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スキルを失ったあとに。  作者: カミツキ
第一章 裁定の内側

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第7話 聞こえなくても

森へ入ると音の数が増えた。枝の上では鳥が鳴き、濡れた葉の下では虫が羽を擦っている。木々の間を抜ける風に、獣の足音と水の流れる音が混じっていた。


 緑色の糸は、そのすべてを縫うように森の奥へ伸びている。


 エイルが苔の生えた石を越えると、茂みから白い山羊が現れた。鼻先を服へ押しつけ、匂いを嗅いだあと袖を噛む。


 エイルが腕を引いても、山羊は布を口から離さなかった。


「塩の味がするそうです」


 木々の向こうに女が立っていた。茶色い髪を首の後ろで束ね、肩には黒い鳥を載せている。両腕には布が巻かれ、指先には薬草の色が残っていた。


 緑色の糸は、その胸へ入っている。


 山羊がもう一度、袖を引いた。


「お腹は空いていません。あなたの汗が気に入っただけです」


 エイルは噛まれた袖へ目を落とした。


「返すように伝えてください」


「ごめんね。あと一口だけ噛んだら返すって」


 布が引かれ、縫い糸の切れる音がした。山羊は破れた袖の端を口に残したまま、森の奥へ歩いていく。


 女の肩にいた鳥が羽を広げた。


「白い。大きい。巣がない」


「何ですか」


「あなたのこと」


 鳥はエイルの頭上を一周し、女の肩へ戻った。


「一人で歩いているのが、巣を持たないように見えるみたい」


「あなたの名前は」


 女の目が、エイルの手の甲へ落ちた。


朝倉環(あさくら たまき)


「朝倉環です」


 森の奥から低い鳴き声が届き、灰色の狼が草を分けて現れた。片耳の先が欠け、背の毛には白いものが混じっている。環の足元まで来ると鼻を鳴らし、膝へ頭を押しつけた。


「遅い。腹が減った。鳥が肉を盗んだ」


 肩の鳥が鳴く。


「盗んでいない。落ちていた」


「桶の中は、落ちていたとは言いません」


 環が鳥を指で押すと、嘴が指先を挟んだ。狼は構わず、もう一度膝へ頭を当てる。


「この子はルゥです。私がこの森へ来たときからいます」


 環が耳の付け根を掻くと、狼の後ろ脚が地面を蹴った。


「そこ。もっと」


 エイルは、狼の脚と環の指を見た。


「スキルを回収します」


 環の指が止まり、狼の脚も止まった。肩の鳥だけが首を傾けている。


「いつですか」


「今です」


 環は狼から手を離し、枝の上、木の根元、草の間へ順に顔を向けた。エイルには見つけられない場所からも、葉が擦れ、息が重なっている。


「明日の朝まで、待ってください」


「理由は」


「声があるうちに、伝えることがあります」


 足元で、狼が短く鳴いた。


「朝。何がある」


 環は狼へ顔を向けなかった。


「一晩だけです」


 エイルは二人の間を通る緑色の糸へ触れた。


「日の出まで待ちます」


* * *


 森の中央には、丸太と石で組まれた小屋があった。屋根の下には乾燥させた薬草が吊られ、壁際には大きさの違う餌箱と水桶が並んでいる。戸口の脇には獣が通れる穴が開き、その周囲だけ木が毛と爪で削れていた。


 小屋の中にも、片方の角を失った鹿、翼を布で固定された鳥、青い鱗を持つ小型の魔獣がいる。炉の前では三匹の子狐が腹を出し、重なるように眠っていた。


 環は戸棚から紙の束を取り出し、机へ広げた。文字の書かれた紙が何十枚も重なり、その下には獣の耳や尾、脚の形が描かれている。


【餌】

【傷】

【巣】

【子】

【危険】


「ずっと書いていたのですか」


「村の人にも分かるように」


 環は新しい紙を置いた。


「でも、足りません」


 戸口から少年と少女が入ってきた。少年は木の籠を背負い、少女は水の入った桶を両手で抱えている。二人とも靴と裾を泥で濡らしていた。


「環姉、連れてきた」


 少年が籠を下ろすと、中には魚と兎の肉が入っていた。


「森の入口で熊が寝てた。起こさない方がいい?」


 環が窓の外へ顔を向ける。森の入口から、低い声が何度か続いた。


「眠い。腹は減っていない。人間の子供がうるさい」


 少年の肩が下がる。


「聞こえてたんだ」


「トーマの靴音は、森の外から聞こえます」


 少女が桶を床へ置き、エイルを見た。


「この人誰?」


「エイルさん」


 環は机の紙へ指を置いた。


「明日から、私はこの子たちの声が聞こえなくなります」


 トーマの手から魚が落ち、銀色の尾が床で跳ねた。


「どうして」


「返すからです」


「誰に」


 環の目がエイルへ動き、フィナもその先を見る。


「この力は私が与えました」


「じゃあ取らないで」


 フィナがエイルの服を両手で掴んだ。


「フィナ」


 環が少女の手首へ触れる。


「やめて」


「でも、環姉が聞こえなくなったら、森の子が困る」


「私はいなくならない」


「聞こえなくなるんでしょ」


「うん」


 フィナの指が服から離れた。


「同じじゃない」


 環は返さなかった。


 狼が小屋へ入り、床へ落ちた魚を咥える。


「俺の」


 トーマが尾を掴み、狼が頭を振った。


「これは怪我した鳥の分だよ!」


「鳥はさっき肉を盗んだ」


「何て?」


「ルゥは、自分が食べるそうです」


「駄目だよ!」


 トーマが魚を引き、狼も顎を緩めない。環はその横で紙を一枚取り、狼の絵の下へ文字を書き足した。


【魚を咥えても、腹が減っているとは限らない】


 トーマが紙を覗き込む。


「じゃあ、何なの」


「鳥に渡したくないだけ」


 狼の耳が後ろへ倒れた。


「鳥は盗む。羽がある。ずるい」


 環は次の行へ筆を進める。


【耳を伏せても、怖がっているとは限らない】


「これ、全部覚えるの?」


 フィナが積まれた紙へ触れた。


「覚えなくていい。見て考えて」


「間違えたら」


「次は変える」


「その間に死んだら?」


 環の筆が止まった。


 炉の前で眠っていた子狐が寝返りを打ち、尾を灰の上へ落とした。焦げた毛の匂いが広がり、フィナは駆け寄って子狐を抱き上げる。


「熱いって鳴かなかった」


「寝ていたから」


「聞こえても、分からないときがあるの?」


「あります」


「全部、分かるんじゃないの」


 環は筆先についた墨を布で拭った。


「声が聞こえても、嘘をつく子はいる。自分でも何が痛いのか分からない子もいる」


 狼が魚から口を離し、トーマが籠へ戻す。


「ルゥは?」


「魚を取っていない、と」


「今まで咥えてたじゃん」


「口に入れただけだそうです」


 トーマが狼を見る。


「嘘じゃん」


 狼は顔を背けた。


 環の口元が動き、筆が紙の上を進んだ。


【聞こえた言葉だけを信じない】


* * *


 昼を過ぎると、村から人が集まった。森の南で畑を荒らす猪、夜になると家畜小屋へ近づく魔獣、巣を落とされた鳥、子供を捜している鹿。環は村人の訴えを聞き、そのあと森から届く声へ耳を向けた。


「猪は、畑の下にある根を食べています。西の斜面へ同じ根を植えれば、畑には来ません」


「魔獣は家畜ではなく、屋根裏の鼠を狙っています」


「巣は樫の木へ戻してください。屋根の上では風が強すぎます」


 村人たちは環の言葉を紙へ書き、鍬や梯子を持って森へ入った。日が傾くころには机の上に新しい紙が積み上がり、何度も筆を握り直した環の指には、赤い跡と乾いた墨が重なっていた。


「もういい」


 トーマが筆を取ろうとしても、環は離さなかった。


「まだあります」


「明日でも」


「明日は聞けない」


 筆先が紙へ当たり、墨が丸く広がった。


 窓の外では、狼が夕日を受けている。長く伸びた影が小屋の壁へ届き、尾だけが地面を動いていた。


 エイルは環の向かいへ座った。


「あなたは、この力で誰かの選択を奪っていません」


 環の手が止まる。


「では、なぜ回収するのですか」


「私が与えた力だからです」


「私だからではなく?」


「はい」


「誰かを傷つけたからでもない」


「はい」


「世界を壊したからでも」


「ありません」


 環は筆を机へ置いた。指についた墨が、膝の布へ黒い跡を残す。


「それでも、取るんですね」


「はい」


「回収対象だから?」


 エイルは、環の膝へ顎を載せている狼を見た。窓の外では鳥が鳴き、屋根の下では傷ついた翼が布に擦れている。


「違います」


 環の目が上がる。


「私が与えました」


 エイルは自分の掌を開いた。


「だから、私が回収します」


「この子たちの声を奪うの?」


「はい」


「あなたが決めるんですね」


「私が決めました」


 環は筆を机へ置き、両手を膝へ移した。指についた墨が服へ触れ、黒い跡を残す。


「それだけ?」


「はい」


 炉の中で薪が崩れた。


「白い部屋で、私は犬の話をしました」


 エイルの目の前へ、記憶が戻った。


 閉じた玄関の前に、老犬が伏せている。白く濁った目と、浅く動く腹。少女が水の器を置いても顔は上がらず、鼻先だけが扉へ向いたままだった。


『何が欲しいの』


 耳が動く。


『痛いの? 水? お父さんを待ってるの?』


 返事はなく、夜になる前に呼吸が止まった。


 白い部屋で、少女は空になった首輪を握っていた。


『あの子が最後に何をしてほしかったのか、知りたい』


 願いは、スキルと一致した。


「覚えていますか?」


「今、思い出しました」


 環の指が首元へ触れる。


「この世界に来て、最初にルゥの声を聞きました」


 窓の外で、狼が耳を動かした。


「何と」


「腹が減った」


 環の口元が上がる。


「次も、腹が減った。その次は、背中が痒い」


「元の世界の犬が何を求めていたかは」


「分かりません」


 笑みが消えた。


「この力があっても、あの子の声は聞けなかった」


 環は積み上げた紙へ目を移した。


「それでも、いつか分かるような気がしていました」


「分かりましたか」


「分からないままです」


 狼が戸口から入り、環の椅子へ身体を寄せて膝へ顎を置く。


「でも、この子が何をしてほしいかは分かります」


「撫でることですか」


「眠いから、動くなと」


 環は狼の首へ手を置いたが、指は動かさなかった。


「似ています」


「元の世界の犬と」


「はい」


 狼の目が閉じる。


「だから、分からないままでも、よかったのかもしれません」


 環の指先が、毛の中へ沈んだ。


* * *


 夜になると村人たちは帰り、トーマとフィナは炉の前で眠った。二人の間には、書き終えた紙が紐で束ねられている。


 小屋の外では、昼の雨が葉から落ち、屋根と水桶へ違う音を返していた。環は戸口へ座り、狼の背へ身体を預けている。黒い鳥は屋根の梁に止まり、片脚を羽の中へ入れていた。


 森から声が届く。


 腹が減った。


 子供が戻らない。


 雨が来る。


 脚が痛い。


 知らない匂いがする。


 環は一つずつ顔を上げ、それぞれの方向へ耳を向けた。


 返事はしなかった。


 狼が鼻を鳴らす。


「朝」


 環の手が背の上を動く。


「うん」


「声、消える」


「うん」


「お前、消える?」


「消えないよ」


「聞こえない。お前、いない?」


 環の指が止まった。狼が顔を上げ、鼻先を顎へ当てる。


「いなくならない」


「声、届かない」


「うん」


「群れ、終わる?」


 環は狼の首へ両腕を回した。


「終わらない」


 狼の耳が、頬へ触れた。


「分からない」


「私も」


 環の顔が毛の中へ沈む。


「明日から、分からない」


 狼は動かなかった。


 エイルは戸口の外に立っていた。森には意味を持つ声が満ち、そのすべてが環にだけ届いている。


 朝には消える。


 エイルの掌へ戻る。


* * *


 空が白くなる前に、森の鳥が鳴き始めた。最初の一羽へ別の声が重なり、枝から枝へ音が移ると、眠っていた獣たちも小屋の周囲で身体を起こした。


 環は小屋の前に立っていた。左には狼、右には白い山羊がいて、黒い鳥は頭の上に止まっている。トーマとフィナは紙の束を抱え、村人たちは木々の間からその様子を見ていた。


「時間です」


 環が両手を差し出した。


「お願いします」


 エイルがその手へ触れた瞬間、鳥と獣の声が意味を持ったまま押し寄せた。枝の上、草の中、地面の下からも声が重なる。


 朝。


 餌。


 寒い。


 子供。


 痛い。


 ここにいる。


 環の指が、エイルの手を握った。


 狼が鳴く。


「行くな」


 山羊がエイルの袖を噛む。


「塩。白い。取るな」


 黒い鳥が羽を広げた。


「声、落ちる。拾えない」


「スキル、《獣声(ヴォクス・ベスティア)》を回収します」


 環の耳の後ろから緑色の輪が浮かび上がった。輪の内側では羽根、牙、鱗、角の影が巡り、森から届く声に合わせて形を変えている。


 一つ目の輪が離れると、遠くで鳴いた鳥の言葉が崩れた。


 二つ目が離れ、地面の下の声がただの震えへ戻る。


「環」


 狼の声だけが、まだ届いていた。


「環」


 三つ目の輪が胸の前へ浮かぶ。


「環」


 最後の光がエイルの掌へ収まった。


 森から言葉が消えた。


 鳥の鳴き声。山羊の歯が布を引く音。狼の喉から出る低い声。すべて聞こえている。


 一つも分からない。


 環は狼を見た。


「今、何て」


 狼が鳴いた。


 もう一度鳴き、耳を前へ向け、尾で地面を打つ。


 環は膝をついた。


「ごめん」


 手を狼の頭へ伸ばす。


「分からない」


 指先が耳の間へ触れる。


「もう、分からない」


 狼は手の下から抜けず、環の膝へ顎を置いた。


 昨日と同じ位置だった。


 環の指が耳の付け根へ入り、狼の後ろ脚が地面を蹴る。


「そこ?」


 脚がもう一度動いた。


 環は掻く場所を変えなかった。


 白い山羊がエイルの破れた袖を噛み、頭を振る。環は口元へ手を入れて布を外した。


「それは分かります」


 山羊の鼻先を押し返す。


「あなたは、まだ塩が欲しい」


 茂みが揺れ、青い鱗を持つ魔獣が前脚を上げたまま出てきた。細い声を出しながら一歩進んでも、上げた脚は地面につかない。


 環は動けなかった。


 トーマが紙の束を開く。


「痛いときは、どう鳴く?」


「声じゃなくて、脚を見て」


 環は魔獣の前へ膝をついた。上げた脚の鱗を指で分けると、その間へ黒い棘が刺さっている。


「フィナ、布。トーマは押さえて」


 二人が動き、環は棘の根元を指で挟んだ。


 魔獣が牙を見せる。


 手は止まらない。


「噛むかもしれない」


「どうする?」


「噛まれないようにする」


 トーマが魔獣の首へ布を回し、フィナが身体を横から押さえる。環が棘を抜くと、血が一滴、土へ落ちた。


 魔獣は脚を地面へつけ、環の手を鼻先で押した。


 何かを鳴いた。


 環はその顔を見た。


「聞こえないよ」


 鼻先が、もう一度掌へ当たる。


「でも、痛いのは分かった」


 エイルの掌で、緑色の輪が光を失った。


 スキルを回収した。


* * *


 エイルの掌に、大地と門の印が浮かんだ。


「朝倉環。この世界に残るか、元の世界で生まれ直すか、選んでください」


 環は魔獣の脚へ布を巻き、結び目を作って余った端を切った。


「ここに残ります」


「残留を受理すれば、送還へ変更できません」


「はい」


「声は戻りません」


「はい」


「獣との仲介はできません」


「はい」


「村の人々が、あなたを必要としなくなる可能性があります」


 環は立ち上がった。トーマは紙の束を胸へ抱え、フィナは狼の隣へ座って欠けた耳に触れている。


「この子たちはいます」


 環の手が狼の背へ置かれた。


「私もいます」


「残留を受理します」


 エイルの掌から門の印が消え、手の甲が熱を持った。


 エイルは森を離れた。


 背後から狼の声が届く。


 環の声が返った。


 何を求めているのかはもう分からない。


 それでも返事は続いた。


 森を抜けたところで、エイルは手の甲を開いた。


【白石沙耶】

【スキル回収】

【裁定完了】

【送還】


 古い文字へ指を置いても、門は開かなかった。


 環から、獣の言葉を奪った。


 沙耶を、誰も待っていない世界へ送った。


 どちらもエイルが決めた。


 その先で何を選ぶのか、もう見ることはできない。


 エイルは手を閉じた。


* * *


 東京には、朝から雨が降っていた。駅前の歩道は傘で埋まり、車道を走るタイヤが黒い水を歩道へ跳ね上げている。市役所の支所へ続く屋根の下では、濡れた傘を畳む人が自動ドアの前に並んでいた。


 白石沙耶は、透明な傘を持っていた。持ち手には値札を剥がした跡が残り、傘の先から水が落ちている。


 自動ドアが開き、中から田辺が出てきた。二人の間を、傘を畳んだ男が通り抜ける。


 田辺の足が止まった。


「白石さん」


 沙耶の指が傘の持ち手へ入る。


「田辺さん」


 田辺は沙耶の顔から手元へ目を移した。


「傘、持ってたのね」


「買った」


「そう」


 自動ドアが閉じ、屋根の外を叩く雨の音が戻った。田辺の右手には書類の入った封筒があり、左手には黒い傘が握られている。


「元気そう……じゃないわね」


「寝てない」


「眠れない?」


「眠ると、誰もいなくなる」


 田辺の口が閉じる。


「でも、昨日は三時間寝た」


「三時間か」


「前より長い」


「そう」


 屋根の外で信号が青へ変わり、人の流れが駅へ向かって動き始めた。田辺は腕時計を見る。


「私、仕事に戻るから」


 沙耶の指が傘の持ち手を握った。


「もう?」


「昼休みに来ただけなの」


「ここに戻る?」


「今日は戻らない」


 田辺が屋根の外へ顔を向けても、沙耶の足は動かなかった。


「田辺さん」


「何」


「あのとき、怖かった?」


 田辺の手が傘を開く途中で止まる。


「怖かったわ」


 沙耶は透明な傘を見た。骨の一本に、水滴が残っている。


「ごめんなさい」


「うん」


「許す?」


「今は決めない」


 黒い傘が開き、田辺は雨の中へ一歩出た。


「また会う?」


 田辺の足が止まったが、振り返らなかった。


「分からない」


 沙耶の口が動き、声は出なかった。


 田辺は歩き始め、黒い傘が駅へ向かう傘の中へ入っていく。


 沙耶は追わなかった。


 支所の中から機械の声が流れる。


『生活相談、十三番の方』


 沙耶の手には、番号の印刷された紙があった。


【十三】


 黒い傘は、もう見えない。


『生活相談、十三番の方』


 沙耶は透明な傘を畳んだ。


 自動ドアが開く。


 呼ばれた番号の方へ歩いた。

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