第3話 治せない手
エイルの手の甲が熱を持った。
【桐生真帆】
文字から伸びた白い糸が、街道の先へ続いている。
丘を越えると、白い尖塔が見えた。その下には人の列があり、大門から広場を一周して街の外まで続いている。腕へ包帯を巻いた兵士、胸を押さえて咳き込む老人、母親に抱かれた子供、荷台へ寝かされた男が、同じ門へ顔を向けていた。
列は動かず、誰も離れない。
門の上には、金色の文字が刻まれていた。
【聖真治癒院】
荷台の男の身体が跳ね、傍らにいた女が列の前へ走った。門兵の腕へ縋りつく。
「夫が!」
門兵は女の前へ腕を広げた。
「順番を守れ」
「朝から血を吐いているんです!」
「前にも来た者だろう」
「治ったんです。聖女様に治していただきました」
「なら、待てる」
荷台の縁から血が落ち、石畳の溝を赤くした。
エイルは男のそばへ膝をつき、瞼を持ち上げた。白目には黄色が混じり、張った腹の上で荒い呼吸が続いている。冷えた指先は、妻の手を握り返さなかった。
「何を食べましたか」
妻が首を振った。
「いつもと同じです。井戸の水と、黒麦の粥を」
「前に倒れた日は」
「同じものを」
「ここでは、原因を調べましたか」
妻の口が止まった。
「治して、いただきました」
門の内側で鐘が鳴り、列が前へ動き始めた。
白い衣を着た女が尖塔の階段を下りてくる。肩まで伸びた黒い髪が頬へ張りつき、目の下には影が落ちていた。右手には金色の布が幾重にも巻かれている。
最初に進み出た男には、肘から先がなかった。
女が切断面へ右手を重ねると、指の隙間から白い光が漏れた。骨が伸び、肉がその周囲を包み、赤い断面を皮膚が覆っていく。
五本の指が開いた。
男は戻った腕を持ち上げ、一本ずつ指を動かした。
「聖女様」
膝が石畳へ落ちる。
「桐生様。あなたに、この命を捧げます」
女は男を見ず、次の患者へ手を伸ばした。咳をしていた老人の胸が光り、喉の音が止まる。子供の額へ触れると、赤かった頬から熱が引いた。
列が進むたびに右手は白く光り、女の足元だけが揺れを増していった。白い衣の男が背を支えて水を差し出すと、女は一口だけ含み、荷台の男へ顔を向けた。
「運んで」
男が階段の前へ置かれる。
女の手が張った腹へ触れた。白い光が広がり、膨らんでいた腹が沈む。黄色かった目から色が消え、止まりかけていた呼吸が戻った。
「治りました」
妻が女の足へ縋りついた。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
エイルは起き上がった男へ顔を向けた。
「前にも同じ症状を」
「三度目です」
妻の頬を涙が伝った。
「三度とも、聖女様が救ってくださいました」
女の手が男の腹から離れ、エイルで止まった。金の布の下では、白い糸が脈打っている。
「次の方を」
治療は続いた。
エイルが与えた一つの力へ、街の命が順番に並んでいた。
* * *
街の通りに、薬屋はなかった。
木札を外した店が三軒並び、埃をかぶった窓の奥には空の棚だけが残っている。薬草を吊るしていた紐が、天井から何本も垂れていた。
三軒目の戸口には老人が腰を下ろし、錆びた刃で木片の表面を削っていた。店の奥に残る薬草は色を失い、乾いた葉が床へ落ちている。
「薬師ですか」
老人の刃が止まった。
「前はな」
「薬を売らないのですか」
「治らん薬を、誰が買う」
刃が木片へ戻る。
「熱を下げるのに三日。傷が閉じるのに十日。腹の病なら、薬が合わんこともある」
屋根の向こうには白い尖塔が見えていた。
「あそこなら、触るだけじゃ」
「同じ病で戻っている者がいます」
「治っとるよ」
刃が木の節に当たった。
「病はな」
木片が割れた。
「原因まで消えとらん」
老人は割れた木片を脇へ置いて店へ入り、エイルもあとへ続いた。床には革表紙の本が積まれ、紐の切れた紙束が棚からはみ出している。暖炉の脇に置かれた一冊は、端から半分ほど燃えていた。
エイルは本を開いた。人体の図、薬草の配合、熱が続いた日数、患者が口にした食事と水が、細い文字で頁を埋めている。
最後の日付は、九年前だった。
「続きは」
「ない」
「九年間、薬は作られていませんか」
「作った者はおる。売れずに消えた」
老人は棚から瓶を取り出した。底には黒い粉が固まっている。
「弟子もサンクトゥムへ行った。薬を煮るより、患者を運ぶ方が命を救える」
瓶を棚へ戻し、窓越しに白い塔を見た。
「間違いではない。今日を生きるならな」
記録の空白が、また一つ増えていた。弘人の用途欄。祐樹の周囲にいた四人。今度は、九年間止まった頁だった。
「名前を」
「セラじゃ」
エイルの目が老人の顎へ下りた。白い髭に混じって、太い黒い毛が一本だけ伸びている。
セラはそれを摘まんだ。
「薬を試しすぎた。生えた」
指を離す。
「聖女様なら消せる」
「消さないのですか」
「これは治さんでええ」
セラは口を開けた。
片方の歯がなかった。
* * *
夜になっても、サンクトゥムの灯りは消えなかった。入口には患者が残り、白い衣の者たちが毛布と水を配っている。泣き声も咳も、鐘が鳴るたび前へ進んだ。
エイルは裏口から治癒院へ入った。
廊下には寝台が並び、治療を終えた者たちが眠っている。傷は閉じ、熱も下がっていた。血のついた服だけが、身体の周囲へ丸めて置かれている。
壁には二枚の木札が並んでいた。
【奇跡へ感謝を】
【薬師の迷信に惑わされるな】
廊下の奥から水音が届いた。
真帆が洗面台の前に立ち、右手から外した金の布を脇へ置いていた。手を水へ沈めると、白くふやけた皮膚の裂け目から血が広がる。爪の根元は赤く腫れ、指を伸ばすたび小さく震えた。
「桐生真帆」
肩が動いたが、真帆は水を止めなかった。洗面台へ落ちた水が排水口へ向かわず、エイルから遠い側へ白い筋を作った。
「やっと来た」
エイルは洗面台の隣へ立った。
「私を覚えていますか」
「顔は覚えてない」
真帆が右手を水から出す。
「声は覚えてる」
指先から落ちた水滴が、石の上へ一滴ずつ広がった。
「目の前の人を、誰も死なせたくない。そう願った」
「その願いに応じて、スキルを与えました」
「便利だったよ」
真帆は金の布を右手へ巻き直そうとしたが、震える指では結び目を作れず、布が床へ落ちた。
エイルは布を拾い、荒れた右手を見た。この手へ力を与えたとき、何人がその手だけを待つ街になるのか考えなかった。
「回収します」
真帆の指が止まる。
「いつ?」
「今です」
「今は困る」
廊下の奥で鐘が鳴った。
真帆はエイルの手から布を取り、右手へ巻きつけながら廊下へ向かった。
「東門で馬車が横転した。六人運ばれてくる」
「回収を拒みますか」
「返したい。でも、今日じゃない」
「明日も患者は来ます」
「分かってる」
「翌日も」
「分かってる!」
声が壁へ当たり、寝台で眠っていた患者が目を開けた。真帆は口を閉じる。
白い衣の男が廊下を走ってきた。
「聖女様、東門の負傷者が到着しました」
真帆はエイルを見た。
「六人だけ」
治療室の扉が開き、血の匂いが廊下へ流れ出した。
* * *
六人目の脚がつながった。
真帆の膝が折れ、そのまま床へ崩れた。白い衣の者たちが抱き上げ、治療室から運び出していく。
六人の傷は消えていたが、寝台の脇に傷を縫う針はなく、血を止める布も、折れた骨を支える板も残っていなかった。床の血を拭く者だけがいる。
エイルは壁際の棚を開けた。
空だった。
「器具は」
白い衣の男は膝をついたまま床を拭いている。
「聖女様がいらっしゃいます」
「聖女が倒れた場合は」
布を動かす手が止まった。
「聖女様は倒れません」
「今、運ばれました」
「お休みになっただけです」
血を吸った布が桶へ入り、棚は空のまま残った。
* * *
朝の鐘が、真帆の部屋まで届いた。
寝台で目を開けた真帆の正面に、エイルが立っていた。
「患者が待っています」
真帆は上体を起こし、右手を動かした。指は途中までしか曲がらず、もう一度力を入れると爪の根元から血が滲んだ。
「何人?」
「八十三人」
真帆は足を床へ下ろした。
「行かないと」
「その前に、原因を調べます」
「何の」
「三度、同じ治療を受けた男性です」
「肝臓の病気だった」
「なぜ患ったのですか」
真帆は寝台を離れ、白い衣へ腕を通した。
「原因を調べている間に、死ぬ人がいる」
「四度目も治しますか」
「来れば」
「五度目も」
「治す」
「あなたが死ぬまで」
衣の紐が、真帆の指から落ちた。
「死なない」
「眠らず、食べず、治癒を続けますか」
「死なせるよりいい」
「あなたが死んだあと、何人を治せますか」
真帆の手が下がった。
鐘が三度鳴り、扉の外から声が重なった。
「聖女様」
「子供の熱が」
「聖女様」
真帆が扉へ手を伸ばすと、エイルが前へ立った。
「退いて」
「回収はしません」
真帆の指が扉から離れた。
「いつまで」
「この街が、あなたの力なしで一日を越えるまで」
扉の向こうで声が増えていく。
「無理だよ」
真帆は額を扉へつけた。
「もう、誰も薬を作れない」
「一人います」
* * *
八十三人は、セラの店には入らなかった。
サンクトゥムの広場へ机と寝台が運び出され、セラが列の前を歩いていく。患者の額へ触れ、呼吸を聞き、腹を押して、三つに分けた。
自分で立てる者。横になれば呼吸が整う者。朝を越えられない者。
真帆の前へ運ばれたのは、七人だった。
「残りは?」
セラは黒い粉を湯へ入れ、木の匙で混ぜている。
「薬を飲ませる」
「治るの?」
「治す」
「何日で」
「知らん」
真帆の眉が動いた。
「知らない薬を飲ませるの?」
「症状を見て、量を変える」
「失敗したら」
「次へ残す」
セラは器を患者へ渡し、紙へ文字を書いた。
「何を使った。どれだけ使った。どうなった。全部残す」
「この人たちで試すの?」
「おぬしも試したじゃろ」
真帆の口が閉じた。
「最初から、誰でも治せると知っとったか」
真帆の指に白い光が集まる。
「治った」
「じゃから、続けた」
セラは紙へ次の文字を刻んだ。
「同じじゃ」
真帆の手から光が消えた。
* * *
三度倒れた男の家は、街の西にあった。
井戸の隣に革を染める工房があり、裏口から流れ出た黒い水が石の溝を通っている。欠けた溝から染み出した跡は、井戸の土台まで続いていた。
エイルが桶を引き上げると、水面に油の膜が浮いていた。セラは布へ水を染み込ませ、鼻へ近づける。
「革を洗った水じゃ」
男の妻が井戸へ顔を向けた。
「この水を、ずっと」
「サンクトゥムで聞かれませんでしたか」
「食べた物は聞かれました」
「水は」
妻は真帆へ顔を向けた。
「聖女様が治してくださいました」
真帆が桶を覗き込む。
「治した」
「はい。三度も」
妻は頭を下げようとした。
真帆の手が桶の縁へ乗った。油の膜に、金の布を巻いた顔が歪んで映る。
「井戸を閉じて」
妻が顔を上げた。
「この井戸しかありません」
「東の井戸から運んでください」
「遠いです」
「また病気になる」
「そのときは、聖女様が」
妻は笑い、真帆へもう一度頭を下げようとした。
「私がいなくなったら」
笑みが止まった。
「いなくなりません」
真帆は井戸へ蓋をし、右手で木を押さえた。
白い光は出なかった。
* * *
七日目。
閉じていた薬屋が一軒、扉を開けた。棚に置かれた薬瓶は三本だけだったが、戸口には患者が並んでいる。
「聖女様のところへ行けば治る」
列の男が腕を差し出した。赤い湿疹が肘まで広がっている。
セラは店の中の椅子を指した。
「座れ」
「何日かかる」
「七日」
「聖女様なら一瞬だ」
「では行け」
男は白い塔を見た。入口には真帆が立っている。
「赤く腫れたら来てください」
「今は?」
「薬を塗ってください」
男の顔が歪んだ。
「治せるのに?」
湿疹を見つけた右手は、真帆の意思より先に光を強めた。真帆はその手を左手で包み、背へ回す。
光が指の間から漏れた。
セラが瓶の蓋を開けると、草の匂いが店へ広がった。
「薬を塗ってください」
男は湿疹を見たあと、椅子へ座った。
列の後ろで子供が咳き込み、母親が抱き上げた。息を吸うたび、細い喉の奥で音が鳴る。
「この子を先に」
セラは子供の瞼を開き、胸へ耳を当てた。
「熱はある。じゃが、今すぐではない」
「聖女様なら今すぐ治せます」
母親の声が通りへ響き、湿疹の男が椅子から立ち上がった。
「俺もだ。治せるのに、どうして薬を使わせる」
薬屋の前にいた者たちが白い塔へ顔を向ける。入口に立つ真帆へ、声が一つずつ重なった。
「聖女様を出せ」
「子供を待たせるのか」
「治せない薬師に任せるな」
母親が列を抜け、真帆へ子供を差し出した。
「お願いします」
子供の喉が鳴るたび、真帆の右手の光が強くなる。
セラが母親の肩を掴んだ。
「待てる」
「もし間違っていたら?」
「呼吸と熱を見た」
「間違っていたら、この子が死ぬ!」
母親がセラの手を振り払い、真帆へ踏み込んだ。後ろの者たちも続き、薬屋の戸口へ身体が押し寄せる。
エイルは真帆と母親の間へ入り、押された身体を受け止めた。肩へ腕が当たり、背中が薬瓶の棚へぶつかる。瓶が一本落ちて床で割れ、草の匂いと黒い液が足元へ広がった。
「退いてください」
「天使なら治して!」
「私は治せません」
「なら邪魔をしないで!」
母親の手がエイルの胸を押した。その肩越しに、真帆の光が子供へ伸びる。
エイルは振り返らず、真帆の手首を掴んだ。
「放して」
「この子は待てます」
「間違っていたら?」
真帆の声が、母親と同じ問いを重ねた。
「そのときは、私もここにいます」
「いるだけで何ができるの」
「呼吸を数えます。水を運びます。悪化すれば、あなたを呼びます」
「それだけ?」
「それしかできません」
真帆が腕を引いても、エイルは離さなかった。
セラは子供へ湯気の立つ器を近づけ、母親へ抱き方を示した。
「身体を起こせ。寝かせるな」
白い衣の男たちが椅子と毛布を運び出す。エイルは割れた瓶の破片を拾い、床の薬液を布で拭いてから、母親の隣へ膝をついた。子供の息が一度鳴るたび、紙へ線を引く。
一時間後には喉の音が浅くなり、二時間後、子供は母親の腕の中で眠った。真帆の右手は、最後まで白く光っていた。
使わなかった。
子供が眠っても怒鳴り声は残り、薬屋の扉を蹴った者が三人いた。エイルが外れた蝶番を押さえ、セラが釘を打ち直した。
* * *
十二日目。
薬屋の奥へ寝台が運び込まれ、白い衣の者たちがセラの前へ並んでいた。
「ここへ指を当てろ」
一人の男が患者の手首へ触れる。
「何が分かるんです」
「今は分からん。数えろ」
男は脈に合わせ、紙へ線を引いた。
入口には新しい木札が掛かった。
【診療所】
鍛冶屋が作った細い針が木箱へ並び、織工が切った布が煮立つ湯へ沈められていく。サンクトゥムの壁からは【薬師の迷信に惑わされるな】と書かれた木札が外され、代わりに大きな紙が貼られた。
【治療記録】
患者の名前、年齢、食べた物、飲んだ水、症状が出た日、使用した薬、治療後の経過が、一人分ずつ記されていた。
真帆が机へ向かい、記録を書いている。
「字が違う」
セラが紙を逆さにした。
「こちらの数字は、縦線が二本じゃ」
「読めればいいでしょ」
「次へ残すんじゃろ」
真帆は紙を戻し、数字を書き直した。
エイルは東の井戸から水を運び、患者の名前と症状を紙へ写した。夜になると診療所の寝台を回り、胸が上下する回数を記録した。
サンクトゥムの庭では、掘り返された土へ薬草の苗が植えられている。苗を運んでいた子供が濡れた土で足を滑らせ、膝を地面へ打った。
真帆の右手が白く光る。
子供の母親が頭を下げた。
「足を治してください」
セラは子供の足を持ち上げ、腫れと骨の位置を確かめた。
「歩け」
子供は土の上へ足を下ろし、一歩、もう一歩と進んだ。二歩目で顔が歪む。
「痛い」
「明日まで痛い」
母親が真帆を見る。
真帆は光る右手を背へ回した。
「冷やしてください」
子供は母親の手を握り、足を引きずって庭を出ていった。
傷は消えなかった。
歩けた。
* * *
二十一日目。
朝の鐘が鳴った。
サンクトゥムの前に列はなく、薬屋の前に七人、診療所の前に十二人が並んでいた。サンクトゥムの寝台に残ったのは三人だけだった。
真帆は三枚の記録を机へ並べた。落馬した兵士、肺を患った男、出産を控えた女の三人分だった。
「誰から」
白い衣の男が記録を指で追う。
「落馬した兵士です」
「骨は固定した?」
「はい」
「出血は」
「止まりました」
「薬師は」
「朝まで待てると」
真帆は次の紙を取った。
「肺の人は」
「薬が効いています。呼吸も昨日より深くなっています」
「では、薬を続けて」
男の目が真帆の右手へ動いた。
「聖女様なら、今すぐ治せます」
真帆の指が、記録の端を押した。
「悪くなったら、すぐ呼んで」
「救えるのに」
「救ってる」
真帆は記録を受け取った。
「私だけじゃない」
出産を控えた女が寝台の上で腹を抱えた。敷布へ血が広がり、呼吸が浅くなっている。
真帆は隣へ座り、膨らんだ腹へ手を置いた。白い光が母親の身体へ広がり、乱れていた呼吸が整う。敷布を濡らしていた血も止まった。
腹の中から、何も返らない。
真帆の手が止まった。
「鼓動は」
白い衣の男が目を伏せる。
「運ばれた時には、もう」
真帆は指へ集めた光を腹の中へ押し込んだ。白い光は母親の身体を巡り、裂けた場所を閉じていく。
小さな胸は動かなかった。
「戻せない」
真帆は手を離さない。
母親の目が開いた。
「この子は」
真帆の唇が開いたが、声は出なかった。
セラが白い布を広げ、小さな身体を包んだ。真帆の右手には、母親を救った光が残っている。
真帆の指は閉じなかった。
* * *
二十九日目の夜。
診療所の戸が叩かれた。
肺を患っていた男が寝台の上で身体を起こし、肩を上下させていた。息を吸いかけては途中で止まり、もう一度開いた口からも音は出ない。唇から色が消えていた。
セラは男の胸へ耳を当て、白い衣の男へ指を立てた。
「薬を変える。湯を沸かせ。窓を開けろ」
エイルは寝台の背へ腕を差し入れ、男の上体を支えた。薄い寝衣を通して、背骨の一つずつが腕へ当たる。
真帆が診療所へ駆け込んだ。右手は、扉を越える前から白く光っている。
「どいて」
エイルは男の背を支えたまま動かなかった。
「薬を変えています」
「間に合わない」
真帆が寝台へ手を伸ばし、光が男の胸へ触れる寸前に、エイルはその手首を掴んだ。
「放して」
「セラが処置しています」
「見れば分かる。今、止まる」
男の爪がエイルの腕へ食い込み、開いた口が空気を探した。
「この人は救える」
「はい」
「なら放して!」
真帆の光が二人の指の間から漏れ、エイルの手まで熱を持った。
放せば、男は助かる。明日も、その次の夜も、街は同じ手だけを待つ。
エイルは真帆の手首を掴んだまま、男の身体を起こし続けた。セラが薬を口へ入れ、白い衣の男が胸を押す。
男の指から力が抜け、エイルの腕に爪痕だけが残った。
胸は、もう持ち上がらなかった。
「まだ」
真帆は男の胸へ手を伸ばし、白い光を落とした。
何も戻らない。
「さっきなら」
真帆は死者の胸へ手を置いたまま、エイルを見た。
「さっきなら、救えた」
「はい」
「あなたが止めた」
「はい」
光は真帆の指から消えず、死者の胸を照らしていた。エイルはその右手を両手で包む。
「放して」
真帆が腕を引いても、エイルは離さなかった。
「もう、戻りません」
「分かってる!」
真帆の肩がエイルへ当たり、二人の膝が床へ落ちた。真帆は腕を引き続け、エイルはその手を胸の前で押さえた。
寝台の上には男の身体が残っている。セラが瞼を閉じると、白い衣の者が記録へ時刻を書き込んだ。筆先は紙の上で一度止まり、それから死亡の欄へ線を引いた。
その一本の線へ、エイルの腕に残った爪痕と、両手の中で震える真帆の手が重なった。以前のエイルなら、線だけを結果として残していた。
* * *
三十日目。
広場の鐘は鳴らず、真帆の右手も一度も光らなかった。
日が傾くまでに薬師が二十七人を診た。診療所では四人の傷が縫われ、サンクトゥムへ運び込まれた者はいない。
真帆はサンクトゥムの階段へ座っていた。右手に金の布は巻かれていない。爪は割れ、掌には薬瓶と筆を持ち続けた硬い皮ができていた。
エイルは隣へ立った。
「この街は、あなたの力なしで一日を越えました」
「この三十日で、三人死んだ」
広場の向こうを、葬列が進んでいた。
真帆は親指を開いた。
「老人は、前でも治せなかった」
「はい」
次に人差し指を開いた。
「肺の人は、昨夜まで薬が効いてた」
「はい」
「止まる前に、私の手は届いてた」
エイルの腕には、爪の跡が残っていた。
「前なら、治せた」
「はい」
三本目は開かなかった。
葬列の先頭で、女が白い布を抱えていた。両腕の中へ収まる大きさだった。
「あの子は」
真帆の唇が閉じ、白い布が通りの角へ消えていく。右手がその方角へ上がりかけたが、光は集まらず、途中で止まった。
「母親は救えました」
真帆は頷かず、右手を膝へ伏せた。
エイルも葬列の消えた道を見た。以前なら、生存一人、死亡一人と記録して欄を閉じていた。今は、その二つを同じ結果として並べられなかった。
「分かりません」
真帆の顔が上がる。
「天使なのに」
「人間を見て、決めるよう命じられました」
「見ても分からない?」
「分からないことが増えました」
薬草畑から土を踏む音が届いた。白い衣の男が診療記録を抱え、セラの店へ走っていく。
真帆は右手を膝へ伏せたまま、その背を見送った。
「私は、戻れるの?」
「元の世界へ戻ることもできます」
真帆の目が白い塔へ向いた。壁際には新しい棚が置かれ、薬瓶と記録が並んでいる。庭では白い衣を着た者たちが、薬草の周囲へ水を撒いていた。
「ここに残る」
「残留を受理します」
大地の印が、エイルの手の甲へ入った。
エイルは真帆の前へ立った。
「スキル、《完全治癒》を回収します」
真帆の右手が白く光った。光は傷を探すように指先を巡り、割れた爪の根元で止まる。真帆自身の傷だけは閉じなかった。
エイルがその手を包むと、白い光が爪の際、掌の皺、硬くなった指の付け根から一筋ずつ剥がれ、二人の指の間を流れていった。
最後の光がエイルの掌へ消え、真帆の右手には割れた爪と硬くなった皮膚が残った。
スキルを回収した。
真帆は掌を開き、握った。光は戻らない。
「終わりました」
真帆は右手を胸へ当てた。治す必要のない鼓動が、指へ返ってきた。
庭で子供が転び、膝を石へ打った。皮膚が裂け、泣き声が上がる。
真帆は階段を下り、子供の前へ膝をついた。右手を傷へ伸ばしたが、光は出ない。子供の血が指へつき、その手が一度止まった。
「水を」
セラが器を渡した。
真帆は傷へ水を流して土を落とし、折った布を膝へ押し当てた。
「痛い」
「うん」
「治らない?」
「何日かかかる」
子供が鼻を鳴らした。
「長い」
「長いね」
真帆は布を結んだ。
「でも、歩ける」
子供は真帆の手を借りて立ち上がり、一歩目で顔を歪めた。それでももう一歩進み、母親のもとへ歩いていった。真帆は血のついた右手を見た。
治せない手だった。
手当てはできた。
* * *
丘を下りる途中、エイルの手の甲が熱を持った。
【桐生真帆】
【スキル回収】
【裁定完了】
【残留】
白い塔の鐘が一度だけ鳴った。
患者を呼ぶ鐘ではなかった。
薬草畑で働く者たちが顔を上げ、鐘の音が街を越えていく。
返事をするように、薬屋の戸が開いた。




