝たら、起きない気がします」
「起こします」
葵はエイルの肩から顔を上げた。
「最後に、一人で眠ったのがいつか分かりません」
「今は、一人です」
部屋の中には、葵一人分の呼吸だけがあった。
「静かですね」
「はい」
「町が止まったみたいです」
窓の外で鍋を落とす音がし、怒鳴り声が続いた。鐘が一度だけ鳴って、途中で止まる。
「止まっていません」
葵は窓へ顔を向けた。
町のあちこちから、揃わない音が届いていた。
間違っている。
葵のいない音だった。
* * *
日が沈むと、鐘楼の下へ町の人々が集まった。
食堂の店主は木べらを持ち、教師を引き受けた女は出席簿を胸へ抱えている。白衣の男の指には糸が絡まり、川を見ていた父親たちの裾は濡れたままだった。炭焼きの男は煤のついた鉄棒を肩へ載せている。
葵は一人で広場へ出た。
「ほかの葵は」
「戻しました」
「明日の朝は?」
「いません」
「食堂はどうする」
「店主が」
「診療所は」
「先生が」
「夜警は誰が立つんだ」
門楼から、低い鐘が一度、間を置いてもう一度鳴った。
「火事だ!」
誰かの声へ、門楼の男が顔を出す。
「練習だ! 低い鐘が火事で合ってる!」
「二回は盗賊だろ!」
声が重なる。
葵の足が門へ向いたところで、エイルは前へ立った。
「任せてください」
「間違えています」
「はい」
「止めないと」
「あなたが直せば、次もあなたを待ちます」
鐘がもう一度鳴った。今度は高い音だった。
「混ざっています。危険です」
「はい」
「私、何か壊しましたか」
「はい」
葵の顔が上がった。
「あなた一人で壊したのではありません」
エイルは、広場へ集められた道具を見た。焦げのついた木べら。上下を確かめなければ開けない出席簿。糸の絡んだ針。濡れた笛。煤に汚れた鉄棒。
「鍋が焦げる前に、あなたが木べらを取りました。文字を間違えれば、あなたが書き直しました。針が通らなければ、あなたが縫いました」
「失敗したら、困る人がいます」
「はい」
「怪我人や、子供です」
「はい」
「では、どうすればよかったんですか」
「任せることです」
葵の指が服を掴んだ。
「失敗すると分かっていても?」
「はい」
「誰かが傷ついても?」
「傷つけない方法を、一緒に考えるべきでした」
「考えている間に、間に合わなかったら」
「それでも、全部をあなた一人の仕事にはしない」
広場の端で樽が倒れ、中身が石畳へ転がった。葵の身体が動きかける。
持ち主の男が先に走り、自分の手で樽を起こした。
「あなたは、頼まれる前にも動きました」
「私がやった方が早いから」
「はい」
「失敗しないから」
「はい」
「困っている人を放っておけないから」
「その結果、町の人々はあなたが動くのを待つようになりました」
葵は、樽の中身を拾う男を見た。
「一人では足りなかったから、二十七人になった」
「その力を与えたのは私です」
「二十七人いれば、全部できた」
「それでも、あなたは誰にも頼りませんでした」
葵の指が止まる。
「元の世界にいたときと同じです」
広場を鳴らす鐘が、途中で音を外した。
「身体だけが増えて、あなたは一人で眠る担当まで作りました」
「眠らないと、動けなかったから」
「眠ることまで、仕事にしました」
葵の両腕が下がった。
「帰れるのか」
食堂の店主が木べらを肩へ載せた。
葵の目がエイルへ動く。
「元の世界へ送還できます」
「なら帰れ」
「待ってくれ」
広場の奥から、子供を抱いた女が前へ出た。
「この子は葵に取り上げてもらった。次に熱を出したら、誰が診るの」
白衣の男が針を持ち上げる。
「俺が診る」
「糸も通せなかったじゃないか」
「二本通した」
「子供で練習するつもり?」
男の指が針を隠すように閉じた。
「練習じゃない」
「失敗したら、この子が死ぬ!」
女は子供を抱いたまま葵へ近づき、空いた手で袖を掴んだ。
「残って。診療所だけでいいから」
「学校も必要だ」
別の男が声を上げる。
「文字を教えられる者がいない」
「夜警はどうする」
「猪が戻ってきたら?」
「窯が割れたら、冬の炭がなくなる!」
声が重なり、葵の袖を掴む指が増えた。
「分かりました」
葵が広場を見回す。
「私が一人なら、朝は診療所へ行きます。昼から学校、そのあと食堂を仕込んで、夜は――」
「駄目です」
エイルが葵の腕を取った。
「放してください」
「二十七人で続かなかったことを、一人で続けようとしています」
「でも、困っています」
「はい」
「今、私を必要としている」
「必要と、使い続けてよいことは同じではありません」
子供を抱いた女がエイルへ顔を向ける。
「天使なら、代わりを置いていって」
「置きません」
「この子が死んでも?」
「死なせない方法を、あなたたちが探してください」
「無責任だ!」
飛んできた声へ、エイルは顔を向けなかった。
「はい」
葵の袖を掴んでいた女の指が強くなる。
「行かないで」
食堂の店主がその手首を掴み、葵から外した。
「俺だって残ってほしい」
「なら、なぜ」
「残せば、明日も俺は木べらを渡す」
店主は焦げた鍋の蓋を開いた。苦い匂いが広場へ流れる。
「俺は帰せと言う」
「私は言えない」
教師の女が出席簿を抱えた。
「明日の授業が怖い」
「俺も患者が怖い」
白衣の男は針を見たまま、顔を上げない。
「帰っていいとは言えん」
炭焼きの男が鉄棒を地面へ立てた。
「だが、残れとも言わん」
広場の声は揃わなかった。
誰も、町が明日から回るとは言わなかった。
エイルは手を差し出した。
「私がこの力を与えました」
葵は、袖に残った指の跡を見た。
「町からあなたを二十七人分奪うことも、私が決めました」
広場の奥から、もう一度声が飛んだ。
「勝手に決めるな!」
「はい」
エイルは手を下げなかった。
葵はその掌へ、自分の指を重ねた。
「お願いします」
指先が触れると、葵の背後へ二十七人分の輪郭が現れた。
包丁を持つ葵。本を抱く葵。針、弓、笛、鉄棒、薪、野菜籠を手にした葵。毛布へ包まれたまま眠る葵もいる。
輪郭は一人ずつ、持っていた物を足元へ置いていった。
「スキル、《多重存在》を回収します」
群青色の線が、それぞれの影から剥がれ始める。市場を歩いた足、針を持った指、夜警で暗闇を見続けた目から線が抜け、エイルの掌へ集まった。
二十七人。
十人。
三人。
一人。
最後に残った葵の胸から、幾重にも重なった群青色の輪が外れた。輪は互いに擦れて薄い音を立て、エイルの掌へ収まる。
スキルを回収した。
葵の身体が傾き、食堂の店主が木べらを投げて肩を支えた。
「一人は軽いな」
「重さは同じです」
「そうか」
葵は自分の手を開いた。
指は十本。
掌は二つ。
影は一つだった。
* * *
エイルの掌に、大地と門の印が浮かんだ。
「佐伯葵。この世界に残るか、元の世界へ戻るか、選んでください」
葵は町を見た。
門の鐘が高く二度鳴り、誰も意味が分からないまま顔を見合わせている。
「残れば、手伝えます」
「一人分です」
「はい」
「すべてはできません」
「はい」
食堂の店主が焦げた鍋の蓋を開いた。
「食堂には来るな」
子供を抱いた女が、葵へ一歩近づく。
「診療所だけでも残って」
白衣の男は針を指で挟んだまま、顔を上げなかった。
「俺は、来るなとは言えん」
教師の女も出席簿を抱え直す。
「明日の授業だけ、手伝ってほしい」
川の男が笛を吹くと、音にならない息だけが抜けた。
「川は俺たちで見る」
「危険です」
「分かっとる」
「でも」
「それでもだ」
声は揃わなかった。
葵は、差し出された門の印を見た。
白い部屋が、記憶の奥から戻る。
床へ座り込んだ女。鳴り続ける電話。仕事の画面には赤い文字が並び、机には母親の病院の予約票、流しには洗っていない食器が積まれていた。
【至急】
【未対応】
【本日中】
『私が、もう一人いれば』
女は両手で顔を覆った。
『全部できたのに』
エイルは、できるかどうかだけを見た。
一人でしか生きられない身体へ、何人分もの一日を与えた。
「戻ります」
「送還後、スキルは戻りません」
「はい」
「この世界へ戻ることもできません」
「はい」
「元の世界では、あなたがここで過ごした年月と同じだけ時間が進んでいます」
葵の指が動いた。
焦げた鍋。出席簿。針。笛。鉄棒。
誰の手にも、もう葵の手は重なっていない。
「それでも送還を望みますか」
「望みます」
「送還を受理します」
門の印が開き、向こう側に見覚えのある建物の廊下が現れた。壁は塗り替えられ、かつての部屋には知らない表札が掛かっている。
葵は町を振り返った。
「明日、鍋を焦がさないでください」
「約束はできん」
「子供を川へ入れないで」
「天気を見て決める」
「窯の印は」
「もうつけた」
「診療所の糸は、窓辺に」
白衣の男が手を振った。
「帰れ」
葵の口が閉じる。
門へ片足を入れ、もう一度止まった。
「困ったら」
店主が焦げた鍋の蓋を閉じた。
「お前以外に頼む」
葵は水面の向こうへ進み、白い枠が閉じた。
広場から、一人分の影が消えた。
エイルの手の甲が熱を持つ。
【佐伯葵】
【スキル回収】
【裁定完了】
【送還】
町の鐘が高く一度鳴った。
門楼から声が落ちる。
「これは何だ!」
広場の全員が顔を上げた。
誰も答えを知らなかった。
* * *
東京では、朝の雨が止んでいた。
区役所の相談室には机が一つあり、その上へ四種類の書類が並んでいる。
【本人確認】
【失踪届取下げ】
【住民登録】
【生活相談】
佐伯葵は、借りた服の袖を握っていた。向かいに座る男の髪には、白いものが混じっている。
「お兄ちゃん」
「本当に、葵なんだな」
「うん」
男は顔を両手で覆い、指の隙間から息を落とした。
「母さんは」
「施設にいる」
葵の手が止まる。
「病院は」
「俺が連れていった。そのあと、一人では暮らせなくなった」
「仕事は」
「何年も前に退職扱いだ」
「部屋は」
「解約した」
机の書類が一枚、空調の風で動いた。
「私がいなくても」
「困ったよ」
男が顔を上げる。
「でも、どうにかした」
葵は積まれた書類を見た。どれから手をつければいいのか分からない。
男が椅子を引いた。
「今から母さんのところへ行くぞ」
「今日?」
「ずっと待ってたんだ」
葵の指が膝へ入る。
眠っていた自分。
二十七人分の仕事。
一人になった町。
「今日は無理」
男の椅子が止まる。
「何年待たせたと思ってる」
「分からない」
葵は机の時計を見た。
「今日は手続きをして、眠る」
「葵」
「明日の十時に行く」
「俺は仕事だ」
「一人で行く」
男は葵を見たあと、鞄から一枚の紙を出して机へ置いた。施設の名前と住所が書かれている。
「十時だからな」
「うん」
葵はその紙だけを取った。
机には、残りの書類が積まれている。
全部を今日やる必要はなかった。
葵の手にある紙は、一枚だった。




