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スキルを失ったあとに。  作者: カミツキ


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第6話 まだ、罪ではない

御堂彰人(みどうあきと)の名前は、消えていなかった。


【御堂彰人】

【スキル回収】

【裁定完了】

【残留】


 エイルが指で擦っても、文字は手の甲に残った。その下へ新しい光が走る。


久世透(くぜとおる)


 名前から伸びた藍色の糸は、朝露の残る草原を横切り、南へ続いていた。


 エイルは立ち上がった。膝についた草が落ち、掌の傷へ乾いた土が入る。振り返ると、彰人は朝の光を受けたまま草の上に横たわっていた。


 胸は動かない。


 エイルは草原を離れた。


* * *


 街の門には、三枚の白い石板が掲げられていた。


【餓死者 十二年間なし】

【破産者 九年間なし】

【行方不明者 十一年間なし】


 荷車を引く男も、子供を抱いた女も、杖をついた老人も、門をくぐる前に石板へ手を合わせた。祈る時間は短く、顔を上げても数字を読み直す者はいない。


 石板の下では、門兵が旅人の荷を調べていた。刃物や薬には触れず、封筒を開いて契約書を広げ、先見院の印があるかを確かめている。印のない紙は、門脇の木箱へ入れられた。


「捨てるのですか」


 エイルが箱を覗くと、折られた雇用状や婚姻届が底まで重なっていた。


「先見官様の選定を受けていない契約です」


 門兵は手にしていた婚姻届を二つに折り、紙の隙間へ押し込んだ。


「間違った選択から、街を守っています」


 藍色の糸は門を抜け、街の中央に立つ白い塔へ続いていた。


 通りに空き店舗はなく、露店の果物にも傷がない。建物の壁は塗り直され、割れた雨樋は塞がれ、路地の奥まで敷かれた石には同じ幅の轍が続いていた。どの角にも白い矢印が置かれている。


【パン職人区】

【織物職人区】

【会計院】

【先見院】


 子供たちは矢印の内側を歩き、大人も近道になる路地へ入らない。


 誰も迷わない。


 白い塔の前には、広場を半周する列ができていた。二つの指輪を持つ女、二枚の雇用状を抱えた少年、葡萄の苗と種袋を載せた農夫、腹へ手を当てた夫婦が、石畳へ引かれた白線の内側に並んでいる。


 隣の者へ相談する声はなかった。自分の番が来るまで手元の選択肢を見つめ、列の先に置かれた一つの机へ顔を向けている。


 机の向こうには、灰色の外套を着た男が座っていた。黒い髪の下で、右目を囲む銀色の線が光を返している。


 農夫が葡萄の苗と黒麦の種袋を机へ並べた。


「今年は、どちらを植えるべきでしょうか」


 男の指が葡萄の苗へ触れ、右目の銀線が光った。


 空中に畑が広がる。緑の蔓が丘を覆っていたが、葉の裏には白い虫が集まり、房は一つも実っていない。夏の終わりには畑へ火が放たれ、農夫は空になった蔵の前で膝をついていた。


 像が消え、男の指が種袋へ移る。


 黒麦の穂が畑の端まで黄色く波打ち、納屋には袋が積み上がっている。農夫の家には新しい屋根が載り、冬の食卓には湯気の立つ器が五つ並んでいた。


 男は黒麦の栽培許可証へ印を押した。


【選定】


 農夫は札を両手で受け取り、葡萄の苗を机へ残した。


「ありがとうございます、先見官様」


 次の少年が二枚の雇用状を並べる。


「鍛冶屋と会計院です」


 男が鍛冶屋の紙へ触れると、火花が机の上を走った。


 少年は赤く焼けた鉄を打ち、やがて自分の店を持っていた。妻と子供が店先に立ち、軒下では少年の名を彫った看板が揺れている。


 左手の指は、三本しかなかった。


 像が消え、会計院の雇用状へ触れる。


 広い机には帳簿が積み上がり、少年の両手に傷はない。衣服には銀の留め具が並んでいる。


 机の向かいには、誰もいなかった。


 男は会計院の紙へ印を押した。少年の視線だけが、鍛冶屋の雇用状へ残る。


「でも、俺は鍛冶を」


「指を失う」


「店は持てるんですよね」


「持てる」


 後ろにいた母親が少年の肩を掴んだ。


「先見官様が選んでくださったのよ」


 鍛冶屋の雇用状を取り上げ、紙を半分に折る。さらにもう一度折り、少年の手に入らない大きさにして鞄へ押し込んだ。


「ありがとうございます」


 母親は少年の頭を下げさせ、列から連れ出した。


 男の目が次の相談者へ移る。藍色の糸は、その胸へ入っていた。


「久世透」


 銀の線が止まり、男の顔がエイルへ向いた。列に並ぶ者たちも振り返り、白線の内側で身体を固める。


「その名前を呼ぶ人間は、もういない」


「エイルです」


 透の右目から光が消え、椅子の脚が石畳を擦った。


「白い部屋の」


「はい」


 列の中から声が漏れた。


「天使様?」


「先見官様へ力を授けた方か」


 人々が白線から足を出し、二人の間に道を開けた。透は机の上の札を集め、外套の内側へ入れる。


「中で話そう」


 白い塔へ向かう透の外套を、二つの指輪を持つ女が掴んだ。


「先見官様。今日、決めていただけると。片方が明日、街を出てしまいます」


「明日にしろ」


「明日では遅いんです」


「自分で決めろ」


 女の指が外套から離れ、左右の手にある指輪を交互に見た。


「どうやって」


 透の足が止まる。振り返らないまま、塔の扉へ手を掛けた。


「明日まで待て」


 扉が閉じても、外の列は動かなかった。


* * *


 塔の内壁は、天井まで書類棚で埋まっていた。婚姻届、雇用状、治療同意書、農地の申請書、旅券が年ごとに分けられ、棚板の端には十三年分の数字が彫られている。


 古い棚には、まだ木目が見えた。


 新しい棚では押し込まれた紙が隙間からはみ出し、棚板ごと紐で縛られている。机の上にも相談札が積まれていた。


【結婚】

【就職】

【移住】

【出産】

【治療】


 机の横には新しい棚が組まれ、空のまま壁へ立てかけられている。


「何人の未来を見ましたか」


 透は外套を椅子へ掛け、一番上の札を裏返した。


【子供を産むか】


「数えていない。数える時間があれば、見る」


「見た未来は、すべて起きましたか」


「選んだ未来は外れない」


 透は右目へ触れた。


「選択肢に触れれば、その先が見える。十年でも、五十年でも。選ばなかった方も見える」


「どちらで多く笑うか」


「見える」


「どちらで苦しむか」


「見える」


「いつ死ぬか」


 透の指が右目から離れた。


「見える」


 窓の外には、塔を囲む列が残っていた。相談者たちは頭へ布を載せて日差しを避けても、自分の位置を離れようとはしない。


「それを見て、あなたが選びますか」


「一番ましな方を」


「本人ではなく」


 透は札の角を揃えた。


「悪い未来を見せても、人は間違える。葡萄が好きだから虫害の道を選ぶ。指を失っても、夢だから鍛冶屋へ行く。死ぬと分かっている相手と結婚する」


「選んではいけませんか」


「苦しむと分かっている道を?」


「本人の道です」


「苦しむのも本人だ」


「はい」


「だから止める」


 藍色の糸が透の胸で脈打った。


「スキルを回収します」


 透の右手が机へつく。


「待て」


「待ちません」


「この街がどうなるか、まだ見ていない」


「力を失ったあとの未来ですか」


「俺の選択肢も見える」


 透は自分の胸へ手を置き、右目の銀線を光らせた。


 空中には何も現れない。


「スキルを失った先だけは見えない」


「では、分かりません」


「だから待てと言っている」


 塔の扉が三度叩かれ、間を置かず、さらに音が重なった。


「先見官様」


 若い男の声が扉を抜ける。


「リナが門へ向かっています」


 透の顔が上がった。


「旅券は」


「ありません」


 机の引き出しから、赤い封蝋のついた紙を掴み取る。


【出街不許可】

【対象 リナ・ハーゼ】


 透は塔を出た。


* * *


 大通りの石畳は、門柱の下で終わっていた。門の向こうには荷車の轍が残る土の道が伸び、道標は最初の丘までしかない。その先では灰色の山が重なり、雨を避ける屋根も見えなかった。


 街の内側では、白い塔と三枚の石板が朝の光を返している。


 外側には、土と風しかない。


 リナは、その境目に立っていた。背には木箱を負い、蓋の隙間から丸めた紙と筆が伸びている。煤のついた上着の袖は肘で切れ、指先は青と赤の顔料に染まっていた。


 二人の門兵が槍を交差させる。


「退いて」


「旅券を出せ」


「持ってない」


「なら、通せない」


「門の外へ歩くだけでしょ」


 リナが兵士の間へ身体を入れると、槍の柄が木箱へ当たり、中の紙が擦れる音を立てた。


「先見官様の不許可が出ている。街へ戻れ」


「知ってる。嫌」


 透が大通りへ出た。


「リナ」


 少女の肩が止まり、振り返る。


「また止めに来たの」


「旅券なしで門は通れない」


「あなたが出さないから」


「出せない」


「出したくない、でしょ」


 透は赤い紙を広げた。門前で止まった荷馬車の御者が手綱を引き、塔の列にいた者たちも白線の内側から二人へ顔を向ける。


「王都へ行けば、十二年後に死ぬ。絵は売れない。入った工房は二年で潰れ、使い続けた顔料で肺を患う」


「知ってる」


「最後の三年は寝台から起きられない」


「見せられた」


「看取る人間はいない」


 リナの指が木箱の紐へ入った。


「全部、知ってる」


「なら、なぜ行く」


「行きたいから」


「死ぬんだぞ」


「ここに残っても死ぬ」


「六十八まで生きる」


「パン屋を継いで」


「店は繁盛する」


「ハンスと結婚して」


 通りの端に、小麦粉のついた前掛けを着た青年が立っていた。両腕には、リナが宿から運び出した布袋を抱えている。


 リナはそちらを見なかった。


「子供が二人。孫が三人。病気にもならない」


「それも見た」


 透の右目が光り、未来が門の上へ広がった。


 パン屋の窓から朝の光が生地台へ伸びている。年を取ったリナが粉を練り、ハンスが窯から焼き上がったパンを運び、店内では二人の子供が積み上げた籠の間を走っていた。


 冬になると、リナは棚の奥から木箱を取り出した。蓋には埃が積もり、紐の色も抜けている。布で埃を拭ったあと、指は蓋に触れず、箱を棚へ戻した。


 春には孫が生まれ、夏には家族が長い食卓を囲んだ。年を取ったリナの指から絵の具は消え、爪の間には小麦粉が残っている。


 六十八歳。


 寝台の周りには子供と孫が集まり、窓辺には白い花が置かれていた。ハンスが皺の増えた手を握る中で、リナの目が閉じた。


 未来が消えると、門前にいた者たちから息が漏れた。


「幸せじゃないか」


「何が不満なんだ」


「贅沢だ」


 ハンスが布袋を抱えたまま、リナへ近づいた。


「俺は、嫌なら結婚しなくてもいい。でも、王都には行かない方がいい」


「ハンスまで」


「死んでほしくない」


「私がここにいれば、安心?」


「生きてるから」


「パンを焼いて、子供を産んで、絵を描かなくても?」


 ハンスの腕が下がった。


「絵は、休みの日に描けばいい」


 リナの木箱から丸めた紙が一本落ち、石畳を転がって門柱へ当たった。紐がほどけ、海のない街に青い波が広がる。白い壁を越えるほど高い波の下を、黒い魚が泳いでいた。


 通りにいた子供が紙を覗き込む。


「きれい」


 母親が腕を引いた。


「触らないの」


 リナは紙を拾い、端についた砂を袖で払った。


「休みの日に描いた絵を、誰が見るの」


「俺が見る」


「あなたに見せたいんじゃない」


 ハンスの指が布袋へ食い込んだ。


「そうか」


 袋をリナの足元へ置く。


「でも、行ってほしくない」


「知ってる」


 リナは袋を拾わなかった。


 門の外から入った風が青い波の紙を持ち上げ、リナは端を靴で踏んだ。街の石畳に残った絵の半分が、門の外へ伸びている。


 透が不許可証を握り直した。


「戻れ」


「嫌」


「これは命令だ」


「何の罪で」


 透の指が止まる。


「私は盗んでない。誰も殴ってない。街に火もつけてない」


 リナは門の上の石板を指した。


「外へ行って、貧乏になって、病気になるだけ」


「街へ負担を掛ける」


「この街には戻らない」


「遺体を運ぶ者が必要になる」


「埋めてもらわなくていい」


「リナ」


「失敗するのは、罪ですか」


 透の口が閉じた。二人の間では、門兵の槍が交差したまま動かない。


「まだ、何も失敗してない」


 リナは槍の柄を掴んだ。


「それでも、もう止めるの」


「失敗してからでは遅い」


「あなたの妹みたいに?」


 透の顔から色が消え、右目の銀線が強く光った。


「誰から聞いた」


「あなたが自分で話した。三年前、広場で」


 リナは透から目を逸らさない。


「妹が刺されたとき、何もできなかった。だから、もう誰にも間違わせないって」


「何もできなかったんじゃない。助けを呼んだ。傷も塞がった」


「でも、止められなかったと思ってる」


「何も知らないくせに」


「知らないよ」


 リナの爪が槍の木へ入った。


「でも、私はあなたの妹じゃない」


 透の右目が白く光り、もう一つの未来が門の外へ広がった。


 雨に濡れた王都の屋根裏で、リナは売れ残った絵に囲まれていた。窓枠から水が落ち、床へ置いた器が一滴ずつ音を返している。


 硬くなったパンを水へ浸す。


 一口。


 それから、壁へ向かう。


 工房では主人がリナの絵を床へ投げ、靴の先で端を踏んだ。街角へ出ても、並べた肖像画の前を靴だけが通り過ぎていく。


 冬になると、咳と一緒に布へ血が落ちた。リナは布を裏返し、青い顔料へ指を入れる。


 王都の外壁には、大きな波が描かれ始めていた。足場の下を人々が歩き、見上げる者は一人もいない。


 十二年目。


 寝台のある部屋には、完成しなかった絵が積まれていた。窓の向こうに外壁が見え、青い波だけが建物の隙間から覗いている。


 椅子は空だった。


 リナの呼吸が止まり、未来が消えた。門の外には、土の道だけが残る。


「見たか」


「見た」


「それでも行くのか」


「行く」


「死ぬ」


「十二年ある」


「十二年しかない」


「十二年もある!」


 声が門柱へ当たり、止まっていた荷馬車の馬が耳を伏せた。


「あなたが六十八年生きる女を見せるたび、私の十二年がなくなる」


「死なせたくない」


「私は、死ぬところだけじゃない!」


 リナは木箱を背から下ろして蓋を開いた。街の屋根、パン屋の窯、市場へ積まれた魚、雨を吸った石畳、椅子で眠るハンス。詰め込まれていた紙を両腕で抱え、透の足元へ最初の一枚を広げる。


「これを描いた日もある」


 返事を待たず、青い波の絵を隣へ置き、さらに二枚、三枚と石畳へ並べていった。門から入る風が紙の端を持ち上げるたび、靴で押さえて次を広げる。


「王都へ行って、初めて海を見る日もある。工房を追い出される日も、壁に描く日もある」


 紙は交差した槍の足元まで広がった。


「血を吐く日も、一人で死ぬ日も」


 リナは空になった木箱を透へ向けた。


「全部、私でしょ」


 透の手の中で、不許可証が曲がった。


「苦しむと分かっていて、通せない」


「苦しむのは私」


「見送るのは俺だ」


「見なければいい」


「見えたんだ!」


 透の声が大通りを走り、塔の前に並んでいた者たちが白線の内側で顔を伏せた。


「見えているのに、行かせろっていうのか!」


「うん」


 リナは手を出した。


「私の旅券をください」


 透は紙を握ったまま動かず、藍色の糸が胸の奥で膨らんだ。


 エイルは二人の間へ入る。


「久世透」


「邪魔をするな」


「スキルを回収します」


「今は駄目だ」


「今です」


「こいつが死ぬ!」


「はい」


 透の目がエイルへ向いた。


「分かってるのか」


「あなたが見せた未来を見ました」


「なら止めろ」


「リナが選びました」


「死ぬ道を選ばせるのか」


「はい」


 透がエイルの腕を掴み、指を袖へ食い込ませた。


「お前も、俺を裁きに来たんだろ。この力を持たせていい人間か、見定めに来た」


「はい」


「俺と何が違う」


 エイルの脳裏に、これまで見届けた名前が並んだ。


 神崎弘人(かんざきひろと)


 前田祐樹(まえだゆうき)


 桐生真帆(きりゅうまほ)


 白石沙耶(しらいしさや)


 御堂彰人(みどうあきと)


「俺は悪い未来を見た。お前は悪い過去を見た」


 透はリナを指し、次にエイルの手の甲へ指を向けた。


「見たものを理由に、人の行き先を決めてる」


 エイルは手の甲を見た。


【御堂彰人】

【残留】


 指で擦った跡が、まだ赤い。


「御堂彰人。この人はどうなった」


「スキルを回収したあと、死亡しました」


「死ぬと分かっていたのか」


「はい」


「それでも、選ばせた?」


「はい」


「苦しむと分かっている道でも?」


「止めません」


「それが正しいと思ってるのか」


「正しいとは言いません」


「なら、なぜ」


「その人が選ぶ道だからです」


 透の指が、エイルの手の甲へ向いた。


「彰人に死ぬ道を示したのは、お前だろ」


「はい」


「選んだのは本人だから、お前は殺していない?」


 エイルは手の甲を見た。


【御堂彰人】

【残留】


 指で擦った跡が、まだ赤い。


「私が回収しました」


「本人が望んだだけだろ」


「望みを聞き、残したものを見て、私が決めました」


「なら、お前が殺した」


「はい」


 透の手が離れた。


「俺は、悪い未来を選ばせなかった」


 門から入った風が、リナの絵を石畳の上でめくる。


「どっちが残酷だ」


「分かりません」


「それでも、取るのか」


「取ります」


「なぜ」


「与えたのは、私です」


「答えになってない」


「回収する責任があります」


「逃げるな」


 透の拳がエイルの胸へ当たった。


「俺が何を間違えたか、言え」


「未来を見たことではありません」


 エイルは白い塔へ顔を向けた。二つの指輪を持つ女、二枚の雇用状を持つ少年、腹へ手を当てた夫婦が、列の同じ場所から二人を見ている。


「ここでは、誰も自分の先を選んでいません」


 透の拳が止まった。


「あなたが、選ぶ前の道を閉じたことです」



 門の石板が光を返した。


【破産者 九年間なし】


 リナは地面へ広げた絵を木箱へ戻し、緩んでいた紐を締め直した。ハンスが足元の布袋を一つ持ち上げて木箱の横へ置き、リナは袋ごと紐を回して結び目を引いた。


 門兵の槍は、まだ上がらない。


 旅券だけが足りなかった。


 透は赤い不許可証を握っていた。


* * *


 エイルの掌に、二つの印が浮かんだ。


 大地。


 門。


「この世界に残るか、元の世界へ戻るか、選んでください」


 透は門の印を見た。


「向こうでは何年経っている」


「十三年です」


「妹は」


「確認できます」


 門の印が開き、空中へ水面が広がった。


 朝の商店街にある小さな花屋の前で、一人の女が鉢を並べていた。店の奥には杖が立てかけられているが、女はそれを取らず、鉢を抱えて歩道まで運んでいる。


 客が花を指すと、女は鉢を持ち上げ、店の外にある日の当たる場所へ置いた。


 透の指が水面へ伸びる。


「外に」


「はい」


「一人で?」


「はい」


 女は客へ頭を下げ、店の奥へ戻った。水面から姿が消える。


「俺が止めなくても」


 透の指が下がった。


「生きてる」


「はい」


「戻りますか」


 透は花屋の消えた水面を見た。


「戻って、何をする」


「分かりません」


「妹に謝る?」


「あなたが決めます」


「会わない方が幸せかもしれない」


「分かりません」


「俺には、もう見えないのか」


「回収後は」


 透は右目へ触れたあと、街の門を見た。白い塔の前には列が残り、その先ではリナが石畳と土の道の境目に立っている。


「残る」


「残留を受理すれば、回収後も変更できません」


「分かってる」


「回収を始めれば、途中では止められません」


「分かってる」


「残留を受理します」


 エイルの掌から門の印が消えた。


「この街は、俺がこうした」


 透は塔の前に積み上がった相談札を見た。


「戻すのも、俺がやる」


「スキルを回収します」


 銀色の線が光り、透が一歩下がった。


「待て」


「待ちません」


「せめて、リナの街道だけ」


「未来は見ました」


「王都までの途中だ。盗賊に遭う道があるかもしれない」


「分かりません」


「一度だけ」


 透はリナへ手を伸ばした。


「どの道を通れば、十二年を生きられるか」


 リナはその手を見た。


「教えなくていい」


「死ぬかもしれない」


「さっきから、それしか言わないね」


「死んでほしくない」


「私は、あなたに生かされたくない」


 透の指が閉じた。


 エイルは透の右目へ手を伸ばし、触れる直前で止める。


「スキル、《未来視(プレヴィジョン)》を回収します」


 銀色の線が透の瞼から離れた。


 最初の一筋から、農夫の二つの畑が空中へ広がる。葡萄を植えて失った畑と、黒麦を育てて満ちた蔵が重なり、輪郭から消えていった。


 次の一筋には、少年がいた。鍛冶場で指を失い、自分の店を持つ姿。傷のない手で会計院の帳簿を重ね、一人で机へ伏せる姿。二つの未来がほどけ、光へ戻っていく。


 銀線が一筋ずつ透の目を離れるたび、結婚する者と別れる者、生まれる子供と生まれない子供、店を失う者、旅から戻らない者が街の屋根を覆った。


「待て」


 透がエイルの手首を掴む。


「この夫婦は、子供を産めば母親が死ぬ」


 列の中で、腹へ手を当てた女が夫の腕を掴んだ。


「言わないと」


「未来は伝えられます」


「なら、俺が決める」


「本人へ返します」


「知らないまま選ばせるのか!」


「見たものは伝えます」


「なら、何が違う!」


 エイルは答えなかった。


 リナは木箱を背負い、ハンスは結び目を引いて緩まないことを確かめると、手を離した。透の指だけが、エイルの手首へ残っている。


「この子は鍛冶屋へ行けば、指を失う!」


 透が列の少年を指した。少年は会計院の雇用状を胸へ押しつけている。鞄の隙間から、折り畳まれた紙の角が覗いていた。


「見えてるんだ」


 門兵は槍を上げない。


 旅券だけが足りない。


 透の膝が石畳へ落ちた。


「見えているのに、止めないなんてできない」


 銀色の線は、最後の一本だけを残して消えていた。その中には、リナの二つの未来が映っている。


 パン屋の窓。


 埃をかぶった木箱。


 王都の壁に描かれた青い波。


 血のついた布。


 空の椅子。


 透がリナを見た。


「十二年後」


 リナは目を逸らさない。


 最後の線が瞼から離れ、エイルの指へ触れて光を失った。


 街の上から未来が消えた。


 白い塔。列に並ぶ人々。門の外へ続く街道。


 今あるものだけが残った。


 スキルを回収した。


 透は石畳へ手をつき、右目を押さえた。


「見えない。リナが、どこで死ぬか。明日、誰が間違えるか」


 息を吸っても喉が鳴るだけで、口元を押さえた身体が折れた。唾液が石畳へ落ちたが、吐くものはなかった。


「分からない」


 リナが目の前へ立ち、手を差し出した。


「旅券」


 透は顔を上げる。


「幸せにはならない」


「知ってる」


「病気になる」


「知ってる」


「一人で死ぬ」


「それも聞いた」


 透は赤い不許可証を両手で掴んだ。紙を一度、もう一度と裂き、切れ端を石畳へ落とす。腰の鍵で旅券箱を開け、白い紙を一枚取り出した。


 署名欄へ筆を置いても、手は動かなかった。


「もう、見えない」


「うん」


「この紙を渡したあとが」


「うん」


 透の指が震えたまま、紙へ名前を書く。


【リナ・ハーゼ】


 許可印を押し、旅券を差し出した。


 リナは受け取った。礼はなく、地面の絵を一枚ずつ拾って木箱へ戻していく。


 ハンスは青い波の絵を持っていた。紙の端についた砂を払い、リナへ差し出す。


「十二年後まで、待ってていいか」


「待たないで」


「手紙は」


「書けたら書く」


「帰ってきてもいいから」


 リナは絵を受け取った。


「それは、私が決める」


 木箱を背負うと、門兵が槍を上げた。街の石畳と、外の土の道がつながる。


 リナは境目を越え、一歩ずつ土の道を進んだ。靴の裏へ土がついても、振り返らない。


 透は立ち上がれないまま、その背中が丘へ近づくのを見ていた。


「止めなくていいのですか」


「止めたい」


 透の指が石畳へ食い込んだ。


「今でも」


 リナの姿が丘の向こうへ消える。


 透は目を閉じた。


 未来は映らなかった。


* * *


 白い塔の前には、列が残っていた。


 日が傾き、相談者たちの影が白線の外へ伸びている。誰も帰らず、空になった机を見つめていた。


 透が椅子へ戻ると、二つの指輪を持った女が前へ出た。


「どちらを選べば」


 透は女の両手を見た。


「二人は、どんな人だ」


 女の口が止まる。


「未来ではなく、今の話だ。誰から受け取った」


 右手の指輪が持ち上がった。


「幼なじみです」


「好きか」


 女の指が左手の指輪へ動く。


「分かりません」


「では、分かるまで決めなくていい」


「片方が街を出ます」


「出たら、終わるかもしれない」


 女の目が開いた。


「止めてくださらないのですか」


「止められない」


 透は二つの指輪を女の掌へ戻した。


「本人と話してくれ」


 女が動かないため、後ろの相談者が詰まり、白線の列が歪んだ。誰かの肩が隣の者へ当たり、二人が顔を見合わせる。


 謝る声が一つ上がった。


 列の横から書記官が透へ近づき、机へ札を積んだ。


「どれから見ますか」


 透は一枚を取った。


【就職】


 札を裏返す。


「本人を呼んでくれ」


「未来は」


「見えない」


 書記官の口が開いた。


「では、何を基準に選ぶのですか」


 透は塔の外へ顔を向けた。門の向こうには、誰もいない土の街道が続いている。


「選ばない」


 相談札を机へ置く。


「話を聞く」


 エイルの手の甲が熱を持った。


【久世透】

【スキル回収】

【裁定完了】

【残留】


 門の石板には、数字が残っていた。


【破産者 九年間なし】


 風が吹き、列の後ろで少年が鞄を開けた。母親に折られた鍛冶屋の雇用状を取り出し、紙を広げる。折り目は消えず、中央の文字が二つに割れていた。


 母親の手が伸びる前に、少年は白線を越えた。鍛冶屋の煙が上がる通りへ走りながら、自分の左手を開く。


 五本の指を見た。


 折り目の残る紙を握り、先へ走った。


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