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スキルを失ったあとに。  作者: カミツキ
第一章 裁定の内側

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11/19

第11話 誰かの、手

佐伯葵が東京へ戻ってから、一か月が過ぎた。


 区役所で紹介された短期の事務補助を始めて二週間。前日は生活再建の手続きで休んだため、葵の机には十一枚の付箋が貼られていた。


【確認】

【折り返し】

【未処理】

【本日中】


 会社の端末を開くと、休んだ一日分の仕事には別の社員の名前が入っていた。葵が確認する予定だった案件も、すでに何人かへ分けられている。


 隣の席では、小川が表計算の画面を開いていた。


「佐伯さん、おはようございます」

「おはようございます」

「体調、大丈夫ですか」

「問題ありません」


 椅子へ座る前に、小川の画面が目に入った。三月の合計欄だけ、数値が一行ずれている。


「参照範囲が違います」

 小川は数式欄を開いた。

「どこですか」

 葵がマウスへ手を伸ばす。小川の手は、マウスから離れなかった。

「式だけ教えてください。直すのは私がやります」

「代わった方が早いです」

「私の担当になったので」

「間違えたまま提出したら」

「そのときは、佐伯さんに確認をお願いします」


 葵の指がマウスの手前で止まった。


「二十七行目から四十一行目です」

「四十行目まででは?」

「新しい店舗が増えています」


 小川が画面を下へ動かすと、四十一行目に追加された店舗名が出た。


「あ、本当だ。先月の資料を複製したからですね」

「次も同じ形式とは限りません」

「では、そのとき聞きます」

 小川が式を打ち直した。最後の括弧がない。

「閉じ括弧が抜けています」

「あ」

 括弧が加わり、合計欄の数値が変わった。

「これで合っていますか」

「合っています」

「ありがとうございます」

 小川が保存する。


 葵は自分の椅子へ座った。机の下では、右手だけがマウスを握る形に曲がっていた。


 午前十時二十八分。


 携帯電話が震えた。


【兄】


 画面には、病院の受付票が写っている。


【予約十一時半じゃなくて十時半だった】


 葵が立ち上がると、椅子が後ろへ滑った。


「外出ですか」

 小川が顔を向ける。

「母の病院です」

 電話をかけると、兄は三度目で出た。


『今、受付にいる』


「予約時間、過ぎてる」


『二分だけだ』


「二分じゃない。受付は十五分前でしょ。診察券と保険証は?」


『ある』


「薬の一覧は」


 電話の向こうで、鞄を探る音が続いた。


『見当たらない』


「施設でもらった書類の袋は持ってる?」


『それならある』


「中に青い紙があるでしょ。古いのも入ってるから、日付を見て」


『受付の人に見てもらう』


「兄ちゃんには違いが分からないでしょ」


『だから受付の人に聞くんだよ』


 葵の指が止まった。


「診察が終わったら、次の予約日を確認して。会計の前に処方箋を受け取って、先生には夜の咳と――」


『葵、呼ばれた。切るぞ』


「待って」


 通話が切れた。


 葵は兄の名前へ触れ、発信ボタンの手前で指を止めた。


「佐伯さん」


 小川が印刷した資料を持って立っている。


「さっきの資料、確認をお願いします」


「今は……」


「急ぎますか」


 兄から連絡は来ない。病院では、診察が始まっている。


「見ます」


 葵は紙を受け取った。二枚目の表で、枠線が一か所ずれている。


「ここです」

「線だけですか」

「数字は合っています」

「直してきます」

「私が直せば、すぐに終わります」

「私もすぐに終わります」


 紙を持つ二人の手が止まった。

 葵は先に指を離した。


 小川が自分の席へ戻っても、兄からの着信はなかった。


 十一時五十七分。十二時十四分。十二時三十一分。


 携帯電話は動かない。昼休みの通知が端末へ出ても、葵は席を立たなかった。


 兄の名前を開く。


【終わった?】


 消す。


【薬は?】


 消す。


【何かあった?】


 送信ボタンの上で、指が止まった。


 小川が弁当を持って立ち上がった。


「佐伯さん、昼に行かないんですか」

「連絡を待っています」

「もう一度、電話しますか」

「さっき切られました」

「診察中なら、今かけても出られないと思います」

「連絡できない状態かもしれません」


 小川は壁の時計を見た。


「それなら、電話をかけても同じです」


 小川は弁当を持ち直した。


「私は先に行きます。午後の資料は、戻ったら確認をお願いします」


 端末の右端には、未処理の通知が並んでいる。


「五分後に行きます」

「食堂、混みますよ」


 小川はそれ以上待たず、部屋を出た。


 葵は携帯電話を伏せ、会社の端末も閉じた。五分を待たずに椅子から立った。


 食堂へ入ると、小川は二人掛けの机で弁当を食べていた。向かいの椅子は空いている。


 葵はその椅子を引いた。座ったところで、携帯電話が震えた。


【兄】


 母親が病院の待合で眠っている写真だった。膝には薬局の袋があり、兄の指が写真の端へ入っている。


【終わった。次は来月十三日】

【牛乳なかったから豆乳買った】


 葵は写真を拡大した。


 薬局の袋は三つ。


【薬、一つ足りない】


 文字を打ってから、もう一度写真を見る。母親の鞄から、別の白い袋が覗いていた。


 四つ目。


 文字を消した。


【豆乳は無調整?】


 消す。


【牛乳は別の店に】


 それも消す。


「終わったんですか」

「終わりました」


 小川はそれ以上聞かず、箸を弁当へ戻した。


 写真には、兄の指と、母親の薬が写っている。


 自分が選ばなかった豆乳も、二人のそばにある。


【ありがとう】


 葵はそれだけを送り、携帯電話を机へ伏せた。


「佐伯さん、お弁当は?」


 葵の前には何もなかった。朝、作る時間はあった。会社から届いた通知を確認しているうちに、家を出る時刻になった。


「買っていません」

「下の売店なら、まだ残っていると思います」

「仕事へ戻ります」

「何か食べてからにしませんか」

 小川の弁当箱の横には、小さなパンが二つ置かれている。

「一つ、食べますか」

「小川さんの分では?」

「二つ買いました」

「どうして二つ?」

「二つ食べるかもしれないと思ったので」

 小川が包装されたパンを机の中央へ置いた。

「返さなくて大丈夫です」

「代わりに、明日同じものを買います」

「明日は要りません」

「では、お金を」

「百二十円です」


 葵は財布から百円玉一枚と十円玉二枚を出した。小川が硬貨を受け取ると、机の中央にはパンだけが残った。


「ありがとうございます」


 葵は袋を開けた。

 自分で用意していない昼食だった。


 午後、小川が修正した資料を持ってきた。枠線は直っているが、表題の日付が前月のまま残っている。


「日付が違います」

「あ、本当だ」

 葵は紙を引き寄せかけた。

「直してきます」

「お願いします」

 紙から手を離す。


 小川が自分の席で日付を入力している。葵の位置からは数字が小さく、正しいかどうかまでは見えなかった。


 椅子から立たずに待つ。


 印刷機が動き、新しい紙が運ばれてきた。

「今度はどうですか」

 葵は表題の日付だけを確認した。

「合っています」

「ほかは?」

「先ほど確認しました」

「では、提出します」


 小川が資料を持っていく。

 葵は呼び止めなかった。


 帰宅すると、朝から洗濯機へ入れたままの服が、蓋の内側へ張りついていた。


 兄から新しい写真が届いている。冷蔵庫の前に立つ母親が、豆乳の紙パックを持っていた。


【飲めるって】


 母親の口元は曲がっている。気に入ったのか、我慢しているのかは分からない。


【次は牛乳にして】


 消す。


【来月十三日、私も行く】


 消す。


【分かった】


 それも消した。


【ありがとう】


 昼と同じ文字を送ると、すぐに既読がついた。


【どういたしまして】


 葵は洗濯機の蓋を開けた。湿った服の匂いが上がる。

 自分の服とタオルを取り出したあと、次に施設へ持っていく母親の上着を持ち上げた。


 持っていくのは三日後だった。

 葵は上着を畳み、椅子へ置いた。


 物干し竿には、葵の服とタオルだけが並んだ。


* * *


 雨は、朝から窓を細く流れていた。


 女性専用シェアハウスの共用台所から、食器を洗う音がする。


 白石沙耶は自分の部屋の扉へ耳を寄せた。蛇口が止まり、廊下を歩く足音が向かいの個室へ入る。扉が閉まるまで待ってから、沙耶は部屋を出た。


 廊下には四つの扉が並び、共用玄関には沙耶のものではない傘が三本立っている。


 沙耶は透明な傘と、区役所でもらった予約票を持った。紙には九時三十分と印刷され、玄関の壁時計は八時四十二分を指している。


 靴を履いて共用玄関の扉へ手を掛けたあと、沙耶は時計を見直し、靴を脱いだ。


 九時三十分まで四十八分。


 支所までは歩いて十五分。信号に二度止まっても、二十分はかからない。


 遅れれば、会えない。


 早く着いても、前の人がいる。


 予約票を四つに折り、すぐに開く。指で折り目を伸ばしている間に秒針が一周した。


 八時四十三分。


 沙耶は靴を履き直し、透明な傘を持って共用玄関を出た。


 区役所の支所には、濡れた傘の匂いが溜まっていた。入口の傘袋は半分まで減り、床には靴底が引いた水の跡が残っている。番号を呼ぶ機械の声と、書類をめくる音が、低い天井の下で重なっていた。


 沙耶は受付へ予約票を置いた。

「生活相談です」

 受付の男が時刻を確認する。

「九時三十分ですね。まだ早いので、そちらでお待ちください」

 壁の時計は九時二分だった。

「前の女の人は」

「担当者の名前は分かりますか」

 沙耶は口を閉じた。

 前回、名札を見た。漢字も読んだ。それでも、名前を呼ばなかった。

「髪が、ここまで」

 自分の耳の下へ手を置く。

「声が低い人」

 受付の男が端末を操作した。

「前回の記録を確認します。今日は別の職員が担当する予定です」

「いない?」

「出勤していますが、別の予約が入っています」

 沙耶の指が予約票の端を曲げた。

「少しだけ呼んで」

「予約されている方を待たせることになります」


 受付の奥で扉が開き、前回の女性職員が書類を持って廊下へ出てきた。沙耶を見ると足を止める。


「白石さん」

 沙耶は予約票から指を離した。

「今日は高橋が担当します。前回の記録も引き継いでいます」

「あなたは?」

「別の方と面談があります」

「終わったら会える?」

「その頃には、白石さんの面談も終わっています」

 職員が抱えている書類には、別の相談者の名前があった。

「次は、あなたが空いている日にして」

「同じ職員だけが担当することはできません」

「どうして」

「私が休む日もあります。ここを辞める日も来ます」


 沙耶の喉が動いた。


「辞めるの?」

「今のところ予定はありません。ただ、分からないことは約束できません」


 待合の椅子で、誰かが咳をした。


 女性職員は書類を抱え直す。


「今日は高橋に話してください。同じ話から始めても大丈夫です」

 廊下の奥から人が近づいてきた。職員はそちらへ身体を向ける。

「行くの」

「次の方を迎えに行きます」

「また会える?」

「ここで働いている間は、会うこともあります」

「いつ?」

「約束はできません」


 職員は廊下の角を曲がり、足音も聞こえなくなった。


 沙耶は立ったまま予約票を見ていた。


「白石さん」


 別の声がした。


 短い髪の女性が相談室の扉を開け、沙耶を待っている。胸の名札には、高橋と書かれていた。


「九時三十分の予約ですが、前の方がキャンセルになったので、今から始められます」

「来なかったの?」

「理由までは聞いていません」


 高橋は扉を押さえたまま待っている。


 沙耶は前の職員が消えた廊下を見た。誰も戻ってこない。

 相談室へ入ると、高橋は机の上の時計を沙耶から見える向きへ変えた。


「今日は十時までです。早く始めたので、五十分ほど話せます」

「十時になったら?」

「次の準備をします」

「次の人が来るの?」

「十時十五分に予約があります」


 沙耶は時計を見た。

 九時八分。


「最近、眠れていますか」

「三時間。昨日は四時間」

「途中で起きますか」

「音がすると」

「どんな音ですか」

「隣の扉。廊下。車」

「起きたあとは?」

「誰の音か分かれば、また眠れる」

「分からないときは」

 沙耶は膝の上で両手を組んだ。

「廊下まで見に行く」

「何を確かめますか」

「誰が帰ったか」

「知っている人ですか」

「知らない」


 高橋の筆が紙の上を動く。


「知らない人でも、建物から出ると気になりますか」

「いなくなるから」

「建物に残っていれば、安心する?」


 沙耶は時計を見た。九時十三分。


「分からない」

「朝は何か食べましたか」

「食べてない」

「昨日の夜は」

「パンを半分」

「残りは」

「机にある」

「今日、帰ったら食べられそうですか」

 沙耶の指が膝の布を掴んだ。

「分からない」


 高橋は引き出しから一枚の紙を出した。支所の近くにある食堂の地図と、食事の写真が印刷されている。


「生活相談を利用している人が使える食堂です。今日は十一時半から入れます」

「あなたも行く?」

「職員は同行しません。ただ、行き方は一緒に確認できます」

「入口まで来て」

「今日は窓口を離れられません」

 沙耶は紙を押し返した。

「なら、食べなくていい」

「行くかどうかは、白石さんが決めてください」

「行かない」

「分かりました」

 高橋は紙を捨てず、机の端へ置いた。

「ほかに、困っていることはありますか」

「帰る人」

「田辺さんのことですか」

 沙耶が顔を上げた。

「記録にありました。会いたいですか」

「分からない」

「連絡先を探してほしいですか」


 雨の中で投げられた傘と、遠ざかる背中が残っている。


「探さなくていい」

「理由を聞いてもいいですか」

「帰ったから」

 高橋の筆が止まった。

「帰った人を、追わないと決めたんですか」

「決めてない」

「では、今は追っていない」

 沙耶は高橋を見た。

「そう」

 高橋はその一言だけを紙へ書いた。

「今日のところは、それで大丈夫です」

「大丈夫?」

「今すぐ結論を出さなくていい、という意味です」

 沙耶は高橋の名札を見た。

「高橋さん」

 高橋が顔を上げる。

「次も、あなた?」

「担当者は当日に決まります」

「前の人も、同じことを言った」

「私も同じ答えになります」

「あなたも辞める?」

「いつかは」

「決まったら教えて」

「私が来る日や辞める日を、白石さんが気にし続ける形にはできません」

「逆」

「そうですね。白石さんのことを気にするのが、こちらの仕事です」

「いなくなるのに?」

「いなくなる職員もいます。でも、記録と窓口は残ります。次の職員が、今日の続きから聞けます」


 高橋は机の端に置いた食堂の紙へ指を載せた。


「この紙も、別の人へ道を聞くときに使えます」

「紙は話さない」

「人の代わりにはなりません」

 高橋は紙を沙耶の前へ戻した。

「でも、話す人が変わっても使えます」

 沙耶は紙を受け取らず、押し返さなかった。


 九時五十二分。

 残り八分だった。

 十時になると、高橋は筆を置いた。


「今日はここまでです。続きは次回に残します」

「あなたに?」

「別の職員かもしれません」

「また最初から?」

「今日の記録を残すので、最初からではありません」

 高橋が次回の予約票を印刷する。


【次回 火曜日 十時三十分】


 担当者の欄は空白だった。


「名前がない」


「当日に決まります」


「誰もいないかもしれない」


「相談窓口は開いています」


「あなたが死んだら」


 高橋の手が止まった。


「今日の記録は残ります」


「死ぬの?」


「いつかは」


「怖くない?」


「怖いです」


 沙耶は名札を見た。


「私が覚えていたら」

「覚えていても大丈夫です。忘れてもかまいません」

「どっち?」

「白石さんが決めてください」

 高橋は予約票と食堂の紙を重ね、机の中央へ置いた。

「次の人が来る」

「このあと来ます」

「もう帰る?」

「扉まで見送ります」


 沙耶は二枚の紙を取り、椅子を離れた。


 高橋が扉を開けると、廊下には次の相談者が座っていた。膝の上に封筒を重ね、床を見ている。


「火曜日は、受付へその紙を出してください」

「あなたじゃなくても?」

「記録を読んだ職員が続きから聞きます」


 沙耶は廊下へ出た。

 扉が閉まる。


 中から鍵の音はしなかった。

 それでも、取っ手へ触れなかった。


 支所を出ると、雨が強くなっていた。透明な傘へ水が広がり、向かいの建物が歪んで見える。


 食堂の地図には、支所を右へ出て二つ目の交差点を曲がると書かれていた。


 沙耶は左へ歩いた。

 一つ目の信号を越え、二つ目まで進んでも、地図にある薬局が見つからない。


 足を止める。


 振り返っても、支所の建物は雨の中に隠れていた。


 戻れば、高橋がいる。


 次の相談者と話している。扉を開ければ、顔を見ることはできる。


 沙耶は地図を折り、鞄へ入れた。

 傘を来た道へ向けかける。


「そこで止まると危ないですよ」

 背後から声がした。

 沙耶が立っていたのは駅の入口だった。制服を着た駅員が、濡れた床へ黄色い注意板を置いている。

「どちらへ行かれますか」

 沙耶は鞄から地図を出し、食堂の写真を指した。

「ここ」

 駅員は紙の向きを変えた。

「反対ですね。支所まで戻って、今度は左です」

「右って書いてある」

「支所を出たところから見て右です。建物の中から見ると、向きが逆になります」

「一緒に来て」

 駅員は改札へ顔を向けた。

「ここを離れられません。ただ、この道をまっすぐ進んで、白い看板のクリーニング店を越えたら右です」

「分からなくなったら」

「近くのお店で、また聞いてください」

「同じ人じゃなくても?」

「道を知っている人なら大丈夫です」


 駅員から地図が返される。

 沙耶は受け取った。


 駅員が改札へ戻っても、呼び止めなかった。


 食堂は、細い商店街の途中にあった。入口の白い紙には、本日の定食と営業時間が書かれている。


【鯖の味噌煮】

【十一時三十分から十四時】


 自動ドアの向こうでは、知らない人たちが長い机へ並び、同じ方向を向いて食事をしていた。入口の横には食券機があり、赤、青、黄色のボタンが並んでいる。


 後ろから来た男が食券機へ硬貨を入れ、黄色いボタンを押した。出てきた券を持ち、そのまま店へ入っていく。


 沙耶は透明な傘を畳み、中へ入った。


 食券機の前で、支所から受け取った紙を持ち上げる。差し込む場所が見つからない。


「初めてですか」

 カウンターの中から、白い帽子を被った女が顔を出した。

「これ」

 沙耶は利用券を見せた。

「機械の下に、読み取り口があります」

「やって」

「券を入れるだけです。向きが違えば戻ってきます」

 沙耶が細い穴へ紙を入れると、途中で止まった。

「裏返してください」


 紙を引き抜き、裏返す。


 今度は機械が読み取り、下の返却口から紙を戻した。三つのボタンが光る。


「定食、小定食、麺から選べます」

「どれ」

「昨日は何を食べましたか」

「パンを半分」

「それなら、小定食はどうですか」

「それで」

「青いボタンです」


 沙耶が青いボタンを押すと、食券が機械から落ち、床へ滑った。

 後ろに並んでいた女が拾う。


「落ちましたよ」

 知らない手が差し出された。

「ありがとう」


 沙耶が券を受け取ると、女は自分の食券を買い、別の席へ向かった。

 名前は聞かなかった。


 沙耶の前に、鯖の味噌煮、米、味噌汁が置かれた。湯気が顔へ当たり、向かいの席には誰も座っていない。


 隣の机で食事を終えた男が立ち上がり、食器を返却口へ運んだ。自動ドアが開き、男が外へ出ていく。


 沙耶の箸が止まった。


 透明な傘も鞄も、手の届く場所にある。追えば、まだ背中は見える。


 知らない人。

 帰る人。


「冷めますよ」


 カウンターの女が、別の客の器を拭いている。

 沙耶は魚へ箸を入れた。身が崩れる。


 一口。


 味が濃い。


 米を食べる。


 もう一口。


 自動ドアの向こうから、男の姿が消えた。

 沙耶は立ち上がらなかった。


 食事を終えると、沙耶は盆を返却口へ運んだ。米はなくなっていたが、味噌汁は椀の底に残っている。


 カウンターの女が盆を受け取った。


「次も、この紙を持ってきてください」

「火曜もいる?」

「私は月曜と木曜です」


 女は残った味噌汁ごと盆を洗い場へ運び、次の客から食券を受け取った。


 沙耶は傘立てから透明な傘を取り、自動ドアの前で支所の予約票を開いた。


【火曜日 十時三十分】


 担当者の名前はない。


 沙耶は予約票を鞄へ戻し、食堂を出た。


 雨は、朝より弱くなっていた。


* * *


 その夜、沙耶がシェアハウスへ戻ると、共用台所には誰もいなかった。

 自分の部屋へ入り、支所の予約票と食堂の利用案内を机へ並べた。


 隣の個室で鞄の金具が鳴る。


 隣室の扉が開き、足音が廊下を共用玄関へ向かった。鍵が回り、建物の外へ遠ざかっていく。


 沙耶はベッドから腰を浮かせた。


 机には、火曜日の予約票と食堂の利用案内が並んでいる。


 足音は、もう聞こえない。


 沙耶はベッドへ座り直した。


 自分の部屋の扉には触れなかった。

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