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スキルを失ったあとに。 ―付与天使エイルの裁定録―  作者: カミツキ


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第5話 終われない人

雨が兜を叩いていた。


 兵士の列が街道を進んでいる。


 百人。


 鎧には穴が開き、肩へ折れた矢を残した者もいた。

 片腕を布で吊った者、板で首を固定された者、足を引きずる者が泥を踏んでいく。


 歩幅は揃っていない。


 先頭の兵士が泥へ膝をつくと、両脇の兵士が腕を取り、身体を引き上げた。


 隊列は止まらなかった。


 列の後ろを、三台の荷車が進んでいた。

 荷台には血のついた鎧が積まれ、その隙間から腕が垂れている。


 誰も動かなかった。


 エイルの手の甲へ名前が浮かんだ。


御堂彰人(みどうあきと)


 文字から黒い糸が伸び、兵士と荷車の間を抜けて丘へ続いている。


 丘の上には、黒い城が建っていた。


 城壁には男の像が並んでいる。


 剣を掲げた男。

 竜の首を踏む男。

 敵国の旗を焼く男。


 顔はすべて同じだった。


 門の上に石板が埋め込まれている。


【不滅の守護者とともに、王国は永久に栄える】


 門兵がエイルの前へ槍を出した。


「巡礼者は西門へ」


「御堂彰人に会います」


 二本目の槍が重なった。


「守護者様は、民の前には出ない」


「どこにいますか」


「帰れ」


 黒い糸は門を抜け、城の地下へ沈んでいた。


 城壁の上で鐘が鳴った。


 一度。

 二度。

 三度。


 門が開く。


 城内から荷車が一台出てきた。


 荷台には鎧が積まれている。


 鎧の隙間から、腕が垂れていた。


「戦ですか」


 門兵は槍を下げなかった。


「西の蛮族が国境を越えた」


「兵士は戻りますか」


「守護者様がいる」


 荷車が街道へ出る。


 車輪の跡に、血が残った。


* * *


 夜。


 エイルは城の裏手へ回り、黒い糸を追った。


 地下へ続く階段の壁には、歴代の王を描いた肖像が並んでいる。


 初代国王の隣に、若い男が立っていた。


 黒い髪。

 細い身体。

 腰には長い剣。


 次の王の肖像にも、同じ男がいた。


 三代目。

 四代目。

 五代目。


 王の顔は変わった。


 男だけが変わらない。


 肖像の下には、金の板が取りつけられていた。


【北部平定】

【西方併合】

【海峡遠征】

【砂漠諸国制圧】


 階段の先に、窓のない鉄扉があった。


 エイルが手を置く。


 向こう側から声が届いた。


「遅かったな」


 扉が開いた。


 内側にいた兵士が剣を抜く。


 床を這う黒い糸が二人の足元を抜け、部屋の奥へ続いていた。


 男が壁へ繋がれていた。


 両腕。

 両脚。

 首。


 鎖は皮膚へ沈み、肉が鉄を覆っている。


 肖像と同じ顔だった。


 黒い髪。

 細い顎。

 目の下に刻まれた線。


「御堂彰人」


 男の口元が上がった。


「名前まで出るのか」


 兵士がエイルの肩を掴んだ。


「出ろ」


 彰人の指が動いた。


 鎖が鳴る。


「その人に触るな」


 兵士の手が離れた。


「守護者様」


「出てくれ」


「王命により、見張りを――」


 彰人は兵士を見た。


「三百年、逃げてない」


 二人の兵士が顔を合わせる。


 扉が閉じた。


 鍵が回った。


 彰人は天井を見上げた。


「三百年か。もう合ってるかも分からないけど」


「三百十二年です」


「数えてたのか」


「記録にありました」


「俺の記録は、よく残る」


 エイルは手首へ沈んだ鎖へ触れた。


 鉄の内側に骨がある。


 外せば、腕が裂ける。


「痛みは」


「あるよ」


「治りますか」


「治る」


「治ったあと、痛みは残りますか」


「毎回、最初から痛い」


 彰人が手首を捻った。


 肉が裂けた。


 血が鎖を伝う。


 傷は閉じていく。


 鉄が、また皮膚の中へ埋まった。


「便利だろ」


 黒い糸が彰人の身体を巡っていた。


「スキル、《不滅(アタナシア)》を回収します」


「頼む」


 彰人が目を閉じた。


 エイルの手が上がる。


 胸へ届く前で止まった。


「回収後、あなたの肉体は維持できません」


「知ってる」


「死にます」


「そのために待ってた」


 エイルは手を下ろした。


 彰人の目が開いた。


「今日は回収しません」


「何で」


「あなたの行為と、この国へ残したものを確認します」


「俺は死ぬ。それで終わりだ」


「終わり方を決めるのが、私です」


「だから頼んでる」


 エイルは扉へ向かった。


「明日、戻ります」


「明日も戦争は続く」


 足が止まった。


「明日までに人が死ぬ」


 彰人が笑った。


「今取れば、俺が死ぬ」


 鎖が皮膚の中で鳴った。


「どっちを選ぶ?」


 エイルは振り返らなかった。


「明日、戻ります」


* * *


 城の資料室には、彰人の名が続いていた。


【不滅の英雄、敵陣を突破】

【守護者、三日三晩戦い続ける】

【御堂彰人、城門を単独で破壊】

【守護者の活躍により、我が軍の損耗は軽微】


 別の棚には地図が積まれている。


 王国の領土は、年代を追うごとに広がっていた。


 赤い線が一つの村を囲む。


 次の地図では、村の名が消えている。


 また赤い線。


 また一つ、名が消える。


 資料室の隅に、布で巻かれた帳面があった。


 表紙には何も書かれていない。


 エイルは布を外し、頁を開いた。


 名前が並んでいた。


 兵士。

 農民。

 子供。


 日付と場所だけが添えられている。


 筆跡は一つだった。


「それは守護者様のものです」


 司書が入口に立っていた。


「なぜ、ここに」


「地下へ持ち込むことを禁じられました」


「誰が」


「先王です」


 エイルは頁をめくった。


 最後の名前は、七十四年前で止まっている。


「この後は」


「紙を与えられていません」


 帳面の間から、小さな鐘が落ちた。


 掌に収まるほどの大きさで、片側が焼けている。


「どこの物ですか」


 司書は鐘を見た。


「ナハト村」


 エイルは地図を開いた。


 その名はなかった。


「村は」


「守護者様が滅ぼしました」


* * *


 翌日。


 エイルは地下へ戻った。


 片手にパン。

 もう片方に鐘。


 彰人の目が、鐘で止まった。


「まだあったのか」


「ナハト村のものです」


「知ってる」


 エイルはパンを床へ置いた。


「食べてください」


「要らない」


「回収前に、食べてください」


 彰人はパンを見た。


 笑みが消える。


「昨日、取れなかったのか」


「確認が必要でした」


「俺が死ぬのが怖かった?」


 エイルの指が鐘を握った。


「死は、見てきました」


「俺が死ぬのが怖いんじゃない」


 彰人が鎖へ背を預けた。


「お前が殺すことになるのが怖い」


 パンの表面が、エイルの指へ刺さった。


「私はスキルを回収します」


「同じだ」


「あなたが望みました」


「そう言えば軽くなるか?」


 エイルはパンを床へ置いた。


「食べませんか」


「話を変えた」


「食べてください」


「お前が食えよ」


 エイルはパンをちぎった。


 口へ入れる。


 硬い。


 彰人が喉を鳴らした。


「まずそうだな」


「硬いです」


「三百年前も、ここのパンは硬かった」


 エイルは残りを差し出した。


 彰人が鎖を引く。


 指先はパンへ届かない。


 エイルは近づき、口元へ運んだ。


「子供じゃない」


「手が届きません」


「鎖を外せばいい」


「外します」


 彰人の眉が上がった。


「できるのか」


「鎖はスキルではありません」


 エイルは鉄へ両手をかけた。


 引く。


 鉄は動かない。


 掌へ鎖の錆が食い込んだ。


 彰人が笑った。


「天使も力仕事するんだな」


 エイルは手を離した。


 掌が赤くなっていた。


「兵士を呼びます」


「王が許さない」


「許可を得ます」


「無理だよ」


「得ます」


 彰人はパンを見た。


「明日へ延ばす理由が増えたな」


* * *


 王は広い椅子に座っていた。


 二十を越えたばかりの顔。

 胸には十二個の勲章が並び、背後には彰人の像が置かれている。


「守護者を解放することはできない」


「スキルを回収します」


「誰の許しを得ている」


「与えた者の権限です」


「守護者は王国のものだ」


 エイルは王を見た。


「人です」


「三百年生きる人間はいない」


「生きています」


「兵器としてだ」


 王の指が肘掛けを叩いた。


「西の蛮族が国境へ迫っている。守護者を失えば、千人が死ぬ」


「守護者を使えば、相手の千人が死にます」


「敵だ」


「人です」


 王の指が止まった。


「天使は戦を知らない」


「知りません」


「ならば口を出すな」


「スキルは回収します」


 兵士たちがエイルを囲んだ。


 槍先が胸へ向く。


 王は椅子から立たなかった。


「地下へ戻せ」


* * *


 鉄扉が開いた。


 エイルは床へ投げ出された。


 彰人が鎖を鳴らした。


「王様は何て?」


「あなたは王国のものだと」


「昔から変わらない」


 兵士の一人が鍵を取り出した。


「明朝、守護者様を国境へ移送します」


 首の鎖が外される。


 皮膚が裂けた。


 血が胸を流れる。


 傷が閉じる。


 続いて両腕。


 両脚。


 鉄が肉から抜けるたび、彰人の身体が跳ねた。


 声は出なかった。


 最後の鎖が床へ落ちる。


 彰人は立たなかった。


「守護者様」


「足が忘れてる」


 兵士が腕を掴み、身体を起こした。


 一歩。


 足首が折れる。


 骨が戻る。


 もう一歩。


 兵士たちが彰人を扉へ運んでいく。


 彰人の目がエイルへ向いた。


「ナハト村へ行きたい」


 兵士の足が止まる。


「王命は国境へ向かうことです」


「先に村へ行く」


「存在しない村です」


「場所は覚えてる」


 兵士が彰人の腕を引いた。


「進んでください」


 彰人は動かなかった。


「三百年、言うことを聞いた」


 廊下の壁へ手を置く。


「一日くらい、俺にくれ」


「許可できません」


 剣が抜かれた。


 彰人は刃を見た。


「斬ればいい」


「守護者様」


「何度でも」


 兵士の手が震えた。


 彰人はエイルへ顔を向けた。


「道は分かるか」


「はい」


 エイルは焼けた鐘を差し出した。


 彰人が受け取る。


 焼けた部分を親指でなぞった。


「行こう」


* * *


 城門には百人の兵士が並んでいた。


 槍が道を塞いでいる。


 彰人は裸足だった。


 地下で着ていた布を身体へ巻いただけで、片手には焼けた鐘を持っている。


 エイルは隣へ立った。


「退いてください」


 隊長が剣を抜いた。


「守護者を渡すことはできない」


 彰人が前へ出る。


 槍が胸へ入った。


 穂先が背中から出る。


 彰人は止まらなかった。


 槍の柄を折る。


 兵士へは手を出さない。


 次の槍が腹へ入った。


 矢が肩へ刺さる。


 一歩。


 また一歩。


 兵士たちが下がった。


「殺したくない」


 彰人の口から血が落ちる。


「俺を通せ」


 隊長の剣が首へ入った。


 刃が骨へ当たる。


 彰人は剣を掴んだ。


 指が切れた。


 傷が閉じながら、刃を押し返していく。


「最後くらい、自分で歩かせてくれ」


 隊長の手から剣が落ちた。


 門が開く。


 誰も追わなかった。


* * *


 ナハト村までは、二日かかった。


 彰人は眠らなかった。


 食べなかった。


 足の裏が裂け、閉じ、また裂けた。


 エイルは街道の途中で足を止めた。


「休みます」


「俺は疲れない」


「私は疲れます」


 彰人が振り返った。


「天使なのに?」


「今は、この身体です」


 エイルが道端へ座ると、彰人も隣へ腰を下ろした。


 鞄からパンを出す。


「またそれか」


「ノラからもらいました」


「誰」


「宿屋の女性です」


「知り合い?」


 エイルはパンを割った。


「はい」


 口にしてから、手が止まった。


 彰人が横目で見る。


「天使にも知り合いができるんだな」


「できました」


 半分を渡す。


 彰人はパンを受け取り、一口かじった。


 顎が止まる。


「硬い」


「知っています」


 二人でパンを食べた。


 彰人の手には焼けた鐘がある。


「村で何をしますか」


「返す」


「誰に」


「残ってる奴に」


「許しを求めますか」


「求めない」


「では、なぜ」


 彰人は鐘の焼けた穴へ指を入れた。


「俺が持ってる理由がない」


* * *


 村は谷の奥にあった。


 ナハトという名は使われていない。


 入口の石には、別の名前が刻まれていた。


 畑で働いていた女が彰人を見た。


 鍬が落ちる。


「不滅の」


 声が村へ走った。


 家々から人が出てくる。


 老人。

 子供。

 杖を持つ男。


 誰も彰人へ近づかなかった。


 彰人の手には、焼けた鐘がある。


 杖を持つ老人の目が開いた。


「それを、どこで」


「持っていった」


 彰人は鐘を地面へ置いた。


「七十四年前に」


 老人の杖が動いた。


 彰人の肩へ当たる。


 骨が鳴り、身体が傾いた。


 村人たちが息を呑む。


 彰人は立ち直った。


「お前が」


 老人は杖を振り上げた。


「村を焼いた」


「はい」


「父を殺した」


「はい」


「俺が生まれる三月前だった」


 杖が胸へ入る。


「顔も知らん」


「はい」


「母は、一人で俺を産んだ」


 彰人は老人を見た。


「はい」


「その母も、もうおらん」


 杖を握る指が震えている。


「お前だけが、あの日と同じ顔で立っとる」


 彰人は目を逸らさなかった。


「何を謝りに来た」


「謝って、終わらせるためではありません」


「なら、何をしに来た」


 彰人は鐘へ目を落とした。


「返しに」


 老人が鐘を蹴った。


 焼けた金属が土を転がる。


「こんな物で、何が戻る」


「戻りません」


「死んで詫びるつもりか」


「はい」


「逃げるのか」


 彰人は老人を見た。


「そう見えるなら、それでいい」


 石が飛んだ。


 額へ当たる。


 皮膚が裂け、血が目へ流れた。


 傷は閉じていく。


 別の石が飛ぶ。


 肩。

 腹。

 口。


 彰人は避けなかった。


 子供が石を拾った。


 母親が腕を掴む。


「投げなくていい」


「でも」


「この人は、もう帰る場所がない」


 彰人の顔が母親へ向いた。


 女は目を逸らさなかった。


「死んで楽になるなら、勝手にすればいい」


 地面の鐘を拾い、袖で土を拭った。


「これは村へ戻す」


 家の中へ持っていく。


 扉が閉じた。


 村人たちも家へ戻っていった。


 誰も彰人を許さなかった。


 誰も止めなかった。


* * *


 村の外には草原が広がっていた。


 夕日が山の間へ沈んでいる。


 彰人は草へ横になった。


 エイルは隣に立った。


「ここでいい」


「送還を選べます」


「選ばない」


「元の世界で再転生できます」


「また生きろって?」


「はい」


「嫌だ」


「今度は別の人生です」


「終わりがある?」


「あります」


「じゃあ、その終わりまで生きろってことだろ」


「はい」


 彰人は空を見た。


「もういい」


 エイルの手が上がる。


 止まった。


「御堂彰人」


「何」


「本当に、回収を望みますか」


「望む」


「回収後、死亡します」


「知ってる」


「再転生はできません」


「しない」


「裁定を変更できません」


「変えない」


 エイルの手は動かなかった。


 彰人が顔だけを向ける。


「何回聞く」


「必要な確認です」


「昨日も聞いた」


「状況が変わりました」


「何も変わってない」


「村へ来ました」


「許されなかった」


「はい」


「だから死ぬんじゃない」


「では、なぜ」


 彰人は空へ顔を戻した。


「終わりたい」


 風が草を倒した。


「お前は、死んだことあるか」


「ありません」


「自分が終わるのを、待ったことは」


「ありません」


「じゃあ、分からない」


「分かりません」


「分からなくていい」


 彰人は目を閉じた。


「取ってくれ」


 エイルは彰人の胸へ手を置かなかった。


「明日の朝にします」


 目が開いた。


「また延ばすのか」


「日が沈みます」


「関係ない」


「最後に見る空を、暗闇にしますか」


 彰人は夕日を見た。


「朝も悪くないか」


「はい」


「じゃあ、朝」


* * *


 夜。


 二人は火を挟んで座っていた。


 彰人は眠らない。


 エイルも目を閉じなかった。


「エイル」


「はい」


「俺が死んだら、忘れるか」


 薪が崩れ、火の粉が上がった。


「記録に残ります」


「記録の話じゃない」


 エイルは手の甲を見た。


【御堂彰人】


 黒い文字が残っている。


「前は、名前を覚えていませんでした」


「俺も?」


「あなたは記録で知りました」


「そうか」


「神崎弘人も、前田祐樹も、桐生真帆も、白石沙耶も」


 一つずつ、名前を口にする。


「今は覚えています」


「俺も残る?」


 エイルは彰人を見た。


「忘れません」


 彰人の口元が動いた。


「それならいい」


「何がですか」


「全部消えるわけじゃない」


 彰人が火へ手を伸ばした。


 指先が炎へ入る。


 皮膚が焼ける。


 黒くなった肉が、元の色へ戻っていく。


「これも、明日で終わる」


 手を引いた。


「怖くないのですか」


「怖いよ」


 エイルの目が動く。


「怖いから、終わりたい」


「分かりません」


「分からなくていいって」


 彰人は草へ横になった。


「朝になったら起こしてくれ」


「眠れますか」


「眠れない」


「では、なぜ」


「言ってみたかった」


 目を閉じた。


「三百年、誰にも起こされてない」


* * *


 空が白くなった。


 山から鳥の声が届く。


 エイルは彰人の隣へ座った。


「朝です」


 彰人の目が開いた。


「本当に起こした」


「頼まれました」


「律儀だな」


 身体を起こす。


 東の山から光が差していた。


 雲はない。


「雨じゃないな」


「はい」


「沙耶って人は、雨の中へ帰ったんだろ」


 エイルの顔が動く。


「なぜ」


「夜中、名前と、雨の中へ送還したことを口にしてた」


「声に出していましたか」


「出てた」


 エイルは手の甲を袖で隠した。


 彰人が笑った。


「人間っぽくなったな」


「私は天使です」


「そういうところは、天使だ」


 彰人は草の上へ仰向けになった。


「やってくれ」


 エイルは右手を上げた。


 彰人の胸へ近づける。


 指が止まる。


「エイル」


「はい」


「俺が望んだ」


「はい」


「でも、お前が決めろ」


 朝日が彰人の顔へ当たっていた。


「俺のせいにするな」


 エイルの指が胸へ触れた。


 鼓動がある。


 一度。


 もう一度。


「残留を選びますか」


「選ぶ」


「スキル回収後、この世界で死亡します」


「はい」


「送還を放棄しますか」


「はい」


「再転生を放棄しますか」


「はい」


 エイルは彰人の目を見た。


「残留を受理します」


 彰人の身体を巡っていた黒い糸が浮かび上がった。


 胸の穴。

 首の傷。

 焼けた指。

 鎖が埋まっていた手首。


 三百年の間に閉じた傷から、黒い線が現れる。


「スキル、《不滅(アタナシア)》を回収します」


 エイルが彰人の手を取った。


 黒い線が傷跡から離れ、二人の指の間を流れていく。


 一筋ずつ。


 槍に貫かれた胸から。


 剣を受けた首から。


 何度も裂けた足の裏から。


 焼けた指先から。


 黒い光が剥がれるたび、閉じていた傷が彰人の身体へ戻った。


 血は流れなかった。


 傷だけが、皮膚へ刻まれていく。


 彰人の呼吸が速くなる。


 草を掴む指が震えた。


 恐怖が目に出ていた。


 それでも手を引かなかった。


 最後の黒い光が、心臓の上から離れた。


 エイルの掌へ消える。


 スキルを回収した。


 彰人の髪に白が混じった。


 目尻へ線が入り、頬から肉が落ちていく。

 三百年を止めていた時間が身体を通り、指先から力を奪った。


 エイルは胸へ手を置いたまま、鼓動を数えた。


 一度。


 もう一度。


「空は」


 彰人の声が擦れた。


「晴れています」


「そうか」


 目が閉じた。


 胸は動かなかった。


 エイルは手を離さなかった。


 朝日が草原を照らしている。


 鳥が一羽、頭上を越えた。


「御堂彰人」


 返事はなかった。


* * *


 エイルの手の甲が熱を持った。


【御堂彰人】


 名前の下へ文字が刻まれる。


【スキル回収】

【裁定完了】

【残留】


 エイルは表示を見た。


 足元には彰人がいる。


 呼吸はない。


 鼓動もない。


 指で【残留】を擦った。


 文字は消えない。


 皮膚が赤くなる。


 爪を立てる。


 血が滲んだ。


 文字は残った。


「これは、残留ですか」


 風が草を揺らした。


 返事はない。


 エイルは彰人の両手を胸の上へ置いた。


 目を閉じる。


 立ち上がる。


 三歩進んだ。


 足が止まった。


 振り返る。


 草原に、一人の男が横たわっている。


 エイルは戻った。


 彰人の隣へ座る。


 村から鐘の音が届いた。


 一度。


 間を置いて、もう一度。


 エイルは名前を口にした。


「御堂彰人」


 手の甲の文字は、消えなかった。

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