第6話 まだ、罪ではない
御堂彰人の名前は、消えていなかった。
【御堂彰人】
【スキル回収】
【裁定完了】
【残留】
エイルが指で擦っても、文字は手の甲に残った。その下へ新しい光が走る。
【久世透】
名前から伸びた藍色の糸は、朝露の残る草原を横切り、南へ続いていた。
エイルは立ち上がった。膝についた草が落ち、掌の傷へ乾いた土が入る。振り返ると、彰人は朝の光を受けたまま草の上に横たわっていた。
胸は動かない。
エイルは草原を離れた。
* * *
街の門には、三枚の白い石板が掲げられていた。
【餓死者 十二年間なし】
【破産者 九年間なし】
【行方不明者 十一年間なし】
荷車を引く男も、子供を抱いた女も、杖をついた老人も、門をくぐる前に石板へ手を合わせた。祈る時間は短く、顔を上げても数字を読み直す者はいない。
石板の下では、門兵が旅人の荷を調べていた。刃物や薬には触れず、封筒を開いて契約書を広げ、先見院の印があるかを確かめている。印のない紙は、門脇の木箱へ入れられた。
「捨てるのですか」
エイルが箱を覗くと、折られた雇用状や婚姻届が底まで重なっていた。
「先見官様の選定を受けていない契約です」
門兵は手にしていた婚姻届を二つに折り、紙の隙間へ押し込んだ。
「間違った選択から、街を守っています」
藍色の糸は門を抜け、街の中央に立つ白い塔へ続いていた。
通りに空き店舗はなく、露店の果物にも傷がない。建物の壁は塗り直され、割れた雨樋は塞がれ、路地の奥まで敷かれた石には同じ幅の轍が続いていた。どの角にも白い矢印が置かれている。
【パン職人区】
【織物職人区】
【会計院】
【先見院】
子供たちは矢印の内側を歩き、大人も近道になる路地へ入らない。
誰も迷わない。
白い塔の前には、広場を半周する列ができていた。二つの指輪を持つ女、二枚の雇用状を抱えた少年、葡萄の苗と種袋を載せた農夫、腹へ手を当てた夫婦が、石畳へ引かれた白線の内側に並んでいる。
隣の者へ相談する声はなかった。自分の番が来るまで手元の選択肢を見つめ、列の先に置かれた一つの机へ顔を向けている。
机の向こうには、灰色の外套を着た男が座っていた。黒い髪の下で、右目を囲む銀色の線が光を返している。
農夫が葡萄の苗と黒麦の種袋を机へ並べた。
「今年は、どちらを植えるべきでしょうか」
男の指が葡萄の苗へ触れ、右目の銀線が光った。
空中に畑が広がる。緑の蔓が丘を覆っていたが、葉の裏には白い虫が集まり、房は一つも実っていない。夏の終わりには畑へ火が放たれ、農夫は空になった蔵の前で膝をついていた。
像が消え、男の指が種袋へ移る。
黒麦の穂が畑の端まで黄色く波打ち、納屋には袋が積み上がっている。農夫の家には新しい屋根が載り、冬の食卓には湯気の立つ器が五つ並んでいた。
男は黒麦の栽培許可証へ印を押した。
【選定】
農夫は札を両手で受け取り、葡萄の苗を机へ残した。
「ありがとうございます、先見官様」
次の少年が二枚の雇用状を並べる。
「鍛冶屋と会計院です」
男が鍛冶屋の紙へ触れると、火花が机の上を走った。
少年は赤く焼けた鉄を打ち、やがて自分の店を持っていた。妻と子供が店先に立ち、軒下では少年の名を彫った看板が揺れている。
左手の指は、三本しかなかった。
像が消え、会計院の雇用状へ触れる。
広い机には帳簿が積み上がり、少年の両手に傷はない。衣服には銀の留め具が並んでいる。
机の向かいには、誰もいなかった。
男は会計院の紙へ印を押した。少年の視線だけが、鍛冶屋の雇用状へ残る。
「でも、俺は鍛冶を」
「指を失う」
「店は持てるんですよね」
「持てる」
後ろにいた母親が少年の肩を掴んだ。
「先見官様が選んでくださったのよ」
鍛冶屋の雇用状を取り上げ、紙を半分に折る。さらにもう一度折り、少年の手に入らない大きさにして鞄へ押し込んだ。
「ありがとうございます」
母親は少年の頭を下げさせ、列から連れ出した。
男の目が次の相談者へ移る。藍色の糸は、その胸へ入っていた。
「久世透」
銀の線が止まり、男の顔がエイルへ向いた。列に並ぶ者たちも振り返り、白線の内側で身体を固める。
「その名前を呼ぶ人間は、もういない」
「エイルです」
透の右目から光が消え、椅子の脚が石畳を擦った。
「白い部屋の」
「はい」
列の中から声が漏れた。
「天使様?」
「先見官様へ力を授けた方か」
人々が白線から足を出し、二人の間に道を開けた。透は机の上の札を集め、外套の内側へ入れる。
「中で話そう」
白い塔へ向かう透の外套を、二つの指輪を持つ女が掴んだ。
「先見官様。今日、決めていただけると。片方が明日、街を出てしまいます」
「明日にしろ」
「明日では遅いんです」
「自分で決めろ」
女の指が外套から離れ、左右の手にある指輪を交互に見た。
「どうやって」
透の足が止まる。振り返らないまま、塔の扉へ手を掛けた。
「明日まで待て」
扉が閉じても、外の列は動かなかった。
* * *
塔の内壁は、天井まで書類棚で埋まっていた。婚姻届、雇用状、治療同意書、農地の申請書、旅券が年ごとに分けられ、棚板の端には十三年分の数字が彫られている。
古い棚には、まだ木目が見えた。
新しい棚では押し込まれた紙が隙間からはみ出し、棚板ごと紐で縛られている。机の上にも相談札が積まれていた。
【結婚】
【就職】
【移住】
【出産】
【治療】
机の横には新しい棚が組まれ、空のまま壁へ立てかけられている。
「何人の未来を見ましたか」
透は外套を椅子へ掛け、一番上の札を裏返した。
【子供を産むか】
「数えていない。数える時間があれば、見る」
「見た未来は、すべて起きましたか」
「選んだ未来は外れない」
透は右目へ触れた。
「選択肢に触れれば、その先が見える。十年でも、五十年でも。選ばなかった方も見える」
「どちらで多く笑うか」
「見える」
「どちらで苦しむか」
「見える」
「いつ死ぬか」
透の指が右目から離れた。
「見える」
窓の外には、塔を囲む列が残っていた。相談者たちは頭へ布を載せて日差しを避けても、自分の位置を離れようとはしない。
「それを見て、あなたが選びますか」
「一番ましな方を」
「本人ではなく」
透は札の角を揃えた。
「悪い未来を見せても、人は間違える。葡萄が好きだから虫害の道を選ぶ。指を失っても、夢だから鍛冶屋へ行く。死ぬと分かっている相手と結婚する」
「選んではいけませんか」
「苦しむと分かっている道を?」
「本人の道です」
「苦しむのも本人だ」
「はい」
「だから止める」
藍色の糸が透の胸で脈打った。
「スキルを回収します」
透の右手が机へつく。
「待て」
「待ちません」
「この街がどうなるか、まだ見ていない」
「力を失ったあとの未来ですか」
「俺の選択肢も見える」
透は自分の胸へ手を置き、右目の銀線を光らせた。
空中には何も現れない。
「スキルを失った先だけは見えない」
「では、分かりません」
「だから待てと言っている」
塔の扉が三度叩かれ、間を置かず、さらに音が重なった。
「先見官様」
若い男の声が扉を抜ける。
「リナが門へ向かっています」
透の顔が上がった。
「旅券は」
「ありません」
机の引き出しから、赤い封蝋のついた紙を掴み取る。
【出街不許可】
【対象 リナ・ハーゼ】
透は塔を出た。
* * *
大通りの石畳は、門柱の下で終わっていた。門の向こうには荷車の轍が残る土の道が伸び、道標は最初の丘までしかない。その先では灰色の山が重なり、雨を避ける屋根も見えなかった。
街の内側では、白い塔と三枚の石板が朝の光を返している。
外側には、土と風しかない。
リナは、その境目に立っていた。背には木箱を負い、蓋の隙間から丸めた紙と筆が伸びている。煤のついた上着の袖は肘で切れ、指先は青と赤の顔料に染まっていた。
二人の門兵が槍を交差させる。
「退いて」
「旅券を出せ」
「持ってない」
「なら、通せない」
「門の外へ歩くだけでしょ」
リナが兵士の間へ身体を入れると、槍の柄が木箱へ当たり、中の紙が擦れる音を立てた。
「先見官様の不許可が出ている。街へ戻れ」
「知ってる。嫌」
透が大通りへ出た。
「リナ」
少女の肩が止まり、振り返る。
「また止めに来たの」
「旅券なしで門は通れない」
「あなたが出さないから」
「出せない」
「出したくない、でしょ」
透は赤い紙を広げた。門前で止まった荷馬車の御者が手綱を引き、塔の列にいた者たちも白線の内側から二人へ顔を向ける。
「王都へ行けば、十二年後に死ぬ。絵は売れない。入った工房は二年で潰れ、使い続けた顔料で肺を患う」
「知ってる」
「最後の三年は寝台から起きられない」
「見せられた」
「看取る人間はいない」
リナの指が木箱の紐へ入った。
「全部、知ってる」
「なら、なぜ行く」
「行きたいから」
「死ぬんだぞ」
「ここに残っても死ぬ」
「六十八まで生きる」
「パン屋を継いで」
「店は繁盛する」
「ハンスと結婚して」
通りの端に、小麦粉のついた前掛けを着た青年が立っていた。両腕には、リナが宿から運び出した布袋を抱えている。
リナはそちらを見なかった。
「子供が二人。孫が三人。病気にもならない」
「それも見た」
透の右目が光り、未来が門の上へ広がった。
パン屋の窓から朝の光が生地台へ伸びている。年を取ったリナが粉を練り、ハンスが窯から焼き上がったパンを運び、店内では二人の子供が積み上げた籠の間を走っていた。
冬になると、リナは棚の奥から木箱を取り出した。蓋には埃が積もり、紐の色も抜けている。布で埃を拭ったあと、指は蓋に触れず、箱を棚へ戻した。
春には孫が生まれ、夏には家族が長い食卓を囲んだ。年を取ったリナの指から絵の具は消え、爪の間には小麦粉が残っている。
六十八歳。
寝台の周りには子供と孫が集まり、窓辺には白い花が置かれていた。ハンスが皺の増えた手を握る中で、リナの目が閉じた。
未来が消えると、門前にいた者たちから息が漏れた。
「幸せじゃないか」
「何が不満なんだ」
「贅沢だ」
ハンスが布袋を抱えたまま、リナへ近づいた。
「俺は、嫌なら結婚しなくてもいい。でも、王都には行かない方がいい」
「ハンスまで」
「死んでほしくない」
「私がここにいれば、安心?」
「生きてるから」
「パンを焼いて、子供を産んで、絵を描かなくても?」
ハンスの腕が下がった。
「絵は、休みの日に描けばいい」
リナの木箱から丸めた紙が一本落ち、石畳を転がって門柱へ当たった。紐がほどけ、海のない街に青い波が広がる。白い壁を越えるほど高い波の下を、黒い魚が泳いでいた。
通りにいた子供が紙を覗き込む。
「きれい」
母親が腕を引いた。
「触らないの」
リナは紙を拾い、端についた砂を袖で払った。
「休みの日に描いた絵を、誰が見るの」
「俺が見る」
「あなたに見せたいんじゃない」
ハンスの指が布袋へ食い込んだ。
「そうか」
袋をリナの足元へ置く。
「でも、行ってほしくない」
「知ってる」
リナは袋を拾わなかった。
門の外から入った風が青い波の紙を持ち上げ、リナは端を靴で踏んだ。街の石畳に残った絵の半分が、門の外へ伸びている。
透が不許可証を握り直した。
「戻れ」
「嫌」
「これは命令だ」
「何の罪で」
透の指が止まる。
「私は盗んでない。誰も殴ってない。街に火もつけてない」
リナは門の上の石板を指した。
「外へ行って、貧乏になって、病気になるだけ」
「街へ負担を掛ける」
「この街には戻らない」
「遺体を運ぶ者が必要になる」
「埋めてもらわなくていい」
「リナ」
「失敗するのは、罪ですか」
透の口が閉じた。二人の間では、門兵の槍が交差したまま動かない。
「まだ、何も失敗してない」
リナは槍の柄を掴んだ。
「それでも、もう止めるの」
「失敗してからでは遅い」
「あなたの妹みたいに?」
透の顔から色が消え、右目の銀線が強く光った。
「誰から聞いた」
「あなたが自分で話した。三年前、広場で」
リナは透から目を逸らさない。
「妹が刺されたとき、何もできなかった。だから、もう誰にも間違わせないって」
「何もできなかったんじゃない。助けを呼んだ。傷も塞がった」
「でも、止められなかったと思ってる」
「何も知らないくせに」
「知らないよ」
リナの爪が槍の木へ入った。
「でも、私はあなたの妹じゃない」
透の右目が白く光り、もう一つの未来が門の外へ広がった。
雨に濡れた王都の屋根裏で、リナは売れ残った絵に囲まれていた。窓枠から水が落ち、床へ置いた器が一滴ずつ音を返している。
硬くなったパンを水へ浸す。
一口。
それから、壁へ向かう。
工房では主人がリナの絵を床へ投げ、靴の先で端を踏んだ。街角へ出ても、並べた肖像画の前を靴だけが通り過ぎていく。
冬になると、咳と一緒に布へ血が落ちた。リナは布を裏返し、青い顔料へ指を入れる。
王都の外壁には、大きな波が描かれ始めていた。足場の下を人々が歩き、見上げる者は一人もいない。
十二年目。
寝台のある部屋には、完成しなかった絵が積まれていた。窓の向こうに外壁が見え、青い波だけが建物の隙間から覗いている。
椅子は空だった。
リナの呼吸が止まり、未来が消えた。門の外には、土の道だけが残る。
「見たか」
「見た」
「それでも行くのか」
「行く」
「死ぬ」
「十二年ある」
「十二年しかない」
「十二年もある!」
声が門柱へ当たり、止まっていた荷馬車の馬が耳を伏せた。
「あなたが六十八年生きる女を見せるたび、私の十二年がなくなる」
「死なせたくない」
「私は、死ぬところだけじゃない!」
リナは木箱を背から下ろして蓋を開いた。街の屋根、パン屋の窯、市場へ積まれた魚、雨を吸った石畳、椅子で眠るハンス。詰め込まれていた紙を両腕で抱え、透の足元へ最初の一枚を広げる。
「これを描いた日もある」
返事を待たず、青い波の絵を隣へ置き、さらに二枚、三枚と石畳へ並べていった。門から入る風が紙の端を持ち上げるたび、靴で押さえて次を広げる。
「王都へ行って、初めて海を見る日もある。工房を追い出される日も、壁に描く日もある」
紙は交差した槍の足元まで広がった。
「血を吐く日も、一人で死ぬ日も」
リナは空になった木箱を透へ向けた。
「全部、私でしょ」
透の手の中で、不許可証が曲がった。
「苦しむと分かっていて、通せない」
「苦しむのは私」
「見送るのは俺だ」
「見なければいい」
「見えたんだ!」
透の声が大通りを走り、塔の前に並んでいた者たちが白線の内側で顔を伏せた。
「見えているのに、行かせろっていうのか!」
「うん」
リナは手を出した。
「私の旅券をください」
透は紙を握ったまま動かず、藍色の糸が胸の奥で膨らんだ。
エイルは二人の間へ入る。
「久世透」
「邪魔をするな」
「スキルを回収します」
「今は駄目だ」
「今です」
「こいつが死ぬ!」
「はい」
透の目がエイルへ向いた。
「分かってるのか」
「あなたが見せた未来を見ました」
「なら止めろ」
「リナが選びました」
「死ぬ道を選ばせるのか」
「はい」
透がエイルの腕を掴み、指を袖へ食い込ませた。
「お前も、俺を裁きに来たんだろ。この力を持たせていい人間か、見定めに来た」
「はい」
「俺と何が違う」
エイルの脳裏に、これまで見届けた名前が並んだ。
神崎弘人。
前田祐樹。
桐生真帆。
白石沙耶。
御堂彰人。
「俺は悪い未来を見た。お前は悪い過去を見た」
透はリナを指し、次にエイルの手の甲へ指を向けた。
「見たものを理由に、人の行き先を決めてる」
エイルは手の甲を見た。
【御堂彰人】
【残留】
指で擦った跡が、まだ赤い。
「御堂彰人。この人はどうなった」
「スキルを回収したあと、死亡しました」
「死ぬと分かっていたのか」
「はい」
「それでも、選ばせた?」
「はい」
「苦しむと分かっている道でも?」
「止めません」
「それが正しいと思ってるのか」
「正しいとは言いません」
「なら、なぜ」
「その人が選ぶ道だからです」
透の指が、エイルの手の甲へ向いた。
「彰人に死ぬ道を示したのは、お前だろ」
「はい」
「選んだのは本人だから、お前は殺していない?」
エイルは手の甲を見た。
【御堂彰人】
【残留】
指で擦った跡が、まだ赤い。
「私が回収しました」
「本人が望んだだけだろ」
「望みを聞き、残したものを見て、私が決めました」
「なら、お前が殺した」
「はい」
透の手が離れた。
「俺は、悪い未来を選ばせなかった」
門から入った風が、リナの絵を石畳の上でめくる。
「どっちが残酷だ」
「分かりません」
「それでも、取るのか」
「取ります」
「なぜ」
「与えたのは、私です」
「答えになってない」
「回収する責任があります」
「逃げるな」
透の拳がエイルの胸へ当たった。
「俺が何を間違えたか、言え」
「未来を見たことではありません」
エイルは白い塔へ顔を向けた。二つの指輪を持つ女、二枚の雇用状を持つ少年、腹へ手を当てた夫婦が、列の同じ場所から二人を見ている。
「ここでは、誰も自分の先を選んでいません」
透の拳が止まった。
「あなたが、選ぶ前の道を閉じたことです」
門の石板が光を返した。
【破産者 九年間なし】
リナは地面へ広げた絵を木箱へ戻し、緩んでいた紐を締め直した。ハンスが足元の布袋を一つ持ち上げて木箱の横へ置き、リナは袋ごと紐を回して結び目を引いた。
門兵の槍は、まだ上がらない。
旅券だけが足りなかった。
透は赤い不許可証を握っていた。
* * *
エイルの掌に、二つの印が浮かんだ。
大地。
門。
「この世界に残るか、元の世界へ戻るか、選んでください」
透は門の印を見た。
「向こうでは何年経っている」
「十三年です」
「妹は」
「確認できます」
門の印が開き、空中へ水面が広がった。
朝の商店街にある小さな花屋の前で、一人の女が鉢を並べていた。店の奥には杖が立てかけられているが、女はそれを取らず、鉢を抱えて歩道まで運んでいる。
客が花を指すと、女は鉢を持ち上げ、店の外にある日の当たる場所へ置いた。
透の指が水面へ伸びる。
「外に」
「はい」
「一人で?」
「はい」
女は客へ頭を下げ、店の奥へ戻った。水面から姿が消える。
「俺が止めなくても」
透の指が下がった。
「生きてる」
「はい」
「戻りますか」
透は花屋の消えた水面を見た。
「戻って、何をする」
「分かりません」
「妹に謝る?」
「あなたが決めます」
「会わない方が幸せかもしれない」
「分かりません」
「俺には、もう見えないのか」
「回収後は」
透は右目へ触れたあと、街の門を見た。白い塔の前には列が残り、その先ではリナが石畳と土の道の境目に立っている。
「残る」
「残留を受理すれば、回収後も変更できません」
「分かってる」
「回収を始めれば、途中では止められません」
「分かってる」
「残留を受理します」
エイルの掌から門の印が消えた。
「この街は、俺がこうした」
透は塔の前に積み上がった相談札を見た。
「戻すのも、俺がやる」
「スキルを回収します」
銀色の線が光り、透が一歩下がった。
「待て」
「待ちません」
「せめて、リナの街道だけ」
「未来は見ました」
「王都までの途中だ。盗賊に遭う道があるかもしれない」
「分かりません」
「一度だけ」
透はリナへ手を伸ばした。
「どの道を通れば、十二年を生きられるか」
リナはその手を見た。
「教えなくていい」
「死ぬかもしれない」
「さっきから、それしか言わないね」
「死んでほしくない」
「私は、あなたに生かされたくない」
透の指が閉じた。
エイルは透の右目へ手を伸ばし、触れる直前で止める。
「スキル、《未来視》を回収します」
銀色の線が透の瞼から離れた。
最初の一筋から、農夫の二つの畑が空中へ広がる。葡萄を植えて失った畑と、黒麦を育てて満ちた蔵が重なり、輪郭から消えていった。
次の一筋には、少年がいた。鍛冶場で指を失い、自分の店を持つ姿。傷のない手で会計院の帳簿を重ね、一人で机へ伏せる姿。二つの未来がほどけ、光へ戻っていく。
銀線が一筋ずつ透の目を離れるたび、結婚する者と別れる者、生まれる子供と生まれない子供、店を失う者、旅から戻らない者が街の屋根を覆った。
「待て」
透がエイルの手首を掴む。
「この夫婦は、子供を産めば母親が死ぬ」
列の中で、腹へ手を当てた女が夫の腕を掴んだ。
「言わないと」
「未来は伝えられます」
「なら、俺が決める」
「本人へ返します」
「知らないまま選ばせるのか!」
「見たものは伝えます」
「なら、何が違う!」
エイルは答えなかった。
リナは木箱を背負い、ハンスは結び目を引いて緩まないことを確かめると、手を離した。透の指だけが、エイルの手首へ残っている。
「この子は鍛冶屋へ行けば、指を失う!」
透が列の少年を指した。少年は会計院の雇用状を胸へ押しつけている。鞄の隙間から、折り畳まれた紙の角が覗いていた。
「見えてるんだ」
門兵は槍を上げない。
旅券だけが足りない。
透の膝が石畳へ落ちた。
「見えているのに、止めないなんてできない」
銀色の線は、最後の一本だけを残して消えていた。その中には、リナの二つの未来が映っている。
パン屋の窓。
埃をかぶった木箱。
王都の壁に描かれた青い波。
血のついた布。
空の椅子。
透がリナを見た。
「十二年後」
リナは目を逸らさない。
最後の線が瞼から離れ、エイルの指へ触れて光を失った。
街の上から未来が消えた。
白い塔。列に並ぶ人々。門の外へ続く街道。
今あるものだけが残った。
スキルを回収した。
透は石畳へ手をつき、右目を押さえた。
「見えない。リナが、どこで死ぬか。明日、誰が間違えるか」
息を吸っても喉が鳴るだけで、口元を押さえた身体が折れた。唾液が石畳へ落ちたが、吐くものはなかった。
「分からない」
リナが目の前へ立ち、手を差し出した。
「旅券」
透は顔を上げる。
「幸せにはならない」
「知ってる」
「病気になる」
「知ってる」
「一人で死ぬ」
「それも聞いた」
透は赤い不許可証を両手で掴んだ。紙を一度、もう一度と裂き、切れ端を石畳へ落とす。腰の鍵で旅券箱を開け、白い紙を一枚取り出した。
署名欄へ筆を置いても、手は動かなかった。
「もう、見えない」
「うん」
「この紙を渡したあとが」
「うん」
透の指が震えたまま、紙へ名前を書く。
【リナ・ハーゼ】
許可印を押し、旅券を差し出した。
リナは受け取った。礼はなく、地面の絵を一枚ずつ拾って木箱へ戻していく。
ハンスは青い波の絵を持っていた。紙の端についた砂を払い、リナへ差し出す。
「十二年後まで、待ってていいか」
「待たないで」
「手紙は」
「書けたら書く」
「帰ってきてもいいから」
リナは絵を受け取った。
「それは、私が決める」
木箱を背負うと、門兵が槍を上げた。街の石畳と、外の土の道がつながる。
リナは境目を越え、一歩ずつ土の道を進んだ。靴の裏へ土がついても、振り返らない。
透は立ち上がれないまま、その背中が丘へ近づくのを見ていた。
「止めなくていいのですか」
「止めたい」
透の指が石畳へ食い込んだ。
「今でも」
リナの姿が丘の向こうへ消える。
透は目を閉じた。
未来は映らなかった。
* * *
白い塔の前には、列が残っていた。
日が傾き、相談者たちの影が白線の外へ伸びている。誰も帰らず、空になった机を見つめていた。
透が椅子へ戻ると、二つの指輪を持った女が前へ出た。
「どちらを選べば」
透は女の両手を見た。
「二人は、どんな人だ」
女の口が止まる。
「未来ではなく、今の話だ。誰から受け取った」
右手の指輪が持ち上がった。
「幼なじみです」
「好きか」
女の指が左手の指輪へ動く。
「分かりません」
「では、分かるまで決めなくていい」
「片方が街を出ます」
「出たら、終わるかもしれない」
女の目が開いた。
「止めてくださらないのですか」
「止められない」
透は二つの指輪を女の掌へ戻した。
「本人と話してくれ」
女が動かないため、後ろの相談者が詰まり、白線の列が歪んだ。誰かの肩が隣の者へ当たり、二人が顔を見合わせる。
謝る声が一つ上がった。
列の横から書記官が透へ近づき、机へ札を積んだ。
「どれから見ますか」
透は一枚を取った。
【就職】
札を裏返す。
「本人を呼んでくれ」
「未来は」
「見えない」
書記官の口が開いた。
「では、何を基準に選ぶのですか」
透は塔の外へ顔を向けた。門の向こうには、誰もいない土の街道が続いている。
「選ばない」
相談札を机へ置く。
「話を聞く」
エイルの手の甲が熱を持った。
【久世透】
【スキル回収】
【裁定完了】
【残留】
門の石板には、数字が残っていた。
【破産者 九年間なし】
風が吹き、列の後ろで少年が鞄を開けた。母親に折られた鍛冶屋の雇用状を取り出し、紙を広げる。折り目は消えず、中央の文字が二つに割れていた。
母親の手が伸びる前に、少年は白線を越えた。鍛冶屋の煙が上がる通りへ走りながら、自分の左手を開く。
五本の指を見た。
折り目の残る紙を握り、先へ走った。




