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スキルを失ったあとに。  作者: カミツキ
第一章 裁定の内側

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第12話 一度だけの今日

正午の鐘が鳴った。


 一つ目と二つ目の音が広場へ重なるあいだに、赤い荷車が噴水の前を横切った。荷台には小麦袋が積まれ、最後尾の一つから白い粉が石畳へ落ちている。


 三つ目。


 仕立屋の二階から白い布が滑り、下を歩いていた女の頭へ被さった。窓から笑い声が落ちる。


 四つ目。


 パンをくわえた犬が噴水の周りを走り、木べらを持った少年が追いかけた。


「返せ!」


 犬は振り返らない。


 五つ目の鐘が鳴るころ、エイルは広場の奥にある灰色の領主館へ着いた。正面階段の前には兵が二人立ち、左右から伸ばした槍を交差させる。


「名を」

「エイルです」

「用件は」

藤堂直人(とうどう なおと)に会います」


 兵の眉が寄った。


「領主様に約束は」

「ありません」

「では通せない」


 六つ目の鐘とともに領主館の扉が開いた。


 黒い上着を着た男が外へ出る。髪には白いものが混じり、右手だけを黒い手袋で覆っていた。エイルから伸びる金色の糸は、その胸ではなく手袋の下へ入っている。


「通せ」


 兵が槍を下げた。


 男は階段の上からエイルを見た。


「天使が、俺に何の用だ」


「スキルを回収します」


 七つ目。


 藤堂直人の右手が開き、手袋の下から金色の輪が浮かんだ。輪の中央には、細い針が一本刺さっている。


「兵を集めろ!」


 領主館の窓が一斉に開き、中庭から靴音が迫った。


 八つ目。


 弓兵が窓へ並び、階段の兵が剣を抜く。直人は一段下がった。


「止まれ」


 エイルは階段を上る。


 放たれた矢へ白い羽根を広げると、矢尻が羽根へ触れて石段へ落ちた。


 九つ目。


 エイルが直人の右手へ伸ばした指より先に、直人の親指が針を折った。


 世界から音が消えた。


 正午の鐘が鳴った。


 一つ目と二つ目。


 赤い荷車が噴水の前を横切り、最後尾の袋から小麦粉が落ちる。


 三つ目。


 白い布が仕立屋の窓から滑った。


 四つ目。


 同じ犬がパンをくわえて噴水を回り、同じ少年が木べらを持って追いかける。


「返せ!」


 五つ目の鐘が鳴る前に、エイルは領主館の階段へ足を置いた。


 槍が交差する。


「名を」


「エイルです」


 兵の後ろでは、領主館の扉がすでに開いていた。直人が階段の中央に立ち、手袋を外した右手を背へ隠している。


「通せ」


 兵が道を空けた。


 直人はエイルの前まで下りた。


「街を案内しよう」


「先ほどは兵を呼びました」

 直人の足が止まった。

 六つ目の鐘が二人の間を通り過ぎる。

「覚えているのか」

「私が与えたスキルだからです。付与者は回帰の外にいます」


 直人の背後から金色の光が漏れた。


「先に教えろ」


「聞かれませんでした」


 七つ目。


 パンをくわえた犬が角を曲がり、直人はその背中が消えるまで見送った。


「なら、別の方法を試す」


 背中で針が折れた。


 正午の鐘が鳴った。


 一つ目。


 赤い荷車は広場へ入ってこない。


 二つ目。


 仕立屋の白い布は窓枠へ結ばれている。


 三つ目。


 犬はパン屋の前へ繋がれ、前脚の間に顎を置いていた。


 四つ目の鐘が鳴るころ、領主館の屋根に術師が並んだ。


 エイルの足元から黒い鎖が伸び、足首から膝、腰へ巻きつく。白い服を締めた鎖の先は、屋根に並ぶ杖へつながっていた。


 階段の上で直人が右手を上げる。


「その結界は、魔王軍の転移術を止めた」


「今、見ました」


 エイルが一歩進むと、鎖が張った。二歩目で術師たちの杖に亀裂が走り、三歩目を置いた石段へ黒い鎖が沈む。


 杖が折れた。


 直人の右手に金色の輪が浮かぶ。


「戻れ」


 正午の鐘が鳴った。


 一つ目と二つ目。


 広場には露店も荷車もなく、窓も鎧戸で塞がれていた。


 三つ目。


 領主館の門は開いている。中庭にも階段にも兵はいなかった。


 金色の糸は館ではなく、北門の外へ伸びている。


 エイルは翼を出し、城壁を越えた。


 街道を走る一台の馬車が見えた。御者台には直人が座り、荷台には箱と衣服が積まれている。


 エイルが街道へ降りると、馬が前脚を上げた。直人は手綱を引き、馬の蹄が地面へ戻るまで待った。


「何度でも来るのか」

「回収するまで」

「俺が戻り続けても?」

「追います」

「百年でも?」

「はい」


 馬の鼻から白い息が広がる。


 直人は背後を見た。遠くに街の屋根と領主館の塔が並んでいる。


「逃げ道はないと」

「ありません」


 正午の鐘は、十二まで鳴り終わっていた。


 直人が手綱を引くと、馬車は街道の上で向きを変えた。


「街へ戻る」


 エイルは馬車の隣を歩いた。


* * *


 街の北側には、石の堤防が続いていた。


 川幅は広く、水面には雲の切れ目が映っている。岸辺で釣りをする子供たちは、石の上に引かれた青い線から川側へ足を出さなかった。魚を入れた桶が線を越えると、巡回の兵が持ち上げ、子供の後ろへ戻す。


 直人は堤防の中央で足を止めた。周囲より色の薄い石が、対岸まで帯のように続いている。


「十二年前、ここが切れた。夜中に雨が増えて、川沿いの家が流された」

「死者は」

「百を超えた」

 直人の手が新しい石へ触れる。

「三日前へ戻り、住民を高台へ移した。土嚢を積んだが、北側が崩れた」

「また戻ったのですね」

「九回。十回目で、誰も死ななかった」


 子供の竿が曲がった。水面から小さな魚が飛び、銀色の腹を見せる。隣の子供が網を伸ばしかけたが、青い線の前で膝をついた。


「この堤防を造ったのですね」

「ああ」


 堤防を歩く者が直人へ頭を下げる。


「領主様」

「水門の確認ですか」


 直人は手を上げた。


 青い線の内側で、釣り糸だけが川へ伸びている。


「街の人は、九度の洪水を知りません」

「俺だけが覚えていればいい」

「死んだ人も」

「次の時間では生きている」

「前の時間を覚えているのは、直人だけです」


 直人の手が石から離れた。


「必要な記憶だ」


 市場には井戸が三か所あり、店と店の間には荷車二台分の空間が取られていた。軒先の石畳には赤い線が引かれ、商品箱も椅子も線から通り側へ出ていない。


 肉屋の息子が空箱を赤い線の外へ置くと、父親が包丁を置いた。


「そこは火除け道だ」


 箱が線の内側へ戻される。向かいの店でも、吊り下げられた布が線へ触れる前に巻き上げられた。


「八年前に火事があった。風に煽られて、三つの区画が焼けた」


 直人が井戸の縁を叩く。


「十四回戻った」


 肉屋が直人へ頭を下げた。


「領主様、夕方に燻製肉を届けます」

「屋敷の者へ渡してくれ」


 直人が通る先で、住民たちは赤い線へ触れた物を先に戻した。


「街の人は、火災を知りません」

「井戸と火除け道の理由は知っている」

「直人が必要だと決めたから」

「火事は起きていない」


 街の西側には、白い壁の療養所があった。窓から寝台が陽へ出され、入口では薬師が桶を洗っている。


 門の横には手洗い場が三つ並び、その前の石へ足形が彫られていた。入る者は足形の上で止まり、順番に手を洗う。咳をした男が列へ近づくと、薬師が別の入口を指した。


「六年前、疫病が出た。最初は祭りを止めず、三千人以上が死んだ」

「何度戻りましたか」

「三度」


 療養所の壁に石板が埋め込まれている。


【疫病で失われた十一名を忘れない】


 その下に十一人の名前が刻まれていた。


「なぜ、十一人だけ残したのですか」


「最後の時間で死んだからだ」


「最初の三千人は」


「生きている」


「死んだ時間は」


「消えた」


 直人は石板から目を逸らし、決められた足形を踏まずに療養所を離れた。


 荷車を押す老人が、隣を歩く男へ口を寄せる。


「領主様の言うとおりにすれば間違いない」


 直人は聞こえない顔で歩いた。


「間違えたことがあります」

「戻した」

「間違えた直人も、同じ直人です」

「必要ない」

「何が」

 直人は領主館を見上げた。


「失敗した俺だ。残す価値はない」


* * *


 領主館の食堂には、三人分の皿が並んでいた。


 直人の向かいには妻のミラが座り、栗色の髪を肩の後ろへ流している。左手には銀色の指輪があった。


 隣には十七歳の娘、リゼがいる。短い髪の足元には革の鞄が置かれ、机の端には封筒が載っていた。


「お客様がいるなら、先に知らせて」


 ミラがパンを切った。


「予定が変わった」


「あなたの予定は、変わったあとで知らされる」


 直人が椅子を引き、エイルは空いている席の横へ立った。


「天使エイルです」


 ミラのナイフが止まる。


「直人をこの世界へ送った天使?」


「はい」


 リゼはエイルの背中を見た。


「羽は?」


「今は出していません」


「触れる?」


「駄目です」


 リゼが口を曲げた。


 直人は皿へ手を伸ばす。


「食べながら話す」


「何の話?」


「この力を回収しに来た」


 パンへ当てられていたナイフが皿へ触れ、硬い音を立てた。


 ミラは直人の黒い手袋を見る。


「取ったら、どうなるの」


「時間を戻す力を失います。直人は死にません」


 リゼの指が机の下で鞄へ触れた。


「時間を戻す?」


「あとで説明する」


 ミラはナイフを皿へ置いた。


「今、聞いた。何回使ったの」


「街を守るために必要なときだけだ」


「街以外で」


 直人の指がパンへ触れたまま止まる。


 リゼが机の封筒を引き寄せた。


「王都の話も?」


「関係ない」


「三年前から、学校の募集を締切のあとに知る。今年は間に合った」


 封筒から出した紙を机へ置く。


【王都学術院 入学許可】


「書斎の引き出しにあった」


 ミラの顔が直人へ向いた。


「どうして隠したの」


「行かせない」


「私には相談した?」


「反対すると分かっていた」


 リゼは許可証を胸元へ引いた。


「明日の馬車で行く」


「駄目だ」


「もう決めた」


「門を出ても連れ戻す」


 リゼが立ち上がり、椅子の脚が床を鳴らした。


「前にも、そうした?」


 直人の手が止まる。


「何の話だ」


「私、前にも王都へ行こうとした?」


「していない」


「戻したあとなら、私は覚えてない」


 リゼは直人の右手を見る。


「何回、止めたの」


「座れ」


「私の話でしょ」


「その話は終わりだ」


 直人の右手が開き、金色の輪が浮かんだ。輪の中心で針が光る。


 ミラが手袋の上から手首を掴む。


「今、戻ろうとした?」


「違う」


「手を閉じて」


「ミラ」


「閉じて」


 直人の指が曲がると、輪は手袋の下へ沈んだ。


 リゼは許可証を掴み、食堂を出た。扉が閉まり、足音が廊下を走る。


「追わないの」


 ミラは直人の手首を離さない。


「部屋へ戻っただけだ」

「前なら、追わなくてもよかった?」


 直人が腕を引いた。


「街を救った力だ」

「家族へ使っていい理由にはならない」

「守るためだ」

「何から」


 直人は閉じた扉を見た。


「失うことから」


 ミラの指が直人から離れる。


「私にも使った?」

「ミラ」

「使ったの」


 食堂の時計が一度鳴った。


 直人は椅子へ座り直し、皿の上のパンへ顔を向けた。


「一度だけだ」


 ミラの左手が指輪を覆う。


「いつ」

「五年前」

「何があったの」

「喧嘩をした。俺が、お前の話を聞かずに決めると」

「私がそう言ったの」

「荷物をまとめた。リゼを連れて、姉の家へ行くと」

「一晩だけ?」


 直人は答えない。


 ミラの指が指輪から離れた。


「何て言ったの」

「もう一緒には暮らせないと」


 時計の針が次の目盛りへ進んだ。


「門まで行った?」

「ああ」

「戻したのね」


 直人の手袋の下で、輪の痕が浮いた。


「次の時間では、喧嘩の原因になった役人を外した。会議の日程を変え、お前の話を聞いた」


「私は出ていかなかった」


「そのあと五年、一緒にいた。それは本物だ」


 ミラは直人を見た。


「最初も本物だった」


「分かっている」


「私は自分であなたを選んだ。好きになって、結婚して、リゼを産んだ」


「ああ」


「でも、離れると決めた私を消した」


 直人の口が閉じた。


「始まりを私が選んだから、終わりまであなたが決めていいの?」


「終わっていない。次の時間で俺は変えた」


「私が離れると決めたことを使って、自分だけやり直した」


「失いたくなかった」


「私は、その夜を知らなかった」


 ミラは指輪を外して机へ置いた。銀の輪が皿の横を転がり、倒れた水差しの前で止まる。


「この五年に価値がなかったとは思わない。あなたを愛していなかったとも言わない」


 直人の顔が上がる。


「なら」


「愛していたことと、あなたがしたことを許すことは別」


 ミラは閉じた扉を見る。


「リゼは、何から守られたの」


 エイルの手の甲が熱を持った。


 直人の右手から金色の輪が浮かび、内側にいくつもの橋が重なる。


 同じ革鞄を持った少女が橋を渡っていた。


「見るな」


 直人が輪を隠そうとする。


「リゼは、何度旅立ちましたか」


 食堂の扉が開いた。


 許可証を胸へ抱えたリゼが立っている。


「答えて」


 直人は娘を見た。


「一度も行っていない」

「お父さんの中では?」


 金色の輪から光が漏れ、橋を渡るリゼが食堂へ現れた。


 雨の中で手を振る少女。父親を見ずに馬車へ乗る少女。制服を着て帰る娘。職人の道具を抱えた女。王都の店先に立つ女。知らない男と並ぶ女。赤子を抱いて橋を渡る女。


 同じ顔が年齢を変え、食堂を通り過ぎていく。


 七十三人目のリゼが、今のリゼの身体へ重なった。


「七十三回です」


 直人の拳が机へ入り、皿が跳ねた。水差しが倒れ、机へ水が広がる。


「消せ」


 ミラは布を取り、水が許可証へ届く前に押さえた。


「何度、王都へ着きましたか」

「やめろ」

「七十二回です」


 橋の先で、一台の馬車が傾いた。外れた車輪が道を転がり、馬車は崖へ落ちる。短い髪が窓から消えた。


 直人が光景へ腕を伸ばす。


 届かない。


「一度だけだ」


 声が喉へ引っかかった。


「崖の下まで降りた。車輪の下に腕があった。顔は見られなかった。だから戻った。馬車を替え、御者を替え、道も変えた」


「次のリゼは生きましたか」


「生きた」


「その後も」


「生きた」


「なぜ戻したのですか」


 七十二人のリゼは歩き続けている。


 一人は学術院へ残り、一人は工房へ入り、一人は家族を作った。


「帰らないと言った」


 直人の指が濡れた机へつく。


「王都で暮らすと。職人になると。結婚すると」

「そのたびに戻したのですね」

「俺から離れていった」


 今のリゼは、光の中を通る自分たちを見ている。


「死んだからじゃないの」

 直人の目が娘へ向く。

「お前を守るためだ」

「帰ってこない私も、死んだのと同じだった?」

「違う」

「だから無かったことにした?」

「家族を残した」


 ミラは濡れた指輪を拾ったが、左手には戻さなかった。


「家族が残ったのではなく、あなたのそばにいる私たちだけを残したのね」


「同じだ」


「違う。私たちは、あなたから離れても家族だったかもしれない」


 直人の右手に金色の輪が戻り、針が現れた。


「まだ間に合う」

 指が針へ向かう。

 エイルが手首を掴んだ。

「何を戻しますか」

「話し方を間違えた。今なら、知られる前へ戻せる」

「ミラが指輪を外したことですか。リゼが王都へ行くと決めたことですか」

「傷つけずに話す」

「今、傷ついた二人は」

「いなくなる」


「その二人を消して、誰を守りますか」


 直人の指が針へ触れた。

「次なら、もっと上手くできる」

「次のミラは、今ここにいるミラではありません」

「同じだ」

「今のミラは、あなたを許していません」

「時間を置けば」

「その時間を待つのですか」

 指先が止まった。

「次のリゼは、また王都へ行きます」

「行かせない方法を探す」

「七十三回探しました」

「まだある」

「リゼが行かない答えだけを、正解と呼びますか」


 直人の口が開いたが、音は出なかった。


 食堂の時計が次の音を刻む。


「お前も同じだ」


 直人はエイルの手の甲を見た。


「失敗した力を回収している。気に入らない結果を直しに来た」


 エイルは手の甲に浮かぶ名前へ触れた。


 神崎弘人。

 前田祐樹。

 桐生真帆。

 白石沙耶。

 御堂彰人。

 久世透。

 朝倉環。

 佐伯葵。

 水瀬冬香。

 高瀬修司。


「私は、結果を消せません」

「回収すれば、同じことは起きない」

「起きたことは残ります。死んだ人も、壊れた町も、私を憎む人も」

「残して何になる」

「分かりません。消せないから、名前を残しています」


 直人は金色の針を見る。


「俺は戻せた。洪水も火事も疫病も止めた。それも間違いだったのか」


 倒れた水差しから流れた水が、ミラの指輪へ触れた。


「洪水を止めたことではありません」


「なら、何を裁く」


 エイルは、リゼが抱えている入学許可証を見た。


「死んだ一人を救ったあと、あなたは生きて王都へ着いたリゼを七十二回消しました」


 直人の指が針の上で止まる。


「職人になったリゼも、家族を持ったリゼも、あなたのもとへ帰らないと決めたから無かったことにした。ミラが離れると決めた夜も同じです」


「二人を守った」


「二人の命ではなく、あなたを選ばなかった二人の時間を消しました」


 リゼが許可証を胸から下ろした。紙の角が、濡れた机へ触れる。


「あなたが裁かれるのは、救えなかったからではありません」


 エイルは直人の右手から指を離さない。


「二人が出した答えを、答えとして残さなかったからです」


 食堂には時計の音だけが残った。


 直人は許可証と、ミラの掌にある指輪を順に見た。


 金色の輪が手袋の下へ沈む。


「次なら、失わずに済む」


「失わないことと、残ってもらうことは違います」


* * *


 リゼの部屋には、旅支度が広がっていた。


 衣服、革靴、ノート、細い筆。机の地図には、王都までの街道へ赤い線が引かれている。


 リゼは寝台へ座り、エイルは扉の近くに立った。直人は地図の前から動かない。


「私は七十三回、行ったの」

「はい」

「その私は、死んだ?」

「時間とともに消えました」

「お父さんは覚えてる」

「覚えている」


 リゼは地図へ目を落とした。


「私は、何になったの」


 直人は赤い線を見た。


「学術院へ通った。工房にも入った。王都に店を持ったこともある」


「赤ちゃんを抱いてた」

「その時間もあった」

「誰の子?」


 直人の指が地図の端へ触れる。


「顔は覚えている。名前は、もう出てこない」


 リゼの口元が歪んだ。


「私の人生なのに、お父さんだけが持ってる」

「違う時間だ」

「見たあとで消した」

「死ぬかもしれなかった」

「一回だけ」

「一回で十分だ」

「私には、その一回もない」


 リゼの指が胸へ触れた。


「怖かったのは、お父さんでしょ」

「死ぬのはお前だ」

「覚えてるのは、お父さん」

「だから守る」

「生きた七十二回も、お父さんが怖いから消した」

「帰ってこなかった」

「生きてた」

 リゼは地図を畳んで鞄へ入れた。

「明日、行く」

「駄目だ」

「力はなくなる」

「兵を置く」

「門は一つじゃない」

「連れ戻す」

 リゼは鞄の蓋を閉じた。


「今度は、私が覚えてる」


 直人は娘の前へ立った。背丈はほとんど変わらない。

「事故が起きたら」

「分からない」

「死ぬかもしれない」

「お父さんも」

 直人の口が閉じた。

「一回しか生きられないんでしょ」

 リゼは鞄を床へ置いた。

「行っていいと言われても、ありがとうとは言わない」

「許可しない」

「最初から、お父さんの許可で生きてない」


 直人の脇を通り、扉の前で足を止める。


「七十三回の私は、行ったんでしょ」

「ああ」

「なら、今の私も行く」

 リゼは部屋を出た。


* * *


 ミラは客間の寝台へ、二着の衣服と本、髪を結ぶ紐を置いていた。指輪は机の上にある。


 直人が扉の前に立つ。

「今夜はここで寝るのか」

「ええ」

「明日は姉の家へ行く?」

「まだ決めていない」

「別れるのか」

 ミラの手が衣服の上で止まる。

「答えを急がせないで」

「知る権利はある」

「私が決める時間もある」

「待てば、許すのか」

「分からない」

「二十年だ」

「知ってる。全部が嘘だったとは言っていない」


 ミラは指輪を持ち上げた。


「私はあなたを選んだ。一緒にいた時間も、リゼを育てたことも、あなたを愛したことも消えない」


「なら」


「でも、離れると決めた私も私だった」


 指輪を机へ戻す。


「あなたは、愛された時間だけを本物にして、拒まれた時間を失敗にした」


「失いたくなかった」


「私は、失くし物じゃない」


 ミラは鞄を閉じなかった。


「許してくれるか」


「今は無理」


「いつなら」


「それを決めるのは、あなたじゃない」


「待った結果、別れるかもしれない」


「それでも待てる?」


 直人の手が扉の縁へ触れた。右手には金色の輪の痕が浮いている。


「分からない」


「私も」


 ミラは客間の扉へ手を掛けた。


「今度は、分からないままにして」


 扉が閉まる。


 直人は取っ手へ触れなかった。


* * *


 夜。


 領主館の書斎には、街の地図が広げられていた。


 北の川。市場。療養所。王都へ続く街道。


 青い線と赤い線が地図の上で交わり、余白には九、十四、三と数字が残っていた。


 直人は机に座り、右手の金色の輪を見ていた。中央の針は折られていない。


「回収します」


 エイルは机の向かいに立つ。


「今なら、洪水の前まで戻れる」


「戻れます」


「最初から街を造り直せる。魔王が来る前にも、ミラが俺を選んだ日にも」


「戻れます」


「別れようとした夜にも。リゼが生まれる前にも」


 エイルは頷いた。


 直人の指が針へ触れる。


「全部、やり直せる」


「お前が来ない時間はない」


「ありません」


「分かっている」


 指は針から離れない。


「今日の朝へ戻るだけだ」


「二人が何も知らない朝へ」


「最後に一度だけ」


 エイルは輪の中心にある最初の針へ指を掛けた。白い部屋で、直人へ力を与えたときの針だった。


「街を救ったときは、戻ってよかった」


「はい」


「リゼが死んだときも」


「その一度を、私は否定できません」


「なら、どこから間違えた」


 エイルは客間へ続く廊下と、リゼの部屋の前に置かれた鞄を見た。


 直人も同じ方へ顔を向ける。


「ミラが門へ向かった夜か」

「その夜、誰も死んでいません」


 直人の爪が針へ当たり、細い音がした。


「待て。一度だけ、朝へ戻る」

「何を変えますか」

「言い方を変える。手紙を隠したことも、力を使ったことも、もっと傷つけずに話す」


 金色の輪の中には、客間の閉じた扉と、旅支度を終えた娘の部屋が映っている。


「そのあと、二人が同じ答えを出したら」


 直人の指が止まった。


 リゼは七十三回、橋を渡った。


 馬車を替えた。御者を替えた。道を替えた。募集を隠し、門を閉じ、兵を置いた。


 それでも七十三回、橋を渡った。


「……あいつは、また行く」

 輪の中で、革鞄を持ったリゼが扉を開ける。

「はい」

「ミラも、聞けば同じ目をする」


 客間の扉は閉じたままだった。


「その答えを変えられるまで戻りますか」


 直人は金色の輪を掴んだ。


「戻せると思うと、待つ方を選べない」


 指が一本ずつ、輪から離れていく。


「この力がある限り、また消す」


 右手が机へ落ちた。


「抜け」


 エイルは最初の針を引き抜いた。


 輪の内側に重なっていた針が、古いものから順に折れていく。


 洪水の朝。

 火災の夜。

 疫病の昼。

 戦場。

 魔王の剣。


 ミラが初めて直人の手を取る。二人で家を選ぶ。リゼが生まれる。


 ミラが荷物を持ち、門へ向かう。


 暗転。


 次の時間では、三人が食卓へ座っている。


 リゼが橋を渡る。


 一度。二度。七十三度。


 死んだ一人と、生きた七十二人が金色の輪を通り過ぎた。


 正午の鐘より小さな音が書斎に続く。


 直人は最後の一本まで聞いた。


「スキル、《回帰(リターン)》を回収します」


 金色の輪が細い糸へほどけ、直人の指先からエイルの掌へ巻き取られていく。最後の光が離れると、右手には輪の形をした薄い痕だけが残った。


 直人は親指で痕を押した。


 何も起きない。


 窓の外で夜の鐘が鳴り、次の音へ進んだ。


 時間は戻らなかった。


 スキルを回収した。


 エイルの掌に、大地と門の印が浮かんだ。門の向こうには日本の街がある。


 見覚えのある交差点。しかし角にあった店は別の建物へ変わり、駅前には知らない高層ビルが立っていた。信号が変わり、車と人が流れている。


「元の世界へ戻りますか」


 直人は門へ近づいた。


「向こうの時間は」


「あなたがこの世界で過ごした年月と同じだけ進んでいます。記憶は残ります」


「この街も、ミラも、リゼも」


「覚えています」


 門の向こうには、自分を責める者がいない。洪水も火災も、消された夜も、七十三度の旅立ちも知らない人々が歩いている。


「戻れば、二人には会えない」

「はい」

「俺が何をしたか知る者もいない」

「あなたが知っています」

「俺だけだ」


 直人の指が門の光へ入る。


 日本の信号が青へ変わり、人々が歩き出した。誰も直人を見ない。


「また、消すのと同じか」


 エイルは答えなかった。


 直人は光の中にある手を見る。


「今のミラが俺を許さないと言ったことも、リゼが行くと決めたことも、俺だけが見ずに済む」


 門から手を引いた。


 大地の印へ顔を向ける。


「残る」


「残留を受理すれば、送還へ変更できません。妻があなたを選ばず、娘が帰らない可能性も残ります」


 直人の喉が動く。閉じた客間の扉と、王都へ向かう赤い線が目へ戻った。


「それでも残る」


「残留を受理します」


 門の印が消え、大地の印が光った。


藤堂直人(とうどうなおと)

【スキル回収】

【裁定完了】

【残留】


 直人は右手の痕を見た。


 もう、針は現れない。


* * *


 翌朝、領主館の前に王都行きの馬車が止まっていた。


 車輪は新しく、軸には油が差されている。馬具の留め具も交換され、御者は二人、護衛は三人いた。


 直人は前輪の前へしゃがみ、軸を押した。緩みはない。反対側へ回って車輪の縁をなぞり、後輪と荷台、馬の蹄まで確認する。


 もう一度、前輪へ戻ろうとした。


「確認は終わった?」


 リゼが鞄を持って立っている。


「北の谷道は使うな。雨が降ったら宿へ入り、馬が落ち着かなくなったら」

「御者に任せる」

「車輪から音がしたら」

「お父さん」

 直人の口が閉じた。

 リゼは鞄を荷台へ載せる。

「今のは必要な話?」


 直人は車輪と御者、三人の護衛を見た。


「北の谷道だけだ」

「分かった」


 リゼが馬車へ乗る。


 ミラは階段の下に立っていた。左手に指輪はなく、直人との間には一人分の距離がある。


「今夜、屋敷へ戻るか」


 ミラは娘の鞄を見た。


「分からない」

「いつ決める」

「まだ決めない」

「待てばいいんだな」

「待っても、戻らないかもしれない」


 直人の右手が閉じ、また開く。残っているのは金色の痕だけだった。


「分かった」


 ミラは頷かなかった。


 御者が手綱を取り、馬車が動く。


 リゼは窓から顔を出したが、手は振らない。直人も上げなかった。


 馬車が門を出て、広場を横切る。


 赤い荷車の最後尾から、小麦粉が落ちる。


 仕立屋の二階から白い布が滑り、通りの女が両手で受け止めた。


 パンをくわえた犬が噴水を回る。


「返せ!」


 少年が木べらを持って追いかける。


 馬車は橋へ向かい、一度目の角を曲がった。


 二度目の角。


 橋の向こうへ消える。


 直人の手が胸へ上がった。


 何も起きない。


「帰ってくると思う?」


 ミラが隣に立っていた。距離は残っている。


 直人は馬車の消えた道を見る。


「分からない」


 正午の鐘が鳴った。


 一つ目。二つ目。三つ目。


 直人は門の前から動かず、十二まで聞いた。


 夕方になっても、リゼは帰らない。


 空が赤くなり、街の門が閉じる。灯りが一つずつ点いても、ミラがどこで夜を迎えるのか、直人には分からない。


 夜の鐘が鳴った。


 直人は、暗くなる門の前に残った。

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