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スキルを失ったあとに。 ―付与天使エイルの裁定録―  作者: カミツキ


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第1話 誰にも裏切られない町

付与天使エイルは、自ら与えたスキルを回収するため、地上へ落とされた。


 灰色の城壁に囲まれた町の門が、軋みながら開いた。


 門兵は二人。胸に刻まれた紋章だけでなく、エイルへ向けた口元の形まで揃っていた。


「旅の方ですね」


 乾いた風が門を抜けた。土埃が喉へ入り、エイルは首元を押さえた。


「水を」


「領主様の庇護を受ける方には、宿も水も用意されています」


 門兵が脇の台を引き寄せた。羊皮紙の下端には署名欄があり、黒ずんだ羽根ペンが添えられている。


【滞在者誓約】


 町の法を守ること。

 領主と住民に危害を加えないこと。

 日没後、許可なく城壁の外へ出ないこと。


「こちらへお名前を」


 この誓約を受ければ、スキルの持ち主までつながる。


 エイルは羽根ペンを取り、土の入った指で署名欄を埋めた。腕を動かすたび、地上へ落ちた際に裂けた背中へ服が食い込んだ。


 エイル。


 最後の文字を書き終えた瞬間、羊皮紙から銀の糸が伸びた。


 糸は手首へ沈み、皮膚の下で輪を作った。冷たさが骨を囲い、指先から体温を奪っていく。


 つながった。


 スキル、誓約(カヴェナント)


 エイルが与えた力だ。


「領主様のおかげで、私たちは幸せです」


 門兵の口元が持ち上がった。


 隣の門兵も、同じ形を作った。


 門を抜けた先には、真っ直ぐな石畳が続いていた。泥の跡はなく、露店の果物は色と大きさごとに並び、店主たちは両手を膝へ置いて客を待っている。


 値を巡る声はない。


 子供も、荷車も、道の中央を避けて進んでいた。


 荷車の片輪が石へ乗り上げ、積まれていた籠が傾いた。三つの林檎が石畳を転がる。


 荷車を引いていた男が膝をつくと、隣を歩いていた女も腰を下ろした。通りかかった子供まで林檎へ手を伸ばし、三人は互いの指に触れることなく一つずつ拾い上げた。


「領主様のおかげで、私たちは幸せです」


 三つの声が重なった。


 林檎が籠へ戻る。


 三人の口元も、同じ角度へ戻った。


 エイルの腹が鳴った。


 子供の顔がこちらを向く。母親の手が頬を押し、正面へ戻した。


 白い鳥の看板が下がった宿屋で、エイルは足を止めた。


 扉を押すと、焼いた麦の匂いが鼻へ入った。腹の奥が縮み、舌の下へ唾液が溜まる。


 帳場にいた女が、エイルの手首へ目を落とした。


「滞在者ですね。一泊、銅貨二枚です」


 エイルは手を開いた。


 何もない。


 女の目が裂けた服を下り、裸足で止まった。奥の棚から丸いパンを一つ取り、帳場へ置く。


「床と食器を片づけていただければ、一泊にします」


「誓約は」


 女の指がパンから離れなかった。


「必要ありません。領主様のおかげで、私たちは幸せです」


 言葉の終わりで喉が鳴った。


 エイルはパンを受け取り、表面へ歯を立てた。乾いた皮が口の内側へ刺さり、顎へ力を入れても割れない。


 硬い。


 女が水差しを置いた。エイルは水を口へ含み、ふやけたところを噛みちぎった。


「名前を」


「ノラです」


 階段の陰から少女が顔を出した。十歳ほどで、右の頬に煤がついている。


「娘のミアです」


 ノラが腕を伸ばし、少女を背へ隠した。


「二人で宿を」


 ノラの唇が閉じた。


 帳場の奥には木の椀が三つ並び、一つだけ伏せられていた。


 エイルは椀へ顔を向けた。


「もう一人は」


 ノラの首に銀の線が浮かんだ。


 線は喉へ食い込み、皮膚を白くへこませた。ノラの指が帳場を掻き、爪の間へ木屑が入っていく。


「領主様の、おかげで……私たちは、幸せです」


 銀の線が消えた。


 ノラの膝が床へ落ち、ミアがその背へ腕を回した。


 エイルは手首の輪へ爪を立てた。銀の光は指先を避け、腕の内側へ潜る。


 このスキルだけを解くことはできない。


 銀の糸は、持ち主へ続いている。


 回収には、本人へ触れなければならない。


* * *


 日が落ち、町の鐘が三度鳴った。


 鎧戸が並んで閉まり、通りから足音が消えたあと、車輪の軋みが宿の床を伝った。


 エイルは二階の窓から道を見下ろした。


 鉄格子を載せた荷車が、門へ向かっている。内側には四人。腕を縛られ、口には布を巻かれていた。


 最後の一人は少年だった。


 ノラと同じ髪の色。


「兄ちゃん」


 背後でミアの声が震えた。


 ノラが娘の口を塞ぐ。その首へ銀の線が戻り、喉の皮膚から血の粒が浮いた。


 荷車は角を曲がった。


 エイルは窓枠へ足をかけた。


 手首が焼けた。


【日没後、許可なく城壁の外へ出ないこと】


 銀の輪が肉へ沈み、指先の感覚を奪っていく。それでもエイルは窓を越え、屋根から路地へ降りた。


 着地した足がもつれ、肩を壁へぶつける。


 エイルは壁へ手をつき、門へ向かった。並んだ鎧戸の隙間には目があったが、開く扉は一つもない。


 門扉が閉じ始めた。


 銀の輪が腕へ食い込み、膝から下の力が抜けた。エイルは石畳へ倒れ、動かなくなった指を手首へ押しつけた。


 爪が立たない。


 歯を立てた。


 皮膚が裂け、口の中へ血の味が広がった。


 流れた血が銀の輪へ触れる。


 付与した者の血だ。


 輪に亀裂が入った。


 締めつけが緩む。


 銀の糸は、皮膚の下に残っていた。


 エイルは腕で地面を押し、片方の膝を立てた。閉じていく門の隙間へ身体を滑り込ませ、石へ背中を削られながら城壁の外へ転がり出る。


 草原には四本の杭が立っていた。


 荷車にいた四人が一本ずつ縛られ、足元には獣の内臓が撒かれている。兵士たちは丘の上まで下がり、杭へ向けて弓を構えていた。


「契約を拒んだ者に、町の庇護はありません」


 槍の石突きが少年の腹へ入った。


 身体が折れ、少年の口から息が漏れた。


 草の奥で枝が折れた。


 黄色い目が二つ、暗闇に浮かんだ。その後ろでも、別の目が開く。


 エイルは杭へ走り、縄の結び目へ指を差し込んだ。爪が反り、指先の皮膚が裂ける。それでも結び目を引いた。


 獣が草を割った。


 少年へ向かう。


 エイルは足元の石を拾い、縄へ叩きつけた。繊維が開き、少年の片腕が抜ける。


 横から爪が入った。


 肩の肉が裂けた。


 地面が頬へ当たり、口の中で土と血が混じった。


 痛い。


 エイルは息を吸おうとした。


 入らない。


 獣の前脚が背中へ乗り、濡れた息が首へかかった。


 丘から矢が飛んだ。


 一本目が獣の背へ刺さり、二本目が脇腹へ入る。獣はエイルの上で身をよじり、さらに重さを増した。


 胸が潰れた。


 もう一本の矢が首へ刺さり、獣の身体から力が抜けた。


 兵士たちの靴が周囲を囲んだ。


「誓約を破った」


 エイルは獣の下から腕を伸ばし、少年の縄を掴んだ。


「この力の持ち主へ、会わせなさい」


 槍の柄が首へ入った。


 月が横へ倒れた。


* * *


 目を開けると、天井に金の鳥が描かれていた。


 両腕は椅子の肘掛けへ縛られ、肩から落ちた血が絨毯へ黒い染みを作っている。背中の傷には布が張りつき、息をするたび皮膚を引いた。


 正面に男が座っていた。


 黒い髪。

 この世界では見ない顔立ち。

 白い上着の胸に、金の鎖が重なっている。


 男の指が肘掛けを叩いた。


「その目、覚えてる」


 エイルは顔を上げた。


「白い部屋にいた天使か。俺に力をくれた」


 白い部屋が脳裏へ戻った。


 俯いた青年。

 割れた教室の窓。

 袖から覗いた痣。


『弘人がやれって言った』


 隣にいた少年の指が、青年へ向いていた。


『誰も信じられない』


 青年は両手を握り、爪を掌へ食い込ませていた。


『もう、誰にも裏切られたくない』


 適性はあった。


 願いも一致していた。


 その先は、聞かなかった。


神崎弘人(かんざきひろと)


 男の眉が上がった。


「名前まで覚えてたか」


「今、思い出しました」


 弘人の指が止まった。


 口元から笑みが消える。


「天使にとっては、その程度か」


 エイルの手首で、亀裂の入った銀の輪が脈打った。


「町の外にいた人々は」


「契約を拒んだ」


「魔物の餌にしました」


「壁を守るためだ」


 弘人は椅子を離れ、窓辺へ立った。眼下には町の灯りが並び、夜警の足音が同じ間隔で続いている。


「俺が来る前は、毎月人が死んだ。魔物に食われ、盗賊に奪われ、疫病が出れば家ごと燃やされた。前の領主は税だけ集めて逃げた」


 弘人の指が窓の外をなぞった。


「俺が壁を造った。散らばっていた兵を集めて、井戸を掘り、水路を引いた。畑を広げて、冬を越せる倉を造った」


 窓の下を、二人の夜警が通った。


 同時に右を向き、同時に角を曲がった。


「盗みも殺しもない。飢える奴もいない。決められたことを守れば、誰も傷つかない」


「拒んだ者は」


「町を壊す」


「子供も」


「親が選んだ」


「家族を残して、外へ出しました」


 弘人の手が窓枠を掴んだ。


「選択には責任がある」


「従うか、死ぬか」


「元の世界も同じだった」


 弘人はエイルの前へ戻り、顎を掴んだ。指に力が入り、奥歯が頬の内側へ当たる。


「何も知らないくせに、正しいことをした顔で人間を送り出す。笑われることも、味方だと思った奴に売られることも、何を言っても信じてもらえないことも、お前は知らない」


 血の匂いが鼻へ入った。


 自分の血だった。


 硬いパン。

 動かなくなった脚。

 杭へ縛られた少年。

 獣の重さ。


「分かりませんでした」


 弘人の指が止まった。


「あなたが力を求めた理由も、人間が約束を破る理由も」


「なら、見ただろ」


 顎から手が離れた。


「俺が必要だ。この町には俺が必要なんだ」


 エイルは窓の外へ顔を向けた。


 屋根が並んでいる。

 水路が月を反している。

 城壁の内側には、畑と倉があった。


 門の外には四本の杭がある。


「見ました」


 エイルの手首から落ちた血が、弘人の靴へ触れた。


「あなたは、裏切られない町を作ったのではありません」


 血の中から銀の糸が伸び、弘人の足首へ絡みついた。


 弘人が足を振る。


「何だ、これは」


 糸は靴を抜け、脚を這い、胸へ向かった。


「誰にも選ばせない町を作った」


 弘人が胸元を押さえた。


「止めろ」


 銀の糸が胸へ沈み、エイルの手首まで光が走った。


 血に濡れた縄から煙が上がる。


「止めろ!」


 弘人の手がエイルの首へ伸びた。


 椅子ごと床へ倒され、背中の傷が絨毯へ擦れた。息が詰まり、視界の端が黒くなる。


 焼けた縄が一本、切れた。


 エイルは自由になった右手を弘人の胸へ置いた。


 弘人が手首を掴む。


「待て。話を聞け」


「スキル、《誓約(カヴェナント)》を回収します」


「やめろ!」


 町中で、何かが一斉に砕けた。


 兵士の首から銀の線が剥がれ、宿屋でノラの喉から輪が落ち、門の契約書が中央から裂けていく。


 弘人の胸から、銀の(くさび)が現れた。


 エイルの掌へ向けて引き抜かれていく。


 弘人は両手で楔を掴もうとした。


「俺のだ」


 指が光を通り抜ける。


「これは俺の力だ。俺が育てた。俺が、この町を作った」


 楔が胸から離れた。


 弘人の膝が床へ落ちる。


「返せ」


 楔はエイルの掌へ収まり、光を失った。


 スキルを回収した。


 弘人は胸元を掻いた。上着のボタンが飛び、爪の下に赤い線が走る。


「違う」


 胸を叩く。


「まだある」


 弘人は右手を兵士へ向けた。


「跪け」


 兵士は動かなかった。


「跪け!」


 夜警の足音も止まっていた。


 弘人は指を立て、空中へ文字を描く。


「神崎弘人との誓約に従え」


 何も起こらない。


 もう一度、同じ命令を重ねる。門兵の名を呼び、家族へ与えた家の場所を口にした。


 銀の光は戻らなかった。


「聞こえているだろ」


 弘人は近くにいた兵士の肩を掴んだ。


「お前は門を任せた。家族へ家を与えた。俺がいなければ、お前は泥の中で死んでいた」


 兵士がその手を外した。


 弘人の腕が宙に残る。


「命令だ」


 兵士は槍を床へ置いた。


 金属音が部屋に残った。


 弘人の目が槍を追う。


「拾え」


 兵士は動かない。


「拾えよ」


 弘人が槍を蹴った。槍は絨毯の上を滑り、扉へ当たった。


「お前らは俺に従うんだ。そう決めた。署名した。誓った!」


 扉が開いた。


 ノラが立っていた。


 隣にはミア。後ろでは、草原にいた少年が兵士の肩を借りている。腹を押さえ、片方の足を引きずっていた。


「ルク」


 ノラが少年を抱いた。


 少年の顔が母親の肩へ沈んだ。


 弘人は三人を見た。


 口が動いたが、音は出なかった。


 エイルは椅子から身体を起こした。切れなかった縄を外し、血に濡れた右手を床へつく。


「神崎弘人。二つの道を残します」


 弘人の顔が向いた。


「この世界に残り、この町の裁きを受ける」


「俺をここへ置くのか」


「元の世界で生まれ直す」


 弘人の頬が引きつった。


「戻る?」


「新しい肉体で、生を始めます」


「あそこへ?」


 弘人は首を振った。


「俺は死んだんだぞ。トラックに轢かれて、誰にも惜しまれずに死んだ」


「前の肉体には戻れません」


「また赤ん坊から始めろっていうのか」


「はい」


「親も、家も選べない?」


「選べません」


 弘人が笑った。


 歯だけが見えた。


「また何も持たずに、誰かに選ばれる側へ戻れって?」


「それも一つの道です」


「嫌だ」


「この町の裁きを受けますか」


 笑みが消えた。


 弘人はノラたちを見る。扉の外には住民が集まり、誰も目を伏せていない。


「こいつらが俺を殺す」


「その結果まで、私には決められません」


「なら、残る道じゃない」


「それでも、この世界に残りますか」


 弘人は後ずさり、壁へ背をぶつけた。


「なら、力を一部残せ」


 エイルは弘人を見た。


「兵への命令だけでいい。魔物と戦うには統率が要る。この町には俺が要る」


「スキルを残すことはできません」


「町を守る時だけにする。子供には使わない。囮もやめる。契約を断っても、追い出すだけにする」


 弘人は指を折りながら条件を並べた。


「それならいいだろ」


「人の選択を奪います」


「全員を救うには必要だ!」


「必要ではありません」


「お前に何が分かる!」


 弘人の拳が壁へ入った。皮膚が裂け、石に血がついた。


「俺が作った町だ。俺の水路だ。俺の兵士だ。俺の民だ!」


 ノラがミアを背へ回した。


 弘人の目が動いた。


 壁際の兵士。その腰に下がった短剣。


 弘人が床を蹴った。


 兵士の鞘から短剣を抜き、ミアの腕を掴む。刃が首へ当たり、皮膚に赤い線が伸びた。


「動くな!」


 住民の足が止まった。


 弘人の口から息が漏れた。


「ほら」


 刃を持つ手が震えていた。


「力なんかなくても、こいつらは従う」


 腕の中でミアが息を吸った。刃が首へ食い込み、声にはならない。


「俺がいなければ、この町は壊れる。盗みが始まる。殺し合う。魔物に食われる。最後には、こいつらが俺へ泣きつく」


 誰も動かなかった。


「そうだろ」


 弘人の声が掠れた。


「お前ら、俺が必要だろ」


 ノラは弘人を見た。


「息子を、餌にした」


「戻ってきただろ」


「あなたが助けたんじゃない」


「町を守るためだった!」


 弘人の腕に力が入り、ミアの喉から息が漏れた。


 エイルは二人へ近づいた。


「来るな」


 一歩。


「止まれ」


 一歩。


「契約は消えても、この子は死ぬぞ!」


 エイルは刃とミアの首の間へ掌を入れた。


 切っ先が手を貫いた。


 身体が止まる。


 息を吸う。


 痛い。


 手首から肘へ、熱が走った。


 エイルは刃を握った。指に力を入れると、傷口が広がり、血が弘人の手へ落ちた。


 ミアが腕を抜き、ノラのもとへ走る。


 弘人は短剣を引き抜き、エイルの胸へ向けた。


 兵士が背後から手首を掴み、床へねじ伏せた。


「離せ!」


 弘人は絨毯を掻いた。


「誰のおかげで鎧を着られたと思ってる! 誰が妻の薬を用意した! 誰が、あの冬に食料を――」


 兵士の膝が背へ乗った。


 弘人の頬が床へ押しつけられた。


「エイル!」


 名前が部屋を打った。


「お前がくれた力だ! 俺だけの罪にするな!」


 エイルは貫かれた掌を胸へ当てた。血が服へ染み込み、心臓の動きに合わせて痛みが広がる。


「しません」


 弘人の動きが止まった。


「願いと適性しか見なかった。あなたが、その力で何をするのか見なかった」


「そうだ。お前のせいだ」


「この罪は、私にもあります」


 弘人の唇が持ち上がった。


「なら、俺を裁けない」


「私の罪は、私が受けます」


 笑みが消えた。


「あなたの裁定は、今です」


 床から白い枠が立ち上がった。


 扉の形をしていた。


 向こう側には、光も闇もない。


 何もない。


 弘人は兵士の下で身体をよじった。


「待て」


 白い光が足元へ伸びた。


「残留を認めません」


「待ってくれ。残る。ここに残る」


「人質を取りました」


「傷つけてない!」


 ミアの首から、細い血が流れていた。


「元の世界で生まれ直すことも認めません」


「生まれ直す! 赤ん坊からでもいい。今度は何も求めない!」


「選択の時間は終わりました」


「今選んだ!」


「あなたが選んだのは、人質です」


 靴が白い光の中へ消えた。


 弘人は兵士の腕へ噛みついた。拘束が緩んだ隙に床を這い、エイルの足首へしがみつく。


「怖かったんだ。全部なくなると思った」


 爪が服へ食い込んだ。


「俺を送ったのはお前だろ。最後まで責任を取れ」


「取ります」


 エイルは弘人の手を外した。


「二度と、あなたを世界へ送りません」


 弘人の顔から血の気が消えた。


「嫌だ」


 白い光が胸へ届いた。


「殺せ。地獄でもいい。痛くてもいい。誰かがいる場所へ送れ」


 エイルは弘人の目を見た。


「神崎弘人」


「頼む」


「あなたを天獄へ送ります」


 弘人の口が開いた。


 声は出なかった。


 顔が白い光の中へ沈み、床を掻いていた指も見えなくなった。


 血の跡だけが残った。


 白い枠が閉じた。


 苦痛はない。

 眠りもない。

 終わりもない。


 天獄だった。


* * *


 夜が明けた。


 広場には破られた契約書が積まれ、住民たちは領主館から食料と帳簿を運び出していた。


 倉の鍵を巡って怒鳴り声が上がった。


 水路の脇では二人の男が互いに別の方向を指し、言葉をぶつけ合っている。泣き声が混じり、その向こうから笑い声が一つだけ聞こえた。


 声の高さも、歩幅も違った。


 エイルは噴水の縁に座り、肩と掌へ巻かれた布を見ていた。掌の布には、すでに赤い染みが浮いている。


 ノラが歩いてきた。


 その後ろでは、ルクがミアに肩を貸されている。兄の方が背は高いが、歩幅はミアよりも狭かった。


 ノラがパンを差し出した。


「宿代です」


「掃除をしていません」


「息子を連れ戻してくれました」


 エイルはパンを受け取った。


 歯を立てる。


 硬い。


 顎を動かすたび、口の内側に残った傷が痛んだ。


 それでも噛んだ。


 麦の味が舌へ残る。


 甘い。


 手の甲に光が走った。


【神崎弘人】

【スキル回収】

【裁定完了】

【天獄】


 一つの名前が刻まれた。


 その下には、空白が続いていた。

お読みいただきありがとうございました。


不定期ですが今後も更新予定です。


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