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スキルを失ったあとに。 ―付与天使エイルの裁定録―  作者: カミツキ


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第2話 選ばれる場所

エイルの手の甲には、一つの名前が残っていた。


神崎弘人(かんざきひろと)

【スキル回収】

【裁定完了】

【天獄】


 指先で文字へ触れると、その下の空白に光が走った。


【回収対象 検索中】


 エイルの指が止まった。


 白い床へ落ちる紙の音が戻った。


* * *


 最初に落ちた記録は、エイルの足元で裏返った。


 二枚目、三枚目が続き、白い床の上へ重なる。国王を名乗る男。死者を兵として使う女。町から女を集めた男。記録の下端には、すべて同じ印が押されていた。


【付与担当 エイル】


 六枚の翼を持つ女が、一枚目を拾った。


「この者へ何を与えましたか」


「スキル、《誓約(カヴェナント)》です」


「用途は」


「本人の希望と適性が一致しました」


「用途は」


 同じ問いが返った。


 エイルは記録へ目を落とした。用途欄には、何も書かれていない。


 女は次の紙を持ち上げた。


「この者は」


「スキル、《死者使役(ネクロマンシー)》です」


「用途は」


「適性がありました」


 紙が指から離れ、床へ戻った。


「何人送りましたか」


 記録の列は白い空間の奥へ伸び、重なった紙の先は光に溶けていた。


 エイルは列の端を探した。


 見えなかった。


「数えていません」


 六枚の翼が開いた。風は起きない。


「人間は、自ら選びます」


 エイルは顔を上げた。


「スキルの用途も、転移後の行動も、本人の選択です」


「ならば、見てきなさい」


 女の掌に三つの印が浮かんだ。大地。門。色のない白い枠。


「残すか」


 大地の印が光る。


「戻すか」


 門が開く。


「閉じるか」


 白い枠の内側から色が消えた。


 三つの印が女の掌を離れ、エイルの手へ入った。熱も重さもなかった。


「与えた者が、その先を決めなさい」


「私は裁定者ではありません」


「今から、そうなります」


 白い床が足元から消え、六枚の翼も、積み重なった記録も光の中へ沈んでいく。


 エイルの身体が落ちた。


* * *


 宿屋の扉が開き、ノラが水桶を抱えて入ってきた。


 エイルの手の甲へ目を落としたあと、桶を床へ下ろす。


「傷が開きます」


 エイルは袖を引き、文字を隠した。肩を動かすと、獣に裂かれた傷が布の下で引きつれる。


 用途欄は空白だった。


 その先に、ノラの喉と、杭へ縛られたルクがいた。


 手の甲が熱を持った。


【回収対象 検索中】


 文字が崩れ、新しい名前へ変わる。


前田祐樹(まえだゆうき)


 名前の下から赤い糸が伸び、壁を抜けて南へ続いた。


 エイルが立ち上がると、肩の傷が遅れて身体を止めた。足へ力を入れ直す。


「もう行くんですか」


「はい」


 ノラは棚からパンを取り、布で包んでエイルの手へ置いた。


「硬いです」


「知っています」


 階段からミアが顔を出した。


「また来る?」


 エイルは手の甲へ目を落とした。名前の下には、まだ空白が続いている。


「ここが埋まったら」


 扉を開けると、朝の光が目へ入った。


 赤い糸は南へ伸びていた。


* * *


 昼を過ぎた頃、赤い糸は一つの街へ入った。


 城壁の前には幌を掛けた馬車が並び、荷台の箱から香辛料と熟した果実の匂いが漏れている。門の上では金の鐘が鳴り、色糸を縫い込んだ服の人々が、互いを追い越しながら街へ入っていった。


 大通りの両側には布地、宝石、陶器を扱う店が続き、値を呼ぶ声が馬車の車輪へ重なっている。


 前の町とは違う。


 誰も同じ歩幅では歩いていない。


 赤い糸は人の間を抜け、大通りの先にある丘へ伸びていた。丘の上には白い屋敷があり、門柱には薔薇を抱えた男の像が置かれている。石の足元へ積もった花びらだけが、風に動かなかった。


 エイルが門へ近づくと、甲冑を着た女が槍を横へ出した。


「何の用です」


「前田祐樹に会います」


 女の目が細くなる。


「ユウキ様を呼び捨てにする者は、ここへ入れません」


「エイルが来たと伝えてください」


「帰ってください」


 女の胸から赤い糸が伸び、門の奥へ続いている。


 エイルが槍へ手を伸ばすと、穂先が喉へ寄った。


「触れれば斬ります」


「あなたは、前田祐樹を愛していますか」


 女の眉が動く。


「命よりも」


「いつから」


「ユウキ様に救われた日からです」


「何から」


 口が開いたまま、声は出なかった。


 甲冑の胸には、紋章を外した跡がある。金具の周囲だけ布の色が濃く、切られた糸が何本も垂れていた。


「ユウキ様は、私を選んでくださった」


「何から救われたのですか」


 槍の刃がエイルの首へ触れる。


「帰ってください」


 屋敷の扉が開き、青い服の女が日傘を差したまま階段を下りてきた。首には形の異なる宝石が並び、靴の先まで同じ青で揃えられている。


「カレン、どうしたの?」


「ユウキ様へ会いたいと」


 女はエイルの服と顔を順に見た。


「女の方?」


「はい」


 日傘が閉じる。女の胸にも赤い糸が通っていた。


「ユウキ様は、今朝から私と過ごす約束なの」


 カレンの槍が下がる。


「昨日はリディア様でした」


「昨日の夜までよ。今日は私」


「昼からはフィア様です」


「薬を届けるだけでしょう」


「エレナ様も、約束は守ってください」


 二人の視線がぶつかり、胸を通る赤い糸が同時に脈打った。


 二階の窓が開く。


「喧嘩するなよ」


 男が窓枠へ腕を置いた。黒い髪。首元の開いたシャツ。両手の指には、形の違う指輪が並んでいる。


 二人の顔が窓へ向いた。


「ユウキ様」


 声が重なった。


 男の目がエイルで止まり、窓枠に置かれていた指が離れる。


「誰?」


「エイルです」


「エイル?」


 口元から笑みが消えた。


* * *


 屋敷の広間には、大きな椅子が一つだけ置かれていた。


 祐樹はその中央へ腰を下ろし、四人の女が椅子を囲んでいる。右側ではリディアが葡萄酒を注ぎ、卓の前でエレナが果物を切っていた。カレンは背後に槍を立て、白い服のフィアが左腕へ新しい包帯を巻いている。


 赤い糸は四人の胸から椅子の中央へ伸び、祐樹の身体で束ねられていた。


 一本のスキルが、四人の胸へ分かれている。


 用途欄には、一人分の願いしかなかった。


「本当に天使?」


 祐樹は杯を指で回した。


「転移室で会っています」


「覚えてないな。光ってて、顔なんか見えなかった」


 エレナの刃が果物の上で止まる。


「ユウキ様へ、何のご用ですか」


「スキルを回収します」


 刃が皿へ当たった。カレンの指が槍の柄を握る。


 祐樹は杯を口へ運び、葡萄酒を飲み込んだ。


「スキルって?」


「《魅了(ファシネイト)》です」


 四人の目がエイルへ集まった。


 祐樹は空になった杯をリディアへ差し出す。


「そんなもの、持ってないけど」


 胸の奥で、赤い糸が膨らんだ。


「あなたの周囲にあります」


「こいつらが俺を好きなのは、その力のせいって?」


「判断を歪めています」


 祐樹の膝へ置かれていたリディアの手に力が入る。


「私たちは自分でユウキ様を選びました」


「夫は」


 指が止まった。


「いません」


 エイルは暖炉の上へ顔を向けた。夫婦の肖像画が掛かり、リディアの隣に立つ男の顔だけが布で覆われている。


「あの人は」


「亡くなりました」


「いつ」


 リディアの唇が動いた。


「ユウキ様と出会う前です」


 祐樹が杯を卓上へ置く。


「人の傷を掘るなよ」


 エイルはカレンへ顔を向けた。


「騎士団を離れた理由は」


「ユウキ様を守るためです」


「任務を放棄しましたか」


「退団しました」


「紋章を剥がした跡があります」


 カレンの手が胸へ触れる。


「団長は、ユウキ様を捕らえようとしました」


「なぜ」


「女性を惑わせたと」


「その女性は」


 カレンの目がリディアへ動いた。


 祐樹が椅子から立ち上がり、二人の間へ身体を入れた。


「もういいだろ」


 胸から赤い糸が広がる。


 四人の肩から力が抜け、表情が同じ速さで緩んだ。


 甘い匂いが広間へ満ちる。


 エイルの傷ついた肩から、痛みが薄れた。身体が、祐樹のそばは安全だと判断している。


 四人も、この安堵を疑えなかった。離れたいと思う前に、その理由まで好意へ変えられる。


 与えたのは、エイルだった。


 エイルは爪を掌へ立てた。


 祐樹はリディアの肩へ腕を回す。


「こいつらは俺といて幸せなんだ。外の奴が何を言っても関係ない」


 フィアが反対側の腕を抱いた。


「フィアは、ユウキ様と出会えて救われました」


「家族は」


「私を理解してくれませんでした」


「会いましたか」


「会う必要はありません」


「最後に家族と会ったのは」


 フィアの指が、祐樹の袖へ食い込む。


「二年前です」


 広間の隅には、封を切られていない手紙が積まれていた。すべてに薬師ギルド《フローラ・パナセア》の印が押され、同じ筆跡でフィアの名が書かれている。


「手紙は」


 祐樹が手紙の山とフィアの間へ移動した。


「本人が読みたくないって決めたんだ」


「本人へ渡しましたか」


 祐樹は答えなかった。


 赤い糸が脈打つたび、四人は祐樹へ身体を寄せた。


「俺は誰も殺してない。縛ってもいない。契約書に名前を書かせたわけでもない」


「好意を増幅し、疑念を好意へ変えています」


「最初だけだ」


 祐樹はリディアを引き寄せた。


「きっかけを作っただけ。四年も一緒に暮らしてる。今は本物だ」


 リディアが祐樹の胸へ頬を寄せる。


「回収します」


 祐樹の腕が止まった。


「その前に、聞きたいことがある」


「何ですか」


「俺、戻れるの?」


 広間の時計が一度鳴った。


 祐樹は四人を見なかった。


「日本へ」


「送還を選べます」


 祐樹の喉が動く。


「時間は」


「この世界と同じだけ進んでいます」


「四年くらいか」


「はい」


 祐樹は窓へ向かい、庭を見下ろした。使用人が薔薇を切り、花を抱えた籠を屋敷へ運んでいる。


「彼女がいたんだ」


 背後で、リディアの手が椅子から離れた。


「転移する前から付き合ってた。喧嘩もしてたけど、別れてはいない。俺が消えたあとも、待ってるかもしれない」


「確認しますか」


 祐樹が振り返る。


「できるの?」


「送還先の確認に限ります」


 エイルが掌を上へ向けると、門の印が浮かんだ。空中に四角い枠が生まれ、内側へ水が満ちていく。揺れていた水面が止まり、一つの像を結んだ。


* * *


 駅前の喫茶店。


 窓際の席に、肩までの髪をした女が座っていた。白い服。テーブルの上には二つのカップがある。


 祐樹が枠へ近づいた。


「美沙」


 女の向かいへ、一人の男が座る。


 二人で携帯電話の画面を覗き、美沙が歯を見せて笑った。男の肩を叩き、テーブルの下で左手が動く。


 指輪が光った。


 祐樹の指が水面へ触れ、波紋が二人の顔を崩した。


「誰だよ」


 水面が戻る。


 美沙は紙袋を男へ渡した。男が中身を覗き、その手で美沙の頭へ触れる。


 祐樹の手が枠から離れた。


「そうだよな。四年だもんな」


 声は水面へ届かなかった。


「もういい」


 エイルが手を閉じると、水が落ちて枠が消えた。


「送還を望みますか」


 祐樹は広間へ顔を戻した。


 リディアは椅子の右側にいる。カレンは背後で槍を持ち、フィアは手紙の積まれた壁際を見ていた。エレナは果物の前に立っている。


 全員が、祐樹を見ていた。


「戻ったって、居場所ないだろ」


 祐樹は中央の椅子へ戻り、両腕を広げた。


「俺には、ここに家族がいる」


 右腕でリディアの肩を抱く。


「残るよ」


「残留を受理すれば、回収後も変更できません」


「何も変わらない。問題ない」


 祐樹はリディアを見た。


「そうだろ」


「はい」


 答えは迷わなかった。


「残留を受理します」


 エイルの掌から、門の印が消えた。


 祐樹が息を吐き、椅子へ深く座る。


「それでいい」


「スキルを回収します」


 笑みが止まった。


「残るなら、別にいいだろ」


「スキルを持ったまま残る道はありません」


「今の関係は本物だ」


 祐樹はリディアの顔を覗き込む。


「四年だぞ」


 リディアの頬が赤くなる。


 祐樹は胸をエイルへ向けた。


「取ればいい」


 カレンの槍が動く。


 祐樹が片手を上げた。


「いい。やらせろ」


 口元へ余裕が戻った。


「こいつらが俺を選んだって、天使にも見せてやる」


 エイルは祐樹の前へ立った。


 胸へ触れる前に、赤い糸が手首へ絡みつく。


 甘い匂いが鼻へ入り、耳の奥で四人の声が重なった。窓も、卓も、背後の女たちも輪郭を失い、祐樹の顔だけが近くなる。


 傷ついた肩から痛みが消えた。


 この人を傷つけてはいけない。


 エイルの指が胸から離れようとした。


 身体が、命令を拒んでいる。


 エイルは反対の手で傷の残る掌を握り、爪を傷口へ押し込んだ。


 痛みが戻る。


 祐樹の輪郭から光が剥がれた。


「待て」


 エイルは祐樹の胸へ手を置いた。


「スキル、《魅了(ファシネイト)》を回収します」


 四人の胸を通る赤い糸が、一本ずつ浮かび上がった。


 最初の糸がリディアの肩から離れる。祐樹の腕に預けられていた重さが消え、リディアの身体が椅子から一歩離れた。


「待てって」


 祐樹がエイルの手首を掴む。


 赤い糸は指の間を抜け、次にカレンの胸から剥がれた。槍の穂先が床へ落ち、石を擦る。


 フィアの指が祐樹の袖から外れた。


「まだだ」


 祐樹は胸を押さえる。


「今のは四年前の分だ。今の気持ちは残る」


 最後の糸がエレナの胸から離れた。


 女の目が瞬く。


 四本の糸は祐樹の胸で束になり、結び目を作っていた。エイルが指を差し入れると、糸が皮膚の上を滑り、一本ずつほどけていく。


「俺のだ」


 祐樹が両手で押さえ込もうとする。


 指の間を赤い光が抜けた。


「これは俺の人生だ」


 最後の結び目がほどけ、赤い糸はエイルの掌へ流れ込んだ。


 甘い匂いが消えた。


 広間に時計の音が戻る。


 スキルを回収した。


 祐樹の右腕は、リディアの肩に残っていた。


 リディアがその手首を持ち上げ、自分の身体から外す。祐樹の手は椅子の肘掛けへ落ちた。


 カレンは槍を床へ置いた。


 フィアは広間の隅に積まれた手紙へ向かった。


 エレナは果物を切っていた刃を皿へ置き、自分の指先を見た。


 祐樹だけが椅子の中央に残った。


「ほら」


 口元を持ち上げる。


「何も変わらない」


 リディアが片耳を塞いだ。


「私の名前を呼ばないで」


 祐樹の笑みが止まる。


「リディア?」


 肩が跳ねた。


 リディアは暖炉へ向かい、肖像画を覆っていた布を掴んだ。布が床へ落ち、祐樹より年上の男の顔が現れる。肖像画の中で、その男はリディアの肩へ手を置いていた。


「亡くなった日に、あなたは葬儀へ来た」


 祐樹が椅子から立ち上がる。


「覚えてる。俺が支えた」


「棺の前で、手を握った」


「一人にできなかった」


「次の日から、この屋敷にいた」


「君が望んだんだ」


 リディアの目が祐樹の指へ下りる。形の違う指輪の一つを掴み、関節へ引っかかりながら引き抜いた。


「夫の指輪を外したのは、誰」


 祐樹の指から血が滲む。


「痛いだろ」


 リディアは指輪を胸へ抱き、祐樹を見なかった。


 背後で金属音がした。


 カレンが肩当てを外し、続いて胸当てを床へ置いている。紋章を剥がした跡へ指を当てた。


「団長は、私を連れ戻しに来た」


「お前を縛る連中から守った」


「剣を抜いたのは、私」


「俺のためだろ」


「育ててくれた人の腕を斬った」


「向こうが襲ってきた」


「あなたを捕らえるために」


「同じことだ」


 カレンは甲冑を抱え、槍を床へ残したまま扉へ向かった。


 祐樹が進路へ入る。


「待てよ」


 カレンは止まらない。祐樹が肩へ触れようとすると、腕の中の胸当てが二人の間へ入った。


「初めて、あなたを見た」


「何だよ、それ」


「小さい男」


 カレンは祐樹の脇を通り、広間を出た。


 壁際で、紙の裂ける音がした。


 フィアが一通目の封を開き、折られた紙を広げている。二行目で膝が床へついた。


「母が、死んでる」


 紙の上へ水滴が落ちる。


「半年前に」


 祐樹がフィアへ近づいた。


「知らなかった」


「手紙を隠した」


「君が傷つくと思った」


「最後まで、私を呼んでた」


「俺は君を守ったんだ」


 祐樹の手が手紙へ伸びる。


 フィアが腕を引いた。


「触らないで」


 祐樹の指が宙に残る。


 フィアが立ち上がり、その頬へ手を振り抜いた。


 乾いた音が広間へ響き、祐樹の顔が横を向く。


「何するんだよ」


 フィアは手紙を胸へ押しつけた。


「帰る」


「どこへ」


「母の墓へ」


「今さら帰っても、何も変わらないだろ」


 フィアの足が止まる。


 祐樹の口が開いたまま残った。


 フィアは振り返らず、扉の外へ出た。


 リディアが使用人たちへ顔を向ける。


「門を閉めて」


 祐樹が振り返った。


「ここは俺の家だぞ」


「私の夫の家です」


「四年住んでる」


「出ていって」


「俺がこの家を守った。商会の金も増やした」


「私の商会の金です」


「家族なんだから同じだ」


「家族ではありません」


 リディアは肖像画を壁から外した。額縁を抱えたまま、椅子の横を通り過ぎる。


「待て」


 足音は止まらなかった。


 祐樹の頬には、まだ誰にも触れられていない。


 それでも顔から色が引いていた。


 最後に、エレナが日傘を手に取る。


「エレナ。君は違うよな」


 エレナは閉じた日傘を胸の前へ持った。


「私は、あなたに何を話しましたか」


「何が」


「好きな食べ物」


 祐樹の目が果物の皿へ動く。


「果物だろ」


「嫌いです」


「いつも切ってた」


「あなたが食べるから」


「じゃあ、好きな花は」


 エレナの眉が寄る。


「私が聞いています」


 祐樹は庭を見た。


「薔薇」


「母が育てていた花です。私は匂いで頭が痛くなる」


 エレナは日傘を開かず、扉へ向かった。


「私の誕生日は」


 祐樹の口が止まる。


「去年、祝っただろ」


「リディア様の誕生日でした」


「同じ月だった」


「私は冬生まれです」


 エレナが広間を出る。


 中央の椅子の周囲には、誰もいなくなった。


 祐樹は椅子へ座り直し、四つの空いた場所を見回した。


「でも四年だぞ」


 エイルへ向けた声ではなかった。


「飯を食って、同じ場所で寝て、笑った。全部が、あの力で作られたわけじゃない」


 扉の向こうで、肖像画の額が壁へ当たる音がした。


「俺が救ったんだよ」


 返事はなかった。


 祐樹はエイルへ向き直った。


「戻せ」


「できません」


「一日でいい。話をさせろ」


「話すことはできます」


「違う。あの力を戻せ」


 エイルは答えなかった。


「なら、日本へ帰る」


 祐樹がエイルの掌を掴む。


「送還に変える。あいつらがおかしい。時間が経てば俺を殺しに来る。美沙のところへ戻る」


「門は閉じました」


「開けろよ」


「できません」


 エイルが手を引くと、祐樹の指は簡単に外れた。


「騙したのか」


「残留を受理すれば変更できないと伝えました」


「ここまで変わるなんて聞いてない!」


「あれは、こいつらがいたからだ!」


 祐樹は四つの空いた場所を指した。


「今はいない。条件が変わった」


「力を失っても残る関係だと、あなたが判断しました」


「違う」


 祐樹の声が、空いた広間へ返った。


「まだ混乱してる。俺が話せば戻る。俺の良さを知ってるから」


 門の外で馬車が動いた。


 祐樹が窓へ走り、両手で枠を押し上げる。


 丘の下では、リディアが肖像画を抱えたまま馬車へ乗ろうとしていた。フィアは手紙を胸へ押しつけ、門の外を歩いている。カレンは甲冑を抱え、二人とは別の道へ向かっていた。少し遅れて、青い日傘が門を出た。


「おい!」


 祐樹が窓から身を乗り出す。


「待て!」


 四人の道は分かれていく。


「俺を置いていくな!」


 誰も振り返らなかった。


 祐樹の手が窓枠へ残る。


「俺は、こっちを選んだんだぞ」


 エイルは扉へ向かった。


「違います」


 祐樹の顔が動く。


「あなたが選んだのは、この世界ではありません」


 屋敷の門が閉じ、祐樹の声がその内側へ残る。


「選ばれる場所です」


 エイルは屋敷を出た。


 背後で、杯が割れた。


* * *


 丘を下りる途中、エイルの手の甲が熱を持った。


【前田祐樹】

【スキル回収】

【裁定完了】

【残留】


 その下に、次の名前は現れなかった。


 空白が続いている。


 丘の上から声が届いた。


 リディア。

 カレン。

 フィア。

 エレナ。


 一人ずつ名前を呼んでいる。


 返す声はなかった。

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