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スキルを失ったあとに。 ―付与天使エイルの裁定録―  作者: カミツキ


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第4話 雨の中へ

雨が兜を叩いていた。


 街道を、兵士の列が進んでいる。


 百人。


 鎧には穴が開き、胸から折れた矢が伸びていた。

 片腕を失った者も、布で首を固定された者もいる。


 足音だけは揃っていた。


 誰も血を流していない。


 誰も息をしていない。


 先頭の兵士が泥へ足を取られ、身体を傾けた。

 すぐ後ろを歩いていた兵士が背へ手を添え、元の位置へ押し戻す。


 隊列は止まらなかった。


 エイルの手の甲から紫の糸が伸びていた。


 一本ではない。


 兵士たちの胸を通る糸が街道の上で束ねられ、丘の上に建つ黒い砦へ続いている。


白石沙耶(しらいしさや)


 砦の門前に、人が集まっていた。


 雨に濡れた棺がいくつも並び、その一つへ女が縋りついている。


 蓋は開いていた。


 中は空だった。


「返してください」


 女の声が雨に混じった。


「夫は、戦争が終わったら家へ帰ると約束しました」


 門を守る二人の兵士が、槍を交差させた。


 兜の奥に眼球はなかった。


「戦争は終わりました」


 女の指が棺の縁へ食い込む。


「もう、終わったんです」


 交差した槍は動かなかった。


 門の上で鐘が鳴った。


 街道を進んでいた兵士たちが同時に向きを変え、砦へ入っていく。


 女が棺から離れた。


「アルノ!」


 隊列の途中で、一人の兵士が止まった。


 胸には折れた槍が残り、顔の左半分を鉄の仮面が覆っている。


 女が泥を蹴って駆け寄った。


「アルノ」


 死者の指が動いた。


 腕が上がる。


 女の頬へ届く直前、胸を通る紫の糸が張った。


 腕が落ちた。


「アルノ?」


 死者は女へ背を向け、隊列へ戻った。


 門が閉じる。


 雨の中に、空の棺が残った。


* * *


 砦の周囲に墓はなかった。


 代わりに、同じ大きさの石碑が並んでいる。


 名前。

 所属。

 戦死した日。


 土を掘り返した跡はない。


 埋められた者はいなかった。


 エイルは石碑の間を抜け、砦の裏へ回った。


 小窓の内側に兵士が立っている。廊下にも、階段にも、武器庫にも、動かない身体が配置されていた。


 食堂では、長机に皿が並び、死者たちが椅子へ座っていた。


 器の中でスープが冷えている。


 上座に一人の女がいた。


 灰色がかった髪が肩へ落ち、黒い服の袖が手首まで隠している。


 女はパンをちぎり、向かいの死者の皿へ置いた。


「今日は南の村を守った」


 死者は動かない。


「盗賊は、もう来ない」


 女が自分のスープへ匙を入れた。


「レオンは、腕を落としたね」


 向かいの兵士には右腕がなかった。


「直せなくて、ごめん」


 兵士の左手が持ち上がった。


 指が女の髪へ触れ、頬を撫でる。


 女は目を閉じた。


「ありがとう」


「白石沙耶」


 匙が器へ落ちた。


 死者たちの首がエイルへ向いた。


 兜の奥、崩れた眼窩、乾いた瞳。


 百を超える顔が並んだ。


 沙耶が立ち上がる。


「誰」


「エイルです」


 沙耶の胸を通る紫の糸が脈打った。


「天使」


「あなたへスキルを与えました」


 死者たちが椅子を離れた。


 剣が抜かれる。


 金属音が食堂を埋めた。


「回収に来ました」


 沙耶の指が動く。


 剣先がエイルへ揃った。


「帰って」


「門の外に遺族がいます」


「ここにいれば、みんなを守れる」


「戦争は終わりました」


「盗賊がいる。魔物もいる」


「生きた兵士がいます」


 沙耶の目が扉へ動いた。


「生きている人は、いなくなる」


 剣先が近づいた。


 エイルは動かなかった。


「死者の心は残っていますか」


 沙耶の眉が寄る。


「ある」


 レオンの左手を取り、自分の頬へ押し当てた。


「私が悲しいと、触れてくれる」


「命令です」


「違う」


「門の外で、妻へ手を伸ばした者がいました」


 沙耶の指が止まった。


「見間違い」


「あなたが止めました」


「隊列が崩れるから」


「心が残っているなら、帰りたがっています」


 死者たちの動きが止まった。


 雨が窓を叩く。


 沙耶はレオンの手を頬から外した。


「私を置いて?」


「はい」


 紫の糸が膨らんだ。


 死者たちが剣を振り上げる。


「違う!」


 刃がエイルへ落ちた。


 紫の光が床を走り、剣を支える腕へ広がる。


 切っ先は、エイルの額へ触れたところで止まった。


「彼らは、自分で選んで残っているのではありません」


 沙耶の肩が上下していた。


「私が起こした」


「はい」


「私が守った」


「はい」


「土の中に入るより、ここにいる方がいい」


「誰にとってですか」


 沙耶の口が閉じた。


* * *


 砦の地下には、鎧を持たない死者が並んでいた。


 手足を失った者。

 焼けた皮膚が残る者。

 子供ほどの身体。


 壁には番号だけが刻まれている。


 名前はなかった。


「この人たちは」


「戦場にいた」


「兵士ではありません」


「巻き込まれた人」


「なぜ起こしましたか」


 沙耶は、一番小さな死者の前へ立った。


 少女の髪には、赤い紐が結ばれている。


「一人で埋められてた」


「家族を捜しましたか」


「見つからなかった」


「死者として弔いましたか」


 沙耶の指が赤い紐へ触れた。


「起こしたら、歩いた」


 少女の目が開く。


 濁った瞳が沙耶へ向いた。


「私の後ろをついてきた」


「命令に従いました」


「置いていかなかった」


 沙耶が少女を抱いた。


 少女の腕が背へ回る。


 抱き返す形を作った。


「この子は、私を嫌わない」


「嫌うことを許していません」


 少女の指が止まった。


 沙耶は腕を緩めた。


「あなたには分からない」


 少女は壁際へ戻った。


 白い部屋が、エイルの前にも開いた。


 狭い部屋。


 閉じたカーテン。


 床へ置かれた弁当の容器。


 布団の上に、少女が一人で座っている。


 携帯電話の画面は暗い。


「母親は」


「男のところ」


「父親は」


「知らない」


「友人は」


 沙耶の爪が掌へ入った。


「いなかった」


 白い部屋が消える。


 地下へ雨音が戻った。


「だから、望みましたか」


「私を置いていかない人が欲しい」


「スキルを与えました」


「もらった」


 沙耶は地下に並ぶ死者たちを見た。


「初めて、帰ったら誰かがいた」


 赤い紐の少女が顔を上げる。


 沙耶の口元が持ち上がった。


「おかえりって、言わせた」


「あなたの言葉です」


「それでも聞こえた」


* * *


 砦の中庭へ、生きた兵士たちが集められた。


 死者の兵士が壁際を囲んでいる。


 沙耶の隣へ立つ者はいなかった。


 エイルは兵士たちへ顔を向けた。


「死者の解放を望みますか」


 隊長のカイルが一歩前へ出た。


「望みます」


 沙耶の顔が動く。


「死者がいなければ、誰が村を守るの」


「俺たちが守ります」


「あなたも砦を出ようとした」


「妻が子供を産みます」


「戻るって言った人は、戻らない」


「俺は帰ります」


「嘘」


 中庭を囲む死者たちが剣を抜いた。


 カイルは武器へ手を伸ばさなかった。


「沙耶様。俺たちは、あなたに救われました」


 沙耶の指が下がる。


「死んだ者が前線に立ったから、生きて戻れた者もいる」


 カイルは胸の紋章を外し、濡れた石の上へ置いた。


「ですが、死んだあとまで家族へ返してもらえないのは怖い」


 沙耶の手が上がった。


 死者の剣が、カイルへ向く。


 エイルは二人の間へ立った。


「殺せば、残ります」


 沙耶の目が剣へ落ちた。


「死者にすれば、あなたを置いていきません」


 指が震えた。


「やらない」


「なぜですか」


 沙耶はカイルを見た。


「それをしたら、この人じゃなくなる」


 死者たちの剣が下がった。


 カイルが紋章を拾わず、門へ向かう。


 生きた兵士たちも、そのあとへ続いた。


「戻ってきて」


 足音は止まらない。


「明日の朝まででいい」


 最後の兵士が門を出た。


「ひとりにしないで」


 門が閉じた。


 中庭には、死者だけが残った。


* * *


 雨が止んだ。


 門の外には棺が並べられていた。家族たちは濡れた衣服のまま、開かれた門を見ている。


 エイルは沙耶へ手を差し出した。


「スキルを回収します」


 沙耶はレオンの隣に立っていた。


 死者の左手が肩へ置かれている。


「回収したら」


「死者へ戻ります」


「動かなくなる?」


「はい」


「話しかけても」


「動きません」


「触ってくれない?」


「はい」


 沙耶はレオンの手へ、自分の手を重ねた。


「冷たい」


 指と指の間には隙間があった。


「ずっと、冷たかった」


 エイルは手を下げなかった。


「この世界へ残ることもできます」


 沙耶は門を見た。


 生きた兵士は戻っていない。


「誰もいない」


「人はいます」


「私を怖がる」


「はい」


「許してくれる?」


「分かりません」


 沙耶が笑った。


「何も分からないんだね」


「分からないことが増えました」


「天使なのに」


「はい」


 沙耶はレオンの胸へ額を寄せた。


 鼓動はない。


「元の世界へ帰れる?」


「転移した場所へ戻します」


「時間は」


「この世界と同じだけ進んでいます」


「誰か、いるかな」


 エイルの掌に門の印が浮かんだ。


 空中に水面が開く。


 雨の降る道路。

 閉じた商店。

 濡れた信号。

 走り去る車の光。


 歩道に、人影はない。


 沙耶は水面を見た。


「いないね」


 エイルが手を閉じる。


 雨の道路が消えた。


「送還後、スキルは戻りません」


「分かってる」


「この世界へ戻ることもできません」


 沙耶はレオンを見た。


「分かってる」


「生きている人は、離れることがあります」


 沙耶はレオンの手を肩から外した。


 冷えた指が袖を滑り、身体の横へ落ちた。


「ここにいても、いない」


「それでも送還を望みますか」


「帰る」


 沙耶はレオンを見上げた。


「今度は、生きている人と話す」


 一度、息を吸った。


「お別れする」


「回収を始めれば、途中では止められません」


 沙耶は中庭を見た。


 死者たちは、雨の止んだ空の下に立っている。


「どれくらいかかる?」


「長くはありません」


 沙耶はレオンの手を握った。


「分かってる」


 エイルはその手へ触れた。


「スキル、《死者使役(ネクロマンシー)》を回収します」


 沙耶の指の間から、紫の糸が浮かび上がった。


 一本目がレオンの胸へ続いている。


 次の糸は、赤い紐の少女へ。


 その先にも、兵士、村人、名を持たない死者たちへ伸びていた。


 エイルが沙耶の手を包む。


 紫の糸が、死者の胸から離れた。


 一本ずつ。


 糸が抜けるたび、支えを失った身体が中庭へ崩れていく。


 レオンの手が沙耶の指から滑った。


 膝が折れる。


 沙耶が身体を抱き留めた。


「待って」


 鎧が石へ当たった。


 剣が跳ねる。


 乾いた骨が、服の中で崩れた。


「一人ずつにして」


 沙耶はレオンを抱いたまま、周囲を見た。


「ちゃんと、名前を呼ぶから」


 紫の糸は止まらない。


 赤い紐の少女が床へ伏せた。


 結び目がほどけ、濡れた石へ落ちる。


 沙耶が片腕を伸ばした。


「待って!」


 声が中庭を抜けた。


 返事はない。


 最後の糸が、沙耶の指先から剥がれた。


 エイルの掌へ流れ込み、紫の光が消える。


 沙耶の手には、何も残らなかった。


 スキルを回収した。


 中庭に、死体が残った。


 沙耶はレオンの身体へ腕を回していた。


「ありがとう」


 冷えた額へ、自分の額をつける。


「一緒にいてくれて」


 砦の門が開いた。


 棺を抱えた人々が中庭へ入ってくる。


 アルノの妻が、鉄の仮面を見つけた。


 口元を押さえる。


 膝が石へ落ちた。


 沙耶はレオンから腕を外した。


 死者を捜す人々の間を歩いていく。


 誰も道を塞がなかった。


 誰も沙耶へ手を伸ばさなかった。


* * *


 門の印が開いた。


 向こう側では、雨が降っていた。


 沙耶は水面へ片足を入れた。


「白石沙耶」


 足が止まる。


「何」


「送還します」


「うん」


 もう一歩。


 身体が光へ溶けていく。


「今度は」


 横顔だけが残った。


「追いかけない」


 門が閉じた。


 エイルの手の甲が熱を持つ。


【白石沙耶】

【スキル回収】

【裁定完了】

【送還】


 エイルは閉じた門の印を見た。


 向こう側の雨は、もう見えなかった。


* * *


 雨が、アスファルトを叩いていた。


 沙耶は歩道に立っていた。


 転移した日の服。

 濡れた靴。

 充電の切れた携帯電話。


 道路の向かいに、住んでいた建物があった。


 外壁の色が変わっている。


 一階には、知らない店の看板が出ていた。


 沙耶は横断歩道を渡り、階段を上がった。


 部屋の番号だけは残っている。


 呼び鈴を押す。


 中から、子供の声がした。


「はーい」


 女が扉を開けた。


「どちら様ですか」


 沙耶は玄関の奥を見た。


 壁紙が変わっている。


 小さな靴が並んでいる。


 知らない料理の匂いがした。


「間違えました」


 扉が閉じた。


 沙耶は階段を下りた。


 携帯電話の電源を押す。


 画面は黒いままだった。


 駅へ向かう。


 改札の位置が変わり、切符を買う機械も見たことのない形をしていた。壁に並ぶ広告の顔も、一人も知らない。


 雨が強くなる。


 沙耶は閉まった商店の軒下へ入った。


 腕を抱く。


 人が前を通り過ぎる。


 傘の下には顔がある。


 誰も沙耶を見なかった。


 一人の女が足を止めた。


 濃い色のスーツ。

 肩に鞄。

 片手にスーパーの袋。


「傘、ないの?」


 沙耶は女を見た。


 女が傘を傾けると、肩から水が落ちた。


「家出?」


 沙耶の口は動かなかった。


「警察、行く?」


 首を振る。


「家は?」


 沙耶は、さっきまで住んでいた建物を見た。知らない部屋の明かりがついている。


「ない」


 女は頭を掻いた。


「お腹空いてる?」


 沙耶の腹が鳴った。


 女の口元が持ち上がる。


「うち来る?」


 沙耶は女を見た。


「娘の部屋が空いてるの。私は居間で寝るから」


 女は傘を沙耶へ渡し、自分の鞄を頭へ載せた。


「嫌なら、ご飯だけ食べて交番へ行けばいいわ」


 女が雨の中へ出る。


 沙耶は渡された傘を握った。


 離れていく背中を見る。


「待って」


 女が振り返る。


 沙耶は傘の下へ入った。


* * *


 玄関に並ぶ靴は、一人分だけだった。


 食卓には椅子が二脚。


 壁に、少女の写真が飾られている。


「娘?」


「別れた旦那のところ」


 女は沙耶へタオルを投げた。


「もう大学生になるわ。私には連絡してこない」


 沙耶はタオルを頭へ載せた。


「さみしくない?」


「さみしいよ」


 女が鍋から料理を皿へ盛る。


「さみしいからって、帰ってこいとは言えないでしょ」


 箸が一膳、沙耶へ渡された。


「自分で決めて出ていったんだから」


 沙耶は料理を口へ入れた。


 温かい。


 喉が動いた。


「名前は」


「白石沙耶」


「私は田辺美代」


 田辺が空いている椅子を足で引いた。


「座って」


 二人で食事をした。


 田辺は仕事の話をした。


 納期前の仕様変更。

 公開直前に見つかった不具合。

 昼に食べた定食。


 沙耶は聞いていた。


 誰かの一日を聞くのは、初めてだった。


「沙耶は」


 箸が止まった。


「何してたの」


 死者の列が浮かんだ。


 冷たい手。


 空の目。


 紫の糸。


「遠いところにいた」


「帰ってきたの?」


「うん」


「おかえり」


 沙耶は田辺を見た。


 田辺は食べ終わった皿を流しへ運んでいる。


 沙耶の唇が動いた。


「ただいま」


* * *


 夜。


 沙耶は娘の部屋へ通された。


 机の上には古い教科書が残り、棚にはぬいぐるみが並んでいる。壁には写真を外した四角い跡があった。


 扉の鍵へ手をかける。


 回らなかった。


 田辺が廊下から顔を出した。


「鍵、壊れてるの。私は居間で寝るから、気になるなら扉の前に椅子でも置いといて」


 布団が床へ置かれる。


「明日、役所と警察に行こう。身分証とか、どうにかしないとね」


「田辺さん」


「何」


「朝もいる?」


「いるよ」


「昼は」


「仕事」


 沙耶の指が布団を掴んだ。


「夜は」


「帰ってくる」


「本当に?」


「ここ、私の家だから」


 田辺は扉を閉めなかった。


 居間の明かりが、廊下から入っている。


 沙耶は布団へ入った。


 人の気配があった。


 咳。

 水を飲む音。

 テレビの声。


 目を閉じた。


* * *


 朝。


 台所から音がした。


 沙耶は布団を抜け、廊下へ出た。


 田辺はスーツを着ていた。


 食卓には焼けた食パンと、湯気の立つカップが二つ置かれている。


「起きた?」


 田辺がカップを指した。


「砂糖、分からなかったから入れてない」


 沙耶は椅子へ座らなかった。


 田辺の肩には鞄が掛かっている。


「どこへ行くの」


「仕事」


 田辺は靴下を直し、玄関へ向かった。


「パンはそこ。冷蔵庫も好きに開けていい。昼までは戻れないから――」


「行かないで」


 田辺の足が止まった。


「休めないの」


「ここにいて」


「夜には帰るから」


「本当に?」


「帰るよ」


 田辺は靴へ足を入れ、踵を床へ二度当てた。


 砦の門が浮かんだ。


 カイルの背中。


 門を出ていく兵士たち。


 止まらなかった足音。


「帰るって言った人は、帰らない」


 田辺が顔を上げた。


「誰の話?」


 扉へ手が伸びる。


 沙耶は袖を掴んだ。


「離して」


「嫌」


「遅刻する」


「嫌」


 田辺が沙耶の指を一本ずつ外した。


 力は入っていない。


 それでも手は離れた。


「夜に話そう」


 扉が開いた。


 外から雨の音が入る。


 沙耶は食卓の脇へ手を伸ばした。


 指が包丁の柄へ触れる。


 刃を引き抜いた。


 田辺の背中がある。


 スーツの襟が片方だけ折れていた。鞄の口から、畳んだスーパーの袋が覗いている。


 沙耶は一歩近づいた。


『殺せば、残ります』


 エイルの声が戻った。


 もう一歩。


 田辺の背中へ、手を伸ばせる距離だった。


『死者にすれば、あなたを置いていきません』


 沙耶は包丁を握った。


 死者は帰らない。


 出ていかない。


 嫌わない。


 背を向けない。


 田辺が振り返った。


「沙耶?」


 眠そうな目だった。


 髪の一部が跳ねている。


 スーツの胸が上下していた。


 沙耶は、その動きを見た。


 包丁が床へ落ちた。


 刃が跳ね、食卓の脚へ当たる。


 田辺の背が扉へ当たった。


 片手が取っ手を握る。

 もう片方の手が、胸の前へ上がっていた。


「何してるの」


 声が掠れていた。


 沙耶は田辺の手を見た。


 自分から身体を守るために上げられた手だった。


「殺したら」


 声が喉へ引っかかる。


「どこにも行かないから」


 田辺の指が取っ手へ食い込んだ。


「私を殺そうとしたの?」


 沙耶は答えなかった。


 昨日、傘を差し出した手。

 箸を渡した手。

 朝のカップを置いた手。


 今は、自分を近づけないために上がっている。


 沙耶は一歩下がった。


「ごめんなさい」


 田辺の横を通らず、壁際へ身体を寄せて玄関へ向かった。


「待って」


 靴を履かず、外へ出た。


 階段へ足を下ろす。


「どこへ行くの」


 沙耶は降り続けた。


「警察でも病院でもいい。一人で行かないで」


 足が止まりかけた。


 一人で行くな。


 振り返れば、田辺がいる。


 戻れば、また出ていく背中を見る。


 次は止められない。


 沙耶は階段を下りた。


 建物の外へ出る。


 雨が降っていた。


 裸足へ水が当たり、足の裏へ砂がついた。


「沙耶!」


 田辺の声が上から落ちてくる。


 沙耶は歩いた。


 背後で、階段を駆け下りる音がした。


 紺色の傘が、目の前へ転がった。


 田辺が階段の下に立っていた。


 包丁は持っていない。


「持っていって」


 沙耶は傘を見た。


 昨日、差し出された傘だった。


「返さなくていい」


 田辺の声が雨へ混じった。


「でも、もううちには戻らないで」


 沙耶の指が動いた。


 傘には触れなかった。


「うん」


 田辺は近づかなかった。


 沙耶も戻らなかった。


 雨の中を歩く。


 交差点を曲がると、田辺の姿が建物に隠れた。


 誰も隣にいない。


 誰の足音も、ついてこない。


 沙耶は両腕で身体を抱いた。


「ひとりは、さみしい」

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