第10話 負けたあとに
王都の中央広場には、レオン・アルヴァレスの石像が立っていた。
魔王の角を踏み、空へ剣を掲げた姿の下には戦没者の名前が刻まれ、磨かれた石板を覆うように花が積まれている。木の枝を剣に見立てた子供たちは像と同じ姿勢を取り、互いの枝を打ち合わせていた。
「我が名は、レオン・アルヴァレス!」
「魔王よ、ここまでだ!」
一人が石畳へ倒れ、残った子供が枝を掲げる。
「世界を救った!」
広場の端で歓声が上がった。
石像へ向けられたものではない。
祝祭柱が傾き、先端に結ばれた旗を屋根へ擦らせていた。その下では幼い少女が腰を抜かし、倒れてくる影を見上げている。
黒い鎧を着た男が柱へ肩を入れた。
片腕で重さを受け止め、もう一方の腕で少女を抱き上げると、駆け寄った母親へ渡す。
「柱の根元を空けろ。縄を張り直す」
広場にいた騎士たちが走った。三人が柱へ肩を入れ、二人が新しい縄を引く。男が手を離すと重さは騎士たちへ移り、一人の膝が石畳へ落ちた。
「腰を下げろ。腕で持つな」
男の手が騎士の背へ入り、柱が元の位置へ戻った。
拍手が広場を満たす。
「英雄レオン!」
「王国の盾!」
子供たちも枝を振った。
男は右手を上げ、歓声へ応えた。鎧の継ぎ目から銀色の線が覗き、首から肩、胸から腕へ走ったあと、皮膚の下へ沈んでいく。
銀色の糸は、その胸へ入っていた。
「高瀬修司」
上げられた腕が止まった。
男は右手を上げたまま、エイルを見た。
「その名前を知る者は、もういない」
「エイルです」
男は石像の前を離れた。近づくたび黒い鎧の継ぎ目が鳴り、胸に刻まれた金色の獅子が光を返す。
「白い部屋にいた天使か」
「はい」
「今さら、何の用だ」
「スキルを回収します」
祝祭の始まりを知らせる鐘が鳴った。
一度。二度。
三度目が鳴る前に、男は広場へ背を向けた。
「場所を変える」
そのまま王城へ歩き出した。
* * *
王城の訓練場では、十二人の騎士が待っていた。祝祭の日にも鎧を着け、年齢も体格も違う十二人の剣には、同じ金色の獅子が刻まれている。
レオンが訓練場の中央へ進むと、十二人が背筋を伸ばした。
「予定を変える」
レオンは腰の剣を抜いた。
「全員で来い」
「閣下、祝賀式典が」
「王には遅れると伝えろ」
レオンは剣先を十二人へ向けた。
「来い」
正面の騎士が踏み込み、横薙ぎの剣をレオンが受けた。金属音が壁へ返る間に、背後から槍兵が入り、鎧の脇を狙った。
肩へ銀色の線が走った。
レオンは半歩横へ移り、槍を避けた。
盾を構えた騎士が正面へ滑り込み、その陰から別の騎士の剣が足元を薙いだ。土が跳ね、武器の音が重なっても、レオンは一度受けた攻撃を二度目には受けなかった。
レオンは一度見た角度の刃を弾き、同じように踏み込んだ騎士の足へ自分の足を掛けた。一度聞いた詠唱が始まると、二度目は完成する前に術者の手首を剣の腹で打った。
銀色の線が首、背、両脚へ増えた。
最後に踏み込んだ騎士の剣が折れた。
立っていたのはレオンだけだった。倒れた騎士たちは、土の上で息を整えている。
レオンは剣を鞘へ戻した。
「ディーン。最初の踏み込みで右肩が上がってるぞ」
折れた剣を持つ若い騎士が顔を上げる。
「はい」
「マルク。槍を引く前に腰が逃げてるぞ」
「はい」
レオンは、近くにいる騎士から順に名前を呼んだ。盾役は肘を内側へ寄せ、槍兵は腰を落として構え直す。足元を狙った剣士は、踏み込む幅を狭めた。
全員への指摘を終えても、レオンの呼吸は乱れていなかった。
「明日までに直せ」
騎士たちが武器を集める中、ディーンは折れた剣を胸へ抱えた。
「閣下」
「何だ」
「十二人では足りません」
武器を拾っていた騎士たちがディーンを見た。
「次は二十四人でお願いします」
騎士たちが笑った。起き上がった者から互いの痣を指し、折れた剣を囲んで、どこまでレオンへ届いたかを言い合っていた。
レオンも口元を緩めた。
「百年早い」
笑い声の中で、右手だけが鎧の脇へ上がった。
槍が通り抜けた継ぎ目へ指を入れ、革紐の緩みを確かめる。穂先は触れていない。傷もない。
それでも、指は離れなかった。
「マルク」
槍を拾っていた騎士が振り返る。
「次は、同じ位置を狙うな」
「はい?」
「今日見せた攻撃は、次には使えない」
マルクは笑った顔のまま、槍を拾う手を止めた。
「でも、閣下には当たりませんでした」
「だからだ」
レオンは右手を鎧の継ぎ目から離し、剣の柄へ戻した。訓練場の扉、二階の窓、壁の上を順に見ても、そこに人影はない。
ディーンたちは折れた剣を囲み、次はどこを狙うかを話していた。
レオンは、誰もいない壁の上を見ていた。
入口にいたエイルが訓練場へ入った。
「今の動きは、スキルによるものですか」
騎士たちは口を閉じた。
レオンは振り返らなかった。
「全員、下がれ」
「閣下」
「命令だ」
騎士たちは武器を抱えて訓練場を出ていく。最後まで残ったディーンが、閉じかけた扉から顔を出した。
「夕刻の式典には」
「間に合わせる」
扉の向こうへ騎士たちの足音が遠ざかり、訓練場にはレオンとエイルだけが残った。
「もう一度聞きます。今の動きは、スキルによるものですか」
「俺が二十四年かけて身につけた」
「スキルとともに」
レオンの指が剣の柄へ載る。
「最初は、剣を持ち上げることもできなかった」
「何歳でしたか」
「五歳」
エイルの前に、白い部屋で見た記録が戻った。
木剣を引きずる幼児が泥へ倒れ、手の皮を破りながら立ち上がる。二度目には同じ重さで腕が下がらず、三度目には木剣の先が地面から離れていた。
「十歳で騎士団へ入り、十二歳で教官に勝った。十五で竜を倒し、十九で魔王軍の将を斬った」
レオンは訓練場の壁へ顔を向けた。古い剣傷が、石の中央まで走っている。
「二十三で魔王を殺した」
「すべてをスキルが行いましたか」
レオンがエイルへ顔を向けた。
「何が言いたい」
「確認しています」
「剣を握ったのは俺だ。戦場へ行き、仲間を集め、作戦を決めたのも俺だ。力が勝手に魔王を殺したわけじゃない」
「はい」
「なら、俺の力だ」
「あなたが使い、育てた力です」
レオンの指が柄を握る。
「返せと?」
「回収します」
「断る」
「選択ではありません」
「俺がいなくなれば、次の災厄で何人死ぬ」
「分かりません」
レオンは剣の柄を握り直した。
「分からないのに取るのか」
「はい」
「北には魔獣の巣が残り、西の王国は停戦しただけだ。魔王が死んでも、魔族は消えていない」
「はい」
「俺なら止められる」
「はい」
「なら取るな」
「回収します」
レオンが一歩近づき、鎧の影がエイルの足元まで伸びた。
「俺が守ってきた人間が死んでも、同じことを言えるか」
「言えません」
「じゃあ」
「あなたがこの力で救えたはずの命が失われても、回収したのは私です」
レオンはエイルを見たまま動かなかった。
「その死まで背負うつもりか」
「背負ったことにして、死者を軽くはしません」
「何ができる」
「できることはありません」
「だったら、取るな」
「それでも、私が回収します」
レオンの手がエイルの肩へ伸びた。指は触れる前に止まり、拳へ変わる。
「お前は俺に力を与えた。勝ちたいと願った俺に、誰にも負けない力を」
「はい」
「世界を救わせたあと、必要がなくなったから取り上げるのか」
「必要がなくなったとは言っていません」
「必要でも取る?」
「はい」
拳が下がった。
「天使は勝手だな」
「はい」
訓練場の扉が開いた。
深い青の衣を着た女が入り、片腕には黒い外套を掛けている。金色の髪は首の後ろで結ばれ、右の眉から頬へ古い傷が走っていた。
「式典を止めました」
レオンが女性を見た。
「ローラ」
「王には、英雄が天使に捕まったと伝えました」
「余計なことを」
「広場の半分が、こちらへ向かっています」
ローラは外套を椅子へ置き、エイルへ顔を向けた。
「妻のローラです」
「エイルです」
「力を取ると聞きました」
「はい」
「死にますか」
「死にません。スキルによって得た適応能力を失います」
「魔法も、毒も?」
「次に受ければ、普通の身体と同じように傷つきます」
「力と速さは」
「この身体が持つ分だけ残ります。技術と記憶も失いません」
ローラは黒い鎧を見た。
「それを着て立てる?」
レオンの顎が上がる。
「立てる」
「力がなくなったあとも?」
「当たり前だ」
ローラの指が胸当ての留め具へ触れると、レオンはその手首を掴み、留め具から外した。
「ここで脱ぐ必要はない」
「家でも脱がない」
「戦時中の癖だ」
「戦争は六年前に終わった」
「次が始まる」
「だから、食卓にも鎧で座る?」
レオンは返さなかった。
「回収の前に、二人で話せますか」
「必要ない」
「私にはある」
ローラは外套を持ち直した。
「部屋を用意します」
「玉座の間でいい」
「鎧を脱げる場所にします」
「脱がない」
訓練場の外には、騎士と城の使用人が集まっていた。レオンが出ると、集まった者たちは左右へ避け、黒い鎧と金色の獅子を目で追った。
* * *
王城の私室には、使われていない寝台があった。白い覆いに皺はなく、枕の中央にも窪みがない。壁際の鎧掛けには埃が残り、机へ並べられた二人分の食器のうち、一方の皿には切られていない肉と硬くなったパンが載っていた。
「朝食ですか」
「昨夜の夕食です」
ローラが椅子を引く。
「その前の日も、同じでした」
「食べている」
レオンは立ったまま兜を机へ置いた。
「戦場の合間に」
「立ったまま?」
「時間を使わない」
「眠るときは」
「必要な分だけだ」
「いつから?」
レオンの手が机へついた。
「何の話をしている」
「あなたの話」
「力を取るかどうかの話だ」
「力を失ったあとのあなたを、私はまだ知らない。何も約束できない」
エイルは二人の間に立った。
「回収後、この世界へ残るか、元の世界で生まれ直すかをレオンが選びます」
「日本へ戻れるのか」
「高瀬修司には戻れません」
「どういう意味だ」
「新しい人間として生まれます。身体も家族も生まれる場所も選べず、記憶も残りません」
三人とも口を開かず、窓の外の歓声だけが部屋へ届いた。
「何も?」
「高瀬修司としての人生も、レオン・アルヴァレスとしての人生も続きません」
「魔王を倒したことも、ローラのことも?」
「記憶には残りません」
レオンは兜へ触れた。磨かれた金属に、鎧を脱いだ顔が映っている。
「弱かった俺も、今の俺も消える」
「はい」
「それは、死ぬのと何が違う」
「記憶と人格は続きません」
「なら、俺は死ぬ」
「今のあなたは続きません」
「同じだ」
エイルは返さなかった。
窓の外では、広場から来た人々の声が城壁へ届いている。
「英雄を返せ!」
「レオン様に触れるな!」
「王国の盾を奪うな!」
レオンが窓へ近づくと、下には旗と花を持った人々が集まり、木剣を掲げる子供もいる。
「聞こえるか」
「はい」
「俺がいなければ、あいつらは今ここにいない」
「はい」
「それを忘れて生まれ直せと?」
「選ぶのはあなたです」
「残れば、力を失う」
「はい」
「明日も同じ声を向けられると思うか」
「分かりません」
レオンはローラへ顔を向けた。
「お前は。力を失った俺でも、一緒にいられるか」
ローラは、胸の獅子、肩当ての剣傷、鎧の継ぎ目に残る黒い染みを順に見た。
「分からない」
レオンの指が窓枠を掴んだ。
「十八年、一緒にいた」
「英雄レオンとは」
「俺はレオンだ」
「あなたは、私の前で一度も負けていない」
「負ける必要がなかった」
「助けを求めたこともない」
「必要がなかった」
「眠れない夜も、痛い場所も、怖いものも教えなかった」
「ない」
「本当に?」
レオンは答えなかった。
ローラは鎧の留め具へ触れなかった。
「その中に誰がいるのか、私は知らない」
レオンの目が細くなる。
「なら、聞く意味はなかった」
「力がなくても愛しているとは言えない」
ローラの指が頬の傷へ触れる。
「知らない人を、知っているとは言えない」
「出ていけ」
「残るなら、明日から知る」
「出ていけ」
ローラは動かなかった。
レオンが机を蹴る。皿が床へ落ち、硬くなったパンが絨毯を転がった。肉の脂が染みを広げる。
「全員、同じだ」
レオンは窓の外を指した。
「あいつらも、騎士も、王も、お前も」
レオンは拳を胸当てへ打ちつけた。金属音が部屋へ残った。
「欲しいのはこれだ」
「高瀬修司」
レオンの肩が一度跳ね、鎧が鳴った。
「その名で呼ぶな」
エイルの視界に、白い部屋で見た高瀬修司の記録が開いた。
灰色の作業服を着た男が長椅子の端へ座り、段ボールで切った指へ布を巻いている。机へ荷物を置いた同僚が、男の肩を叩いた。
『真面目だよな、高瀬は。これも頼むわ。お前なら断らないし』
修司は荷物を持ち上げた。
家の壁には兄の写真が並んでいる。表彰台、結婚式、新しい家。母親は洗い終えた食器を修司の前へ重ねた。
『修司は優しいから。お兄ちゃんとは違って、競争には向いてないけど』
誰かの後ろ。
誰かの代わり。
頼まれた仕事を終えても、名前は残らなかった。
雨の日、母親の手から離れた子供が横断歩道へ走り出した。赤い風船が車道を転がり、角を曲がったトラックの前へ修司の身体が出る。
子供を押す。
風船が空へ上がる。
次に目を開けたとき、白い部屋にいた。
『誰にも負けない人間になりたい』
願いと適性は一致した。
エイルは、その先を聞かなかった。
「あなたは、力を得る前に一人を救いました」
「一度だ」
「はい」
「考える時間もなかった。身体が動いただけだ」
「はい」
「何の役にも立たなかった人生で、最後に一度だけ」
レオンの指が胸の獅子を掴む。
「これとは違う」
「助けた子供は、あなたの名前を知っていますか」
「知らない」
レオンは間を置かなかった。
「俺も名乗らなかった。そんな時間はなかった」
「それでも、その子を救いました」
「一人だ」
「はい」
「一人助けて死んでも、高瀬修司は何者にもならなかった」
窓の外から、レオンの名を呼ぶ声が届く。
「ここでは、俺が歩けば名前を呼ばれる。剣を抜けば兵がついてくる。俺が勝てば国が残る」
「はい」
「高瀬修司は違った」
拳が胸の獅子へ当たる。
「いなくなれば、次の人間が仕事を引き継ぐ。それで終わる。誰かの後ろで、誰かの代わりをして、いなくなっても同じ場所へ別の奴が入る」
ローラの手が、椅子の背から離れた。
「でも、レオン・アルヴァレスの代わりはいない」
「今は」
レオンがエイルを見る。
「何だ」
「力を失えば、代わりが現れるかもしれません」
「黙れ」
「騎士に追い抜かれるかもしれない」
「黙れ」
「次の英雄が、あなたの前へ立つかもしれない」
拳が壁へ入り、石が砕けた。銀色の線が腕を走り、皮膚には傷一つ残らない。
「それが怖いんだ」
「負けたら、また後ろへ戻る」
レオンは傷一つない拳をエイルの前へ出した。
「レオンが負ければ、王も民も次の強い奴を見る。像だけ残して、俺はまた誰かの代わりになる」
「だから、勝ち続けるのですか」
「勝っている間だけ、俺は俺でいられる」
「鎧を脱がないのも」
レオンの指が胸の獅子へ食い込む。
「これを脱いだら、誰が俺を見る」
ローラがレオンの顔を見た。
「私は」
「力を失った俺を知らないと言った」
ローラは言葉を返さなかった。
「そうだ。誰も知らない」
レオンは自分の胸を叩いた。
「俺も知らない」
金属音が部屋へ残る。
「これがなければ、高瀬修司に戻る」
「同じ身体には戻りません」
「同じだ」
レオンの呼吸が鎧の中で鳴った。
「名前を呼ばれない。必要とされない。誰かの代わりで終わる」
拳が下がる。
「それが、高瀬修司だ」
「それを確かめるのは、力を失ったあとのあなたです」
「俺をここへ晒すのか」
「残るなら」
「ローラに失望され、騎士に追い抜かれ、守った連中に見捨てられる」
「その可能性があります」
「お前がそうする」
「はい」
エイルは手の甲へ残る名前を見せた。
「あなたから力を奪い、その先を見せると決めたのは私です」
レオンの胸当てが早く上下し、鎧の中で呼吸が鳴った。
「生まれ直せば、見なくて済む」
「はい」
「高瀬修司も、レオンも消える」
「はい」
「お前は、どちらを望んでいる」
「どちらも望みません」
「なら、なぜ選ばせる」
「力を失ったあとも、あなた自身の人生を選ぶためです」
エイルの掌へ、大地と門の印が浮かんだ。
門の内側へ白い産室が映り、布に包まれた赤ん坊が母親の胸で指を動かしている。窓の外には知らない町があり、まだ名前もない。
「特別な力は」
「与えません」
「次の人生でも、何者にもなれないかもしれない」
「その可能性はあります」
「誰にも選ばれないかもしれない」
エイルは門の中にいる赤ん坊を見た。
「それでも、新しい人生はその子のものです」
レオンは門へ手を伸ばし、黒い籠手を白い光の中へ入れた。
「何も覚えていないんだな。負けたことも、失ったことも」
「覚えていません」
「レオン」
ローラの声が背後から届く。
「止めるな」
「止めない」
「なら、黙っていろ」
「あなたが消えても、私は覚えている」
レオンの手が止まった。
「騎士たちも、街の人も」
「忘れろ」
「できない」
「俺は忘れる」
「あなた一人だけが」
白い光が黒い鎧へ映る。
「私たちを残して、自分だけ忘れるの?」
「卑怯だと?」
「分からない」
「また、それか」
「あなたが何を選ぶ人なのか、私は知らない」
ローラは一歩も近づかなかった。
「選んだあとで知る」
レオンの手が門から離れ、鎧の指先に残った光が消えた。
「俺も知らない」
レオンは胸の獅子へ手を置いた。
「これがない俺を」
レオンは大地の印を見た。
「ここに残る」
「残留を受理したあと、生まれ直す道へは変更できません。スキルの回収も途中では止められません」
「分かっている」
「力を失えば、負けることもあります。今まで助けられた人を、助けられないこともあります」
レオンの指が鎧の継ぎ目へ触れた。
「それでも残る」
「人々の見方が変わっても?」
レオンは指を鎧から離した。
「ああ」
「残留を望みますか」
「望む」
「残留を受理します」
エイルの掌で大地の印が光った。
門の白い光が閉じた。
* * *
エイルはレオンの胸へ手を伸ばした。黒い胸当てと金色の獅子が、二人の間にある。
レオンは動かなかった。
エイルが獅子へ掌を当てると、銀色の線が首から胸、両腕、腰、脚の先まで広がった。線の中には、レオンの身体が越えてきたものが残っている。
炎。毒。氷。
竜の牙。魔王の剣。砕けた骨。止まりかけた心臓。
一度受けたものを身体へ刻み、次には上回る。
スキル、《超越》。
「回収します」
銀色の線が獅子の下へ集まり、エイルの掌へ巻きついた。線は皮膚へ食い込み、指の間を裂いた。
血が金色の獅子へ落ちる。
銀線はエイルの血へ適応し、次に触れた手を弾いた。
レオンの口元が上がる。
「こいつは、もうお前も越えた」
同じ方法で引けば、次はさらに強く拒まれる。
エイルは銀線を引くのをやめ、裂けた掌を開いた。
「何をしている」
「辿ります」
銀線が傷口へ入った。
焼けた空気が喉へ入り、肺の奥が塞がった。顔も声も見えない。残っているのは、炎を受けた身体の記録だけだった。
エイルの膝が床へ落ちる。
次の線が入ると、心臓の動きが遅れ、指先から感覚が消えた。別の線は指の骨を凍らせ、竜の牙は肋骨を砕き、魔王の剣は腹を貫いた。
一度受けるたび、スキルは痛みを記録し、次に同じものが来たときだけ、それを上回った。
越えたのではない。
傷を身体の内側へ押し込み、力の形へ変えていた。
「やめろ」
レオンがエイルの腕を掴んだ。
「それは俺のだ」
「はい」
「俺が受けた」
「はい」
「俺が越えた!」
「はい」
エイルの口から血が落ちた。
「だから、なかったことにはしません」
炎の記録を持つ銀線がレオンの胸から離れ、エイルの腕へ入った。線は光を失い、細い傷跡へ変わる。
毒。氷。竜の牙。砕けた骨。
一つ辿るたび、レオンの身体から銀色が減っていく。
「返せ」
「返しません」
「俺の人生だ!」
「あなたの人生です」
エイルは床へ片手をつき、もう一方の手を獅子へ残した。
「力だけを奪い、そこへ至った痛みを見なかったことにはしません」
焼けた肺も、止まりかけた心臓も、砕けた骨も、銀線の奥から消えていく。その先に、まだ傷を一つも受けていない細い線があった。
五歳の手へ、初めて木剣を持ち上げる力を与えた線。
エイルが与えたものだ。
「見つけました」
レオンの指が、エイルの手首へ食い込む。
「待て」
「これより先は、あなたが積み上げたものです」
「なら、それだけ残せ」
「この線がある限り、すべてが続きます」
「俺から取るな」
「私が与えました」
エイルは最初の銀線へ指を掛けた。
「そこへ重なった二十四年を辿った上で、私が回収します」
線を抜く。
レオンの胸から銀色の光がほどけた。炎も、毒も、氷も、牙も、剣も、光を失いながらエイルの腕を通り、掌へ戻っていく。
最後の光が消えた。
スキルを回収した。
胸当ての重さがレオンの上体を前へ引き、両膝が床へ落ちた。
「違う」
レオンは両手を絨毯へ置いた。
「まだ、ある」
腕へ力を入れても、肘が伸びない。胸当てが呼吸を押さえ、鎧の縁が首へ食い込んでいる。
「立てる」
歯を噛み、身体を半分まで持ち上げる。
両膝が再び床へ落ちた。
「立てる」
ローラが近づく。
「触るな」
ローラが右肩の留め具へ手を伸ばす。
「触るな!」
振った腕は、ローラの肩へ届く前に落ちた。
鎧の中で呼吸が鳴っている。
「ディーンを呼べ」
ローラの手が止まる。
「呼ぶな」
「どちら?」
「誰も呼ぶな」
レオンは爪を絨毯へ立てた。
「一人で立つ」
腰が浮いた。
次の瞬間、両膝と胸当てが床へ落ちた。
窓の外では、人々が英雄の名を呼び続けている。
ローラが背後へ回り、首元の留め具を外した。レオンが背後へ手を伸ばしても、指は届かない。
ローラは右の肩当てを外し、続けて左も床へ置いた。胸当ての革紐を緩めると、金色の獅子がレオンの身体から離れた。
鎧の下では汗を吸った薄い服が皮膚へ張りつき、肩と背には白い傷が残っている。ローラは胸当てを床へ置き、レオンの呼吸が戻るまで待った。
「軽くなった?」
レオンは両手を床へついたまま、外された鎧を見た。
「寒い」
ローラが椅子に掛けていた外套を、レオンの背へ載せる。
レオンは払わなかった。
エイルは裂けた掌を胸元へ押さえた。血が指の間を伝う中、手の甲が熱を持った。
【高瀬修司/レオン・アルヴァレス】
【スキル回収】
【裁定完了】
【残留】
窓の外から声が届く。
「英雄レオン!」
レオンは外套の端を握った。
返事はしなかった。
* * *
翌朝、訓練場には十二人の騎士が並んでいた。
祝祭の旗は広場に残り、石像の足元では朝露を吸った花弁が戦没者の名前へ張りついている。
レオンは黒い鎧を着ていなかった。
白いシャツの上に革の胸当てを重ね、腰には刃を潰した訓練用の剣を下げている。騎士たちの目が革の胸当てへ集まった。金色の獅子は、どこにもなかった。
ディーンが列から出た。折れた剣ではなく、木剣を持っている。
「閣下」
「始めるぞ」
「身体は」
「立っている」
レオンが剣を抜く。
昨日より遅い。
刃が鞘の縁へ当たり、乾いた音を立てた。列の端でマルクが一歩出かけ、足を戻す。
「来い」
ディーンが踏み込む。
右肩が上がった。
レオンは剣を上げた。
間に合わない。
木剣の先が革の胸当てへ触れ、レオンの剣が土へ落ちた。
誰も動かなかった。
ディーンは木剣を胸元へ引いた。
「閣下」
レオンは胸へ触れた。
銀色の線は現れない。
「一本だ」
声は掠れていた。
レオンは地面の剣を見た。昨日までなら、落とさなかった。
腰を曲げ、片手で柄を掴む。
指が滑る。
両手で拾った。
騎士たちは動かなかった。
レオンは剣を構え直す。
「もう一度」
「ですが」
「次は、同じ場所を狙うな」
ディーンの木剣が上がった。
「もう適応したのですか」
「していない」
レオンは右脚を半歩引く。
「見ていた」
広場の石像は、剣を空へ掲げたままだった。
レオンは剣先を目の高さまで下げる。
「始めろ」




